日本語説教

大阪教会主日礼拝 < 2021 5月 16> 復活節第7主日 母の日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 : 부모의 훈계는 생명을 얻는  父母訓戒生命ること

* 聖經 : 잠언 4 1-4 箴言 4章1節4

 

[()新共同譯]

1.子らよ、父の諭しを聞け/分別をわきまえるために、耳を傾けよ。2.わたしは幸いをいているのだ。わたしのえを捨ててはならない。3.わたしも父にとっては息子であり/母のもとでは、いとけないり子であった。4.父はわたしにえて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気でしたか。映像礼拝をささげている信徒たちと教会に出席された信徒の皆さんに主の平安が共にありますよう祈願いたします。

今日は母の日の主日を記念し、感謝の礼拝をささげています。日本は先週が「母の日」で、韓国は「父母の日」として両親に感謝する日でした。しかし、私たち大阪敎会は、毎年教会創立主日と重なって5月の第3主日を「母の日」として守っています。私たちがこのように何かを覚えて記念することは、その意味を考え生かせるためです。「母の主日」や「父母の日」は母と父、つまり、両親の愛を考えてもう一度両親を思い、感謝の気持ちを伝える時間でもあります。普段なら、教会学校の子どもたちが信徒の皆さんにカーネーションをささげながら感謝の挨拶をしますが、今日はそれができない状況です。愛する子どもたちをさらに祝福する親になられますよう、願います。

この世の大変なことの一つが親になることではないかと思います。親になることも大変ですが、良い父母になることはもって大変なことだと思います。「母の日」主日には子が親をどのように敬うべきかを考えるのが当然です。親を敬う立派な子と子を愛する献身的な親の愛を共に考えざるを得ません。

子どもたちに両親が大切なのは、両親が持っている独特な点があるからです。それは愛です。子どもへの両親の愛の姿から私たちは、神の愛を悟ります。神様は私たちをお造りになったので、愛し守って下さいます。このように、父母は神様の創造の摂理に沿って、私たちをこの世に生み出した方々だからです。この世の誰も真似できない真心の愛で自分の子どもを育てます。神様の愛を最も近くで感じられる存在が両親の愛です。両親は、自分の子たちの世話をするとき、神様がご自身の子の世話をするようにできる存在なのです。神様が私たちをこの世に出される際、父母を通してなさいました。神様の子たちには最も偉大な贈り物をくださったのが、それがまさに父母です。

それで、神様のみことばは親を愛する方法を先に教えているのです。箴言のみことばを読みました。子たちに先に与えるみことばは1節「子らよ、父の諭しを聞け/分別をわきまえるために、耳を傾けよ。」です。

訓戒(戒め)というのは「間違わないように教え諭す」という意味を持つ言葉です。子たちに、まず、「父の諭しを聞け」と話しています。神様はイスラエル民族との関係において最も重要である「十戒」を与えました。イスラエルの民が神様に仕えるときに、どのような姿を持つべきかに関するみことばです。多くの中で最も重要なこと、10の戒めを選んだのが十戒です。この十戒で、神様は「あなたの父母を敬え」と諭しておられます。

「敬う」という言葉は、ヘブライ語で「キーベッド」と言います。ところが、このキーベッドという言葉は、非常に意味深い言葉がルーツです。その語源は人の内臓の一つである「肝、肝腸」という言葉です。イスラエル人は、肝臓が人間の内臓の中で一番重いと思ったし、それほど重要だと考えました。実際に医学的に、肝臓の機能が非常に重要なのは、日常生活で私たちはわかっています。人体の肝臓は、栄養素の代謝作用と解毒作用をしており、人の生命維持に必要な臓器(ぞうき)です。

聖書で、「敬う」を「肝臓」という語源を持つ言葉を用いた理由を、我らの生活を通してみればわかりそうです。父母を肝臓のように重要に思いなさいとの言葉です。父母の愛は人間らしさの基本です。父母の教え、つまり諭しをよく心に保ち知恵を得て、賢く生きなさいと話されているのです。続く2節、人間は善き道理に従い正しく生きなければなりません。親が子を育てながら「あなたは、こんな悪いことをしながら生きなさい。」と言う親は一人もいないでしょう。どのような環境と苦しい生活であっても、人間らしく正しい道理を守り生きなければならないと教え育てるでしょう。神様の戒めから離れてはいけないと言いながら育てるでしょう。

3節、「私も父にとっては息子であり、母のもとでは、いとけない独り子であった」というみことばを見ましょう。皆さんがよく知っている通り、箴言は「ソロモン」が書きました。ソロモンはイスラエルの偉大なるダビデを父に、母も賢い女性を代弁する「バテシバ」でした。父ダビデと母バテシバに関しては皆さんがよく知っておられます。二人の間で生まれたソロモンは、ダビデの子の中では10番目の王子でした。ダビデが加齢と共に弱い面が生じます。その隙に、王子たちは自分が王になろうと必死でした。ソロモンは王子ではあるが、他の兄弟よりも弱かったのも事実でした。すでに二人の王子が王になろうとしてクーデターを起こしました。王の周辺の参謀(さんぼう)たちが自分にとって有利な王子を立てようとする状況の中、ソロモンの立場は非常に弱いものでした。ソロモンを支持する勢力がなかったからでした。ただ神様の預言者ナタンしかいませんでした。バテシバは権力の周りで起こる政争についてわからなかったのです。このとき、預言者ナタンはソロモンの母バテシバを訪ねて、ダビデの他の王子たちが王になろうと宣言し、勝手に油を注ぐなどの騒ぎが起きていることを通告します。バテシバに「あなたの命を守るためにも、息子ソロモンが王になる必要があり、ダビデ王は誓いを守らなければならない」と言います。

 

ナタンはソロモンが生まれたとき、ダビデ王に頼まれソロモンの名前を「エディドヤ」としました。その意味は、「主に愛された者」という意味でした。母は命をかけ、ダビデ王の私室に入り「なぜアドニヤが王になったのか。」と挑戦的な質問をします。今、ダビデ王が分かっていない中、外で起きている状況を教えました。結局、ダビデはナタンとソロモンを呼びます。大祭司ツァドクと後に軍司令官になるベナヤを呼び「ギホン」へ下り、私の後を継がせる王として油を注ぐように命じます。角笛を吹き鳴らされ民にソロモンが自分に継ぐ新しい王になったことを宣言します。母バテシバの献身的で勇気ある行動によって、子ソロモンは王になったのです。

ソロモンは、いつも自分の立場を考えており、母の行動と父ダビデの決断の行動を見ました。王上2章から見ると、ダビデ王は死期に近づくと、息子ソロモンに遺言を残します。重要な内容は、「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されている通り、主の掟と戒めと法と定めを守れ。」と遺言をしました。もちろん、ソロモン王も歳月を経て、多くの子どもたちを生みました。箴言の内容を見ると、自分の立場を説明します。「私も父にとっては息子であり、今では多くの子の父として言う」としました。実は私たちもそうです。私が父母の子であると同時に、今では子を持っている親になっているからです。

使徒パウロは、エフェソ6章で、親子関係に関するみことばを書いてます。「子どもたち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。」と言います。ソロモンが伝える内容と同じです。使徒パウロは、続いて「それは正しいです。父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です」と言います。先に述べたように、「敬う」という言葉が出てきます。その後、「敬う」という言葉は私たちの生活にどのように具体的に適用できますか。敬うことは行為であり、理論ではありません。敬うという言葉自体が非常に実際的な意味を持っています。「敬う」は、英語で「Honor」、「Respect」と翻訳します。これは「礼を持って仕えること、慎み敬うやまうこと」を意味します。

「あなたの父と母を敬え!」という戒めは,十戒から初期キリスト教に至るまで続いてきた重要な言葉です。敬うということは、理論ではありません。口で敬うと言ったから実現できることではありません。行為、行動として現れる必要があります。お年老いた両親と同居している信徒が多くいらっしゃいます。私も同じです。私にも年配のお母さんがおり、義父母もおります。この親たちに礼を尽くし、敬わなければいけない人です。しかし、そのことが十分にできていない自分が恥ずかしいのです。

神様が私の父母を敬うとき、子孫に与える祝福を話されました。その約束は、エフェ6:3「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。人間が持っている基本的な希望は、この地で元気に長く生きることではないでしょうか。箴言1章4節にも、「わたしの言葉をお前の心に保ち、私の戒めを守って、命を得よ。」と言っています。死が蔓延しているこの世の中で、長く生きるとの約束がどれほど大切なのでしょうか。この希望が成就できる道は父母を敬うことなのを

再度わからせてくれるのが母の日、父母の日です。

よい父母になるため、子どもたちとの関係を説明するみことばが4節に出ます。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」と話されます。使徒パウロは箴言のみことばをよく理解していました。

今日を生きる私たちも同じです。子どもたちの関係がどれほど難しく大変なことでしょうか。この世で一番易しそうで難しいのが子どもと父母の関係だと思います。あまりも簡単なことなのに、なぜこのようなことが実現できないのですか。子を愛しない父母がどこにおり、親を敬わない子がどこにいるのかと言うかもしれませんが、現実はそう簡単ではありません。

この説教を伝える私自身も、親孝行と父母を敬うことに疎かでした。それだけでなく、子どもたちと円満な関係を保ちたいが、それもうまくいっていません。それで、常に自分の至らなさを感じ、後悔しております。

親と子の間で互いに愛し、尊敬し、理解する心があれば、家庭は無論個人の生活も円満で平安でしょう。昔話が私たちにためになるときがあります。韓国の歴史に記録された過去の話を伝えます。

昔、「ジウン」という乙女が住んでいました。幼く父を亡くし、年を老いた母親の世話のため、嫁げませんでした。日雇い仕事をしていたが、それも限界がきて貧困に耐えられなくなりました。考えた挙句、ジウンは金持ちの家の下女になり働くことにし、お米10俵(じっびょう)をもらいました。そして、数日後のある日、母親が言います。「以前はもらってきたご飯でもおいしかったけど、最近は良い米で炊いたご飯なのに美味しくなく肝臓をえぐるようなのがおかしい。」と言いました。その言葉を聞いたジウンは事実を告げました。母親は「私のせいで下女になったなんて、早く死ねなかったのを恨む」と慟哭し、親子が泣き崩れました。この話を聞いた王は

ジウンの主人に米100俵と衣服を与え代位弁済してあげました。また、王は「ジウン」の親孝行に感動し、下賜(かし)品として米500俵と家一軒を与え、その町「孝養方(ひょやんばん)」と呼ぶように命じました。この物語は『三国史記』列伝の載っている孝行娘(こうこうむすめ)ジウンに関する記録です。

真実な心がその乙女にあったから、孝心が光りました。真心を込めて親を敬い、愛すれば、親孝行になるでしょう。真なる信仰は神様のみことばを成就することであります。父の諭しを聞いて、戒めを守ることが私を生んでくれた父母に対する子の道理です。この道理を守ることによって、私たちは神様の祝福を得るようになるのが神様の定めた戒めです。一つ目、戒めを守れば問題が全く起きません。二つ目、戒めを守ることによって主が備えている祝福がもらえるということは私たちにとって大きな慰めになります。

説教内容をまとめます。

神様の戒めと父母の訓戒を守ることで、命を得る人になりましょう。みことばを守ることで、祝福をもらう子になり、父母になりますように主のみ名によって祈願いたします。

<祈祷>

「父を嘲笑(あざわら)い、母への従順を侮(あなど)る者の目は/谷の烏がえぐり出し、鷲(わし)の雛(ひな)がついばむ

〈箴言30:17〉というみことばを覚えます。今日のみことば通り、父母の訓戒を聞きながら、正しい道理の

道を歩ませてください。みことばの戒めを従うことで、主が備えている祝福をもらう私たちにならせてください。

この地の全ての母と父を祝福し、子として父母をよく敬えるようにさせて下さい。子を怒らせず、よく育てる父母になり幸せな家庭を築く私たちにならせて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン

 

大阪教会 教会創立100周年記念主日礼拝 < 2021 5月 9日> 復活節第6主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 희년의 기쁨을 출발점으로  禧年(ヨベルの年)の喜びを新しい出発点として

