日本語説教

だれが私を救ってくれるでしょう

聖書:ローマの信徒への手紙 7:15-25

 

人間は誰でも人生の中で、心の戦いがあると思います。こちらの方が正しいかな、と思ったら、逆に、反対の方が正しく見えます。それで、心の中に争いが起きてしまいます。あるいは、確かに良いことではないけど、自分の利益のため、葛藤したりします。私たちクリスチャンたちもこの葛藤から自由にならないですね。いかに良い信仰者で、長い時間信仰生活をなさった方でも揺れやすい葦のように、また、暗くなってゆく灯のようになるときもありますね。しかし、これは人間の弱さのせいでおきてしまう当然なことだと思います。

 

さすがのパウロも自分の弱さを率直に語っています。

本文の15節です。「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」パウロが望んでいたことは何でしょうか。そして、憎んでいたことは何でしょうか。

19節に答えがあります。「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」

 

人間は元々良心を持って生まれるので、 誰でも良いことをしようという心を持っています。しかし、自分が良いことをしようとしても、それができるわけではありません。心には良いことばかりしようという気持ちがあっても、体が思いとおりに動きません。こんなことがもっと大きくなったら、欲張るようになり、もっともって大きくなると、けんかになってしまいます。そして、民族と民族、国と国の戦争になってしまいます。戦争の結果は生きるか死ぬかしかありません。勝ったら生きる、負けたら死ぬことです。ですから、戦争は必ず勝たなければなりません。戦争が起こらないと良いですが、もし戦争が起こると負けたら後はありません。ですから、戦争が惨めなことです。

病気にかかると「闘病する」と言います。つまり病と闘うということです。病と闘って勝ったら健康になります。負けたら?死にます。

 

信仰生活も同じです。命を得るためには戦争に勝たなければなりません。健康になるためには病と闘って勝たなければならないように、神様の律法の通り生きるためには罪の法則に勝たなければなりません。しかし、思った通りにできないですね。心は燃えても、肉体が弱いです。むしろ、肉体は神様の律法より罪の法則を好んで、もう罪の法則に慣れています。

 

韓国の笑い芸能人の中に전유성という人がいます。この方は本が好きで、たくさんの本を読むことに有名です。そして、何冊かの本を書きました。彼が書いた本の中に題目が面白い本があります。「するなというのはすべておもしろい」 「하지 말라는 것은 다 재미있다.」この題目の意味を変えればこうなります。「食べるなというのはおいしい。」「見るなというのは魅力がある。」するなというのはなぜ面白いですか。これは私たちの中にもう罪の法則があるから、そのようなことにもう慣れているからであります。それで、見るなというと見たくなるし、行くなというと行きたくなるし、するなというとしたくなるわけです。そして、ほとんどの人々はこのようなことを自分の中に隠して生きています。自分の弱いことを見せたくないようです。弱さより強さを表そうとします。悪より善を表そうとします。

 

しかし、今日私たちが読んだ本文の使徒パウロは率直に自分の姿を現しています。

本文24節です。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。」自分がいかに惨めな人間なのか自ら告白しています。世の人々は偉大な使徒だと言うし、ある人は彼を神のように思うのにもかかわらず、彼は自分自身になんと惨めな人間だと告白しています。これこそ、パウロの偉大なことであります。そして、これこそ、今日使徒パウロを通して私たちに自分自身の弱さを見させる神様の御心であります。

 

皆さんは自分に対してどう思っていますか。このぐらいなら良い信仰者だろうと思っていますか。主日をちゃんと守っているし、十分の一献金も捧げているし、このぐらい奉仕すればいいんじゃないと思っているんじゃないでしょうか。

もし、私たちがまだ可能性がある存在だと思っているなら、信仰を振り替えてみる必要があるはずです。私たちは使徒パウロと比べたら、もっと堕落した生活をしています。自分が持っている物に感謝せず、欲張りながら生きています。こうしても、まだまだ希望があるように自分を評価します。聖書は私たちにこのように教えていないのに、私たちは自らまだいいだろうと思っています。この次第が、いかに自分自身に対して、分かっていないことでしょうか。

 

信仰者が自分に信仰があるかどうか何も考えずに生きると、心の葛藤もない、生活の問題もあまり起こらないわけです。しかし、いつもイェスさまはどうなさるだろうと思いながら生きると、本当に大きな変化が起こるはずです。皆さんもこの時間、「イェス様はどんな姿勢で、態度で、礼拝をお捧げになるか」と考えてみてください。この礼拝はどうなるでしょうか。

ある日、パウロたちはテサロニケに行きました。どころが、その都市の人々は彼らに「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来た。」と言ったことが使徒言行録17章に記録されています。つまり、「世の中を覆す人々」ということです。イェス様を従う人々がいるところには変化が起こるということです。

 

今日を生きている私たちの問題は何でしょうか。私たちも信仰者なのに、私たちもイェスさまに従っているのに、世の中に変化が起こらない理由は何でしょうか。

まず、自分の無能力を認めていないからです。私たちは神様の前で、いつも無能力であることを認めなければなりません。そして、私たちは神様の前で、パウロが告白したように惨めな存在であることを認めなければなりません。私たちは到底自らの力では何もできない罪人であることを告白しなければなりません。これが、神様が私たちに求められる一つ目のことなんです。

二つ目は、自分の無能力のために落胆し、何もせずに座り込んでいるのではなく、私たちに力と知恵を与えてくださるイェス様に頼らなければならないことです。

神様はパウロを通して私たちに語られます。本文の25節です。「私たちの主イェス・キリストを通して神に感謝いたします。」

これは、私たちの主、イェス・キリストを通してすべてが可能になるということです。私たちの力と能力はただイェス様にあります。私たちにはありません。イェス・キリストだけにあります。

 

この世を生きていくとき、自分に頼ると死ぬことしかありません。自分の能力に頼ると勉強も、仕事も疲れてしまいます。心の底で何度も、何度も決心しても、肉体が弱くて結局、何もできません。ですから、私たちの弱さ、惨めさを告白せざるを得ません。本当に割れやすい姿で絶望の中で日々を過ごしていますね。

しかし、イェス・キリストを通して自分を見ると全然違います。家庭も、学校も、職場も、すべてが神様がおられる神様の神殿になります。神様がおられるからすべてが聖なる所になります。以前の自分の姿はなくなり、完全に新しい人間になります。

 

もうこれ以上、自分の目で自分自身を見ないでください。罪人の目で、律法のメガネを通して、自分自身を見ると到底可能性はなさそうです。しかし、イェス・キリストの中で、恵みのメガネで自分を見ると可能性が溢れる自分自身が発見できます。

イェス様もおっしゃいました。

「私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(ヨハネ14:12)

 

そうですね。

私は何もできませんけれども、自分自身の力では何もできない罪人に過ぎませんけれども、それで、永遠に嘆かなければなりませんけれども、イェス・キリストを信じる者はイェス様が行われた偉大な業を行うのみならず、もっと大きな業もできるようになります。

 

神殿の「美しい門」のそばで施しをいただこうとした足の不自由な男に対して語ったペトロとヨハネの言葉の通りに、今日神様は、皆さんを通して世の中に語られております。

「金や銀はないが、私が持っているものをあげよう。ナザレの人イェス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 

神様は今日も、皆さんがイェス・キリストの御名によって勝利することを望まれておられます。

教会に必要な人

聖書:使徒言行録 11:19-26

 

イェス様が天に上げられた以後、初代教会には恵まれた人々がどんどん増えました。そして、その人々によって、教会もどんどん大きくなってきました。使徒言行録7章にはステファノ、8章にはフィリポ、9章には使徒パウロ、10章にはコルネリウス、そして今日、私たちが読みました11章にはバルナバが恵みを受けた人として登場しています。

 

では、今日読んだ聖書に登場するバルナバはいつ恵まれたでしょうか。

使徒言行録4:33-37に書いてあります。

「使徒たちは、大いなる力をもって主イェスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信徒の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ-慰めの子という意味-と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」

このように、バルナバは使徒言行録4章に初めて登場しています。バルナバは五旬祭の日、聖霊降臨の後、ペトロをはじめ、使徒たちが福音を述べ伝えたとき、恵まれた人であります。彼の元の名前はヨセフでした。しかし、使徒たちが彼にバルナバという名前を付けました。新しい名前、バルナバの意味は「慰めの子」であります。そして、彼はキプロスという島で生まれて、その島に、おそらく広い土地を持っていたお金持だったかもしれません。そのような彼がみ言葉を聞き、恵まれました。それで、彼は自分の畑を売って、使徒たちの足もと、神様の御前に捧げました。

 

そして、エルサレム教会の使徒たちはこのように恵まれたバルナバをアンティオキア教会に派遣します。今日の本文22節を見てみましょう。

「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。」

 

本文のアンティオキアというところはエルサレムから北の方に500Kmぐらい離れている都市で、当時ローマ帝国で3番目に大きい都市でした。人口は約50万人、商業が発達した都市でした。エルサレムでステファノがユダヤ人に迫害を受け殉教されたことで、多くの信徒たちはエルサレムを離れ、アンティオキアへ避難して来ました。そして、アンティオキア教会を設立しました。アンティオキア教会が日ごとに成長していくうわさがエルサレムまで広がって、エルサレム教会で一番恵まれたバルナバを派遣することにしました。バルナバはさすがに恵まれた人でした。彼がアンティオキアに到着して、最初に見たのは、やはり神様の恵みでありました。

 

本文23節です。

「バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」

バルナバはアンティオキアに来て、一番さきに神様に恵まれていることを見て喜びました。彼はアンティオキアに来て、教会に何人がいるのか、何のことがあったか、どんな人が集まっているのかを見なかったです。異邦人なのかユダヤ人なのかも彼には関係ありませんでした。ただ、彼は「神様の恵み」を見ました。一番重要なことはこれです。皆さん、私たちも恵みを感じるようにならなければなりません。人に会った時でも、先に恵みを感じることが大事です。