* 聖經 : 레위기 25 8-12 レビ記 25章8節12

 

</新共同訳>

8. あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度えなさい。七を七倍した年は四十九年である。9. その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは中に角笛を吹き鳴らして、10. この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地にり、家族のもとにる。11. 五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑のを集めることもしてはならない。12. この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする。

<説教>

愛する信徒の皆さん、映像で礼拝をささげている信徒の皆さん、お元気でしたか。

先月の25日、日本政府は関西地域に緊急事態宣言を再発令しました。政府や私たちの期待とは違い、感染事態が日に日に深刻になっています。5月末まで緊急事態を延長するとのニュースを見られたと思います。健康管理に留意し、コロナによる被害がないことを願うばかりです。このパンデミックの疫禍が早く終わりますよう、共に祈りましょう。

今日は大阪教会が設立されてから100周年になる主日です。今まで過ごして来られたのが神の恵みです。信仰の先輩の血汗を流した結果で、今日があることを知っているのでさらに感謝です。ティアスポラである私たちの民族の中で、自分が住んでいる場所で教会を建て、100年を続けてきた信仰共同体は多くないです。キリスト教が中心である米国の場合には、ハワイに農作業移民で行った方が地元の助けを受けて教会を建てました。米国の西部地域では、サンフランシスコに初めて韓国人教会が建てられました。多くの民族の指導者を育てた教会でもあります。日本の場合には、1906年に今の在日本YMCAが青年活動を中心に、福音事業を始めました。 1908年にYMCAの関係者たちと留学生10人ほどが礼拝をささげました。これが東京教会であり、同時に在日大韓基督教会の始まりでした。 1919年三一独立運動の始発点になる2.8独立宣言を行いました。

今から100年前、1921年に関西地域では、仕事を探してきた若者たちと留学に来た学生たちがいました。当時、私たちの民族は、クリスチャンが多くない時期でした。1919年三一独立運動の勃発後、民族的には、日帝の弾圧はますます激しくなっていく時でした。食べて生きるという人間の最も本能的な経済問題を解決するために、日本に渡り始めたのです。このうち極めて少ない少数のクリスチャンたちが集まり、神様を礼拝し、福音を伝えるため、大阪教会が始まりました。

100年、今日この場におられる信徒たちと映像礼拝をささげる信徒の中でも、この年月を経た方はおられません。しかし、年老いた信徒たちは、この時代を生きて来ました。個人の歴史と信仰共同体である大阪教会の歴史と共に生きてきた証人であります。過ぎた100年の歴史を顧みることは容易ではありません。明らかな一つのことは、今日まで主の体である大阪教会を主が守って下さいました。サム上7章12節、サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベンエゼル(助けの石)と名付けた。

「エベン・エゼル」今まで、主は我々を助けてくださった!そうです。主が大阪教会を100年前に始め、今日まで助けてくださいました。イスラエル民族が出エジプトをし、カナンの地、今日のパレスチナ地域に入ったのが、今から6000年前でした。その地にはすでに住んでいたいくつの民族がありました。ほとんどはパレスチナ地域で消えるか、または他の地域に移住しました。

ヨシュア記13章を見ると、イスラエルはペリシテ民族が住んでいた「ガザ」地域は、最初からその地域を占領できませんでした。このペリシテは5つの城が中心で強力な軍隊を持っており、絶えずイスラエルとは紛争状態にありました。ペリシテとの絶え間ない戦争をしながら、勝利と敗北を繰り返し経験することになりました。そのような激しい戦いの中で、生き残った人々と預言者サムエルは神様に感謝のいけにえをささげました。一つの石を置き、証拠の印として立てました。今までイスラエル民族を守ってくださったことに対する信仰の告白でした。「エベン・エゼル」神様が今まで主は我々を助けてくださった!と告白をしているのです。

今日、コロナ感染事態により、教会に集まって感謝と喜びを分かち合えない状況です。しかし、私たちは、今日のこの日を覚え感謝しています。石一つを講壇に立てることを目的としていません。大阪教会の信徒の信仰と私たちを覚えて大切にする信徒の真心を込めた記念碑を私たちの心に立てたいと思います。私たちがこのように100周年と言い、意味を探り記念しようとする理由はどこにあるのでしょうか。今日のみことばを通して考えてみる必要があります。

イスラエル民族が民族共同体として、また信仰共同体としての意味を持つことがここにあります。再び説明すると、民族共同体がよく維持できるのは、彼らの信仰と深い関連があるということです。単にイスラエル民族の血を引き継いだから、同じ民族だということではありません。信仰的にも一つになることが非常に重要なものでした。信仰共同体は、ヤハウエ、神様を信じることが、彼らの生活と生活の中心となるのは当然のことでした。その上、神様からの戒めと律法を守ることを非常に重要だと思いました。その中の一つが「ヨベルの年」に対する思想です。このヨベルの年の思想は、イスラエル民族が一つになるため、どのような役割をしているのかを、今日の聖書のみことばからわかります。

100周年を迎える私たち大阪敎会の今年の標語であるみことばでもあります。イスラエル民族にとって安息日は、神様を中心にし聖なる日として守ります。今日のユダヤ人たちも、彼らのアイデンティティを確認することの中で一つが「安息日を守ること」であると言っても過言ではありません。6年が過ぎ、7年目に迎える「ヨベルの年」も大切にしました。例えば農作物を耕す人たちにとって土地は重要な資源です。

農作業をするとき、毎年穀物を続けて植え収穫だけすれば、まもなくその土地が持っている土壌、すなわち栄養分は枯渇するでしょう。土地に肥料を与え、耕作を休むことを通して多くの収穫を期待するため、土地を一年休ませることでした。このような安息の年を7回過ぎ、迎える年を「ヨベルの年/ Year of Jubilee」としました。土地を耕していた農夫が、ある困難のせいで土地を抵当しお金を借りてしまった場合があるでしょう。それがヨベルの年になると、その土地を元の所有者に条件なしで返さなければなりませんでした。土地だけではなく、人を奴隷にした場合に、その奴隷を元の身分に戻すのが掟(おきて)でした。お金を貸してあげた人の立場からは、悔しいこともあるでしょう。しかし、イスラエル民族が民族共同体として、信仰の共同体として一つなれるために、このヨベルの年が大きな役割を果たします。イスラエルの民族に「ヨベルの年」はレビ記とイザヤ書によってみると、恩惠の年、身元の日に宣布されました。

貧しい人々を豊かに満たしてくれる歓喜を持たせる年でした。心に傷を負った人々は癒される回復の年となりました。捕らえられた人々を解放し、自由を与える喜びの年でした。悲しみの象徴である灰を被り泣いている人に花冠(はなかんむり)を作って頭にかぶせる慰めが宣布される年です。憂慮に満ちた人には笑いと讃美で心を回復してくれる日がまさに「ヨベルの年」だったのです。

私たち大阪教会がこのような「ヨベルの年」を迎えるようになったのです。今日(こんにち)、現代社会で私たちは「ヨベルの年」の意味をどのように探すべきでしょうか。いつもの5月教会創立周年を考えながら、100周年の記念礼拝を私たちは夢見て来ました。今日のみことばを見ると、祭司長が角笛を鳴り響かせて始まるヨベルの年の行事が始まりました。私たちも無論「グロリア吹奏楽部」のラッパの轟で100周年の行事を迎えたでしょう。しかし、今はそれすらできない状況です。

私はこの貴重な時間、信徒の皆さんと一緒に分かち合いたいことがあります。ヨベルの年の喜びと感謝を信徒の皆さんと共にするのは当然のことです。そして、この喜びと感謝を分かち合って伝える大阪敎会になることを願い、今年の標語を堂会と相談して決めたのです。まさにこの標語のように、100年の喜びと感謝を分かち合って伝える教会になることを切に願います。過ぎた100年を顧みると感謝することしかありません。今新たに始まる新しい100年、つまり一世紀の出発点で、私たちの決心が必要だと思います。私たちは、過ぎた100年を顧みながら感謝するとともに、同時に前に進むべき新たな100年の出発点に立っているのです。この出発点に立って、私たちは新たに決心すべきです。

使徒パウロは、エフェソ信徒への手紙第3章9節以下でこのように話しています。救いの秘められた計画を盛り込んだ手紙をエフェソ教会と今日の大阪敎会に与えるみことばです。9節「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画がどのように実現されるのかを全ての人々に説き明かします」。教会が持つ最も神秘なことはイエス・キリストの福音に関する秘密です。11節には、これは神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。神様の恵みによって設立された教会は、イエス・キリストの福音に関する秘密を持っています。使徒パウロが言うこの秘められた計画はイエス・キリストの十字架の死と復活、そして人類を救うという驚くべきことを指しているのです。

教会は、イエス・キリストが定められた予定とその意のままにされたものだとパウロは福音の働き人として、伝えています。私たちにはこの100周年ということが偶然与えられたものではありません。神様が予定し、民族の苦難の中で福音を通して、救いの喜びをわからせてくださいました。イエス様が定められた時間に教会を建て、信徒たちを慰めてくださったことを、私たちは信じます。

愛する信徒の皆さん、今日大阪教会創立100周年の記念主日に一番先に考えるべきことは、福音を盛(も)る聖なる器として教会を考えなければいけません。大阪教会の始まりを知らせる言葉が「慰めよう、慰めよう!」という激励と同時に私たちの民族に福音を伝えなければいけないという使命感で教会が始まったことを先週の主日にお話しました。

今日、私たちが信仰生活の中で一番大切な価値である福音の働きについて、再度考えながら、新たな100周年に向かっていく出発点に立たなければいけません。過ぎた100年、エベン・エゼルの主が大阪教会を今日まで助けてくださいました。少し、身が引き締まる思いですが、喜びで新たな出発点に立って、出発信号を待つ選手たちのように主の信号を待つようにしましょう!

<祈祷>

慈しみ深い神様、過ぎた100年の年月の間、大阪教会を守ってくださり、感謝をささげます。

今から新たに始まる1世紀の出発点で福音を盛る教会としての使命を担わせてください。

全てに感謝しながら、イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会 主日礼拝 < 2021 5月 2日復活節5主日

                         說敎 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 100年前に来た手紙

聖書 : イザヤ書40章1節 / コリントの信徒への手紙二323

 

1. 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。

 

 

</新共同>

2.わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。3.あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気で過ごされましたか。過ぎた一週間も関西地域でコロナ感染が非常に深刻な状態となりました。主が私たち、全員を守って下さるよう祈願いたします。

大阪城公園に行けば天守閣の下に広い空間にモニュメントが一つあり、それはタイムカプセル(time capsule)です。タイムカプセルは、それを作る当時の時代を象徴するものを中に入れ、土に埋めておきます。歳月が経過した後、それを開けて昔を振り返って意味を考えてみるものです。大阪城にあるのは、日本では非常に有名で、1970年に日本万国博覧会(大阪万博)が開かれた年に、松下電器(現・パナソニック)と毎日新聞社が企画したものです。このタイムカプセルを開ける時は6970年だそうです。今から5000年後に、それを開いて見る人はどのような姿、どんな心なんだろうかと一人で想像してみました。

100年前に私達に送ってくれた手紙が一通あります。まさに大阪教会が神の恵みに設立されたニュースです。私たちが100年前の姿に戻れるのであれば、タイムカプセルを通してその時代が見られると思います。私たちには、過去の歴史がわかる方法がいくつかあります。過ぎたことを文字で残す方法がありますが、それが「手紙」です。本を作って残す方法もあるでしょう。最近は、写真や映像を通しても残すことができます。

私たち大阪教会の歴史がわかる本は、まず「大阪敎會55年史」があると思います。もちろん後に刊行された「大阪敎會80周年史、90周年史」からも知ることができます。私たちの教会の始まりを知らせながら、最初に与えられた聖書のみことばは、今日読んだ旧約イザヤ書40章です。なぜ、私たち大阪教会はこのみことばで歴史の本を書き始めたのかと考えてみました。過ぎ去った過去の歴史を顧みるのは、その時代を振り向かせる力があります。

教会が始まった1921年は、関西地域の工業化が進み、働く人々、すなわち労働力が必要でした。日本全域から人々が集まってきました。それだけでなく、日韓併合(へいごう)が10年目になり、朝鮮からも多くの人が渡ってきた時期でした。このように故郷と家族を離れ異国で生活する若者たちに、福音を伝えるために神学生と二人の女性で始まった集いが、私たち大阪教会の始まりです。その方々は、同じ境遇にある人々にどのようにすれば、イエス様の福音を伝えられるか考えるようになりました。互いを励まし合い、救いの福音を通して慰め合うのが目的であったと記録しています。

職場でつらい毎日を送り一週間が過ぎると休み時間が大切だったでしょう。それにもかかわらず、職場の寮の部屋一つに集まり、祈った人々が約10人になりました。多くの若者たちが、朝鮮人が集まる教会があるという噂を聞き集まってきました。彼らに福音を伝えると共に、互いに慰めと励ますことが非常に重要だったとユ・シハン長老は教会史の「はじめに」で記録しています。特に信徒たちは互いの親密な交わりを通して信徒の交わりを行ったそうです。もう一つは、今日のように、通信が発達した時代でもなかったので、家族に安否を伝えるためには手紙を書いて送ったでしょう。

教会の重要な役割は集い、交わり、激励し合うことがとても大切です。最近、コロナ禍により一番つらいのは何でしょうか。愛する信徒同士が会えず、交わりができないことではないでしょうか。無論、交わりも大切ですが、神様のみことばの交わりがどれほど重要なのかは信仰を持っている私たちがよく気づいています。

疲労困憊でも一週間ごとに集い、神様に礼拝をささげながらみことばから慰めを得ていました。イザヤ書

40章1節「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」とのみことばです。

100年前、始めの時に集まった我々の信仰の先輩たちは互いに慰めとみことばの励ましを分かち合ったとのことです。イスラエル民族はバビロン捕虜時代を経て、むしろ信仰的な面で新しくなったことがありました。捕虜時代以前には、エルサレムの神殿を中心とする生贄をささげる祭事が信仰生活の中心でした。彼ら捕虜として捕らえられて行く時代には、すでにエルサレム神殿はバビロンの兵士たちによって破壊がされました。神殿で生贄をささげられなかっただけでなく、今はそこに行くこともできない状況になりました。

このように、捕虜生活の中で生まれたのが「シナゴーグ」つまり、会堂でした。ゲバル川沿い住んでいたユダヤ人移住者たちが集まり集会を持ちました。生贄をささげる祭事ができませんでした。当時は建物も立てられませんでした。安息日になると、彼らは集まり、モーセの五経(トーラー)を子どもたちと孫たちに読んであげました。みことばが中心だったのです。詩編119編50節では、「あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう。苦しみの中でもそれに力づけられます。」としました。生贄をささげる祭事が中心だったイスラエル民族は、今ではみことばが中心になる集会をするようになりました。今日の礼拝が、祭事よりもみことばが中心になった理由がここにあります。捕虜生活の辛さと民族的な苦難の中で、神様のみことばが民に命を得させ、力づけたのです。

新約時代にも同じでした。使徒言行録4章をみると、使徒たちが神殿を訪れる人々にイエス様の復活を伝えました。祭司たちは、ペトロとヨハネを捕らえ牢に入れました。そして翌日に、議員と律法学者と長老たちが集まったところにペトロとヨハネを引き出し真ん中に立たせました。ペトロの頭の中では数日前の出来事が浮かび上がったでしょう。彼らのまえで尋問を受けていたイエス様の姿です。

質問の内容もイエス様にしたのと同じです。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」と祭司が尋問しました。ペトロは答えました。病人がよくなって、皆さんの前に立っているのは、あのナザレのイエス・キリストの名によるものだと言いました。そして、他のだれによっても、救いは得られないし、病気が治ったのがその証拠だともしました。祭司と議員たちは、この目覚ましいしるしを見ているので、弟子たちに言い返せませんでした。当時の宗教指導者たちは、非常に深刻な危機感を感じていました。

ペトロとヨハネに「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と脅してから釈放しました。弟子たちを釈放しながら、彼らはイエス様の復活を伝えることが深刻な事態であることに気づきました。使徒言行録5章では、彼らはイエス様の弟子たちを捕らえ公の牢に入れ始めます。ところが、牢に入れられた弟子たちに奇跡的なことが起きました。夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出してくれたのです。そうすると、今度はエルサレムで始まった初代教会にユダヤ人からの大迫害が起こりました。イエス様を信じる人たちを引き出し再び牢に入れました。

使徒言行録5章33節に「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」と記されています。民衆を恐れた

祭司たちは弟子たちに鞭打ちをし、叩きました。二度とイエスを救い主だと教えることと福音を宣べ伝えるなと命令し、釈放しました。しかし、弟子たちの心にはイエス・キリストの福音で満ちていました。七人の執事の一人だった「ステファノ」がイエス様の福音を伝えたため、当時のユダヤ教の若い指導者「サウロ」の主導によって石を投げつけられ殺害されました。そのことが起きた後、ユダヤ人はイエス様を信じる人たちと

弟子たちを殺害しようと奔走するようになりました。それで、弟子たちと他の皆はエルサレムから離れ、地方に散っていきました。

私たちがよく知っている通り、ステファノを殺害した人は「サウロ」でした。このようなサウロがイエス様と出会い、イエス様の弟子になり、名前も「パウロ」に替えました。パウロは小アジア地域を渡り歩きながらイエス様の復活を告げ知らせる福音伝道者となりました。使徒パウロを待っている地域の教会を尋ねるのが容易ではなかった時代に、パウロは手紙を書き始めました。新約聖書27巻の内、21巻が書簡、すなわち手紙形式で書かれています。その中でも使徒パウロの名で書かれたのが13巻です。

使徒パウロが書いた13巻の書簡の内容を見ると、「わたしパウロが自分の手で挨拶を記します。」(一コリ16:21)もしくは、「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」(ガラ6:11)その中でも、コリントの信徒への手紙一と二はとても重要な手紙です。コリント教会は使徒パウロが第2次伝道旅行の際、コリントで一年半滞在しながら建てた教会です。(使徒18:1‐8)パウロはアデン、今日のアテネからコリントに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれひどく不安でしたと言っています。(一コリ2:3)このような困難の中、パウロはとても貴重な人たちと出会います。

クラウディウス帝の全ユダヤ人をローマから退去させる命令によって、コリントに来ていたアキラとプリスキラと出会い、伝道活動をするようになりました。(使徒18:1‐3)マケドニア州に派遣していたシラスとテモテもやって来て、みことばを語ることに専念しました。パウロの宣教において「コリント」はとても重要な拠点でした。しかし、教会の中で問題が起き、教会は分裂の危機に直面してしまいます。さらに、パウロを妬む異端の指導者たちはパウロは偽弟子だと言いました。彼らの主張によると、自分らはエルサレム教会の指導者からもらった手紙、すなわち推薦状を持っているととし、パウロを非難しました。しかし、彼らは偽りの人であり、パウロは真なる福音の使徒でした。

パウロが第3次宣教旅行をしながら、コリントを尋ねると手紙を送ります。しかし、この願いは簡単には成就できませんでした。今日(こんにち)のように交通が発達した時代でもありませんでした。パウロは今のトルコのエフェソに留まりながら、ギリシアにあるコリント宛の手紙を書いたのです。その内容は、偽推薦状を持って渡り歩いている偽使徒やずる賢い働き手の言葉に耳を傾ける必要がないとのことでした。パウロは彼らが重要だと思っている推薦状は意味がなく、現れる結果、つまり信仰的な現象と実りがもっと重要であると言っているのです。

使徒パウロは自分の立場をコリントの信徒たち自身で確認すべき重要なことだと言います。この部分をユージンピータソン博士はこのように翻訳します。私たちは皆さんに見せる推薦状や皆さんからもらう推薦状が必要ない人です。あなたがた自身こそ、私たちが必要とする推薦状です。皆さんの誠実な生き方が私たちの必要とする推薦状の全部です。皆さんの誠実な生き方こそ、だれでも見て読める手紙です。キリストが私たちを用いてお書きになった手紙で、その手紙は墨ではなく生ける神の霊によって書きつけられました。その手紙は石の板ではなく、人の心の板に刻んだのです。私たちはその手紙を伝える人であります。

使徒パウロが苦労して建てたコリント教会にはよい働き人がいました。アキラとプリスキラ、テモテとシラスのように命をかけて福音を告げ知らせるよい働き人がいたからこそ、福音伝道が可能でした。それだけでなく、コリント教会には純粋な信仰を持っている信徒たちがいました。使徒パウロが早く来て、教会の全ての問題を解決してくれるよう、祈る信徒たちがいたのです。

信徒たちに対する使徒パウロの信頼を見て下さい。私は推薦状を皆さんに見せる必要がありません。その理由はコリント教会の信徒、あなたがたが私の推薦状だからですと言いました。コリント教会の信徒たちの誠実な生き方と苦難の中でも耐えて生きてきた信仰が墨で書かれた推薦状より大切だと言いました。モーセ時代のように変わらぬ石の板に刻まれたものより、貴重であると言いました。コリント信徒たちの生活と生き方に刻まれたものであり、生ける神の霊によって書きつけられた手紙だからだと言いました。

愛する信徒の皆さん、この映像礼拝に共に参加する皆さんと私は本当に祝福された人たちです。キリストが自ら書きつけられました。大阪教会の信徒の皆さんは100年前、私たちの信仰の先輩たちが書き残してくれた手紙からどれほど力づけられるでしょう。使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙二4章15節のみことばで「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。」と言っています。

今から私たちがすべきことがあります。私たちのため、先輩たちが残して下さった手紙があります。このように

私たちの子どもたちと孫たちのため、福音の手紙を書き残さねばならないのです。

愛する信徒の皆さんと至らない僕である私がキリストの手紙です。

墨で書かれた手紙ではなく、生ける神の霊によって書きつけられた手紙です。

石の板に書かれた手紙ではなく、人の心の板に書かれた手紙です。

この手紙は永遠に栄光を表す尊く大切な手紙です。

<祈祷>

慈しみ溢れる神様、今日、この尊い礼拝を通して、神様が私たちに送って下さった福音の手紙に感謝をささげます。100年前、大阪教会は信仰の先輩たちによって教会が建てられました。今日に至るまで、子どもたちと子孫が福音を抱き、生かせて下さり、感謝します。ここで、私たちも決心します。私を、子どもたちと子孫にとってのキリストの手紙にならせて下さい。来週、100周年記念主日を迎えるとき、感謝に満ちるようにならせて下さい。教会の頭(かしら)である主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会 主日礼拝 < 2021 4月 25復活節第4主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 불안에서 담대함으로 不安から大胆さへ

聖經 : 요한복음 21장 17절-20절 ヨハネによる福音書21章17節-20節

 

<日/新共同訳>

15.食事が終わると、イエスはシモン․ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16.二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17.三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18.はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 19.ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。20.ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。

 

<説教>

4月の最後の主日です。信徒の皆様1週間お元気でしたか。ニュースを見るのもつらかったと思います。

コロナ感染患者数が増えて結局緊急事態宣言が再発令され、生活全般に渡って苦しくなると思います。

人が生きていく中で、このように大変で難しい出来事が続くのが事実です。ある災害が起これば、それによって心に不安が襲います。どのようにしてこの苦しみを乗り越えられるかと心配になります。それで、力を出してみようと決心をします。 しかし、人はだれでも苦難と苦しみに遭うと恐れるしかありません。

イエス様が十字架の死と復活以後、弟子と周辺の人の姿を続けて探っています。弟子たちにおいて素晴らしい師匠、偉大な先生として慕っていたイエス様があまりにも無残に死を迎えたため、衝撃も大きかったのです。そして弟子たちの心に大きな恐れがありました。自身たちにある出来事が起こるかもしれないとの不安な気持ちがありました。どれほど恐ろしかったのか、彼らだけいるときにも戸に鍵をかけていたのです。