私たち、大阪教会にもこのような恵みがあることを願います。教会に入ったら、先に恵まれて、自然に賛美があふれることを願います。御言葉を聞くときも、祈るときも、いつも恵まれる教会になることを願います。わたしたちの教会に何人集まるか、その人の中にだれだれが私のことを嫌がっているのか、誰が私と考え方ややり方が合うかより、神様の恵みを待ち望む皆さんになることを願います。

バルナバはアンティオキア教会に行って、神様の恵みが溢れていることを見て、喜んでこう言いました。23節の後半です。「固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」

つまり、強い信仰をもって、主を信じるということです。決して主から離れてはならないということです。主から離れると絶対に救われません。ヨハネによる福音書15:4に「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない。」と書いてあります。皆さん、ぶどうの枝はぶどうの木につながっているときこそ、実を豊かに結ぶことができます。魚は水の中にいるときが、一番幸せです。一番自由です。私たちはイェス・キリストとつながっているときこそ、真に自由になります。真に幸せになります。そして、喜びがあり、祝福があります。主から離れると何もできません。これが私たちの人生であります。そして、こんなことを悟ること、これが「恵み」です。

では、バルナバはどんな人物でしょうか。

24節を見るとバルナバがどんな人であるかがはっきり分かります。

「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。」

この御言葉のギリシャ語のもともとの意味はバルナバは立派な人物で、聖霊と信仰に満ちていた。だからこそ、多くの人が加えられたということです。

バルナバはこのように立派で、皆から良い人だと評価されたです。そして、彼は聖霊と信仰に満ちていた人でした。彼は口だけの人ではありませんでした。彼は神様に恵みを受けて自分の畑を売って、貧しい人を助けました。そういうわけで、すべての人々に認められた、神様の人でした。

だからこそ、バルナバによって、多くの人が神様のもとに帰えることができました。

 

皆さんも、世の人々からこのような評価を受けるようになってください。「だれだれは、本当に良い人ですね。聖霊に充満していますね。」と評価される皆さんになってください。しかし、神様に恵まれた人は自分が恵まれたとあまり言わないですね。ほかの人から、あの人は本当に恵まれた人だと認められるからこそ、恵まれた人です。皆さんもほかの人から信仰を認められる聖なる信徒になってください。

 

しかし、今日の御言葉の中に最も重要なことがあります。それは恵まれたバルナバの役割で、使徒言行録9章から確認できます。9章26-27節です。

「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイェスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。」

使徒パウロは元々イェスを信じなかった人で、信じる人を迫害し、ステファノが殺されるときステファノに石を投げる人々の着ていた物を預かっていた人でした。そして、ステファノの殺害に賛成していた。と聖書は語っています。また、主の弟子たちを殺そうとして、ダマスコまで行こうとした人でした。そうだった彼が、ダマスコに行く途中、イェスに出会いました。そして、彼は変わりました。このうわさはエルサレムの信徒たちもすでに聞いていました。にもかかわらず、弟子たちはパウロと会おうとはしませんでした。彼は私たちと仲良くできない人だと思いました。それで、誰も共にいなかったのです。彼は恵まれたのにもかかわらず、誰も認めてくれませんでした。そのとき、バルナバがパウロを連れて、エルサレムの使徒たちのところへ行きました。そして、使徒たちに「この人は恵まれた人だ」と言いました。バルナバは、既にエルサレムの信徒たちや使徒たちに認められたし、尊敬されたし、愛されたから、バルナバの話は信用できました。

ついに、パウロとエルサレムの弟子たちの交わりが始まりました。使徒言行録9:28節を見ると「それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。」ついに、パウロはエルサレムの使徒たちと共に神に仕えることができました。そして、ギリシャ語を話すユダヤ人にイェスを伝え始めました。

このようなことを誰が行いましたか。背景に誰がいますか。バルナバです。イェスを嫌がったサウロがイェスの使徒であるパウロにさせた人はバルナバでした。もしかして、バルナバがいなかったら、どうなったんでしょうか。使徒パウロの偉大なわざは、どうなったんでしょうか。もし、そのようなことがなかったとしたら、私たちが今イェス・キリストの救いの福音を聞くことができたんでしょうか。

 

本文、25-26節です。

「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」

バルナバがサウロと共にアンティオキアで、丸一年間教会を仕えまして、初めてキリスト者と呼ばれたこと、これが驚くべきの神様の御業であります。

神様に恵まれた人々が共に働くところに、もっともっと神様の恵みが溢れます。そのような人々がたくさん、たくさんいるところには心配や悩み、そして争いなんてあるはずがありません。

 

バルナバは恵まれた人であります。彼はその恵みを純粋な献身で神様に返しました。そして、自分よりサウロを前に立てました。一番大事なことは恵みだと信じて、自分の名誉や権力、財産よりも、神様の業をもっと、もっと大事にしました。そういうわけで、使徒パウロも神様の働きができたのです。

私たち、大阪教会にもバルナバのような人が必要です。神様にいただいた物を神様に捧げる喜びがある人、自分よりもほかの人を高める恵まれた人が必要です。神様はこのように恵まれた人を通して、働かれます。そのような恵まれた信徒が私たち、大阪教会にも溢れることを願います。

 

お祈りしましょう。

私たちを愛してくださる天の父なる神様!神様の限りない恵みを感謝します。私たちは神様の御前で、いつも罪人に過ぎませんが、私たちの罪をも知らずに日々の生活を過ぎました。私たちが持っているすべての物が神様からいただいた物なのに、感謝せずに、むしろ欲を張りました。どうぞ、お許しください。そして、イェス様が「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とおっしゃいましたにもかかわらず、他人よりもって高いところを望みました。どうぞ、お許しください。私たちの生活が地の塩、世の光としての生活ができるように導いてください。四旬節を過ごしている私たちがもっと敬虔な信仰を持って、イェス様の苦難の道を共に歩むことができるように導いてください。自分自身の利益ばかりを望む人ではなく、バルナバのように他の人を前に立たせる謙遜な信仰者になるようにしてください。

私たち大阪教会がバルナバのような信仰を持って、お互いに愛し合い、仕えることができるように導いてください。 主イェス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン

2016・12.18                         朴 喜煥 牧師

聖書:マタイによる福音書1章18節-23節

題名:「神は我々と共におわれる」

 

(新共同訳)

18.イエス․キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

19.夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

20.このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

21.マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

22.このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

23.「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 

(説 教)

今日のメッセージの前に少し、ご報告させたいことがあります。

今月、諸職会でもお知らせましたが。私は、12月末で、

大阪教会を辞任いたします。今週の週報にも正式に載せました。

 

振り向いたら、2011年2月27日でした。そこから約6年の年月が流れました。大阪教会は、私にとっては神学校を卒業して初めての牧会地として大変、恵みの時間でありました。

何よりも、皆さんのお祈りと支えと配慮のお陰だと思います。

途中には、自分の一身上のことで、15か月間も、病院に入院する事もありました。

退院後リハビリを今も続けてまいりましだが、2度も、足首の骨折と捻挫により、やっと杖で歩けたのが、今は車いすに戻ってしまいました。

今の現状では、教会も皆さんにご迷惑だし、自分の今後の事を考えた上で、健康を回復することに専念しようと決めました。

あくまでも個人の都合として大変、申し訳なく思っております。

 

今回長い病魔の中で、体で体験した聖書の言葉があります。ヨブ記1章21節の言葉、「主は与え、主は奪う、主の御名はほめたたえられよ」の言葉を、もっと信じたくなりました。

主は与える方!主は奪う方!

自分が計画しなかったことも、予想外のことが、私たちの人生にたくさん訪れます。

その時、神のみわざの中に居ることを気づいてください。

そうではなかったら、苦しむ時間が長くなるだけです。

 

さいわい、私たちクリスチャンはどんなことでも、耐える力があり立ち直るのが早いです。

特に、御言葉による慰めは大変、大きいし落ち込むより、勇気が湧いてきます。

 

今日のメッセージは、すでに旧約時代イザヤとエレミヤが預言者として活動する時から予告されてきた救い主が、新約時代の入り、いよいよマリアという処女を通して展開します。

ご存じのように受胎告知はマタイとルカの二つの福音書に、それぞれの視点から記されていますが、

マタイによる福音書は、父として選ばれたヨセフを軸として、

ルカによる福音書では、母として選ばれたマリアを軸として話しをしています。

 

今日の本文では、すでに、マリアには用が済んだ主の天使が、ヨセフの夢に現れ、御子について語ったことです。

 

この時間、この世に来られる主イエスキリストの本来の真理を

確かめたいです。

まず、14節に「イエス․キリストの誕生の次第は、次のようであった。母マリアは、ヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって、身ごもっていることが、明らかになった。」

ここで一つ問題は、二人が一緒になる前に身ごもったことでした。

 

当時、法的には12歳から結婚が許され15、16歳で結婚する者が多がったそうです。

現在の視点から見れば、この年でこのような大きな出来事を乗り越えることは大変、厳しい現実だったと思います。

でも、彼らはへりくだって神に服従する強い信仰心があったでしょう。

 

このような大きな神の計画に用いられた、夫ヨセフは正しい人でありま

したが、人間本来の本性をそのまま、現わします。

まだ、結婚もしてないのに、処女が身ごもつのは、

ユダヤの慣例では、許さないことだし、ひそかに縁を切ろうと決心

をしました。あくまでも、ヨセフの立場から考えますと、十分理解

が出来ます。

 

待降節に入り、イエスのご誕生をみんなが喜んで待っていますが、

当時のマリアとヨセフには、どれほど、大きな悩みの種だったで

しょうか!