先週、説教の中で弟子トマスのことを考えてみました。人が心に疑いを持てば、すべてのことが不確実に見えます。何が正しいことか何が間違っているかを判断するとき、自信を失ってしまいます 自分も知らない間に心の中に不安や心配が生じます。心配とは脅威や危険を感じ、心が不安になって用心深い感情を抱くと国語辞典で説明されています。日本語で見てみるともっとたくさんの表現があります。名詞としての意味として怖さ、恐れ、恐怖、不安、心配、失敗するかもしれないという不安な心を表現します。失敗するかもしれない不安、形容詞の意味で恐ろしい、怖い、心配だ、不安だ、気掛かりだとの意味で表されています。

結局心配とは戸を閉め、心を閉ざし、関係を閉じてしまうことを意味します。不安と恐れを人々はいつ感じるのでしょうか。今全世界を襲っているコロナ禍の中で、人々は不安と恐れを抱いています。コロナ病原菌に私が感染したらどうしようという恐れを感じる事は当然のことであり、心に不安が広がります。そして、周りの人を考える余裕を失い、自身だけの世界の中で心を閉じて生活するようになります。コロナ禍以降、心理的に苦しんでいる人がたくさん増えたとのニュースを皆様も見られたと思います。恐怖は心を閉ざすことです。同時に鍵をかけて戸を閉ざしてしまいます。現代社会は、隣人との関係が信頼よりは疑いを抱く時代になってしまいました。隣の人が自分に危害を加えるのではないかと不必要な恐れが起きる世の中になり、鍵をかけて生きていきます。そして今まで維持されてきた関係を切ってしまうことによって、人々は不安と恐れを持つようになるのです。

人々はいつ一番恐れるでしょうか。最初に自身の身辺に脅威を感じる時でしょう。自身の地位または立場が厳しくなることに対して、恐れを感じるようになります。自身を取り囲む環境において自分が認められなくなるのではとの考えが起こり、恐れに囚われるのです。

BC1000年頃、イスラエル民族は周辺国家と戦争を続けておりました。イスラエルに一番大きな脅威はペリシテ民族でした。イスラエルは戦争において、組織的に国家と軍隊を導く指導者を立ててくれることを、当時の祭司長サムエルに要求しました。祭司長サムエルはこのことを神様に頼みました。しかし、最初神様は民の要求を拒みました。この願いが続けられたため彼らの声を聴いて王を立てなさいとサムエル上8章を見ると許したと記しています。そして最初に王に立てられたのがベニヤミン支派に属しているサウルでした。 サウルを王に立て、イスラエルを統治させました。周辺の国家と戦争をし、勝利を収めた王になり、国民の信任を受けた王になりましたが、自ら傲慢になってしまいました。神様のみことばに従わず、自分がしたいようにする誤った行動をとるようになりました。神様は祭司長サムエルを通して、サウル王を審判すると預言させました。

サウル王はダビデの登場とともに、自分の王の立場がどうなるか心配になり、恐れと不安に襲われます。 さらに口寄せのできる女性を尋ねていき、自身が持っている不安を解決しようとしました。結局この不安感はダビデを殺そうとする殺人の心を抱かせます。ダビデは自身の婿であり、王子ヨナタンとも厚い信頼の仲でした。それにもかかわらず、サウルの心にはダビデに対する必要のない妬みと不安が起こりました。結果的にサウルはふたたびペリシテとの戦争で自身の命を失ってしまうのです。このように、サウル王の話は妬みと不安がもたらす悲しい歴史でもあります。

今日の聖書のみことばは、ガリラヤ湖に訪ねて来られたイエス様と弟子ペトロの出会いと交わされた会話が中心です。ペトロはイエス様の12弟子の中で中心的な役割をした人です。ゲッセマネ丘で祈っておられたイエス様を逮捕しに来た人に剣を抜いて片方の耳を切り落としたのもペトロでした。しかし、私たちが良く知っている通り、ペトロはイエス様がローマの軍人に逮捕され尋問を受ける姿を見ていました。結局ペトロはイエス様を知らないと嘘をついて逃げ出してしまいました。イエス様が十字架につけられ苦しみを受け、死んでいく時も弟子たちは隠れていました。この不安と恐れは私たちの想像を絶するものです。誰も責められない人間本来の姿ではないでしょうか。当時のユダヤ教の指導者たちはイエスを殺し、彼に従っていた弟子たちを捕まえて殺そうとしたとも考えられます。このような危機感は弟子たちに不安と恐れをもたらしたのです。

ペトロと弟子たちはガリラヤ湖に戻り、漁をしている朝に復活されたイエス様が来られました。一晩中網を降ろしていたが、一匹の魚すら捕れなかった彼らは岸に立って叫ぶ声を聞きました。「船の右側に網を打ちなさい」。 網を引き上げることができないくらいたくさんの魚を捕らえました。湖の上に立っておられるのがイエス様だということを知った時、服を脱いで作業をしていたペトロは上着をまとって湖に飛び込み、イエス様に向かっていきました。7名の弟子たちはイエス様が準備された朝の食事をいただきました。この朝の食事を共にしたことを考えてみると、ある意味大変ぎこちない食事時間だったかもしれません。復活されたイエス様が弟子たちの前に3度現れましたが、弟子たちと食事をされたのは初めてです。食事が終わるとイエス様は弟子たちと対話をされます。今日の本文ではペトロに言われたみことばを見ることができます。

食事が終わるとイエス様はペトロに質問をされました。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか。」という不意な質問でした。私たちが良く知っている内容ですが、この質問はすごく敏感な内容にもなります。ペトロの立場から見れば最後の晩餐でイエス様がされたお話、「あなたは今夜鶏(にわとり)が鳴くまでに、三度私のことを知らないと言うだろうと話されたときも、強く自分の意志を伝えました。絶対そのようなことはないと誓ったのに、ほんの数時間後、彼は卑怯にも先生を知らないと嘘をついてその場を逃げた経験が思い浮かんだはずです。イエス様がこの質問を2度繰り返された時もすぐ答えました。しかし3度目も同じ質問を受けて、本文17節を見るとペトロは悲しくなり「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。

ペトロはなぜ悲しくなったのでしょうか。主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。なぜこのような答えをしたのでしょうか。ペトロの悲しみは自責の念からくる心理的不安です。自ら自分が何をしたのか知っているからです。心配は解決されないことのために心が乱れ憂鬱になることです。イエス様とペトロの間に解決されない出来事があるのです。ほんの数日前に起きたことですが、自ら解決できず心が乱れているのです。復活されたイエス様が弟子たちに現れました。しかし、ペトロは自責の念で心が憂鬱に陥っている状態でした。

今日、私たちも心配なことがたくさんあります。個人的には健康問題、経済的なことで自身の力では解決できないことがたくさんあります。社会的にはコロナ禍のように、大きな災害が襲ってくれば生活の不安と恐れで心配になるのは当然のことでしょう。このような時期にわたしたちはどうすればよいのでしょうか。信徒の皆様はどのようにしておられますか。イエス様とペトロの会話をもう少し読み解いてみましょう。

ペトロは心配な気持ちと恥ずかしくて大きな声で言えずに話しました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えます。弁明に近しい言葉です。責任を先生に負わせるような言葉です。しかし驚くことに、この言葉を聞かれたイエス様が弟子ペトロに与えたみ言葉です。「わたしの羊を飼いなさい。」との命令でした。信徒の羊飼いになりなさいとのことです。そしてより真摯に「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばすとされました、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と言われました。それだけではありません。最終的には死を迎えるようになると言われました。愛していますと言った弟子ペトロがどのような死に方を迎えるかを話されたのです。もちろん人は誰でも個人的な終末を迎えますが、それが死です。ペトロの立場から見れば、彼はどのような気持ちだったのでしょうか。

もし、イエス様が私たちに同じ言葉を与えて下さるならば、「アーメン。主よ、感謝します。」と答えられますか。そうでなければ、ペトロのように心配しながら「イエス様、少し考えてみます」と言われますか。率直に言えば、私たちの心には不安がもっと広がり、心配が深まるでしょう。イエス様はペトロの死までも神様の栄光のためだと言われました。人々が不安と心配が逃れられる唯一な道があります。それは使命のために死ですら受け入れ、死を覚悟する心を持てば、すべての不安と心配から逃れられるのです。死を覚悟することはやむを得ず死を受け入れる事とは違います。事実、人間は死を覚悟すれば、できないことはありません。本当に私の命を捧げても成し遂げるべき仕事、その使命がわかれば恐れは消え去るでしょう。

ペトロはイエス様に言われたみことばをに従い、使命を認識するようになりました。「私の羊を飼いなさい」。

今日を生きる私たちはこの時代的状況から与えられた使命があります。それをわかってこの使命を成せるため、主のみ手にわたしたちをゆだね進むとき、成し遂げられることを信じます。愛する信徒の皆様!今、私と皆様の前におかれているコロナ禍の不安が高まっていることは事実です。しかし、神様が私たち全員を守ってくださるでしょう。そして、私たちも私たちに与えられた使命に従い、自ら冷静さと同時に大胆さを持って生きていきましょう。神様が私たち全員を守って下さいます。

<祈祷>

私たちの考えと行動を見守ってくださる神様、弟子たちも不安と心配の中にいました。その不安から解放させるために、復活された主が弟子たちに再び使命を確認させ、大胆な心を持たせました。今日を生きる私たちすべてに強い信仰と与えられた使命をわからせ、知恵がある人生を生きていけるようお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。 アーメン

大阪教会 主日礼拝 [ 2021 4月 18復活節第三主日

説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 의심에서 믿음으로 いから信仰

聖書 : 요한복음 20 24-29 ヨハネによる福音書20章24節-29

 

[/新共同譯]

24. 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスがられたとき、彼らと一にいなかった。25. そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26. さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一にいた。にはみな鍵がかけてあったのに、イエスがん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27. それから、トマスに言われた。「あなたの指をここにてて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28.トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29.イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気でしょうか。

先週の主日から映像礼拝を中心に礼拝をささげています。映像礼拝をささげる信徒は不便だと思いますが、忍耐することによって大きな恵みが溢れますよう祈願いたします。一週間、関西地域のコロナ感染が驚くほど増えました。去る16日(金曜日)、世界の患者の統計を見ると、死者が300万人を超えました。大阪市の全人口が275万人ですが、それより多くの人が死んだということです。私たちは、一日も早く終息できますよう祈りましょう。

イエス様が復活され、マグダラのマリアと女たちの前に現れました。弟子たちが集まっているところに来られましたが、トマスは一緒にいなかったです。トマスは弟子たちから復活したイエス様が現れたと聞きました。この話を聞いたトマスはどうやって死んだ人が甦るのかと反問します。自分はイエス様が再び生き返ったら、彼の体の痕跡を触ってみて、目で確認できれば信じようと言いました。このようなことがあった8日後、イエス様は弟子たちのところに現れました。

今日のみことばを見れば戸には鍵がかけてあったのに、イエス様が来て真ん中に立っておられたと記しています。弟子トマスも他の弟子たちと一緒にいました。イエス様がまずトマスに声をかけました。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。」と言われました。この言葉は、イエス様がいないときに、弟子たちにトマスが言った言葉です。十字架にかけられ死ぬ際にできた釘の跡がイエス様の手にはありました。ローマの兵士たちはイエス様のわき腹に槍を刺して死を確認しました。そのとき負った傷に触れれば信じられるとの言葉です。トマスの言葉を聞いていなかったのに、イエス様はトマスが疑うことを知っており、自分の手を見、わき腹にあなたの手を入れなさいと話されたのです。

イエス様が語られたみことばを見ると、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」でした。この話を聞いたトマスは、想像を超える話をするようになりました。28節で、「わたしの主、わたしの神よ。」と答えました。この言葉は、変貌(へんぼう)の山で弟子ペトロがイエス様に告白した内容と並ぶ信仰告白であります。マタイ16章16節では、「シモンペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた」。その告白を私たちはよく知っています。

今日の状況は復活された後に、弟子たちからもらった最初の信仰告白です。イエス様は、このような告白をした弟子トマスに話し続けます。 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。復活されたイエス様を見るだけでなく、体に残っている痕跡を見れば信じられると言ったトマスがイエス様に出会った瞬間、彼の考えが変わりました。普通は「あ!先生は本当に復活されましたね!」と興奮し声を張り上げますが、トマスは違いました。彼は3年間、イエス様のそばですべてを見ました。イエス様がどのような生活をし、何をされたかを見て知っています。死を迎えることと3日目に再び甦るとの話を彼は覚えていたはずです。それが実現された形で、自分の目の前に立っておられるイエス様を見てこみあがったのが彼の信仰の告白だったのです。

トマスの心には「疑い」がありました。疑いとは、「信じられない、または正しく知らず不思議に思うこと。」という意味を持っている言葉です。 「確実な根拠がなくて信じられない状態」を指します。似通った言葉で「疑惑」もあります。 「ある事実を信じることができず、不正があるのではなどと疑いを持つ」という意味です。私たちがよく使う「疑い」、「疑惑」という言葉は、人の心理的な状態を表します。言語は、心理的な言語と物理的な言語があると学者たちは言います。体と心を持っている人は、脳と胸にあることを表現する言語は同一ではないそうです。心理的な言語は、人が経験した痛み、苦しみ、考えと感覚的なものを表現します。物理的言語は、人が経験したある状況で、実際することを通して認識して表現することばです。

私たちが生きていきながら、私たち自身も、弟子トマスのような経験をします。イエス様が十字架にかけられ死んだことは弟子の立場にとって、あまりにも大きな衝撃でした。それで、トマスも、十字架で死んだイエス様が復活したということを受け入れ難かったのです。自分に確信を与えられるいくつかのことを考えていたでしょう。トマスは、他の弟子たちに「あの方の手の釘跡を見、わき腹に手を入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うほどだったのです。

このような考えをしているトマスの前に、先生、イエス様が立っておられるのです。イエス様が先に言われました。「トマスよ、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」。みことばで重要に扱われるのは次の言葉です。「トマスよ、あなたが言う通り、わたしの手を見て、手をわき腹に入れ、確認して疑心を捨てなさい」、すなわち「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」でした。疑う心では信仰を抱けないのです。

人が生きながら、人間関係に疑いを持つと互いの信頼が崩れます。より発展的な関係を持つことができないことだけでなく、むしろ関係が切れ、悪化します。疑いは先入観から来る場合もあります。「多分そうだろう。」、「私が考えていることが正しい。」とし、自分の経験や普段の思い、心理的な思考をするようになります。時には他人の言葉だけ聞き、人を疑う場合もあります。もう一つは、コミュニケーションの不在から来る場合もあります。お互いが持っている考えを分かち合いながら、会話や他の方法で互いにコミュニケーションを取れば良いのです。しかし、お互いの間のコミュニケーションがうまくいかない場合は、いつも誤解を招き、進んでは疑いをもたらします。それで、人はコミュニケーションを取り、関係をよく維持することが必要だと言われます。

疑いを持つようになる理由はもう一つあります。それは、事件や物事の本質、すなわちその本質がわからないときです。皆さんはビジネスの取引をするとき、小切手を使用します。私は、最初小切手を見たとき、現金通貨とは別の方法で、金額だけ記録された紙がお金の価値と同等であることが不思議で疑いを持ちました。「どうやってこの紙一枚が莫大な現金貨幣のような機能を持ってるのだろう。誰のお金を出すのだろう。」という考えをしました。これは私が小切手の本質をよく理解できなかったときに生じた疑問でした。

弟子トマスの考えは、自分が経験した人間の本質、人は死ねば終わり、肉体は土に帰る存在だと思っています。もしイエス様が復活をされたということを、物理的な事件として受け入れられるためには、自分が直接手を入れてみるときだけだと思ったのです。これは弟子トマスだけでなく、誰でもそう考えたでしょう。

戸に鍵がかかっている家の中に入って来られたイエス様がトマスの前に立っておられるのです。

「トマスよ、指をここに当てて、わたしの手を見なさい。そしてわたしのわき腹に入れなさい。その疑いを捨て信じる者になりなさい。」と言う、その現実の前で物理的な言語で答えます。これは夢でもなくイエス様の霊でもない現実の前で、彼は驚かざるを得ませんでした。死んだと思っていた先生が、自分の目の前にいるのです。

復活されたイエス様に出会った弟子たちに共通点があります。復活されたイエス様に会ったとき、彼らは驚きと同時に、普段先生が話された言葉が思い浮かびました。それに注意を払うべきです。教育は、まさにこのような目的を持っているのです。イエス様が3年間行った働きの中で重要なのが、弟子たちを訓練させ教育させたことであると言っても過言ではありません。トマスの告白に対するイエス様の賞賛は、今日、イエス様を信じ従う私たちにまで至ります。イエス様は言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。

愛する信徒の皆さん、皆さんと私は本当に幸いな人です。弟子トマスの経験を通して確実となったイエス様の復活を信じられるからです。信仰は聞くことから生まれると言った使徒パウロの言葉が浮かびます。復活されたイエス様に出会った弟子たちが疑いから解放され、信仰に進みました。私たちの心にも起こる疑いを今日のみことばで解決されますよう願います。疑いは神様のみことばに対して否定的に考えるようにさせます。疑いは信仰共同体である教会の中でも悪い影響をもたらします。信徒と信徒の間だけでなく、指導者たちと信徒の間でも、これらの疑いが生じると信仰生活に役立ちません。教会の活動や福音の働きにも悪い影響を及ぼします。お互いが円満なコミュニケーションをしながら本質をよく把握し、理解することで、お互いの誤解や疑いがない共同体を作り上げるべきです。

信仰は、お互いの心に平安を与えます。信仰は、お互いに強く信頼する心をもたらします。疑いから解放させ、信仰の道に進む弟子の告白「イエス様は私の主、わたしの神です!」。弟子トマスが復活したイエス様に出会った際行った信仰告白を私たちができることに感謝です。疑いから解放され、真の信仰の道へと進みましょう。

<祈祷>

愛の神様、私たちが疑いに陥り、正しい信仰の道へと進めないとき、聖霊様が知らせ、みことばを

通してわからせて下さり、感謝します。イエス様の復活は大きな疑いをもたらせる出来事でした。

イエス様の復活の実体を見、驚くほど変わる弟子たちの姿を見ます。主は私の救い主で、私の神様です。

今日も生きておられ、私たちを信仰の道に導き、祝福して下さり、感謝します。

難しい時代を生きる私たちに力を与え、守って下さい。復活されたイエス様のみ名でお祈りいたします。

アーメン

 

大阪教会 主日礼拝 < 2021 4月 11復活節第二主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 復活されたイエスがガリラヤで

聖經 :  ヨハネによる福音書21章1節-6節

 

[()新共同譯]

1. その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2. シモンペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3. シモンペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4. 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5. イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6. イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間どのように過ごされましたか。3月7日から礼拝堂に集まって礼拝をささげながら、共に喜びました。しかし、一ヶ月で再び映像礼拝をささげるようになってしまいました。関西地域でコロナウイルス感染状況が酷くなりました。大阪教会の堂会は信徒の健康と地域住民のことを考慮し、このような決定を下しました。大変でも、ワクチン接種が順調に進み、社会全体が落ち着くまでもう少しの我慢をお願いします。先週、復活節礼拝を教会で皆さんと共に捧げられただけでも感謝です。

復活されたイエス様が初めて会ったマグダラのマリアに話された内容を覚えているでしょう。弟子たちのところに行き、約束した通りガリラヤで会おうと伝えるようにさせました。イエス様はエルサレム、ゴルゴタの丘で十字架で死なれました。アリマタヤのヨセフが家族のために準備しておいた新しい墓に葬られました。3日目に復活されたイエス様に初めて会った人は、マグダラのマリアでした。マグダラのマリアに言われた言葉、なぜ!イエス様は弟子たちにガリラヤで会おうと話されたのでしょうか。イエス様の墓はエルサレムにあり、ガリラヤはそこから100Km以上離れた所です。なぜ?ガリラヤで会おうとしたのでしょうか。皆さんも一度考えてみてください。

新約聖書の四つの福音書で復活されたイエス様は11ほどの行動があると数えられます。初めは死んだイエス様の体に塗る香油を持って墓に来たマグダラのマリアに現れました。そして墓に行った他の女性たちにも現れました。3番目は、エマオに向かっていた2人の弟子と共に歩きながら、話し合いました。弟子たちが集まっているところに行きましたが、その場に弟子トマスがいませんでした。後でトマスとイエス様が会ったとき、トマスが抱いていた疑いを晴らすため、ご自分のわき腹と手に残った痕跡を触らせました。

なぜ!ガリラヤで弟子たちに会おうとされたのでしょうか。皆さんと私が知っているガリラヤを考えながら、このみことばを紐解いてみましょう。ガリラヤ(Galilee)は、一般的にイスラエルの地のうち、パレスチナ北部を指します。ヘブライ語の「ガリ」(galil)という言葉は、「円」、「巡回」、「地域」という意味を持っています。ここには、BC63年ローマ人の行政区域に入るまで、決められた境界線がありませんでした。ガリラヤはアッシリヤ人が北イスラエルを滅亡させたとき(BC734-722)からマカバイ期間(BC80)まで、ユダヤ人による統治ができませんでした。それで、約800年程度はユダヤ政治外におかれていたと言えます。

韓国語の聖書イザヤ書9章1節で「異邦のガリラヤ」(イザ9:1/大いなる光を見死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。)という言葉が出てきます。しかし、日本語の聖書は、この言葉さえも出ません。

再び言うと、イスラエル北部の広い地域を「ガリラヤ」と呼ばれました。イエス様が育った「ナザレ」もまさにガリラヤ地域内にあります。イエス様を「ガリラヤ人」と呼び、すなわちこの地域出身であることを指します。

エルサレムはイスラエルの南に位置し、「ガリラヤ」は北です。その中間に位置している地域が「サマリア」です。当時、ユダヤ人たちは、「サマリア」地域に住んでいる人々を、ユダヤ人、イスラエル人として扱いませんでした。サマリアよりももっと北に位置する「ガリラヤ」は、地方の方言が強く、生活習慣も異なりました。エルサレムから遠く離れていた地域だったので、政治的にも疎外地域でした。さらには、ガリラヤでは預言者すら出ない地域だと見下されていました。このような「ガリラヤ」なのに、なぜ!イエス様は弟子たちに「ガリラヤで会おう!」と言われたのでしょうか。

「ガリラヤ」と言えば、次に考えられるのが「ガリラヤ湖」です。先ほど話したように、「ガリラヤ」地域のガリラヤ湖は、イスラエルで二番目に広い湖です。今日の本文では、「ガリラヤ湖」と言わず「ティベリアス湖畔」と記しています。これはヘブライ語の呼び方です。イエス様の3年間の公生涯の期間、「神の国」を教えた所が「ガリラヤ地域」でした。飢えの人々を食べさせ、病や苦しみの中にいる人々を癒し、福音を伝えたところがまさに「ガリラヤ湖」周辺でした。

もう一つ忘れられないのは、イエス様が公生涯を始め、12人の弟子を選ばれました。今日のみことばを見ると、7人の弟子たちが魚を捕るところに復活したイエス様が来られたとの内容です。イエス様の12弟子の名前が福音書に4回出ています。しかし、名前を記録する方法では、少し相違がありますが、人数は間違いなく12人です。その中で、9人~10人がガリラヤ湖の近くに住んでいた人たちです。職業も魚を捕る漁師ほとんどで「マタイ」は徴税人でした。

それで、イエス様と弟子たちがまとまっていると人々は「ガリラヤ人たち」と呼びました。イエス様が十字架で死なれたことは、弟子たちにとって非常に大きな衝撃でした。弟子たちは、イエス様の死の後、身の安全に対する恐れもあったでしょう。そして、彼らは速やかにガリラヤに戻りました。3年間、漁師の仕事を休んだ弟子たちはペトロと一緒にガリラヤ湖に漁に行きました。しかし、彼らは不思議と、一匹の魚も捕れませんでした。

今日のみことばを見ると、夜が明けた頃、イエス様が岸に立っておられましたが、弟子たちはイエス様だとはわかりませんでした。このとき、聞こえた声がありました。「子たちよ、何か食べる物があるか」といわれたのです。すると弟子たちは、ありのまま答えます。「ありません」と言います。ところが、この時、もう一度、イエス様が言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。この言葉を聞いた漁師たちが網を右側に打ったが、今度は魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかったと記録しています。