 

まだ、処女であるマリアの立場では、何一つ言葉で言えない、

暗闇の底に落ちて怖かったと思います。

石に殴られ殺されるかもしれないと恐怖を感じたでしょう!

 

ヨセフの夢に現れた主の天使は、「恐れずマリアを迎え入れるよう」と

告げました。

ヨセフの信仰の中には、すでに「預言者イザヤのメシア到来」を信じていたと思います。

イザヤ書 7:14には、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」この言葉を、思い出したかもしれません。

 

もしかしたら、天使のこの言葉を信じたでしょうか!

「マリアの胎の子は、聖霊によって宿った」と、

何よりも、ヨセフは世の悩みや苦しみを解決するにあだって、賢明な人でした。

 

聖書には、この後のことについて詳細な記録はないですが、

ヨセフは、 恐れずにマリアと結婚し、自分の家につれて来て

両親を始め、兄弟姉妹や親戚、近所の人々より、無数の非難を受けられたでしょう。

しかし、ヨセフは自分がどんな苦しみを受けても、マリアを守り続いていながら、すべてを、神に委ね、神のご計画を純粋に従かったでしょう。

 

この出来事で、三つの真理を確かめ、必要があります。

一つ目の真理は、「イエスは、聖霊によって生まれる。」真の神であることです。

 

そして、二つ目の真理は、神の子の霊がマリアのお腹を通して、神の神格から人に変わり、人格も持って、お生まれになったことです。

もっと、言えば、イエスの誕生は神の霊が肉身になって、私たちと同じように人間の姿で来られたのです。そうして、インマヌエルになってくださったことです。

 

肉身の父の代わりに聖霊によって、お生まれたイエスは、罪人である

私たちとは、違い、罪がない人として、この地に来られました。

これが、神の新しい創造であり、人類を救う、聖なるみわざの始まりでありました。

 

三つ目の真理は、十字架の上で私たちの罪が、贖ったことです。御子イエスは、この目的を成し遂げるために天から来られました。

21節に「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を、罪から救うからである。」とあります。

自分の民は、神様が選んでくださった民、私たちです。

イエスキリストを信じ、罪が赦された私たちです。

ですから、私たちはイエスに似た、人格を学ぶべきであります。

さらに、イエスはこの地に光として来られました。

私たちは、暗闇を拒まないより、光を受けることを考えましょう!

もっと、霊的にイエスキリストがメシアであることを確信しましょう!

 

待降節! 第4週目の火を灯しました。

この時、皆様はどのようなお気持で、過ごしていますか?

 

2016年末頃、私たちの目に見える現実を少し言わせますと

特に、この時期は社会全体が浮いているように見えます。

教会の中も、いろんな、行事の準備で、忙しいし、会社でも、忘年会や同窓会などで、時間が足りないほど急いています。

本当に、喜びが絶えないこの時期に祖国韓国では、悲しいニュースばかりで、がっかりします。

この先が、どうなるか!予想がつかないのです。神が憐れんでくださること切に、切に、祈りばかりです。

 

もう一つ、この時期になりますと、韓国の政府では、クリスマスを迎い、受刑者の中で、特別赦免をする制度により、

罪を犯して刑務所にいる受刑者が、その中の生活がまじめで、模範になったら、検討した上で、刑務所から出させてくれることがあります。

罪人である者が、罪をつぐない、その罪が赦され、自由に刑務所から出る瞬間の喜びは、どれほど大きな喜びなのか、粛々考えて見ますとまさに、私たちクリスチャンが感じるべき、喜びにふさわしいことだと思います。

 

私たちの罪のために、この地に来られたイエスは、すべてを成就されました。

今は、再び、来られる主が、いつ、どこで来られても、すなおに、迎えることが出来る私たちであることを願います。

 

今年も、一生懸命に信仰生活をなさった皆さん、

「神は我々と共におられる」この御言葉を信じ、

来年も、平安で、喜ばしい時を、過ごせますように。

 

(祈り)

天の神様!感謝致します。

今年も主に守られ、こんにちまで、来られることができました。

この地で行うすべてのことが主の計画の中で成就されますように

主イエスキリストのみ名によって、お祈りいたします。アーメン!

 

 

 

 

 

 

平和の王、イェス・キリスト

聖書:ミカ書 5:1-5

 

韓国の小学生に「クリスマスの意味」について聞いてみました。64%が「サンタさんの誕生日」だと答えました。クリスマスというと何がさっきに思い出すのか聞いたら、89%が「サンタさん」と答えました。クリスマスに一番やりたいのは何か聞いたら、1位が「クリスマスツリー飾り」、2位が「映画を見る」、3位が「教会へいく」、4位が「カードやプレゼントの交換」でした。

どう思いますか。一体クリスマスは何の日でしょうか。クリスマスはキリストの日を意味するラテン語から由来されました。Christ-masですね。 Christとmas、二つの言葉が合わせて、一つの言葉になりました。前のChristはキリストです。そして、後のMasは日を意味するラテン語です。つまり、クリスマスはキリストの日です。漢字にしても「聖誕節」です。聖なる御子がお生まれになった日が聖誕節です。聖誕の主人公は誰でしょうか。確かに、イェス様ですね。ですから、聖誕節は主に栄光を捧げる日にならなければなりません。

 

このイェス様は今、預言者ミカによって800年あと、イスラエルの王としてお生まれになると紹介されています。そして、故郷も紹介されています。

本文の1節です。

「エフラタのベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

ベツレヘムはエルサレムから南の方に7Kmほどはなれた、本当に小さな村です。その小さな村から「イスラエルを治める王」が生まれると預言しています。イスラエルを治める者はだれですか。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼると言っていますね。古いですが、どのぐらい古いでしょうか。これは、天地創造の以前のことを意味します。昔から、初めからおられる方はだれでしょか。イスラエルを治める方は誰でしょうか。これはイェス・キリストです。イェス様は初めからおられるし、天地創造以前からもおられます。

ヨハネによる福音書1章1-3節は私たちにこう言っています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」ここで言はイェス様を意味します。このイェス様は神であり、このイェス様が初めに天地万物を創造なさったとはっきり言っています。預言者ミカは今、このイェス様がベツレヘムから出ると預言しています。

 

どころが、マタイによる福音書にはミカの言葉をこう引用しています。2章6節です。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」少し違いますね。ミカは小さいものと、マタイは小さいものではないと表現していますね。なぜでしょうか。イェス様が生まれる800年前は本当に小さな村でしたが、時間が経ってイェス様が生まれるごろには大きな町になったんでしょうか。どうしてマタイは小さいものではないと言ったんでしょか。

実際にベツレヘムは、今もあまり大きい村ではありません。さらに今のベツレヘムはパレスチナに属していて、すべての物はイスラエルを通る方法しかありません。それで、生活の環境がすごく悪いそうです。しかし、全世界の人々は今もこの小さな村を観光に訪ねて来ます。この村は訪ねて来る人々に、もう小さい村ではありません。本当に有名な、大きい村になりました。この村が有名になったのはイェス様のおかげです。イェス様がこの村でお生まれになったから、有名になりました。そして、マタイはベツレヘムに対して決して小さいものではないと言ったわけです。

 

では、イスラエルを治める王であるイェス・キリストが誕生なさった理由を見てみましょう。

本文4節です。「彼こそ、まさしく平和である。」

彼は誰でしょか。この預言を語ったミカは彼が誰か、全然知らなかったはずなんですが、私たちはみんな知っていますね。誰ですか。そうです。イェス・キリストです。イェス様が平和であるというのはイェス様が平和の王として生まれたことです。ですから、イェス様が誕生した日に天使たちは歌いました。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

平和、平安はヘブライ語で「シャロム」と言います。「シャロム」は精神的にも、肉体的にも、物質的にも満たした状態を言います。イェス様は弟子たちに「その家に入ったら、「平和があるように」と挨拶しなさい。」と言いました。そして、ヨハネ14章27節にはイェス様が与える平和は世が与えるように与えるのではないと書いてあります。つまり、聖書が語る平和は神様と人間の間の和平から得られる平和です。イェス様が与える平和は罪を犯した人々や、人生の道に迷っている人々が神様に帰ってきて、神様と和解することによって得られる霊的な平安です。

神様と和解する前には、私たちはこの平安を味わうことができません。

真の平安はただイェス・キリストだけを通して与えられます。それで、イェス様はこの平和のために神様と人間の間に和解の捧げ物になりました。イェス様は自ら捧げ物になりました。

旧約時代には和解の捧げ物として家畜を捧げました。羊や牛を屠って、血を流し、各部に分割して、清く洗った後、祭壇に乗せて、燃やして神様に捧げます。それが旧約時代に神様と和解するための犠牲でした。ところが、その捧げ物の祭壇にイェス様が上りました。捧げ物のように両手と両足に釘を打ち込まれて、やりに刺され、血を流しました。イェス様の十字架の死は神様と私たち人間の間を和解させるためでした。イェス様の死がなければ私たちは神様と和解することはできません。そして、神様と和解できなければ真の平和になることは、全然できません。

イェス様は私たちにこの平安、平和を与えるためにこの世に来られました。そして、今日もイェス様は私たちに平和を与えるために祈っています。今日、共に礼拝を捧げている皆さんもイェス様から与えられる平和を味わうことを願います。

 

そして、イェス様が誕生したのは私たちを救うためであります。

本文5節の最後です。「彼らが我々を救ってくれる。」

イェスという名前の意味は何ですか。マタイによる福音書

1章21節に書いてあります。イェスの意味は「自分の民を罪から救う人」であります。罪から救うことができる人は、ただイェス・キリストしかいません。

中国の公子も、シャカムニも、ソクラテスも私たちを罪から救うことができませんでした。彼らは自分の罪も解けなかったんです。彼らもこの世のある人とまったく同じように土に戻りました。ただイェス・キリストだけが私たちを罪から救ってくださる方であります。