信徒の皆さんにも「故郷(ふるさと)」があるでしょう。「故郷(ふるさと)」という言葉を聞くと、何を思い出しますか。生まれたところを故郷(こきょう)と言います。しかし、故郷(ふるさと)とは育ったところ、子どもの頃や育ちながら馴染みあるところが故郷(ふるさと)だと言えます。春になると「コヒャンイボム(故郷の春)」という童謡を思い出します。日本で生まれ育った在日同胞と日本人信徒は、日本の歌「故郷/ふるさと」という歌を思い出すかもしれません。

故郷(ふるさと)は私の人生の出発点です。故郷は私たちの生活の中で思い出の場所でもあります。私たちが生きていく中で、ふと思い出すのが「故郷」です。その場所が懐かしいのです。そこの人々も懐かしいです。そして、そこの温かさに包まれたいと思います。それで、故郷は母の懐だと言われます。楽しく幸せに生きるとき母と故郷を思い出すより、生活が苦しく、厳しいとき母や故郷が恋しくなるのではないでしょうか。

私たちの総会の福音新聞4月号に、元老牧師との対談形式の特集が載せられることになりました。

私にとって義父であり、引退された楊烔春(ヤンヒョンチュン)牧師との対談でした。隔たりなく、人生と信仰と牧師として歩いて来た人生を回顧してくださるよう、要望しました。かなりの長い時間を録音しながら対談しました。テープ起こしをしながら、原稿を整理する中で胸を打つ話がありました。

子どもの頃の故郷で、教会と村人の話と故郷の教会の牧師の話をするとき、最も興奮し力強く話しました。1.4後退開始一週間前に北朝鮮の興南(フンナム)埠頭(ふとう)から米軍が用意してくれた船に乗り、故郷を離れて来るときの気持ちを一言で話しました。「讃美しながら、すべてのことに耐え抜いたんです」。

イエス様と弟子たちの故郷は「ガリラヤ」でした。挫折と苦痛、不安と死の時間を送ったイエス様と弟子たちは、彼らの故郷「ガリラヤ」で会おうと約束されたのです。ガリラヤは、イエス様が主の働きを始めたところです。多くの人々に福音を伝えたところです。そして今、復活し、弟子たちに現れたところです。なぜ!ガリラヤだったのか。その質問に対する答えを、もはや皆さんは見つけただろうと思います。

故郷は始まりです。弟子たちがイエス様に呼ばれたところがガリラヤでした。漁をしていたペトロを呼びながら、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。この呼びかけにペトロは船と網を湖に置いて、すべてを捨ててイエス様に従いました。そうしたペトロなのに、大祭司が送った軍人にイエス様が連行され尋問(じんもん)を受ける場所でどのようにしたでしょうか。門番の女中が「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言われたとき、ペトロは、「イエスを知らない」と否認し、涙を流しながら逃げてしまったのです。

このような関係の回復がどうやって可能になったと思いますか。どのようなことを通して回復できたと思いますか。その出発点に再び立つことではないでしょうか。復活は全ての関係の断絶だと先週の説教で話しました。断絶だけでなく、失った信頼を再び戻せるのが復活です。先生と呼んだイエス様を捨てて逃げた弟子と

イエス様との再会は、彼らに最初に出会った場所とその最初の時間を思い出させる必要性がありました。

愛する信徒の皆さん、皆さんの信仰の故郷(ふるさと)はどこですか。私の信仰の故郷は座る椅子もなく、広い床だけあった教会、北から避難してきた避難民のため、米軍が作ってくれた教会です。幼い頃、友達と遊びながら

教会学校の先生たちが聞かせてくれた聖書の物語に耳を傾けた教会だと思います。

今、私たちは教会に来て礼拝をささげられない状況です。無論、時間が過ぎれば再び教会に集まり、神様に礼拝をささげられるでしょう。この時間、私たちが慕うのは礼拝をささげ、会いたい信仰の兄弟、姉妹です。子どもたちに学生たちにみことばを伝えたがる教師たちの気持ちを思います。思いっきり讃美し、愛の交わりができる日を待ち望んでいるのです。

復活されたイエス様が弟子たちに「ガリラヤで会おう」と話された深い意味を考えましょう。私たちの信仰生活の中で、恐れを振り払って、勇気を出して、すべきことを再び始めるようになりましょう。

<祈祷>

愛が溢れるイエス様、私たちもガリラヤで復活されたイエス様に会いたいです。

私たちの罪により、裂けられ、痛められた体と精神的な苦痛を考えます。

私たちもイエス様との関係の回復を願います。信徒間の離れた全てが新たになることを願います。

私たちに恵みを与えて下さい。感謝をささげながら、復活された主イエス・キリストのみ名によって

お祈りいたします。アーメン

 

大阪教会 主日礼拝 < 2021 4月 4日復活節礼拝

 

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 復活されたイエスに気づくこと

聖書 : マルコによる福音書16章9節-12

 

</新共同訳>

9.イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。10.マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。11.しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。12.その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。13.この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。14.その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。15.それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

 

<説教>

ハレルヤ!イエス様が復活されました。

復活節の朝、信徒の皆さんと共に礼拝をささげることができ、とても幸せで嬉しいです。

(3部のみ)今日はシオン聖歌隊員の有志が復活の讃美をして下さいました。ありがとうございます。

一日も早く、コロナ禍が終息し、思いっきり主に讃美がささげられますよう、願います。

過ぎた2月17日、「灰の水曜日」から始まった四旬節が45日間続きました。そして、昨日の土曜日(4月3日)に終わり、今日は復活節を迎えました。復活節を迎えましたが、私たちが住んでいる世界は、まだ死の恐怖が蔓延(はびこ)んでおり、不安が募っています。私たちが住んでいる大阪地域は1月13日に緊急事態宣言が発令され、3月7日解除の後はよくなるだろうと期待しました。しかし、一週間前から感染者数が急激に増え、再び明日(4月5日)から1ヶ月間「まん延防止等重点措置」を適用することになりました。

このような時期に迎える2021年の復活節です。この時代の中で働かれ、話される主のみ旨をしっかりわかることが必要だと思います。イエス様の復活が起きた日の状況をみことばで調べてみましょう。マグダラのマリアがイエス様の墓を尋ねました。驚くべきことに、復活されたイエス様と出会います。弟子たちのところに行き、先生が復活されたと知らせました。しかし、弟子たちの反応は冷ややかでした。イエス様の復活を信じなかったと書かれています。イエス様が十字架につけられ、死なれた後、二人の弟子は、田舎に行く途中、復活したイエス様に会いました。最初からイエス様とわかったわけではありませんでした。みことばを教えてもらったときも弟子たちは、自分たちのそばにいる方がイエス様だとわからなかったのです。ルカ24章では、彼らは目が明けてから、イエス様であることがわかったと記しています。

ヨハネ20章、墓でマグダラのマリアがイエス様に会いました。とてもうれしくて触れようとしたとき、主は言われました。17節、イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。今日の本文11節では、「信じなかった」、13節「言うことも信じなかった」14節「イエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」。弟子たちの態度がおかしいです。なぜ?最も近くにいた人たちでさえも、復活されたイエス様にすぐ気づかなかったのでしょうか。イエス様は復活後、今日の本文12節で、「別の姿」で弟子たちに現れたからです。単に本来の姿で戻ってこられたとの意味ではないです。「別の姿」で、「新しい存在」になり、この世に現れたということです。

私たちも、普段よく知っていた仲ですが、健康状態が見違えるほど変わってしまった人に会えば、どのように声をかけますか。「見違えるほどです。本当に違う人かと思いました。」と言います。今日の本文によると、コロナ禍中を生きている私たちが足を止め、心を整え、自分を省みながら、変わることを望んでいます。私たちは、復活後に別の姿で現れたイエス様がわかることができますか。別の姿であるイエス様がわかるためには、私たちの存在も新しくならなければいけません。

新しくなった創造の世界が、再び命溢れる希望の歌を歌えるようにさせるべきです。今の苦しみが明日の命を生み出す希望の陣痛にならなければいけません。そうすることにより、真の十字架の死と復活の意味がわかり、復活節を迎えられるようになるでしょう。新しい存在の誕生は、「与えられる事件」ではなく、「成らせる事件」であります。「成らせる」ことは、自然に成り立つことではありません。私たちの意図的な選択と持続的な努力でなっていくことを意味します。

モーセは一生涯、神様と同行した人です。モーセは告別の説教で、災難に襲われるとき、人間が選ぶべき道を明瞭に示しています。神様の戒めと定めを聞き従わなかったので、「呪いこと」が臨まれ、苦しみに投げられたと考えました。しかし、神様に立ち帰り、主の声に聞き従えば、神様も心を改めると言います。私たちの「立ち帰り」は、真の悔い改めによって可能です。神様が私たちを「立ち帰らせること」は「回復」です。私たちの考えと生き方を立ち帰らせるとき、私たちの生活が回復されるということです。

モーセの最後の説教が私たちに畏れと重い責任感を持たせます。一方、限りない希望も抱かせます。私たちが立ち帰るとき、神様は私たちを回復させて下さいます。しかし、私たちが心を背けば、捕虜生活のような状態にいさせると警告します。それで続く説教で、モーセは「しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、あなたがたは必ず滅びるであろう。」と告げます。(申30:17‐18)

 

私たちは、今、パンデミックを経験しています。「コロナ以前(BC)」と「コロナ以後(AC)」は、完全に異なるだろうと社会学者たちは言います。もし、私たちがこのパンデミックを経験してから、再び以前との生活に戻るのであれば、どうなるでしょうか。そして災難をもたらした貪欲と暴力と偽りの生活を再び送るのであれば、人間は必ず滅びるでしょう。希望と嬉しい知らせがあります。いくらひどい状況に置かれても、私たちはいつでも立ち帰ることができ、常に新たな存在になれるという事実です。

マグダラのマリアは一つ、二つでなく、なんと七つの悪霊に囚われ、苦しんでいた人です。しかし、イエス様が七つの悪霊を追い出して下さったとき、彼女は自由になり、新たな存在になりました。体と心と考えや生活態度が新たになった人だったので、マリアは「別の姿」で現れたイエス様をすぐに認められました。新たな存在にならなければ、復活されたイエス様がわからないのです。新たな存在にならなければ、イエス様が教えて下さった福音を宣べ伝えることができません。

今日、コロナ禍という闇の中で、イエス様はどのような姿で現れるでしょうか。いいえ、私たちがどのような存在になれば、「別の姿」で現れるイエス様を認められるでしょうか。それを可能にさせるのは、神様へ我らの心を立ち帰らせることです。闇を括(くく)りぬけた人たちだけが持つ明るくて眩しい光があります。このような信仰で、復活の希望と命を語らなければなりません。どのような苦しみと不安の中でも、イエス様が見せられたように、柔軟な姿で、新たな存在で、愛と平和の一歩一歩を繋いでいくべきです。

イエス様が復活されました。以前とは「別の姿」で新たな命となりました!姿は馴染みないけど、普段イエス様が見せた優しさを感じられるようになるでしょう。争いと戦いが絶えないこの世に、イエス様は平和を持って会おうと我々を呼ばれました。私たちはこのような希望を持って、不安と死が蔓延(はびこ)んでいるこの世を復活信仰で生きるべきです。二コリ5章17節で使徒パウロは言います。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。

唯一、神様のみことばによって、私たちは復活されたイエス様がわかるようになります。全能なる神様の能力と信仰によって可能になるのです。ハレルヤ!神様が復活されました。

<祈祷>

墓の石を取り除き、再び甦り、復活されたイエス様。別の姿で近づいてきたイエス様を弟子たちはわかりませんでした。しかし、2021年復活節の朝、私たちは主を讃美いたします。新たな被造物として、別の姿で現れたイエス様をしっかり認めます。死を克服し、この世に生きる全てのものに希望を与えるイエス様と

共に歩んでいきたいと願います。新たな心を与え、新たな能力を与え、新たな力で復活の証人として生きらせて下さい。復活した主、イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

大阪教会 主日礼拝 < 2021 3月 28棕櫚主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : キリストの体である大阪教会