 

神様は神様が選んだ民族は必ず救ってくださいます。

ノアの洪水の時にはノアの家族を救ってくださいました。

ソドムとゴモラではロトと2人の娘を救ってくださいました。

エジプトで430年間僕のようにいたイスラエルの民を救ってくださいました。

エリコ城が崩れ落ちた時にはラハブとその家族を救ってくださいました。

そして、最後の裁きの日、皆さんとわたしを救ってくださいます。

 

私たちを救うためにイェス様は来られました。神の高いところから、この世に降って来られました。私たちを救うために神様は独り子イェスを死なせました。奉げ物のようにずかずかに裂かれました。それで、私たちは救われました。イェス様はこの世に、死にに来られたんです。

 

そのイェス様が私たちに来られました。2週間あと、イェス様が私たちに来られた聖誕節です。私たちを救うためにベツレヘムの飼い葉桶に来られました。私たちは罪から救われたから、イェス様が来られたのが嬉しいです。イェス様が死にに来られましたが、私たちは喜びます。

しかし、いつからか、聖誕節の主人公が変わってしまいました。イェス様を知らない人々はクリスマスに、もっともっとお金をもうけるためだとしても、私たちクリスチャンも聖誕節の主人公を変えてしまいます。教会でも聖誕節になったら、イェス様よりサンタさんがもっと歓迎されます。イェス様の話を聞くことより、サンタさんが登場したら、もっともっと喜びます。赤い服を着て、赤い帽子をかぶって、「울면안돼」「泣いてはいけない」と歌に合わせて踊ります。泣いてはいけない理由は何ですか。サンタさんからプレゼントをもらえないからだそうです。日本も同じです。「あなたからメリー・クリスマス、私からメリー・クリスマス」どうしてですか。どうしてメリー・クリスマスですか。Santa Claus is comin’to town.サンタさんが私たちの村に来るからメリー・クリスマスだそうです。イェスが来られるからではなく、サンタが来るからメリー・クリスマスだそうです。

ChristのMas、Christの日なのに、サンタが来るから嬉しいクリスマスだそうです。その歌が教会の中で鳴り響きます。「真っ赤なお鼻のトナカイさんは」と歌いながら、イェス様ではなく、サンタを待ち望みます。頭の上に円の形の物を飾って、背中にツバサをつけて、白い服を着た子供たちが踊ります。しかし、聖書の中の天使はそんな姿ではありません。聖書の中の天使はいつも人間の姿です。これこそ、サタンが狙(ねら)っていることです。サタンが 真理を押し曲げたことの中で成功したのがドゥリャキュラです。ドゥリャキュラが嫌いのは何ですか。光、ニンニク、そして十字架。十字架を見せるとドゥリャキュラは消えてしまいます。これがサタンの巧妙なことです。私たちがサタンと戦って勝てる力は何ですか。十字架ですか。イェス・キリストですか。イェス・キリストですね。イェス・キリストの血の力です。十字架にかけられたイェス・キリストの力です。しかし、どドゥリャキュラはイェスが抜かれた十字架だけでも消えてしまいます。本当に基督教的、聖書的に見えますが、絶対にそうではありません。

 

今日は聖書主日であります。私たちは聖書をとおして神様の心を知ることができます。神様は独り子イェスを平和の王として私たちに送ってくださいました。私たちはそれを聖書を通して分かります。しかし、聖書を神様の意志を私たちに伝える本ではなく、自分の好みにしたがって読むと、私たちは神様の意志を絶対に分かりません。私たちはイェス様がどうしてこの世に来られたか、また、イェス様がこの世に来られたのがどうして私たちに喜びになるかを聖書を通して分かります。

 

イェス様はユダのベツレヘムで生まれました。

イェス様は私たちに永遠の命を与えるためにその場所で生まれました。

イェス様は平和の王として生まれました。

イェス様は神様と私たちの間に和解の捧げ物になって、十字架で死ぬことによって、私たちに真の平和を与えました。それで、私たちは真の平和を味わうことができます。イェス様以外には平安はありません。

私たちはクリスマスを本当のクリスマスに戻さなければなりません。キリストの日に戻すことによって、真の平和を享受することができます。聖書が私たちに教えてくださる神様の心を分かって、平和の王であるイェス・キリストによる真の平和を享受してください。

 

2週間後、平和の王として来られたイェスさまの誕生を喜びをもって真の平和を享受する皆さんになることを願います。

2016・11.27                         朴 喜煥 牧師

聖書:エレミヤ書33:14-17

題名:王座につく者

(新共同訳)

14.見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。15.その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。16.その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。17.主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。

(説教)

あっというまに、時がながれ、2016年の待降節を迎えるようになりました。今日からメシヤである主イエスキリストが、ご誕生なさる日を待ち望むことであります。

私たちの普段の生活の中で何かを求めて待ち続く習慣に慣れているかもしれません。待つことには、二つの大きな真理があります。一つ目は、待ち望んでいたことが成就される時の幸せです。二つ目は、待ち望んでいたことが来たるにもかかわらず、気づかなかった時の不幸です。

ユダヤの人々はすでに、預言されたメシヤが世に来られたにも気づかず、教えても知らず、拒否しました。でも、神様は預言者を通して暗闇に落ちたユダヤの民族に希望を与えてくださいました。今日の御言葉を通して待降節の霊的な意味が充満になることを願います。

待降節はご存じのように主イエスの誕生、キリストの到来、すなわち、クリスマスへの備えをする時期を言い、教会では「アドベント」と言います。このアドベントはAD4世紀からキリストの聖誕を祝って来て7世紀に入ってからはキリストの来臨も加えて守って来ました。アドベントは、神のアドベンチャーでも言えます。

神が敢えて私たちのところに来ておられ、すでにご自分の命をもって私たちに救いを与えておられました。その意味で私たちはすでに、恵まれている者なのです。ですから、「待降節」と言いますが、私たちが待つというより「神が」先立て到来し待ちつづけておられることを私たちが気づくことです。

旧約の昔から延々と予告されてきた救い主が来られるこの待降節、皆さんは、どの様なお気持でお迎えていますか?今週から待降節の灯が、一つ一つついて行くうちに希望と平和と愛と喜びに、満ちた素晴らしい日々になることを祈ります。

今日の本文はエレミヤ書33章14節-17節であります。

まず、14節に「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来ると主は言われる」とエレミヤは述べています。先にエレミヤ書33章の1節を見て見ますと「主の言葉が再び、エレミヤに臨んだ。このとき彼はまだ獄舎に拘留されていた。」とあります。エレミヤはこのとき獄中にいたのです。

このあたりの事情は、「バビロン帝国によってユダが滅びるであろう」とエレミヤが預言をした時に、ユダの王ヒゼキヤが、「なぜ、お前はこんなことを預言するのか」と彼を逮捕しました。

しかし、彼は獄中で、ひとつの幻を見ます。そこで描かれていることは「エルサレムの回復」でした。それは、まことの平和であり神さまの赦しによって、人々が生かされている姿でした。エレミヤはこのようなまことの平和の幻をひとつの頂点として今日の本文を述べたのです。

現実的には、今エレミヤ自身は大変苦しい状況にいます。それと共に、ユダの国も苦しい状況に置かれていました。いつも周りの国々から脅かされていました。このエレミヤ書の全体から見ますと、ユダの国がエジプトに頼ろうとすることに対してエレミヤは断固反対でした。バビロンが攻めてくる時、人々は自分たちの生き延びる道を模索していました。その時エレミヤは、神様の御心に帰えるよう繰り返し叫びました。むしろ、バビロンに降伏するように示しました。

15節に「その日その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」と神様の約束の言葉を聞きました。エレミヤはこの言葉を信じてユダの国を平和の道に導いたのです。16節に「その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」とここで救い主、到来の預言をはっきりと命じました。この預言は、大変印象的な言葉であり、イザヤ書にも共通する言葉です。『主は我らの救い』という預言は、およそ500年を経て、ベツレヘムの町に幼子イエスがお生れになります。

このイエスという名前は、ユダの国では比較的ありふれてよくつけられる名前であったようです。イエスは、もともとヘブライ語ではヨシュア、それは「ヤハウェは救いである」という意味です。イエスという名前は、まさしくエレミヤが預言したとおりの名前なのです。

今日から待降節に入りましたが、今の時代も、当時と同じく混乱であります。特に、韓国の政治家に対する不信感と社会の不安が大きくなっています。また、世界各地では争いが絶えず、時代はますます暗闇に落ち恐れています。

神があえて御子を遣わしたのは、私たちが生きるためです。神が、永遠の隔たりを遥かに越えてやって来ておられ、人となって十字架につけられ血を流して死なれたほどに、その全能をもって来られました。皆さん、イエスがメシヤだと最初に話した人は誰でしょうか?最初に、話した人は洗礼者ヨハネです。 ユダヤの歴史の中には、中間期歴史があります。旧約と新約の間のことです。旧約のマラキ書を最後に、預言の声が消えてしまいます。

ユダヤの人々は、預言者を通して神の啓示を聞いても変わらず、迫害いしたり殺したりもしました。その暗闇の時が流れた後に、真のメシヤが来られたと大きな声で叫んだのが、洗礼者ヨハネでした。“メシヤも来ない、預言者もいない時代、彼らに大変苦しい時と寂しい時が続いていた末、いきなり洗礼者ヨハネが現われ「悔い改めよ、天の国が近づいた」と宣布しました。さらに、ヨハネは水で洗礼を授けました。この行為はメシヤがすることなのにヨハネが行っていたわけです。ですから、多くの人はヨハネがメシヤではないか!と言いながらヨルダン川に集まりました。

彼らは先祖から待ち望んでいたメシヤが来たと思い喜んだでしょう。ヨハネは自分がメシヤではなく、私の後に来る方がメシヤであると伝えました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と彼らにメシヤを紹介しました。

これでヨハネの役割は終わりますが、一つ、逃してはいけないことがあります。マタイによる福音書11章2節に、ヨハネは牢の中で、自分の弟子たちをイエスに送り、「来るべき方はあなたでしょか。それともほかの方を待たなければなりませんか?」と疑う場面があります。イエスがメシヤだと叫んだ彼自身が、メシヤの存在について疑いました。もちろん、牢の中で死を待っている状況だと言っても、あんまりも弱げになったヨハネに同情さえなくなります。ヨハネは、神の子であるイエスがこの世に来られ、メシヤの歴史が始まるよう準備した本人としてこれからメシヤの助けと導きに期待が大きかったかもしれません。

ヨハネは当時の社会に向けて正義を持って、怖いもの知らずの厳しいメッセージを続けていたので、ついに領主ヘロデの私生活まで触れてしまいました。ヘロデが、自分の兄弟の妻ヘロデイアを姦淫したことについて悪口を言ったのです。誰もがヘロデ家の権力に言えない時、ヨハネの言い付けは許されることは出来なかった。結局ヘロデイアが娘を唆して、ヨハネの首を切ってしまいまし。

ヨハネも一人の人間として牢獄の中で、死に対する不安と、メシヤに対する期待と葛藤で、再びメシヤの存在を確認したかったでしょう。これは私たちが信仰者でありながら、自分が信じている神が真で有一の神なのか、それとも、ほかの神を頼らないといけないのか!迷う私たちとかわりはありません。

イエスの答えは「わたしにつまずかない人が、幸いである」と言われました。いったい、どういう意味ですか?ヨハネは預言者としてイエスを正しく伝える役割だけで十分であり、イエスはメシヤとして役割を果たすのが、神のご計画であることを悟らせます。ヨハネの死は悲しいけれど、イエスはもっと残酷な姿で、ご自分の役割を果たしました。この出来事を信じるか信じないかによって、私たちの信仰の深さが問われると思います。

この世に来られたイエスは「預言者は預言者が歩む道があり、メシヤはメシヤが歩む道がある。」ことを教えてくださいました。イエスもヨハネも、この世で死なれたことが、失敗ですか?

私はそう思いません。今、待降節に迎い、神に礼拝を捧げることが出来たのも、すべて自分の役割を果たした方がおられたお陰様です。この待降節に王座につく者イエスがこの地に来られ、なさったことを信じ、私たちは、何をすべきか、考える時になることを願います。

 

 

 

永遠に受けられる祝福

聖書:サムエル記下 7:27-29

 

韓国人は祝福されることが本当に好きな民族だと思います。お正月になると何と挨拶しますか。「새해 복 많이 받으세요.」と挨拶しますね。「お正月に祝福されますように。」ぐらいの意味です。わたしの子供のころは布団や枕に「福」の字を書いて入れたりしました。スプーンにも「福」を書いておきました。さらにほそ~いお箸にも「福」という複雑な字を書いて入れました。

韓国人だけじゃなく、世の人々は祝福を受けることを望んでいるようです。「福」という字をあちらこちらに書いておくと祝福が受けられるだろうと思います。そして自分が熱心に探したら得られるだろうと思います。それで、お正月に「祝福されますように」と挨拶したり、あちらこちらに字を書いて入れたりします。しかし、だれも、自分が祝福されるかどうかはわかりません。

皆さんも祝福を受けたいんですか。皆さんに祝福がありますよう願います。しかし、祝福がどこから来るのか分からないと受けられるでしょうか。そして、その祝福が何のものか分からないとどうなるでしょうか。ただ、「祝福」を受けたいという望みだけではないでしょうか。

今日、私たちが読みましたダビデの祈りを通してダビデが望んだ「祝福」を分かち合いたいと思います。

 

ダビデの祈りは18節から始まっています。このダビデの祈りを三つに分けて考えて見ましょう。

まず、ダビデは自分に対して謙遜な姿勢を持っています。

18節は「何故、わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。」と祈っています。ダビデの前の王だったサウルは謙遜な人でした。しかし、王になった後、謙遜を失(うしな)ってしまいました。逆に、神様より人々の視線をもっともっと大事にしました。結果は皆さんがよくご存知のようにサムエルから「王位から退けられる。」と聞きました。そして、死ぬ直前までダビデを殺そうとして、一生、追いかけばかりしました。このように神様は謙遜な人を見守ってくださいます。皆さんもダビデのように謙遜な人になってください。謙遜な人に神様は祝福してくださいます。

 

次に、ダベデは神様の恵みに対して大きく讃えています。

22節です。「主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。」神様はダビデを高めました。預言者ナタンを通して神様がダビデの名を地上の大いなる者に並ぶ名声を与えると言いました。ダビデが死んだ後でもダビデの子孫たちによって王座をとこしえに堅くしてくださると約束しました。ダビデはその神様を賛美しています。けれども、ダビデは、神様が自分を高めてくださったから賛美しているのではありません。私たちは、神様の恵みに感謝して賛美したり、栄光をささげたりしますが、ダビデはそうではありません。神様の命令もなかったのに、神様のために、神様が住むべき家を建てて捧げたんです。詩篇にあるダビデの詩を見るとよく分かります。23篇は皆さんがよくご存知のように神様を賛美する詩篇です。けれども、34篇は「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。」と記録されています。どうして、アビメレクの前で狂気の人を装わなければならないでしょうか。ダビデは住むところがないので、アビメレクに行きました。ですが、アビメレクが自分を疑っていると感じて、自分の命を守るために選んだのが狂気の人のふりをすることでした。どれほど危険な状況ですか。それでも、ダビデは「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」と歌っています。

皆さん。賛美ということは一体何でしょうか。皆さんは賛美というのは何だと思っていますか。わたしは、おもしろいことに、本当の賛美する様子を北朝鮮の人から見ました。テレビで北朝鮮の画面が出るとき、時々、人々が真っ赤の花を振る様子を見たことがありますか。その花の名前を知っていますか。その花が「김일성はな」だそうです。北朝鮮で新しく作った種類だそうです。花の話をするつもりではありません。その花を持っている人々の様子を見ると、ただ、叫びだけです。叫びながら、花を振り、さらに涙を流すことまでします。わたしはこれが賛美だと思います。誤解しないでください。残念なことに、北朝鮮の人々はどんでもない人を賛美していますね。だから、かわいそうです。ただ、賛美を捧げる方に、叫びながら、涙を流すのが本当の賛美ではないでしょうか。神様だけ、神様を思うことだけで、胸を打たれ、ありがたい、感謝し、自然に涙が出るとき、口から出る一言、「わが神様、わが父よ」ほかに何の言葉が要るでしょうか。どんな言葉も要らない一言で、私たち神様は喜ばれるでしょう。

愛する皆さん。口だけの賛美ではなく、神様がわたしに何をくださったか、考えながらする、そんな賛美ではなく、ほん~とうの賛美を神様に捧げてください。そのような賛美こそ、神様を喜ばれる、そして、わたしたちに豊かな恵みを与えられる賛美になるわけです。

 

その後、ダビデは神様に祈り求めます。

しかし、むやみに求めませんでした。27節を見ましょう。「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、「あなたのために家を建てる」と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。」 祈りをささげる勇気ができたのはなぜですか。神様がわたしの家を建ててくださる、と約束なさったから、その約束のもとで、わたしに祈りをささげる勇気ができました。と言っています。

わたしたちの祈りの中でよく間違うのは自分自身のことだけを言って、終わってしまう祈りです。「神様、これもください。あれもください。それはわたしに絶対に起こらないように…」このような祈り、どうですか。もちろん、このような祈りも大切です。しかし、ダビデの祈りのように、求めるときにも、神様がおっしゃいましたから、そのことばに頼って祈り求めます。と祈るべきだと思います。

何年か前、韓国のテレビで「미녀들의 수다」という番組がありました。翻訳したら、「美人たちのおしゃべり」ぐらいかな。外国から来た女性たちが韓国のいろんな経験を話す番組でした。その日は韓国の不思議なことについて話していました。その中で、子供が受験生なら、親も受験生になるという話題でした。韓国人にとっては当たり前のことですが、外国人にとっては不思議なことだったようです。 韓国では受験が100日ぐらい残った日から早天祈祷会に出席する信徒たちが増えるそうです。子供たちが受験に合格するために特別祈祷会を開きます。隣の寺では100日間供養をしています。このような祈りばかりしたら仏教と何が違いますか。天地万物を創造なさった神様と、悟りを得た人を従うのが全然違いません。私たちは、まず、神様の御声を聞かなければなりません。神様のしずかにささやく声を、逃さず聞かなければなりません。そうしてこそ、私たちが何をするべきか、また、何を求めるかがはっきり分かります。

 

では、ダビデが何を求めたかを見てみましょう。29節です。「どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。」

何を求めていますか。祝福を求めていますね。私たちと同じように見えます。しかし、よく見ると、僕の家を祝福し、とこしえに、御前に、永らえさせてください。と求めています。僕の家にお金がなくならないように、食べる物がなくならないように、敵が手を上げられないように、求めるのではありません。ただ、主の御前に、とこしえにいることを求めています。ああ、ダビデは本当に恵みあふれる人で、祈りも現実的ではなく、霊的なことだけを求めるんだ。と思われるかもしれませんが、よく見るとダビデの祈りこそ、本当に現実的な祈りだというのが分かります。

むかし、韓国の母親たちは家族のために、清い水を一杯持っておき、祈りました。そして、道の中、木の下に小さな石を載せて祈りました。すべてのことがよくなるように。形が珍しい岩があれば、その岩の前で祈りました。村の前に、大きい、古い木でもあれば、絶対切ってはいけません。人々はこのようなものを通して自分の祝福を求めます。しかし、そんなものから祝福が受けられますか。事故が起こらないように守ってくれますか。

天地万物を創造なさった神様、この世を支配しておられる神様。ダビデは今、その神様の御前にいるようにしてくださいと求めているんです。神様が世界を造られたのに、そして、神様が世界を支配しておられるのに、その神様のそばにいるだけですべて解けるのではないでしょうか。お金を求めることより、食べ物を求めることより、敵が手を上げられないと求めることより、もって現実的な祈りではないでしょうか。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝だ」とおっしゃいましたイェス様、「枝が木につながっていれば、豊かに実を結べる」とおっしゃいましたイェス様、ただ、つながっているだけで、たくさんの実が結べるのに、どんでもないところで、現実的なことだと言いながらどんでもないことを求めるんですか。飼い主であるイェスさまが青草の原、清い泉に伴ってくださるのに、飼い主であるイェス様だけを従うと良いのに、心配しているんですか。

 

ダビデのように祈ってください。ダビデのように求めてください。神様の御前で謙遜な信仰人になってください。神様にまことの賛美をささげてください。神様に祝福を求めるが、腐ってしまう祝福ではなく、神様と共に、永遠に受けられる祝福を求めてください。神様の御前で、大きな恵めに囲まれる皆さんになることを願います。

 

2016.10.16                      朴喜煥 牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙6:6-14

題名:霊から永遠の命を刈り取る!

(新共同訳)

6.御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。

7.思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。

8.自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。

9.たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

10.ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

11.このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。

12.肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。

13.割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。

14.しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス․キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

(説教)

やっと、暑い夏が過ぎ秋を感じることができる日になれました。毎年、この時期になると農家では、2種類の刈り取り屋が登場します。 嬉しくて明るい笑顔をもった収穫の人と悲しくて心配そうな収穫の人がいます。今年も例外ではありませんが、台風の被害を受け収穫するものがない状況に置かれている方たちが多く出ていました。最近の台風18号は、日本だけではなく韓国の済州島をはじめ釜山など、嶺南地方に大きな被害を齎してしまいました。

本文はこの地に生きている私たちの生き様を刈り取り屋に比喩して語っています。この地で何を蒔くのかによって、刈り取るものが決められると言います。7節に[人は自分の蒔いたものをまた刈り取ることになるのです。] とあります。

私たちの人生の中で、蒔いたものをまた刈り取る前に、自分が蒔いたことについて責任を負わなくではいけないこともあります。 私たちがいつかこの世を終えたら、生涯に行ったすべてのことについて神の前で裁かれます。永遠の天のみ国でも、この世で滅びるものを刈り取る者と、喜んで霊から永遠の命を刈り取る者に分かれます。何が原因でこのように二つに分かれてしまうのですか?

それはこの地での生き様です。この世で自分の肉に蒔く者は、永遠の世界でも滅びます。しかし、この世で霊のために蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。これは、神の法則です。このごろ収穫の季節を向け、今日のみ言葉が私たちの心に刻まれることを願います。それでは、この世で重要な課題は、どのように霊を蒔くのか?霊から永遠の命を刈り取るためにどうすればよいのか?

本文のガラテヤ6章は、使徒パウロを通して、私たちがこの世での短な生涯の間、霊のために生きる方法を教えてくれます。永遠の命を刈り取るための秘訣は、まず、この世で誇らないことです。この世で、誇るな! 自慢するな!と、

13節に、「あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」とあります。この割礼について少し話しますと、割礼の本来の意味は律法を守ることです。割礼は神との契約の印ですので、割礼を受けることは律法を守るという誓約なのです。

しかしながら、割礼をすでに受けている者でも、実際に律法を守ってない者もいます。 それなのに彼らは、自分たちの肉を誇りにしようとして、つまりガラテヤ信徒たちに私たちと同じように割礼を受けることを強調した。ここに現れている者たちはこの世で、自分を自慢する者です。

もちろん、彼らはこの世で、まめまめしく働きたくさんのものを蒔きます。少しでも上の地位に昇るため汗を流しながら努力をします。出世のために命をかけます。大勢の競争者がいて妨害者もいます。上に昇れば昇るほど、次は、そこを守るために大変、苦労をします。ある方は、自分が金持ちになって見たら、だれも信じたくないし、自分の子ども含めて周りの人たちが、 みんなオオカミのように見えたと言います。そして以前よりも不安な生活を過ごすようになったり、夜はゆっくりと眠れないし、飛行機も怖くて乗れなくなったと言う。みなさんは、こんな心配はないでしょうね?心配がありますか!富が多いほど実は、それを守るためにいろんな工夫をしなければなりません。なぜ、人は満足より欲望に縛られるのですか?それは、昇れば、昇るほど、持てば持つほど、自慢する物に変って行くからです。

私たち人間は、自分が持っている物についてどれほど誇りるのでしょうか? 美人、美男をべっぴんさんとか、イケメンとか言われますと、自慢になります。さらにその状態を維持するためにもっと力を入れます。しかし神はこの地で限られた生涯の中で自慢の物を増やすために自分の生き様に縛られたら死後刈り取る物がない滅びた人生だと言われます。・みなさんは何が、自分の誇りですか?・皆さんは今、何を蒔いていますか?この時間、皆さんの心に隠れている誇りを見つけて見てください。

信仰生活の中で永遠の命を刈り取るためには、世の物で誇らないでください。それでは、私たちは何を誇これば良いでしょうか?答えは、14節で明確にされています。[このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが、決してあってはなりません。] と十字架のほかには、誇るものはありません!なぜ、十字架を誇るのが、永遠の命を刈り取ることになるのですか?

それは、十字架がキリスト教福音の本質であるからです。 今日大勢のクリスチャンさえキリスト教福音の本質をよく知らないまま教会に通うのです。彼らは、キリスト教の本質をイエスの教訓だと言います。もちろん、イエスの教えは驚くほど素晴らしいです。

山上の説教の内容を見て見ますと、道徳的にも素晴らしい哲学家としてもイエスは尊敬されます。しかし弟子たちの生き様を見てみましょう。弟子たちはイエスに教えられましたが、キリスト教福音の本質として受けていません。キリスト教福音の本質がイエスの能力または、奇跡ようなことで、イエスを語っていません。14節をもう一度見ますと[しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス․キリストの十字架のほかに、誇るものが、決してあってはなりません。] とあります。

聖書の創世記からヨハネの黙示録まで、一筋で強調されていることがあります。強調点は、イエスの教えとか、癒しではなく、十字架です。マタイによる福音書16章で、ある日イエスは弟子たちに尋ねました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と聞くとペトロが 、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。イエスが喜んで、「ジモン、あなたには幸いだ」、「この岩の上にわたしの教会を建てる」、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われました。

その後、イエスはエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。イエスの十字架を教えました。その時、ペトロが聞いてイエスに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言いました。イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。 神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱りました。みなさんは、この言葉がどういうふに理解が出来ますか?先まで、ペトロに「ジモン、あなたには幸いだ、わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われたのが誰でしたか?ペトロがイエスをメシアとして告白した時は、「天の国の鍵を授ける」と言われたのに、ペトロがイエスの十字架を妨害した時は、「サタン、引き下がれ」と言われました。

なぜ、十字架がキリスト教福音の本質ですか?その理由は弟子たちの証拠を見れば分かります。みなさん、弟子たちは何を証拠に、何を説教しましたか?コリントの信徒への手紙一 1章22節から24節で、「22.ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23.わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24.ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

確かに、パウルはキリストの十字架、意外には何も知ろうとしなかった。みなさん、聖書の核心は何ですか?十字架です。ですから、十字架を誇らないといけません。それは、私たちの罪に対する贖いです。イエスは私の刑罰を代わりに担ったのです。イエスの贖罪がなかったら、私は罪悪の世界に溺れて入ったまま終わったかも知れません。イエスの贖罪により救われ、罪悪の世界から新たに甦ることが出来たのです。

だから、キリストの十字架以外に、世のどんなことでも誇こらない。また、パウルは、イエスの十字架の死は、私たちの人類の救い出来事として受けないといけないと言われます。霊から永遠の命を刈り取るわたしたちは、この世で十字架だけを誇り、自慢し、世に宣べ伝えるべきです。

今日のみ言葉を信仰の土台に刻み、クリスチャンとして、使命感をもって、福音を宣べ伝えるよう願います。

 

散らばった人々

聖書 : 使徒言行録 8章1-8節

 

私は韓国の忠淸北道淸原郡ある玉山教会で副牧師として奉仕したことがあります。毎週300人ぐらいが集まる教会でした。玉山というところは田舎で、自然が多いところであります。私が住んでいたマンションのすぐとなりにもたんぼや畑があるところでした。 日本のことはあまり知りませんが、韓国の田舎では、春になったら、2月か3月のころなんですが、たんぼや畑(はたけ)に火をつけます。最近はたんぼや畑(はたけ)に火をつけたら罰金(ばっきん)をはらうらしいですが、私が玉山にいた時はみんな火をつけました。私は農業をしたこともないので、どうして火をつけるかあまり分かりませんが、みんなはそうしました。専門家は火をつけるのは効果(こうか)がないと言ったのに、みんな畑に火をつけました。

ところで、問題は火を消そうとする時であります。自分のたんぼ、畑だけを燃やしたらいいのに、隣に草山(くさやま)があれば、もっと大変になります。水を運んで消すのは大変だから、ほとんどは火を叩(たた)いて消(け)します。その時、火がうまく消(き)えたらよかったのに、そうではない場合、本当にこまることになってしまいます。火を消そうと思って、たたいたら火種(ひだね)があちこち飛んでしまいます。いくらたたいても火はどんどん大きくなってしまいます。結局消防車(しょうぼうしゃ)まで、来なければならないことになってしまいます。火が大きくならないように、妨(さまた)げたり、消そうとすればするほど、火はもっと、もっと強くなるようです。火は生きているようです。

 

初代教会(しょだいきょうかい)にもこんなことがありました。

今日私たちが読みました聖書の1節はこのように始まっています。

「サウルは、ステファノの殺害(さつがい)に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害(だいはくがい)が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散(ち)って行(い)った。」

ここの「その日」はステファノがユダヤ人に石を投げられて殺された日です。ステファノの死は、ただひとりの殉教(じゅんきょう)ですまなかったんです。その事件を切っ掛けにして、エルサレム教会に対して大迫害が起こりました。

どのぐらいに大きな迫害か、ギリシャ語は megas ということばを使っています。100万倍を意味する英語のことば mega はこの megas から由来されました。エルサレムにあった迫害は想像もできないぐらいの大迫害であったことを意味します。そして、3節には、「サウルは家から家へと押(お)し入(い)って教会を荒(あ)らし、男女(だんじょ)を問(と)わず引(ひ)き出(だ)して牢(ろう)に送(おく)っていた。」と言(い)っています。「荒(あ)らし」ということばはもともとイノシシがぶどうの畑をやたらに踏みにじることを意味します。そのぐらい大迫害(だいはくがい)だったのが分かります。

その意味で、1節に「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」と言っています。つまり、エルサレムにある教会に大迫害があって、聖徒たちはみんな、あちらこちらに散って行くことになりました。そして4節を見ると、「散って行った人々は、福音を告げ知らせた。」と言っています。

迫害を受けて散らされた人々が福音を告げ知らせたということはどういうことでしょうか。大迫害を受けて散らされた聖徒が福音を告げ知らせたのは、彼らがキリストに対して、確かな信仰を持っていたことを私たちに知らせています。そして、大迫害がありましたが、彼らの信仰は全然揺れなかったことも私たちに知らせています。

 

逆に、イェス様のせいで迫害を受けているのに、そのイェスを人々に告げ知らせたということです。いくら迫害を受けても、イェス様に対する確かな信仰を持っていたということであります。

皆さんも、このような信仰を持つようにいたしましょう。いくら試練や苦しみがあっても、イェスキリストが私の救い主であり、イェス様を信じることが私にとって幸いになるという信仰から揺れないでください。

 

では、散って行った人々はどこに行って、何をしたでしょうか。

まず、彼らはユダヤとサマリアの地方に散って行きました。その意味はユダヤとサマリアの大きな都会にちらばったのではなく、ユダヤとサマリアの地方まで、隅々(すみずみ)まで散(ち)らばったことであります。

そして、40節を見ると、アゾトとカイサリアまで行ったと書いてあります。また、9章1節に、サウルが弟子たちを殺そうとして、ダマスコに行ったということから、エルサレムの迫害から逃げた人々がダマスコまで散らばって行ったことが分かります。11章19節には、「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行った」と書いてあります。つまり、彼らはイェス様がおっしゃったとおりに、イェス様が最後に命令なさったとおりに、まさにその方向に向かって行っているのです。

 

使徒言行録1章8節です。

「あなたがたの上に聖霊が降(くだ)ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土(ぜんど)で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人(しょうにん)となる。」

イェス様の最後の言葉とまったく一致します。要するに、彼らは迫害から逃げている途中なのに、イェス様の命令を忘れなかったわけです。イェス様がおっしゃったとおり、生きていたわけです。

 

そして、彼らがそこで何をしたかが4節に書いてあります。

「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡(めぐ)り歩(ある)いた。」

散らばった人々は、ただ、迫害が怖(こわ)くて隠(かく)れたり、あるいは、自分の利益のためにエルサレムから離れたりしたわけではありません。彼らはエルサレムを越えて、ユダヤとサマリアと地の果てまで散らばりながら、自分の足(あし)触(ふ)れるところ、そこで、福音を告げ知らせました。

彼らを通して、福音はイスラエルを越えて、世界を向かって進み始めました。

 

さっき、私たちが読んだ、11章19節につづいてこう書いてあります。

「彼らの中にキプロス島(とう)やキレネ(きれね)から来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシャ語を話す人々にも語(かた)りかけ、主イェスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」

 

西の方はキプロス、北の方はフェニキア、そしてアンティオキアまで、福音を告げ知らせました。アンティオキア教会はキリスト教の歴史においてとても大事な役割を果たしました。アンティオキア教会は一世紀(いっせいき)からキリスト教の歴史に必ず登場(とうじょう)します。313年コンスタンチノープル会議でキリスト教がローマの公式的に認められた以後、アンティオキア教会は大きな役割を果たしました。公式にローマの国教になりましたが、教会にはさまざまな問題が起こりました。それで、何回も、各教会の監督や指導者たちが集まって、会議を持ちました。そのときアンティオキア教会はいつも重要な役割を果たしました。

このように、アンティオキア教会がキリスト教の歴史において、重要な教会になった理由は何でしょうか。いろんな理由があると思いますが、まず、アンティオキア教会は使徒パウロを派遣(はけん)した教会(きょうかい)であります。使徒パウロによってキリスト教がもっと速く、遠くまで伝えられることができたのはアンティオキア教会の役割が大事でした。11章26節にはアンティオキアで、始めてキリスト者と呼ばれるようになったと記録されています。アンティオキア教会の信徒たちはキリスト者と呼ばれるほど真実であり、それで、宣教師を派遣する熱情(ねつじょう)もあったわけです。このような信仰を持っていたからこそ、アンティオキア教会がすべての教会の中で模範(もはん)になった理由であります。

そのぐらいアンティオキア教会はなくてはならない教会でした。このように重要なアンティオキア教会は、ステファノの迫害(はくがい)で、エルサレムを離れ、散らされた人々によって始まった教会でした。

 

今日の本文にある「散らばれた」ということばはギリシャ語のdiaspeiroであります。このことばから散らばれた者を意味するdiasporaということばが出てきました。もともとdiaspeiroは農業と関係があることばで、農夫(のうふ)が種(たね)をまくことを表す動詞(どうし)であります。しかし、まくけど、そのまま静かに、やさしくまくのではなく、ところをかまわず、くまなくまくのがdiaspeiroであります。だからこそ、ステファノの死は偶然ではなかったことです。信徒たちが迫害を受けたのは偶然ではなかったことです。教会が散らされたのは偶然ではなかったことです。神様がなさったことです。農夫が種をくまなくまくように、神様が信徒たちを地の果てまでまいたことです。結局、すべてのことが神様の計画の中で行われたわけであります。

 

神様は歴史をつかさどる方であります。歴史を動かす方であります。私たちがそのまま留(とど)まっていようとすると、神様は試練と苦しみでわたしたちを散らすはずです。

ここで、散らばった聖徒たちが巡(めぐ)り歩(ある)いて福音を告げ知らせたと言っていますが、巡(めぐ)り歩(ある)いて伝道したのはどういう意味でしょうか。

 

韓国語は두루 다니다といいますが、日本語の意味ははっきりわかりません。韓国語の意味はちかいところから伝道しながら、だんだんとおいところまで伝えることであります。

つまり、伝道(でんどう)の一番大切なことはちかいところからであります。ちかいところから始まって、だんだんとおく行くことです。

 

アメリカの教会成長学者エルマー・タウンズ博士(はかせ)はどうやって、教会に通うようになったかを研究しました。86%は家族や友たちを通ってでした。6%は組織的な伝道によって通うようになりました。牧会者を通してが6%、広告(こうこく)を見てが2%でした。どうですか。ほとんどの伝道は実際に家族や親戚、そして友たちをとおしてなっています。わたしたちも同じです。ご両親、連れ合い、兄弟、親戚、友たち、先輩、後輩、私とちかいいる人々から教会に導かなければなりません。私の父が、母が、私の子供が、私の兄弟が、地獄に向かって走っているのに、心配にならないのは、理由が二つしかありません。ひとつは天国と地獄を信じていない。あとひとつは親を、子供を、兄弟をあいしていないこと。どうですか。

 

なによりも、イェス様を信じていない家族を神様に導くことに力を入れなければなりません。本当に大切な私の家族、親戚、友だちを伝道することが私たちの使命であります。

 

エルサレムから散らばった人々もそうしながら、村を越え、国境を越え、外国まで行って、伝道しました。その結果、何が起こりましたか。

 

今日の本文にはフィリポがサマリアの町に下(くだ)って、伝道したことが記録されてあります。7-8節は、「汚(けが)れた霊に取(と)りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者(ちゅうふかんじゃ)や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。」と言っています。

 

ということは、私たちが伝道すると、奇跡や、能力があらわれます。病気の人が治されます。今日(こんにち)はそんな奇跡がおきないでしょうか。いいえ、神様のご意志があれば、いつでも起こるはずです。最近、奇跡がおきないのは奇跡がなくなったからではありません。奇跡の能力を信じる人がいなくなったからではないでしょうか。神様が、今も生きておられると、伝道する時、私たちは奇跡を経験することができます。

 

そして、神様はそのことのためにエルサレム教会を散らしました。その散らされた信徒たちによって、神様の能力が現れ、神様の教会が成長し、福音が伸べ伝えられました。大変(たいへん)喜びました。大阪教会がその役割をしなければなりません。私たちと一緒に信仰生活をなさった方々の中で、多くの方は今、この場所にはおられません。韓国にもどられた方もいらっしゃるし、日本のどこかにいらっしゃる方もいます。この人たちに神様が何を望んでいらっしゃるでしょうか。また、今まで、教会を守って来られた皆さんに神様は何を望んでいらっしゃるでしょうか。私たち大阪教会のみなさんは神様を喜ばれるよう願います。今、この場所にいるすべての方々が神様の奇跡を経験することを願います。わたくしも神様に喜ばれて、神様の福音のために私はどこに行かされても、そのところで、神様が散らして行かされたその場所で、献身(けんしん)しようと思っています。

 

その結果はどうなるでしょうか。

8節です。

「町の人々は大変(たいへん)喜んだ。」

もともと、サマリアの人々はユダヤ人に認めてもらえなかったです。異邦人、救われない人、そう思われました。エルサレム教会の信徒たちもそう思っていました。そんな思いを持っていた人々を神様は散らし、散らされた人々が認められなかった人々に行って、福音を告げ知らせると、そのところに、そのサマリアの町に大喜(おおよろこ)びがあふれました。これです。神様は私たちにたくさん喜びをあたえることを望んでおられます。私たちだけではなく、まだ、福音を聞いたことがない人々にも大きな喜びを与えたがって おられます。その喜びがあなたがたの生涯にあふれるよう願います。それで、神様の驚くべき能力を経験する皆さんになることを願います。

 

 

お祈りしましょう。

恵み深い天の父なる神様!感謝します。私たちに神様の独(ひと)り子(こ)イェスキリストを送ってくださり、永遠の命をくださったことを感謝します。私たちが与えられた恵みを伸べ伝えることができるように導いてください。エルサレム教会は神様から散らされて世の果てまで行って福音を告げ知らせました。私たちも散らばった信徒たちのように福音を告げ知らせて大喜びを味わうことができるように導いてください。

イェスキリストの御名によってお祈りします。 アーメン

 

2016.9.11                      朴喜煥 牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙 2:15-2

題名:キリストがわたしの内に!

(新共同訳)

15.わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

16.けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス․キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト․イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

17.もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。

18.もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。

19.わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。

20.生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

21.わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

(説教)

まだ、暑いですが!もうちょっとしたら、秋になり、冬が来ます。

晩秋になりますと最も賑やかな動物がいます。リスです。リスは冬眠のために土地に穴を掘り、穴の1つにどんぐり1つを埋めておきます。でかい穴を掘り数十個のドングリをいっきに埋めることはないそうです。それは餌をいっきに盗まれることを防ぐためだそうです。リスは前足で穴を掘りドングリを入れた後に、木の葉っぱを散らし偽装します。リス一匹が、冬民にために掘る穴は平均2000個程度、リスは、冬の食料を十分に備えて置いて、楽しく冬を迎えます。人生も同様だと思います。

いずれ人性の冬も訪れます。まめまめしく準備するが賢いです。

信仰の面でも、私たちは天国に向かい、いろいろと準備しなければ行けません。今年も、すでに3分の2が過ぎました。自分の信仰生活を確かめながら、恵み溢れる信仰生活になること願います。

日常の中で、たまに人を見て、あの人も神を信じる人かな!と考える時があります。その中には、牧師や長老もいます。見た目は、信仰者のように、言葉も行動も考えもそれらしく見えますが、一体どんな神を信じているのか、疑いたい人がいます。もちろん、自分もきちんと神を知り信じているのか疑いたくなります。皆さんは、いかがでしょうか?信仰が深いのか!浅いのか!自ら判断したいのであれば、神の存在において、神が怖いのか?私の罪を裁かれる神なのか?神は私を治めているのか?または神の愛を深く感じているのか?など、一日の中で一瞬でも神が私を導いていると信じながら感謝しているのか?皆さんは、いかがですか?

今日この時間を通じて私たちの信仰生活に三つの質問を通して、信仰心を確かめること願います。

一つ、 「私は何を求めて神を信じているのか?」

二つ、「私の主人は誰なのか? 私の考え, 私の行動, 私の人生の主体は誰なのか?」

みつ、 「私は イエスキリストだけで、十分なのか?」

若しかして、私の人生の安定や成功、欲望を果たすために神を信じているのではないか?最近早天祈りで、詩編を呼んでいます。ダビデは、神を私の主人、私の王であると告白しています。これは、私たちの信仰にとっては、最も重要な質問であり、毎瞬間、もしくは、一生持つべき質問であり、この質問にいつも答えながら生きるのが信仰者の人生ではないかと思います。

今日の本文はその質問について使徒パウロの答えがあります。共に、本文を注意深く読みながら、私たちも自ら使徒パウロと同じ答えを出せることが出来ること願います。

本文の前部分で、アンティオキア事件と呼ばれる事件の延長線としてぺトロが異邦人たちと食事をしていた時、エルサレムから来たユダヤ人がやって来ると身を引こうとした。このアンティオキア事件の中心はキリスト者たち自身とそれに相応しい行為に対したものでした。同時ユダヤ人たちは割礼を受け、律法を守る自分たちだけが神の民だと思い込んで、他の異邦人たちを蔑視しました。

15節の「私たちは生まれながらのユダヤ人であった」は、同時ユダヤ人たちは ユダヤ人で生まれることだけで救いが保障されたと思っていた。 生まれて八日振りに割礼を受け、神に不従順さえなければ救われると思った。そして異邦人は罪人であり、偶像礼拝者としてみだらな行為をしたり、不従順したり汚れた罪人だと思った。もし異邦人がユダヤ人のように神の民になれるためには、必ずユダヤ人のように割礼を受け、律法を守ることを通して、神の民になれると思っていた。それでユダヤ人信者たちの中の一部は異邦人信者たちにユダヤ人と同じ割礼を要求し、飲食法などの律法を守ることを主張した。

しかし使徒パウロの主張は異なった。人は義とされるのは律法の行為ではなく、ひたすらイエスキリストを信じることだった。イエスキリストを信じ、神から義と認められることは、こんにちのわたしたちの信仰の核心である。イエスキリストを信じ神の民になり、この信仰を通して義とされるのです。

だから、 割礼はそれ以上神の民になる必要条件ではなく、異邦人に要求してはいけない。さらに 飲食法のような問題で異邦人を差別してはいけないことでした。これが、使徒パウロの教えとしてぺトロが瞬間的に起こした過った行動を公に、叱られた事件です。

パウロは、律法という物差しが、異邦人を罪人にしていると言われた。「割礼を受けてない異邦人キリスト者を罪人として見るな!」これは結局キリストと神の義を逆らうことになる。ですからパウロは、ユダヤ人たちに 信仰者らしい 相応しい考えと行動をしろうと言う。

18節に、「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。」とあります。パウロが回心の以前には、律法を通じて義とされると、彼は律法も神がくださったので、尊重したが結局、義の条件として信じてなかった。パウロは律法に縛られない自由な人で、ただイエスキリストを信じることを人たちに伝えた。

パウロの信仰告白を19節に「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」とあります。

「律法に対しては律法によって死んだ 」この言葉は、イエスキリストが十字架で死んだのは、律法学者の律法主義的過ちによりキリストが律法によって死んだことを意味します。それでこの律法は人が生きている間だけ効力があり、死んだら、それ以上効力がないと当時のユダヤ教は理解していた。

ラッピ文献にも、「人が死んだら律法は守る義務はない」と教えています。

19節で、パウロがなぜ、主語をキリストではなく、私にしたのか!その解答が、20節にあります。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた、神の子に対する信仰によるものです。]」とイエスが私の代わりに十字架で死んでくださったのと私もキリストと共に十字架で釘に打たれ死んだと告白しています。私が死んだというのは、私の主体がこれ以上自分自身ではないことを意味する。それでは誰ですか?私の主人は? イエスキリストです。

私は死んでキリストとして生きて行くことです。このような人が真のクリスチャンです。

先ほど、三つの質問を思い出せますか

一つ、「私は何を求めて神を信じているのか?」

二つ、「私の主人は誰なのか? 私の考え、私の行動、 私の人生の主体は誰なのか?」

みつ、 「私は イエスキリストお一人だけで、十分なのか?」

この質問に対してはっきりした回答をしなければいけません。

私たちは神の恵みが必要だし、神の祝福を受けられます。生きるための必要なものを求めます。でも受けられるから私たちが神を信じる理由ではありません。私たちの信仰は、自分のすべてを神に捧げることで進めないといけません。高ぶることなく、すべてのことでへりくだり自分が死ぬことです。

パウロのようにキリストの十字架以外には、誇るものがない人に変らないといけません。

20節の御言葉のように、「キリストがわたしの内に生きておられる」ことを 告白し、深い信仰心を持ちましょう!その結果、以前にはイエスお一人で十分と言う言葉が理解出来なかったので、答えられなかったが、これからは自身を持ってイエスお一人で十分と言えるようなクリスチャンになりましょう!

・私のすべてを神にささげる信仰!

・私の主体がだれなのか?

・イエスキリストお一人で十分なのか?

そして悔い改めを通して十字架の力を悟りその力で、悪との戦かって勝利する私たちになりましょう。

神は、今も誰かを探しておられます。誰でしょう?神様に用いられる人はだれですか?

神が探したおられる人は、「自分は死んで、キリストがわたしの内におられる人です。」

このような人を通して人を生かしこの世を癒して神の御国を建てられるのです。

神の栄光と神の国のために私たち皆が用いられる人生になりますこと願います。

(祈り)

天の神様、感謝します。

イエスキリストを信じ、救われた私たちがつぎに用いられるもの

として、キリストがわたしの内に生きておられること、確信して、

信仰生活が豊かに変わること切に願います。

この礼拝を祝福してください。

主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。アーメン