聖書 :  コリント信徒への手紙一1212節-13節 

 

</新共同訳>

12. 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13. つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

 

<説教>

愛する信徒の皆さん、お元気でしたか。

今日は2021年四旬節の最後の主日です。棕櫚(しゅろ)主日であり、苦難週間が始まる主日です。それだけでなく大阪敎会2021年の公同議会を実施する主日です。久しぶりに信徒が一堂に集まりました。昨年1月の新年礼拝後、初めて合同礼拝をささげております。神様に感謝しながら、礼拝をささげています。

神様が自ら創られた人々を愛しておられ、罪に陥りあえぐことを放っておけませんでした。ひとり子を下(くだ)し、人類を救う計画を立てました。御子であるイエス様が、十字架につけられ血を流してから迎えた死は尊いものでした。イエス様が十字架で死なれ、3日目に復活し、福音を入れる器を与えられたのが教会です。

教会(church)とは、神様が多くの人々の中で特別に選び、集めた救いの共同体を指します。イエス様を知らなかった人々が、イエス様を知るようになり集まりました。イエス様が教会を建てると話された約束は、弟子ペトロとの会話中に出ました。当時の弟子たちは、イエス様に対しての理解が不十分でした。イエス様がどのような方で、どのようなことをするために来た方なのかもわかりませんでした。しかし、ペトロは、イエス様はメシアであり、生ける神の子であることがわかり、イエス様にそれを言いました。ペトロの言葉を聞いたイエス様は、「ペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と約束の言葉を下さいました。しかし、教会を建てるという約束は、十字架の死と復活、弟子たちとの交流後の昇天、そのあとに聖霊が下ることで成就できました。

神様の救いの約束について、信仰を持った人々が集まって共同体が建てられたのです(使徒2章)。今日、私たち大阪敎会に集まった信徒の皆さんと私も、イエス様の十字架の死を信じている人たちです。復活を信じ信仰告白を一緒にした共同体として大阪敎会があるのです。初代教会は建物もありませんでした。ただ使徒の教えを受け、互いに交わりながらパンを分け、祈っている人が家に集いました。

 

聖書では教会を様々な表現を使って表します。真っ先に思い出すのは「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、」とのみことばです。(使徒20:28)

御子の血によって自分のものとなさった教会という言葉は、先に申し上げた通りに、「御子であるイエス様が十字架につけられ血を流し、死なれた」ということを説明する言葉でもあります。教会を「イエス様と共に洗礼を受け、一つになったもの」と説明します。今日、わたしたちの大阪教会は神様の恵みを受けた一人の信徒が信仰告白をし、洗礼を受けます。このように教会は洗礼を受けた信徒たちが一つになる所です。

今日の本文であるみことばをみると、教会を「キリストのからだ」としました。神様が御子の血によって自分のものとしたのが教会であり、その教会がイエス・キリストの体であるとのことです。私たちの体は、色々な部分で作られています。その部分は異なる役割を持っています。例えば、頭と腕、脚があります。頭だけでも、いくつかの機能をする器官があります。目と耳と鼻と口があります。全て私の体の一部です。これは、揃わなければ正常に自分の役割を果たせないのです。目と耳、鼻と口がそれぞれ別々に動くと普通には生きていけないでしょう。

教会も、このような構造を持っていると説明しています。私たちの体のように、教会にも異なる役割を持っている色々な肢体があります。これを民族や役割と比較して説明している箇所を見てください。私たちが、ユダヤ人やギリシア人も、奴隷も自由人も全員、聖霊で洗礼を受け、一つの体となり、一つの聖霊を通して、教会の信徒になりました。大阪敎会にも韓国人、朝鮮人、日本人、在日同胞とニューカマー、多国籍の方、中国から来た同胞もいらっしゃいます。教会とは、このような多くの要素が集まっているからこそ、本物の教会だと言えるでしょう。

ローマ書12章4-5節のみことばを見ると、一つの体の肢体も異なる役割を持っているように、教会もそれぞれ異なる機能を持っている部分がキリストに結ばれ一つの体を形づくっていると話されます。例えば、教会の組織で、牧師や長老や勧士や執事のような機能があるとのことです。教会学校、男性会・女性会、聖歌隊などの共同体が必要です。教会を維持するため、堂会や諸職会や公同議会が必要であります。役割からみると、伝道と宣教することを優先する部署、教育と養育をする部署も必要で、奉仕し仕える働き人も必要です。ローマ書12章5節「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。

パウロは、教会は平和のきずなで結ばれ、霊による一致を保つように努めなさいと言いました。このように教会の定義は様々でありますが、聖霊によって一つになる信仰の共同体であることがわかります。私は牧師として、教会の定義の中で一番好きなみことばがあります。それは、「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」とのみことばです。

 

愛する信徒の皆さん、我々はイエス・キリストの血によって神様のものとした教会の中におり、神様の家族であります。「家族」一つの体なのです。家族は私の選択によってなれるものでもなく、願ったか願わなかったとかは関係なく、一つの家族となったのです。現代社会で家庭と家族の温かさと大切さや役割を失い生きているのではないでしょうか。このような社会の中で信仰の共同体である教会を通して慰めと回復の驚くべき祝福を期待します。私が他人の助けを得て生きるのも、私が他人を助けながら生きるのも神様の恵みです。家族は苦しい時、支え合って、苦しんでいる肢体のために祈り、手を差し伸べるのが家族の役割だと思います。

大阪敎会100年の歴史は、このように始まり、今後も絶えず続くでしょう。先週の主日から昨日の土曜日まで早天祈祷会では、公同議会を控え、ヨハネの黙示録に出てくる小アジアの7つの教会に関するみことばを読んでいます。参加できない信徒の皆さんも毎日の黙想で、共有できたと思います。 7つの教会の信仰や歴史や地域の背景が異なるため、信仰生活も少しずつ差が生じていました。初めの恋から離れ非難されたエペソ教会と、サタンの王座があるところに住んでいると非難されたペルガモ教会があります。偽預言者に陥り、悔い改めを促すよう叱責を受けたテアテラ教会もありました。生きているとされているが、実は腐り死んでいたサルデス教会もあります。冷たくもなく、熱くもない生ぬるい信仰を持っていたので、非難されたラオデキヤ教会もあります。一方、患難と迫害の中にも忍耐で迫害を耐え抜いたスミルナ教会や、主のことばを守り、主を否めなかったので褒められたフィラデルフィア教会もありました。

私たち大阪教会が見倣うべき教会はすでにみことばを通して定められました。全ての環境が悪い中でも強く、倒れそうに見えても耐え忍ぶ教会。みことばで苦難に勝ち抜く教会を目指して進んでいくのです。

今日、公同議会が実施されるこの主日、心に留めておくみことばです。主の祝福がわが大阪教会と礼拝をささげる全信徒の上に溢れますよう、祈願いたします。

<祈祷>

人類を愛し、教会を与えて下さった神様、感謝いたします。

教会創立100周年を迎えた今年の公同議会が開催できたことに感謝をささげます。今日与えられた祝福を良く使うようにさせて下さい。このように、長老、勧士を選出するよう、機会を与えて下さったことに感謝しながら、よく判断し、良い働き人を選ぶことと教会の使命を共に認識し担うことができる私たちにならせてください。聖霊様の恵みが洗礼式の上に満ち溢れるようにさせてください。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会 主日礼拝< 2021 3月 21四旬節第5主日

                         說敎 鄭然元牧師/通譯 金光成長老

 

* 題目 : 神様に正しく仕えること

聖書 : マタイによる福音書4章8節-11節 

 

</新共同譯>

8.更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9.「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10.すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 11.そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 

<説教>

主の前に出てこられた信徒の皆さんを歓迎します!皆さんの元気な姿を拝見でき嬉しいです。四旬節の第五主日です。イエス様が私たちのために十字架を担う日が近づいてきます。

悪魔から誘惑を受けているイエス様の姿を探っています。今日のみことばは三度目の試験に関する内容です。イエス様は「霊」に導かれ、荒野に行き、40日間断食をしました。天国のために働くことを準備されました。その時、悪魔が来て、イエス様を誘惑しました。この誘惑は、「あなたは神の子なら」、私が言う全てのことができるだろうとの能力に対することでした。サタンの立場では、「今こそ、あなたが神の子であるかどうかを試す時が来たということです。イエス様に「今が、あなたが神の子である事実を見せなさい。」と言わんばかりのことを求めました。

三度目の試験は、サタンが世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せながら、最も恐ろしい偶像崇拝をするように誘惑しました。悪魔はイエス様にすべての国々とその繁栄を見せるために非常に高い山に連れて行きました。神殿程度の高さは十分ではなかったのです。サタンは「空中の権力を握った人」という意味を持っています。メシアである、キリストを自分の領土へ、もっと高いところに連れて行く必要がありました。悪魔は、世界を創造し司るキリストに、すでに知っているよりもっと詳しい世界を見せようと、イエス様を連れて行きます。

悪魔がイエス様を高い山に連れて行った理由は、確実に誘惑しようとしたからです。しかし、イエス様はだまされず、その意図を見抜きました。ここでサタン、悪魔がどのように私たちを誘惑するのか考えてみる必要があります。まず一つ目、サタンの誘惑は、多くの場合、目から入ります。人類初の罪も目から、見ることから始まりました。(創3:6)アダムとエバが犯した罪は、命の木の実を見てから、心に罪が入ってくるようになったのです。

二つ目には、悪魔の誘惑は私達の弱まった肉体と魂に浸透してきます。先日、説教で話したように、悪魔は弱いところを集中的に攻撃し、希望を持てないようにさせ、すべてのものを放棄させます。もう一つは、私達の考えが深くなく、軽率な行動をとるとき、攻撃を加えます。今日の本文をみると、悪魔はイエス様に「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう。」(9節)と言います。

この誘惑について、次の二点を考えてみましょう。まず、悪魔のこの約束がどれほど荒唐無稽(こうとうむけい)なのか。「これをみんな与えよう。」この話が何を意味しますか。この話の背景には、前に行った二つの誘惑と繋がっています。悪魔は「あなたが神の子であるのに、神はあなたを見捨て、飢え死にさせようとしていないか。」という疑いをイエス様に植え付けようとします。そして提案するのは、「しかし、もしあなたが私の言うことを聞くのであれば、私はあなたにもっとよくしてあげられる。私をあなたの父として認め、私の祝福を求めなさい。すると、私がこのすべてを与えよう。」と途方もない誘惑をしました。

私たちが生活の中で、困難に遭うと、容易にこう言います。「神は私を捨てたのかな。なぜこんな試練を私に与え、見守って下さらないのでしょうか」。サタンは、人々が神に見捨てられたと考えるように口説いたあと、簡単に自分の餌食(えじき)にしてしまいます。悪魔の約束である、「これをみんな与えよう」。これがまさしく偽りなのです。悪魔の餌は全部が偽りです。その餌は見せかけと虚像だらけで、悪魔はそれを持って人間を騙すのです。

二つ目は、悪魔が掲(かか)げた条件がとても大きく見えるが、それが如何に卑しいのかを知らなければいけません。悪魔は「ひれ伏してわたしを拝むなら」と言います。悪魔は拝まれるのを好みます。これほど陰険で凶悪な誘惑があるでしょうか。信徒たちもこの邪悪な罪に陥る誘惑を受ける危険性があります。

このような誘惑をイエス様はどのように退けたのか見てみましょう。まず、イエス様は悪魔の提案を断りました。前の二つの誘惑とは次元が違う誘惑でした。わたしたちの生活の中でも、軽く超えられない誘惑があります。しかし、場合によってはとてつもなく重くて、容易(たやす)く克服できない誘惑もあります。

イエス様の態度からも、それを知ることができます。断固とした態度で「退け、サタン」と言われました。実は、私たちも「これは違うのに!」と感じながらも、決断できず躊躇する場合があります。心を決めずにいるとき、悪魔は自分が計画したとおり連れていく場合があります。悪魔に隙を与えてはいけないのに、その隙を許してしまうのです。しかし、イエス様は断固として言われます。「退け、サタン」。そして、イエス様は又もや聖書のみことばを用いり、この誘惑を勝ち抜きました。申命記10章20節「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。」と話されました。

自分にひれ伏し、拝めなさいと言う悪魔の誘惑に「主を畏れ、主に仕えなさい。」という言葉は、提案を退けるのに非常に適切な言葉です。私たちの生活の中で、人との関係で過ちが起こる場合があります。他の人から尊敬され、認められることを願う心を誰もが持っています。認められたい気持ちもあります。他の人が私をわかってくれるだけでも、心がときめきます。このような人間の本能を悪魔は利用します。

特に教会の中でもそうです!これが最もよく現れる時期が、今日のように、教会の奉仕者を選ぶときです。「なぜ私は信徒たちに認められないだろうか。」と悩むほど深刻になります。教会の奉仕者を選ぶ選挙は、信徒たちにどれほど認められているのか、どれほど人気があるのかを調べるためではありません。それにもかかわらず、選挙後、傷つく方がいるのを見ると、牧師は穏やかな気持ちでいられません。教会の職分が偶像になってはいけません。長老、勧士になるためクリスチャンになったのではありません。では、なぜこの職分者を選ぶのですか。主の教会をよく治め、奉仕し、仕えるために、その役割を担わせるのです。

今日のみことばを見ると、この戦いの結末がわかります。悪魔は戦いに負け、戦場を離れ去りました。イエス様の断固とした態度によって、サタンは離れざるを得ませんでした。キリストの神のみことばに従う、その力によってそうするしかなかったのです。悪魔は、恥ずかしく不名誉に退きました。屈服しました。イエス様を動かすのを諦め、神の子と認めて退いたのです。悪魔は離れ去り、天使たちが来てイエス様に仕えたと聖書は記しています。しかし、新約聖書を見ると、イエス様はユダヤ人と律法学者や祭司たちに絶えず試されたと記録しています。

このようなサタン、悪魔がこの時代に、どのように動くと思いますか。使徒ペテロは手紙の中で、悪魔は今、吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。続けて、ペトロは「信仰にしっかり踏みとどまって悪魔に抵抗しなさい。」と言いました。ペトロ自身もイエス様の福音を伝えながら、悪魔の誘惑をたくさん受けました。自分だけではなく、信仰の兄弟たちも同じ苦しみ、すなわち悪魔の誘惑を受けることを知らせます。説教をまとめたいと思います。イエス様がなぜ誘惑を受けたのでしょうか。

 

参考 二ペト8. 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。9. 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。>

神様の働きを始める際、この誘惑を克服することで、神の子として認められたのです。学校に志願した学生たちが受験して合格するように、私たちも生活でクリスチャンとして生きながら、このような誘惑を受ける

とき、勝たなければいけないのです。イエス様がまず、誘惑を受けた理由は、その後、誘惑を受ける人たちを助けるためであるとヘブライ人への手紙2章18節で言われています。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

四旬節、私たちは神様に正しく仕え、拝むことを礼拝と生活の中で行うべきです。イエス様はこのような私たちに仕えるためにこの地に来られました。どれほど、ありがたくて感謝なことでしょう。愛する信徒の皆さん、

イエス様を讃美いたしましょう。

十字架にはりつけられ、血を流すまで私たちを愛し、誘惑に勝たせて下さるイエス様に感謝しながら、四旬節を過ごしましょう。お祈りいたします。

 

 

<祈祷>

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださると約束して下さった主よ、悪魔の誘惑をみことばで退けたイエス様を愛します。

イエス様だけを従い、生きて行こうと決心します。私たちが自ら誘惑に陥り、主を試すようなことをしないように、そして、主に正しく仕え拝みながら生きていく私たちにならせて下さい。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

<參考一コリ10:13>

 

 

大阪教会 主日礼拝 < 2021 3月 14四旬節第4主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 神様を試すこと

聖書 : マタイによる福音書4章5節-7

<日/新共同訳>

5. 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6. 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」7.イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

 

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間もお元気でしたか。

先週の主日から礼拝堂で皆さんと一緒に礼拝をささげることができ、どれほど嬉しいかわかりません。しかし、まだ映像礼拝をささげている信徒がおられます。厳しい状況でも、讃美で力を得るように願い、祈りながら希望を持ってください。

上級学校への進学をする学生は、希望の学校に入るため受験します。学校の立場では、志願者の中で実力が備わった人を選抜しようとします。学生の立場では、その学校の合格のために最善の準備をし、「試験」に通れば学校に入ることができます。教会で使われる「試験=試す」という言葉は、おおむね信者に信仰があるかを知るために生じることを指します。時には信仰を鍛錬(たんれん)するために特別な人、環境、病などが与えることを言う場合があります。

「試す」、「誘惑する」に該当するヘブライ語は、「ナシュ」(nasah)であり、この単語から「試し」という名詞「マサ」(massah)が出ました。いつも聞いていた言葉だったのにと気づくことでしょう。この単語は、イスラエル民族が神様を試した場所を指している言葉です。モーセと共に脱エジプトしたイスラエル民族がホレブ山の近くで泊りました。水の入手が困難な砂漠と山岳地帯でした。多くの人が飲める水を探すことは容易ではありません。

 

参考出17章6‐7節 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。7. 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。)

水を必要とする人々にヤハウェ、神様がモーセに「岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」と言われました。モーセは神様の言葉に従い、民は水を飲むことができました。ここで行ったことが、なぜ「試し」という言葉の始まりとなったのですか。出17章17節では、そこの名前を「マサ、メリバ」にしたと記しています。この言葉は、イスラエル人がヤハウェ、神様が我々の間におられるかどうかを試したと記録されています。ここで「試し」という言葉が生まれました。飲み水がなかったため、モーセを恨んで、神様を試したことから生まれた「試し、誘惑」という言葉が「マサ」という言葉の始まりです。以降、申命記6章16節「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」

先週に続いて、今日のみことばを一緒に考えてみてましょう!イエス様は霊に導かれ、荒れ野で40日間断食をしながら祈りをしました。イエス様に来たのは悪魔、サタンでした。40日間断食をし、空腹を覚えていたイエス様を試しました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言いました。この試しを受け、イエス様はどう答えましたか。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(申8章3節)というみことばで退けました。

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせてから言います。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。最初の誘惑に対してイエス様が神様のみことばで答えると、悪魔も神様のみことばを用いり、対応します。悪魔が使ったのは詩編91編11節₋12節のみことばです。

『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ちたることのないように、/天使たちは手であなたを支える』。いったい、これはどのような意味ですか。神の子、イエス様のため神様が天使を使い、怪我がないように助けるだろうとの意味です。

ふと映画のワンシーンを思い出しました。青い服に赤いマントをかけ、空を飛びまわる映画「スーパーマン/ Superman」です。困難に陥った人々を救い、正義の味方で弱い者を助けるスーパーマンは天使のようなことをします。神様が日本語の聖書で「天使」と表現する「主の使い」を送り、保護するはずだから飛び降りてみなさいとのことです。最も信仰的に見えるこの行動を要求する理由は何だと思いますか。人の「精神的な面」を攻撃することです。悪魔の二つ目の要求に対するイエス様の答えも、神様のみことばを引用されました。『あなたの神である主を試してはならない』。

イエス様が「主を試してはならない!」と言ったみことばは、説教の前の部分で話したように「マサ」で行われた内容を意味します。旧約申命記6章16節「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない.としました。全能なるヤハウェ、主を試す行動を私たちも行っています。イエス様が悪魔にされた誘惑と同じ内容ではありません。私たちは生きている生活の場で、神様への信仰、信頼が薄まると自然に神様を試す愚かな存在なのです。

信徒に襲いかかる誘惑に関してのみことばを考えてみましょう。どのような誘惑を経験しましたか。初めに、信徒を罪に陥らせようとするサタンがもたらす試しがあります。旧約聖書ヨブ2章6‐7節6. 主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」7. サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。

ヨブに関するみことばは典型的に信徒を罪に陥らせる誘惑です。イエス様が空腹を克服する必要があったように、ヨブも初めに肉体的な苦しみに遭います。私たちも同じだと思います。病による肉体的な苦しみに襲われると、簡単に崩れてしまいます。体が病気になると、肉体的なことだけでなく、精神的にも弱まります。そして、神様に対して疑問が生じ、不満が積り、噴出するようになります。

二番目に人の欲望によって生まれる誘惑があります。新約聖書ヤコブの手紙1章14節に「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」。人間が持つ、罪に走ろうとする習性上、私たちは過(か)欲(よく)によって罪に陥ります。欲とは私が持っているものに満足せず、必要以上に欲しがる心から出てくる罪です。私に与えられたすべてが恵みで、祝福だと考えるのであれば、必要以上に何かを持とうとする欲は手放せられると思います。

三番目に神様からくる誘惑もあります。一番代表的なことが、神様がアブラハムに与えた独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさいとのことです。創世記22章1‐2節「神はアブラハムを試された。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい. これは

信徒の信仰と人格を鍛錬させるためのことで、試練の性質が強いです。自分の欲によって罪を犯すのではなく、信仰をもっと強めるために神様が下す方法なのです。

<思い違いをしてはいけません。>

私たちはこのような色々な誘惑に遭うとき、どのように対処すべきでしょうか。まず、誘惑の性質を分別しなければならないのです。新約聖書ヤコブの手紙1章16節、わたしの愛する兄弟たち、思い違いを してはいけませんとの強いみことばを与えて下さいます。韓国語表現である「騙されるな」より日本語表現「思い違いをしてはいけません」の方がもっと現実的です。

教会が誘惑に陥る場合もあります。お金、物質からくる誘惑があるのです。初代教会で起きた誘惑を使徒言行録5章で見ると、アナニアとサフィラが自発的に自分の財産を処分し、献金をささげる過程で行ったことです。献金をささげながら嘘をついたのは、主の霊を試すことであり、その結果、悲惨な死を迎えたのです。(参考使徒5:9)イエス様が悪魔に最初にされた誘惑が、物質的なものだったと話しました。そして、もう一つは、教会が人を選ぶときの誘惑があります。使徒1章で、イエス様の弟子たちが「イスカリオテのユダが死んだ後、使徒一人を選ぶ場面が出てきます。一人を選ぶために初代教会は祈りながら、そのことを推進しました。1章26節に「くじをひくと、マティアが当たった」と記しました。初代教会が行ったくじをひく全過程こそ、教会が持つべき姿勢です。「祈ること」です。教会がサタンの思惑から逃れる唯一な方法は祈りを通して、聖霊の導きに委ねることです。

今日、我々は、2021年に公同議会で決めなければならない重要なことの一つである教会の任職者を選挙する日でもあります。普段は静かだった教会なのに選挙が近づくと、なぜか良い人も多く、悪い人も多いのですか。それが悪魔の誘惑の中にいる様子です。公同議会を控え、祈祷会を持ちましょう。その理由は、正しく特定の人物の選出するためではありません。神様がこの時代に、私たちの教会に最も必要で尚且つ適切な人物を選ぶ機会を与えて下さったことに感謝しながら、私の心を開くためです。選挙の時期になると誹謗し、人を見下げる行動をしてはなりません。

学校は成績が優秀で、自分の学校に適切な学生を選抜することが目標です。神の国のために、教会は、誠実に仕え、奉仕する働き人を選択することが非常に重要です。長老、勧士は名誉のための職分ではありません。自身が欲するからもらえる職分でもありません。信徒の祈りの中で、主のみ前で謙虚に仕えることができる人を選ぶ必要があります。教会の宣教と福音事業を担える働き人を立てなければならないのです。奉仕の先頭に立つ信徒、すべての仕事に的確な判断を下せる知性を備えた人でなければいけません。

イエス様が悪魔の誘惑を受けながら与えられたみことばは「主を試してはならない」という強力なメッセージでした。私たちはうっかり主を試す過ちを犯してはいけないのです。3月28日公同議会が終わるまで、私たちは主のみことばに従い判断する成熟な信徒たちになりますよう、主のみ名で願います。

<祈祷>

神様のみことばで悪魔を退けたイエス様を見倣って生きていきたいと願います。私たちの偏狭な考えで、

神様を試す行動を取らない信仰を与えて下さい。神様のみ国のため、尊い働き人を立てられる知恵と

決断力を与えて下さい。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン