日本語説教

大阪教会主日礼拝 <2021年1226日>送年主日

                         説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 : 愛の実で一年を

* 聖書 : ヨハネによる福音書158節-12

</新共同訳>

8. あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9. がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10. わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11.これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12. わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしのである

<説教>

今日は2021年の最後の主日です。一年間、私たちを守ってくださった神様に感謝しながら礼拝をささげます。2021年も昨年2020年と同じく新型コロナウイルスが拡大し、教会に集まって礼拝をささげられない時間もありました。映像で礼拝をささげる状況が続いたりもしました。しかし幸い、今年の最後の主日は、信徒たちと共に礼拝堂で礼拝をささげています。まだ個人的な事情で礼拝堂に出られないので映像で礼拝をささげている方もおられます。すべての信徒たちが平安に過ごされますように祈りながら、説教を始めさせていただきます。

今年2021年は私たち大阪教会においてとても意味ある年でした。神様の恵みで教会創立100周年を迎える年だからです。しかし、100周年の行事を挙行できず、2022年に遅延するという悲しい決定も下しました。一年365日、一日一日が神様の守りがなかったらどうなったか見通しが立たない一年でした。今年の教会の標語は「100年の喜びと感謝を分かち合い伝える年」でした。中心のみことばはイザヤ書61章1節₋3節でした。

[()新共同訳]

1.主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。2.主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報される日を告知して/嘆いている人々を慰め 3.シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。

教会創立100周年は,旧約聖書のヨベルの年の思想で意味を探し、メシアが来られることで成就できる救いの喜びを分かち合うことを目指しました。始めたものの、十分な結果を得られなかった物足りなさを感じながら送年主日を迎えました。いつもそうですが、一年を締め括る時間は、個人的な生活や牧会現場での実りを考えながら、新年計画を立てるのが事実です。新約聖書のヨハネによる福音で、イエス様は多くのたとえ話をされました。今日の本文でイエス様が例えたのは「神様は農夫であり、イエス様はブドウの木であり、私たちはその木の枝である」と言われました。このたとえ話には特別な意味があります。それは「私たちを枝として表現したこと」であり、その枝に実が結ばれることを期待するからです。

今日、私たちはこのたとえ話の意味を通して、イエス様から教訓を学び、枝である私たちの人生を省みたいと思います。農夫がぶどうの木の枝を眺めるとき、ぼんやり見ていません。ある意図と目的を持って見ます。それは木の成果を表す実です。枝に実が結ばれなければ、その枝はすでに枝としての目的を失ったものになります。それでは、枝が実を結ぶためにすべきことは何でしょうか。豊かな実、良い実を結ぶために枝は多くのことをしなければならないようですが、実は違います。枝はただ一つのことをすればよいのです。それはそれほど難しいことではありません。ただ木に付いていることであり、枝は木に付いているだけで実を結ぶことができます。そして、「木に付いている」ためにはいくつかの条件があります。付いているのが前提で、茎が根から一生懸命供給される栄養素を枝に与えるときによく受け取らなければいけません。枝に好き嫌いがあると、その枝は良い実を結ぶことができないでしょう。嫌なものも食べ、好きなものも食べて丈夫な状態を維持し、良い状態を維持しているから良い実を結ぶことができるのです。

今日のように何かを決算し、新たに決心するなら、多くの実、すなわち実を結ぶためにどうすべきかを再確認する必要があります。私たちは枝と言いましたが、私たちが実を結ぶ信仰生活のためにそれほどすることは多くないのです。あちらこちらに走り回るからといって多くの実、素晴らしい実が結ばれるわけではありません。主人に喜ばれる実を結ぶためには、木であるイエス様によく付いていることが重要です。よく付いており、主から供給される栄養をよく摂取しなければなりません。つまり、神様のみことばをよく受け入れなければならないということです。私が嫌いならば吐き出し、良ければ受け入れるのでは困ります。みことばが私の口に苦いのであれば、私の病気を治すのに役立つのだと受け入れ、甘ければ成長のために必要なみことばだと受け入れなければなりません。私たちが神様のみことばを聞いたり読んだりするとき、私にとって良いみことばだけを選ぶなら、それはすでに良い実をあきらめたのと同じです。どのようなみことばでもよく受け入れて私のものにし、良い実の栄養素として使う知恵が必要なのです。

 

コロナ禍の中で、教会は集まって行う行事や勉強会を円満に設けられませんでした。例えば諸職会と聖書勉強会を行うのは難しい状況でした。堂会でも何回か非対面会議を検討しましたが、実施までは時間がかかりました。しかし、いくつかのメカニズムを準備して協力してくださる方々の助けを借りて、これまでになかった方法で実施できたことは非常にポジティブな側面だったと思います。

次に、「木に付いている」という言葉は、枝として体験すべき風雨や暑さに耐えなければならないという意味です。枝は激しい風雨が吹くと、まるで折れそうに激しく揺れます。 太陽の強い熱が降り注ぐと耐えられない渇きを感じます。しかし、その時に耐えられずに木から離れてしまうなら、育て主である農夫は折れた木の枝を集めて火に投げてしまうでしょう。良い実を結ぶためには苦難も必要です。苦しみや艱難や試練も必要です。その後に結んだ実こそ価値があり、大切に思う心も生まれるからです。

私たちクリスチャンの試練についてヤコブの手紙の著者はこのように言っています。

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3. 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4. あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(ヤコ1:2₋4)

今日、枝である私たちに試練がありますか。その試練に私たちが勝てば、神様は良い実で私たちに答えて下さるでしょう。それを待ち望み、苦難と試練の時間をよく忍耐してください。私たちは枝として、木に付いて栄養素を選ばずによく受け入れ、雨風と太陽の熱さにもよく耐えて多くの実を結びました。しかし、その次に、私たちには試される時間がおこります。多くの信仰人がここでつまずきます。それは枝になった者としての使命をよく果たしながら多くの実を結んだのですが、時間が少し過ぎると、その実がまるで自分自身がよくやったから結んだような錯覚に陥るのです。私がうまくやって、この多くの実を結んだような錯覚に捉われます。

多くの信仰者が信仰の進歩と成長と業績を成してからつまずく理由がここにあります。人々が褒めます。 場合によっては、教会の職分をもらいました。その実のみごとさに羨ましがられます。彼らに試練に遭った信仰の武勇談(ぶゆうだん)を聞かせて、まるで私がそのことをしたような気がします。その時からみことばも素直に受け入れられません。試練も耐え難いです。私の人生の実は消え去ります。私の枝は徐々に乾き始めます。

今年一年を振り返ると、私たちの信仰状態はどうでしたか。私たちに誇るものは何一つありません。私は枝であり、木ではありません。私は枝であり、農夫ではありません。ですから、私たちは誇れることはありません。ただ私たちが私たちの実を見て羨ましがる人々に言えることがあるならば、「木によく付いていただけなのに、こうなりました」とのことです。高慢が育つと、私たちは再び私たちの本来の姿勢に戻らなければなりません。それが正しく私たちが生きる道なのです。

私は自ら慰めのみことばを探してみました。旧約聖書ハバクク書3章17節「いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。18. しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。」

そうです!愛する信徒の皆さん、私の枝は実をつけず、ブドウやオリーブの木の収穫が少なく、田畑に食べ物が生ぜず、羊と牛がなくても、主によって喜び、救いの神様ゆえに踊るという預言者の祈りのように、コロナの状況を責めて言い訳をする必要もなく、今年は私が主に付いていたという一つの事実だけでも豊かな年であったと思い、感謝をささげましょう。

今日のみことばで、イエス様は御父が自分を愛されたように、イエス様も私たちを愛してきたと言われました。また、父の掟を守り、その愛にとどまったように、私の掟を守るなら私の愛に留まっていることになり、喜びが満たされると言われました。今年、伝道部はこのような困難の中でも伝道紙を配布し、手作りのおかずを持って年老いた方を訪問したいと話されました。牧師である私は最初、引き止めたりもしました。状況を見ながら少し待っていてくださいと言いましたが、信徒たちが牧師よりもっと熱心でした。今は目に見えなくても実が結ばれると信じております。

今日、堂会は2021年の決算を行い、2022年の予算を立てることになります。

前回の堂会でも今年予算より決算がどれほど少なくなっただろうかという心配をしました。長老たちの心配は信仰心が足りないからではありません。教会のやりくりをどのようにすべきかという憂慮の中で、とにかく教会のやりくりをきちんとしなければならないという責任感で互いを励まし、話し合いました。しかし、驚くことに予算より少ない決算であるものの、教会の外壁工事、十字架の工事など、必ず必要なことをしながらも借金をせず、信徒たちが心を込めてして下さった献金でそれに充てることができたという中間報告を受けました。考えてみるとこのようなことが正しく奇跡です。最近の困難な状況の中でも、信徒たちが感謝し、神様にささげた物質が主の教会に美しく使われ、宣教と福音の働きを担えたことが、神様の恵みであり、愛の実だとただ感謝するのみです。

全世界的に540万人の人が命を落としたという今の時代の試練、コロナ禍の中でも私が生きていること、私たちが無事に生きていることも神様が与えて下さった恵みの実であり、愛の実であるのを確認しながら再度感謝をささげるのです。

愛する信徒の皆様、

私たちをぶどうの木の枝にならせたのも神様の恵みであります。枝になった人の使命は実を結ぶことであり、そのことのためにすべき一つのことがあれば、それは木にしっかり付いていることです。今年一年、木に付いて生きている事だけでも感謝であるならば、来年にはもっと栄養をよく摂取し、試練を耐え抜いて、主人である神様に栄光をささげ、主に喜ばれる実をたくさん結ぶ私、そして皆様と大阪教会になりますよう切に祈願いたします。

<祈祷>

「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」というイエス様のみことばに感謝します。2021年、とても大変な一年を過ごしてきました。個人的な生活や教会の活動も難しかったです。その中でも、私たちを恵みで導いて下さり、愛の実を結べるように機会を与えて下さったことに感謝します。一年を送り、新年を迎える私たちに知恵と能力を与えて下さり、この世をよく見渡せる信仰の目も許してください。至らないですが、私たちを主に付いている枝にならせる信仰の道に導いて下さったことに感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年1219日> 聖誕主日礼拝

                          説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 誰がイエスを迎えることができるでしょうか?

* 聖書 : マタイによる福音書21-6

[()新共同訳]

1.イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2.言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3.これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4.王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5.彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6.『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

<説教>

愛する信徒の皆様、2021年聖誕主日の朝です。聖誕の挨拶を申し上げます。

Merry Christmas! イエス様の誕生という喜びのニュースが全世界に轟きますよう願います。

待降節4番目の主日は聖誕節が含まれているため、聖誕主日と重なります。振り返ってみると、昨年の2020年の聖誕主日はコロナ事態によって、礼拝人員の分散のために礼拝を3部に分けてささげました。今年も1,2部に分けて礼拝をささげました。教会学校の子どもたちと先生たち、全信徒たちが一緒に集まって合同礼拝をささげにくい状況になったからです。願わくは全人類が経験しているこの苦しみの時間が一日も早く終息するように願っていますが、今の情勢を見ると少し落ち着いた感があるものの、変異ウイルスである「オミクロン」が再び患者が急増させていることを皆さんもよく知っておられるでしょう。私たちも、注意を払って、感染しないようにしましょう。

聖誕、一人の赤ちゃんが生まれ、世界の歴史が変わりました。 世の初めにことばでおられた方が肉体をまとってこの世に降臨し、すべてが変わりました。世界に光として来て、暗闇の中で死んでいく人々を生かす救いの光で来られたのです。イエス様の誕生を通して、罪によって破壊された世界の秩序が正されるようになりました。最も意味のあることは、イエス様の誕生が皆さんと私の人生を変えました。

 

2021年聖誕主日である今日、聖誕日を前にして、神様に感謝の礼拝をささげる信徒の皆さんと共にささげるみことばは、イエス様の誕生の時間を共にした人たちを考えながら、今日の私たちの信仰の姿を顧みたいと思います。

新約聖書を中心にイエス様の誕生と関係がある人々の中には、赤ちゃんを産む妊婦マリアと彼女の夫ヨセフの物語から始めざるを得ません。聖書の記録によれば、当時のイスラエルの結婚と関わっていることがわかります。もちろん、聖書の翻訳には現代的な解釈が含まれていることを理解する必要があります。ヨセフとマリアは結婚を約束し、婚約していました。この時、神様に遣われた天使が、マリアに聖霊が降り、身ごもることを告げた時、あまりにも驚いて恐れました。しかし、天使が伝えた神様のみことばを通して、自分は主のはしためであり、お言葉通りになりますようにとその事実を受けました。一方、婚約者だったヨセフはどうでしたか。マタイによる福音書第1章18節以下を見ると、主はヨセフにも天使を送って内容を伝えました。ヨセフも驚きましたが、主の天使が命じた通り、マリアを迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかったと25節に記しています。

映画は内容に応じて主役があり、脇役があり、少し顔を見せては消える端役(はやく)もあります。このように、聖誕節の主人公である幼子イエスとその家族と一緒に登場する人々がいます。今日のみことばに登場する人々も非常に重要な役割を果たしています。良い役と邪悪な役をする人も出ています。しかし今日、私はこのように多くの人々の出会いがありましたが、本当にメシアであるイエス様を人格的に会った人は誰なのだろうかを考えてみたいです。

東方から来た学者たちです。今日のみことばと福音書の内容を総合してみると、彼らは天の星を研究し、当時の天体、つまり天で動く太陽と月と星を観察する人でした。今日のように科学的に理解して解釈したわけではありませんが、彼らにとっては非常に重要なことでした。星の動きを通して、世に何が起こるのかを解釈する役割があったのです。

ある日、ある星の動きが尋常でないことを発見しました。そしてその星は世界に大きな変化をもたらすと判断しました。ある国の王が新しく生まれたことがわかったのです。そして学者たちは動く星を追って巡礼をするようになりました。巡礼の距離を推定してみると約1500Km程度です。今のイラン地域からパレスチナのエルサレムまで来ました。学者たちは当時エルサレム地域を治める王である「ヘロデ」を訪れました。それで、学者たちが一番初めて会った人が、ヘロデ王だったのです。イスラエルから遠く離れた東方から来た学者たちは、この国に一人の赤ちゃんがお生まれになったというニュースを持ってきたのです。 ところが、その赤ちゃんはこの国を治める新しい王として生まれたと言うのです。

元来「ヘロデ」は、エドムの人だがローマ政府に気に入られ、ローマ帝国からユダヤの分封(ぶんぽう)王(おう)(領主)になったのです。 分封(ぶんぽう)(Tetrarch)とは、ある国の王が治める領土の一部を分けてもらい、統治権を委任された王を言います。もともとの意味は「四分の一を統治する人」でしたが、段々「小規模の土地を統治する人」という意味で使われました。エドム人がユダヤに来てユダヤ人の王をしているさなかなのに、その地にユダヤ人の王として生まれた子がいるというニュースは、彼としては受け入れ難かったのです。ユダヤ人なら、自分たちが待ち望んでいるメシアであられることを誰もが知っていたのに、ヘロデはこの事実を受け取ることが難しかったわけです。

福音書のみことばを見ると、ヘロデとエルサレムの人々が東方から来た学者たちの話を聞いて、韓国語の聖書の3節では簡単に「騒動した」と記録していますが、日本語聖書を見ると「これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」と記しています。 7節以下には、「彼は自分も学者たちのように熱心なふりをしながら、誕生を知らせる星が現れた正確な時期を確かめました。そして、彼らにベツレヘムに関する預言を教えながら、行ってその子のことを詳しく調べて見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう。」と言いました。しかし、ヘロデ王は学者たちがエルサレムに来ず、自分の国に戻ったことを後で知ります。そして、ヘロデはベツレヘムと周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。ヘロデ王が行った行動は、権力を持つ人々の中で最も悪い人がする代表的な行動です。大きな罪を犯したのです。

なぜヘロデはそこまでしたのですか。彼は誤解したのです。生まれた子が成長して自分の国や権力を奪うのではないかと錯覚したからです。メシアはある地域や国の王として来られた方ではないのです。しかし、ヘロデはイエス様を世の国の王だと錯覚し、自分の位置が危うくなることを遮断したかったのです。その後、彼の子孫までもイエス様の敵対者になりました。

もう一つのグループの人々は大祭司と書記官です。

東方から来た学者たちの話を聞いて、ヘロデ王が「メシアが生まれる場所はどこなのか」と尋ねた時、彼らは旧約聖書に出てくるミカの預言を王に知らせました。彼らは,イスラエル民族がメシアを待っていることを誰よりもよく知っている宗教指導者たちでしたが、王に憎まれないように正しい事は一言も言わずに黙っていました。「知識はあるが信仰がない人がまさにこの人たちです。」 この世界で最も卑怯で卑劣な人がどのような人だと思われますか。

知りながらも行動せず、知りながらも自分の利益と損失を考えて口を閉じている人ではないでしょうか。

大祭司たちと書記官はメシアについての知識はありましたが、心からメシアを待つ信仰はありませんでした。 旧約聖書に記録されていることは知っていますが、その記録されたものが現実に起こるのは否定する人々でした。言い換えれば、いくら霊的な出来事が起きても霊的に見られない、霊的な事柄が見えない人々なのです。今日のように教育のレベルが高くなり、聖書知識が豊かになれば、信仰生活のあらゆる面が高められ、豊かになるべきではないでしょうか。 しかし、今日の現実はどのようなものであるかを自問してください。

妊婦のマリアとヨセフは、住民登録をするために先祖が住んでいた故郷の町「ベツレヘム」に着きましたが、彼らが泊まれる宿屋がありませんでした。ある宿屋の主人は二人を見て、家畜小屋を貸してくれました。ところが、自分が考えたものとは全く違う展開になりました。この家畜小屋で一晩泊まろうとした妊婦は赤ちゃんを産むようになりました。夜空には大きな星が自分の家の上にとどまっていました。この赤ちゃんに会いに来た人々がいました。東方から来た学者たちは、赤ちゃんがどこにいるのかと尋ねます。羊飼いたちも探しに来ました。宿屋の主人は自分の家畜小屋でメシアが生まれたのにも関わらず、何も知らなかったのです。

霊的な無知とは、このように私の周辺でどのような霊的なことが起きているのかに気づかないか、そのような事柄には関心がないことだと言えるでしょう。ただ、自分のことに忠実で、お金を稼ぐことに知恵を使い、関心がある人だとも言えるでしょう。私が学生たちを教える時のことです。聖誕の話をする中で、この宿屋の話が出たとき、「先生、宿屋の主人はヨセフとマリアに宿泊料金を取りましたか。」とある学生が聞きました。

そのとき、自信を持って答えられませんでした。皆様はどう思われますか。宿泊料金を取ったのでしょうか。もしくは家畜小屋だったから取らなかったはずだと思われますか。

そして、最後に考えてみたい人たちがいます。

その日の夜、野宿をしながら羊たちの群れの番をしていた羊飼いたちがいました。夜空には眩い星の光がベツレヘムを照らし、星が流れずに留まっているのを見ました。ルカによる福音書2章9節では「すると

主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼は非常に恐れた。」と記録しています。天使は。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、タビデの町で

救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアであるので、探しに行きなさい。」と言いました。すると突然この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言いました。「いと高きところには栄光、神であれ、地には平和、御心に適う人であれ。」この賛美を聞き、この光景を羊飼いたちは見られたのです。

羊飼いたちは羊たちを野に置いたまま、ベツレヘムに行きました。羊飼いは羊の世話をする責任がある人なのです。しかし、彼らは天使の言葉を聞き、行動を起こしました。明らかに危険負担があったはずです。もし羊一匹でも野獣に捕われるのであれば、責任を取らなければならない人たちです。しかし、彼らは天使の言葉に従い、乳飲み子イエス様に出会ったのです。ここで私たちが覚えておくべきことは、この羊飼いたちが

幼子について天使たちが話してくれた言葉と自分たちが見聞きしたことを会う人々に知らせたとルカ2章で記録していることです。

ある国の王は、自分の民の生活が気になるたびに、身分を隠して民政視察を頻繁に行いました。 宮殿の外に出るときは、みすぼらしい平民の服装をしました。そして自分の身辺を保護する部下たちが密かに守る中に視察を行いました。ある村を通り過ぎる時に、日が暮れて泊まらなければいけなくなりました。 その村にとても大きくて見栄えの良い家があるので、門を叩きました。その家の僕が出てきました。 「一晩泊まらせてもらいたい。」と言うと、悪口を吐きながら拒みました。王は再度頼んでみたが、遅れて出てきた家の主さえもきっぱり断ったので、仕方なく、村の端にある小さな小屋のような家に行きました。

その家の主はとても若い人でした。一晩泊まらせてもらえないかと懇願したところ、部屋が一つしないので困ると最初は拒みました。しかし、夜が深くなり、旅人に他の方法がないことを知った若い夫婦は、自分たちが寝る部屋を出してくれました。それで、王は、一体夫婦はどこで寝るのか探してみると台所で夜を明かすつもりでいることがわかりました。王は知らないふりをして一晩を過ごしました。

翌日の朝でした。思いもよらない朝ご飯が用意されていました。王はこの若い夫婦を部屋に呼び、「ここに住む理由は何ですか。」と尋ねました。すると、若い夫は「科挙(かきょ)試験(国家試験)を受けるために地方から上がってここで過ごしています。」と答えました。王はまた尋ねました。 「試験に合格したらどんなことをしたいですか」 。夫は「国を治める王の身辺を守る事をしたいのです。」と言いました。王は何も言わずに夫婦が出してくれた朝ごはんを取り、その家を去りました。しばらくして、宮殿から連絡が来ました。 この若い夫婦を王が呼ぶということでした。その後の話はもう言いませんので、信徒の皆さんが想像してみてください。どうなったと思われますか。

万王の王イエス・キリスト、彼を受け入れる者は皆、人生が変わり、死ぬべき者が命を得るようになり、永遠に生きられるのです。 ところで、今日のみことばのように、それほど貴重な方が来ましたが、全く気付かず、受け入れられない人々がいました。彼らの過ちを見て、私たちはベツレヘムの飼い葉桶に来られたイエス様を迎える心で、再び来られるイエス様を迎える準備を決心することが聖誕節の意味ではないでしょうか。イエス様が来られました!再度聖誕のご挨拶を申し上げます。Merry Christmas!

<祈祷>

この世を愛する神様、独り子をこの地に送って下さり、救いを成らせました。

ベツレヘムの飼い葉桶に来られた幼子イエス様の誕生を私たちの心に刻みます。今日、

私たちはコロナ禍によって全世界の人々は苦痛の時間を過ごしながら、再臨する主を待ち望みます。「マラナタ」主イエスよ、来てください。私たちの祈りが成就できるよう願います。平和と希望、喜びと愛を与えるためにこの地に来られた主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年1212日>待降節Ⅲ

                         説教 鄭元然牧師/通訳 姜志鮮勧士

 

* 題目 : み言葉の光が全世界へ

 

* 聖書 : ヨハネによる福音書11節-5

 

[/新共同訳]

1. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2. この言は、初めに神と共にあった。3.万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4. 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5. 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

<説教>

夜明けに起きて外を見ると、周りは真っ暗です。しかし、朝を知らせる太陽が昇ると、闇に隠されていたすべてが明るみに出て世界のすべてが見え始めます。 太陽が昇る直前が、一番闇が深いそうです。 しかし、太陽の光が明るく照らされると、何一つ隠せず、退けられます。

2021年待降節の第3主日です。 今日、私たちはベツレヘムの飼い葉桶に来られたイエス様の誕生の意味を深く考えています。 世界中の教会と信徒たちは、祈りとともに喜びを持ってクリスマスを待っています。 3番目の蝋燭に灯した火の意味は、「イエス様の愛」を象徴します。 そして今日は、世界の教会が「聖書主日」として守っている主日でもあります。 今日、聖書のみことばは、旧約の創世記の世界創造を浮かばせるみことばです。 創世記1章1節、「初めに、神は天地を創造された」。 今日の本文である新約聖書、ヨハネによる福音書1章は、創世記のみことばと非常に関連しています。 ヨハネによる福音書1章1節は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」です。

「初め」にと翻訳されたヘブライ語「レシュト」(re’shith)は、初め、出発、起源の意味を持つ言葉です。 創世記1章1節に、「初めに、神は天地を創造された」という初めは、無時間的な永遠を言うものではありません。 神様が天地創造で始まった時間の出発点を意味する言葉です。 ヨハネによる福音書第1章1-2節のみことば、「1. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2. この言は、初めに神と共にあった」。ここで「初め」という言葉は、万物の始まりの以前に存在する、物理的な時間を超えた「永遠」を意味するものです。

 

天地を創造された神様は、ことばで世の万物を造られました。 創造主である神様と共におられたのが「言」だと言います。 「言」であるその彼がこの地に来られたという神秘的な事実を教えています。 再び整理してみると,永遠の前からおられたエホバ神様が言で天地を創造され,天地を造られた「言」が肉のまとった形でこの地に来られたということです。

「言」と表現されたこの単語はイエス様を指すことで、御父である神様の創造に関わり、独り子であるイエス様が肉をまとってこの地に来られたことを説明しています。この世を造られ、司る神様が、自ら創造された世にみ子であるイエス様を送ってくださったのです。世の主人の子であるイエス様が生まれたことを意味します。イエス様は人間をまとって、人として来られましたが、この事実を世の中の人々は気付かなかったと言いました。

ここで「言」はどのような意味を持っていますか。神様の口から出てくるみことばであります。ヘブライ語の「ダバール」(dabar)は、神様が自分の姿とみ旨を人間に表わし、摂理通りに歴史を導く手段として使われました。 この言葉はさまざまな意味を持っています。スピーチ、一般的な言語、会話などを意味します。 そして別の意味は、思考、約束、脅威、委任と命令、規則と規定、 教訓、相談、要請と願い、拒絶という言葉も該当する非常に幅広く使われる言葉です。

旧約聖書の詩篇の中で、「言」に関する内容が詩編119編で、新たな関係性を持つ宗教的な意味を持っていることがわかります。 ここで「言」は律法、法、法道、戒め、規律など多様な名称で使われ、同じ意味の言葉として使われました。 新約聖書のギリシャ語は「ロゴス」(logos)で、 陳述(ちんじゅつ)、言葉や言動、質問、命令、報告や噂、強化、記録された言葉、聖書の言葉、宣言または教え、言であるイエスを表す単語として登場しますが、今日の本文のみことばがその代表的な箇所です。

イエス様のみことばは、神様の国が近くまできているとい宣言と、すでにイエス様の人格とみことばの中に現れたもので、神様が全世界を司ることを啓示の言葉で予告をされました。イエス様は「主は言われた」という使者(messenger)の公式フレーズを使いませんでした。「はっきり言っておく」という言葉を使われました。 これはイエス様の言葉が持つ霊的な確信と権威を示すものでした。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と4節で話されます。神様が独り子に与えてくださった「言」の内に命があったと記しています。旧約聖書を通して見ると、神様は選んだ人々を呼び、彼らに会って直接言葉を与えられました。アブラハムとイサクとヤコブに、そしてヨセフにも話されました。 代表的な人物はモーセです。また、預言者たちを呼び、彼らに言葉を与えました。 預言というのは、預言者を通して神様のみことばを伝えた手段でもあったことを私たちはよく知っています。

こうして神様は直接人々を呼び、預言者に神様のみ旨を伝えさせました。今、神様は自分の独り子であるイエス様をこの地に送られました。この表現が「言は肉となって私たちの間に宿られた」なのです。私たちはこれを「受肉(じゅにく)(Incarnation)」と言います。永遠の神が人になることを意味する言葉で、聖書にはこの言葉が直接使われていませんでしたが、神が人になることに対する受肉の教理は聖書のあちこちに散見されます。聖者イエス様は、受肉することで完全な神様であると同時に完全な人になったのだとコロサイの信徒への手紙2:9で、「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、」というみことばで記されています。神様が肉をまとってこの地に来られ、命がその中にあったと言っています。この命は人々の光であるとヨハネは4節で話しています。

信徒の皆様、光はどのような役割ですか。

事物、ここに物があります。 この物が見えるようにする存在が光です。 物が私の前にあっても光がなければこの物を見ることができません。 「かすかに何かが見える!」 その言葉は薄暗いが、少しの光があるとき言います。 先ほどの創世記1章2節、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。 光のないところには、混沌と空虚と深淵の闇だけがあるという言葉です。 ここで言う「混沌」とは「形がない」という意味です。 この言葉を光と結び付けて考えると、光がないため「形を見ることもできない」ことになり、「空虚」という言葉は「何もない」という意味です。 ただあるのは、何も見えない深淵の闇だけがあるとのことです。

この状態を説明するならば、皆さんは洞窟に入ってみたことがあるでしょう。 済州島に行くと、世界的に有名ないくつかの洞窟があります。その洞窟に安全帽子をかぶって入れば、洞窟の中の道を照らしてくれる小さな電灯がついています。もしこの時、この電灯が消えてしまうとどうなりますか。何も見えなくなります。しかし、再び電灯がつくのであれば、太陽のように明るい光ではないが、電灯の光によって明るくなるでしょう。

人類が電気を使うようになったのはエジソンからでしょう。1897年にアメリカの発明王と呼ばれる「エジソン」が白熱灯を作り、照明器具が開発され、太陽のない真夜中でも昼間のように活動できるようになりました。インターネットは、海と地面に敷かれた光ケーブルを通して世界を一つにつなげました。レーザーやX線の光を活用した医療機器は人々の健康のために使われています。ところが、ここで重要な一つの事実は、光が反射されると物体の存在が確認できるということです。

私たちに物体が見えるのは、光が反射する性質を持っているからだということを科学の授業で学びました。 太陽からの光は直進し、物体に当たって四方に反射されます。これらの反射された光の一部が私たちの目に入ると、私たちは物体が認識できます。 そして、光の瞬間加速度は(30万Km/s)に限られているのです。 地球の周りが4万Kmなので、瞬く間の1秒で地球を8周するという論理です。このような光の本質を見ると、この光を人が認識できない理由はありません。しかし、今日のみことば5節には、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と書かれています。

ここで質問が生じます。光は暗闇の中で輝いているが、暗闇は光を理解しなかったという言葉の意味は何でしょうか。 言が肉として現れる前にも永遠である神様の言は、直接話されて、預言者を通しても話したと先説明しました。 結局、堕落した世界に命を持つ光が来られても、人々は気付かなかったのです。

その理由の中で一番に、神様として永遠の言は、堕落した人間の心に入ることを望んでいましたが、人間はそれを簡単に受けいれませんでした。旧約聖書では、人間が暗くなった良心に光を照し、輝くことを期待しましたが、反射できる力が人間にはなかったのです。これは、自力で救いが得られない人間の限界を説明することでもあります。

第二に、旧約の啓示と契約を通して永遠の言は暗闇の中で輝いていました。闇を明かすようにこの世の光に命じた彼自身が、長い間闇の中で輝いていた光であったのです。 しかし、堕落したこの世はあまりにも無力でした。罪と誤りの闇が大きすぎて、この光は覆われていました。光を、啓示で、律法で表した「言」を持っていた当時のユダヤ人たちでさえ、光の中におられるキリストを理解できなかったのです。 ですから、異邦人たちの過ちを正し、ユダヤ教が持っていた真理を補強するために、キリストは必ず来なければならなかったことを、使徒パウロは証ししています。 ほとんどの人は闇の中で輝いている神様の恵みの光を受けられずにいるのです。

このように光が現れたが、その光が反射できないユダヤ人たちと罪人になっている人類に、神様の力のきらびやかな光が降りてきたのです。堕落した人間の無能力の中で、罪に陥り、自ら神様に近づけない凄惨(せいさん)な状況にいた人類に、イエス様が来られたのです。 そしてこの光を受け入れる人々に与えられた祝福は救いでした。

今日、私たちが聖誕節の深い意味を考え、これを信じて進む道は、私たちの努力によるものではありません。私たちを信仰の道に導いてくださるみことばによるものであり、神様の恵みだからです。みことばの役割は、このように信じられない人たちに、能力として来られ、希望と平和と愛と救いの道に私たちを導いてくださることです。

今日21世紀を生きながら、イエス・キリストを信じる私たちに与えられた祝福を悟らなければなりません。 この祝福は、記録された「言」である聖書が私たちに与えられたことです。神様を知って、イエス様がどのような方であるのかを教えてくれるのが聖書です。なぜ聖書のみことばと言いますか。聖書は神様のみことばが記録されているので、私たちは聖書のみことばというのです。聖書とは、聖霊の導きの中で使徒たちと著者によって記録され、今日まで神様のみことばを伝える道具であり、イエス・キリストを知らせる本であり、正しい信仰生活のためのガイドブックなのです。

世界の宣教の歴史を見ると、宣教師が宣教をしなければならない地域に到着し、その地域の言語を学びながら最初にする働きが、聖書を宣教地の人々の言葉に翻訳することです。このように翻訳作業をすることで、その地域や国の人々が神様のみことばである聖書を通して福音を受け入れることができるからです。

昨年、私は日本の聖書翻訳の歴史について少し説明しました。我が国の事情も日本と似通っていました。宣教師たちが当時の朝鮮という、全く知らない国に行って福音を伝えようとしたとき、最も急いだことは、神様のみことばである聖書を朝鮮の人々が読めるように聖書を翻訳することでした。我が国の聖書翻訳の歴史においても、不思議なほど奇跡的なことが続きます。

普通ならば、宣教師が宣教地に行き、言語を学び、翻訳して聖書を作ることが一般的です。しかし、韓国の場合には、宣教師が韓国の土地を踏んだとき、すでに彼らの手にはハングルの聖書があったという事実は本当に奇跡的なものです。我が国のプロテスタント宣教歴史は、米国宣教師のアンダーウッドとアペンセラが仁川(インチョン)に到着したことから始まりました。 1885年です。しかし、宣教師たちは1882年、日本にいた李樹廷(イスジョン)の努力で、聖書の一部が翻訳され、この小さな福音書を持って入国しました。韓国に初めて伝えられたのは漢文の聖書だったが、1832年オランダ聖書公会所属ギュツラフ (KFA Gutzlaff)宣教師が最初であり、以後ハングル聖書翻訳も満州ではスコットランド宣教師ロス(J. Ross)とマッキンタイヤ(J. McIntyre)、李應贊(イウンチャン)、白鴻俊(ベクホンジュン)、金鎭基(キムジンキ)、李盛夏(イソンハ)、徐相崙(ソサンリュン)などの韓国青年たちの助けを借りて、1887年に新約聖書『イエス・宣教全書』を出版しました。

このように、受肉されたイエス様の働きと、神様のみことばとイエス様のみことばが今日、私たちの信仰の最も中心になるので、私たちはこれを大切に考えているのです。待降節の第3主日、「言」で来られたイエス・キリストと私たちの手にある記録されたみことばである聖書を読み、黙想し、実践することで正しい信仰の道を歩んで行きたいと思います。「言」の光が全世界の中で輝いているクリスマスを来週迎えます。

「言」で宇宙万物を造られた神様、「言」であり、独り子であるイエス様をこの地に命の光として、送ってくださったことに感謝します。深淵の闇のような世の中に光として来られたキリストの救いの光が、全世界を生きらせてくださり、感謝します。 来週の聖誕の主日を、喜びを持って迎えるように導いてください。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名で祈り致します。 アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年12日>待降節Ⅱ

                         説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 神の平和が伴われる時間

* 聖書 : フィリピの信徒への手紙44節~7

</新共同>

  1. 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。5. あなたがたのい心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。6. どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7. そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう。

<説教>

待降節第2主日に灯した蝋燭の意味は「平和」です。

年月が過ぎた後、2021年という年は人類にとってどのような年だったと定義されるだろうと考えてみました。コロナ時代という言葉とともに、マスクとソーシアルディスタンス、不安と恐怖、死を考えるのではないかと思います。

このような時代の中で、私たちが本当に求めているものは何でしょうか。恐らく先週のテーマだった「希望」でしょう。 また、私たちはこの世界のすべてと平和な関係を持って生きたいと願っています。自然と人との間も非常に重要です。一番に家族や隣人や職場や地域で一緒に暮らす人々、広くは民族と国家との間でも平和を保つことが望まれ、またそれのため努めています。

2021年の待降節第2主日、「平和」というテーマを考えながら、このような質問を先にします。「私は平和を望んでいるのか。」ということです。私が生きてきた過程で、私は、私たちは何のために生きてきたのか、心から平和を期待して生きたのか、私がクリスチャンとして生きながら、私の信仰の告白の中で、「神の中に平和があることを私は認めるのか、その平和を渇望していますか。」と問うようになります。心に平和を保って生きることが精神的な面だけでなく、肉身、肉体的な面でも命を生かすことになるということを私たちは知っています。

『神曲(La Divina Commedia)』という作品で、今日も「ダンテ(Dante)」の名は轟いており、彼は「神様の心の中に私たちの平和がある。」と宣言しました。ダンテは、神様が統治権を行使するとき、その統治の中で私たちの平和は終わりがないと言いました。「私たちの生活の中で、平和が川のように流れたいと願うのか。それなら、神の中で休もう。神と向き合って静まろう。自ら焦ってはいけない。目に見えるものと一時的なものを無視せよ。目に見えないものと永遠のものへ顔を向けよう。極めて高い方の秘密のところで生きよう。そして全能の方の影の下に隠れよう。神は私たちの要塞であり、高い櫓(やぐら)であると告白せよ。私たち自身とすべてのものの間に神を置こう。私たちが生きる人生の一つの目的が神を喜ばせることにせよ。主に平和を求めよう。」とダンテは自分に問います。

神様の中に真の平和があるのは真理です。従って、ダンテは平和を望むすべての人は、主を探し主に求めるべきだと言っています。雑多な人々を見ないで、一人でおられる神様に我らの目をむけよう。そして、いろいろな人たちと生活が乱れて悲しみに陥っているすべての人たちのために祈りながら、優しくて情け深い目で彼らを注意深く見る方法を学ぼう。私たちが求めるすべてのことを神に知らせるようにしよう。それで、神の平和が私たちの心と精神に留まるようにせよという内容です。彼は祈ります。 「私を主に導いてください。主の平安に至るまで、主の平和が与える静けさの中で、私に主の声を聞かせてください。なぜなら、主の心はいつも静かで、愛が溢れ、そのように近いからなのです」。正に一字一句、恵みが溢れる言葉でつながっています。

今日、私は「平和」というテーマの中で、使徒パウロがフィリピの教会に送った手紙の結論の部分を選び、皆さんと一緒に読みました。待降節に一度考えてみる価値のある言葉だと考えました。フィリピの信徒への手紙、これは喜びの手紙です。喜びは、この手紙全体に流れる重要なテーマの一つです。この手紙には「喜ぶ。 喜び。共に喜ぶ。」という言葉が少し異なる内容ではありますが、パウロの手紙の中で最も多く出ています。それで、古くから聖書解釈学者たちにフィリピの信徒への手紙を「喜びの手紙」と言われました。

今日読んだ部分を見ると、本文の最後の7節に出る「神の平和」、「平和の神様」、「平和を享受する道」、「持続的な喜びの秘訣」という言葉で表現が可能だと思います。平和と喜びは離そうとしても離せない関係ではないでしょうか。今日、みことばの前後を見ると、主によってしっかりと立つことはどこから来るのでしょうか。それは関係の正常化から来ると思うのが正しいです。これが平安、平和の基本概念だからです。平和の中で自然に湧き上がるのが喜び(4節)だからです。喜びのある心に平安、平和があり、次に私たちの心に余裕と寛容と許しが可能であることを生活の中でも知ることができます。

パウロがみことばを読む信徒たちに求める内容を探してみると、まず、「主によってしっかり立ちなさい」というみことばは、神様との関係回復をしなければならないというメッセージです。その後は、「同じ思いを抱きなさい。」というのは、信仰の家族であるクリスチャン同僚との関係回復を説明しています。最後に、「すべての状況において感謝しなさい。」と「あなた方の寛容をすべての人に知らせなさい。」ということです。事実、信仰歴が長い信徒たちは、人生の経験と信仰生活の中で経験された大切な証がたくさんあります。平和な家庭になるために何をすべきかを知っています。教会の中でどうすれば教会共同体が平安に平和に過ごせるかを知っておられます。国と国の間でもそうではありませんか。巧みな政治家と多くの経験を持つ参謀たちが国家の政策を立てながらも、隣国とも争いなく平安に過ごせるものを見つけてそれを実践することを知っています。

クリスチャンである私たちは、この社会でどうすれば平和を実現できるかを知る人々です。実際、今日の本文を神学的に見ると、しばしばイスラエル語で表現する「シャローム」という言葉は関係性用語であり、心理学的な用語ではありません。この言葉は「人間が神様との関係では崇拝者であり、隣人との関係では競争者ではない同伴者(partner)で、被造物や世の環境との関係では管理人(働き人)としているときに真の平安を味わうことができることを意味します。イエス・キリストの出来事(十字架と復活)は、人間の罪によって壊れた関係を回復しようとすることです。(コロ1:20;エフェ2:14-18;ロマ5:1)。平安と平和は、こうして人間が神様、人間(隣人)、被造物との正常な関係にあるときに来るものであり、そこに真の喜びがあることを言います。

これらの平安と平和を望む信徒たちがすべきことをパウロは提示しています。まず、「思い煩うのはやめて祈りなさい。」と言います。祈りに対する具体的な答えがなされる前であっても、また環境や人は変わらなかったとしても、すでに祈る人々の考えと感情をしっかり守ってくださる理解できない神様の平安が、最も偉大な祈りの答えではないでしょうか。 4節で,「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。神様の平安を享受したい人は、まず自分との関係を回復しないといけません。自分との関係が回復され、自分を愛する人は主の中で常に喜ぶことができ、主の平安が享受できます。実際、

 

各個人の心の中に不安と恐れがあるなら、決して喜びを享受することはできません。フィリピの信徒への手紙では,「喜ぶ-喜び-一緒に喜ぶ」、「主において常に喜びなさい」と二回も強調しながら命令します。この言葉は、現在どのような危機に瀕しているとしても喜びなさいということです。

実際に、使徒パウロはフィリピの牢獄で囚人として扱われ、鞭を打たれ、牢獄にたたきつけられたときにも讃美して喜びの見本を見せてくださいました。また、ローマの牢獄に囚われ、死に襲われる苦難の中でも喜ぶ人生の見本を見せてくださったのです。使徒パウロがこのように常に喜びの中にいられたのは、この世の楽しいことによるものではなく、主が彼の心の中に臨在していることを体験していたからです。

ガラテヤの信徒への手紙2章20節で使徒パウロはこのように言います。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」という言葉を私たちは覚えています。

愛する信徒の皆さん,世の喜びは瞬間的で肉体の感情や状況によって変わる不完全なものですが,主の中で享受する喜びはすべての環境を超え,肉体の感情を屈させ、服従させる大きくて完全な喜びです。我らも使徒パウロのように、主の働きをしながらも非難を受け、迫害され、死の脅威にさらされても、喜びを享受できます。これが常に喜ぶ人生を送りながら、神の平安を享受する信徒の姿です。

第二に、「考える方法、思考の枠を変えなさい」と8節を中心に考えることができるでしょう。私たちクリスチャンは、思考の枠を世の道徳以上に福音の教えに変えていくとき、平和を享受することができます。 例えば、受けるのが良いのではなく、「与えることが受けるよりももっと幸せになる」という主のみことば通りに思考が変わった人々の姿が、尊くて称賛されるべきであることは皆認めるでしょう。このような信徒たちに、神様の平安が加わり、喜びがより大きくなるでしょう。神から受ける祝福だけを考えるのではなく、その祝福に対する義務と使命を先に考える信徒たちに、平安の神様は共におられ、彼らの動機の純粋さと信用できることによって、世の評判もよくなるとの言葉です。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」このみことばのように、神様の平安を享受したい人は隣人との関係が回復されなければなりません。隣人との関係を回復するためには、隣人に「寛容」を施さなければなりません。隣人を広い心で穏やかに扱い、許すようになると、神の平安が享受できます。ここで神様の平安を享受した人が施さなければならない「寛容」(エピエイケス,ejpieike”)は、迫害に対する柔和、自分に損害を与えた人に対する容赦、感情の完全な節制、事務処理の公正性、性格の親切さなどを含む言葉です。言い換えれば、当然である自分の権利を放棄し、他人をいつも広い心で接する態度を指します。しかし、使徒パウロはこのような寛容の態度をある特定な人たちだけでなく、「全ての人」に施しなさいと言っています。

最近、また南アフリカ共和国が世界中の人々の話題に上がっています。 コロナウイルスの中で今回新たに発見された「オミクロン」変異種が南アフリカ共和国で発見されたため、世界メディアは南アフリカ共和国を言及しています。 黒人で最初の大統領となった「ネルソン・マンデラ」について、以前お話ししましたが、マンデラ大統領より先にノーベル平和賞を受けた方がおられます。

南アフリカ共和国教会協議会の総務である「デスモント・ツツ(Desmond M. Tutu)」司教です。 1984年10月、南アフリカ人種差別政策を廃止し、人種統合を達成するために努力した功労でノーベル平和賞を受けました。彼は2,100万人の黒人に全国土の13%だけ与える政策が間違っていることを指しながら、次のように語りました。「第一に、黒人も神の形で創造された人間です。第二に、イエス様の和睦精神に違反する。第三に、誤った結果として現れた政策である」。ツツ司教は、教義や宗派、そして人種の壁を超えて平和を渇望する現代人たちに、真の平和の道を提示してくれました。虐げられ、迫害された黒人が、神様が本当におられるなら私たちをこうしてほうっておいたのでしょうかと言いながら、「白人の神様は働き、黒人の神様は寝ておられる」と言っていた葛藤の現場で、彼は平和の種を蒔き、育て、平和の実を結ぶ道を開いた方なのです。

私たちが救いを得たのは、教理や教派、身分や地位、貧富や貴賤(きせん)によるものではなく、主イエス・キリストを信じることによって可能なことであることを知るべきです。キリスト・イエスの中にいるとき、私たちは真の平安を享受し、天国を所有することができます。 『許しが未来だ』という本はツツ大司教の信仰告白です。 本の題目のように、「許しが未来だ」というこの言葉は、イエス様の精神を一言で表現したものです。

今日、私たちが日本と韓国の狭間で暮らしながら、最も切実なものが何かと思いますか。まさに平和と仲良く一緒に暮らすことではないでしょうか。許しがない無慈悲は、結局明日が約束できないだけでなく、未来も真っ暗であるということです。私たちのキリスト教徒の広い心を世界の人々に見せるとき、本当の平和が来るでしょう。

第三は「すでにわかっている主の教えを行う」ことです。

今日、信徒たちは多くの説教を聞きました。信徒たちの恵み溢れる証も聞き、私もあのようにしてみたいと

思ったりします。聖書勉強、弟子訓練、信仰セミナーなどにどれほど参加し、学びましたか。既にたくさん学び、たくさん受け、たくさん見たので、もはや実行することしか残っていないのですが、今日のみことばでは、「神様の平和」が経験できるだろうと言っています。

わが主の降臨を準備する待降節の第2主日、この地に平和の王として来られたイエス様に会うことで、真の平和を享受しなければいけません。待降節はベツレヘムで生まれ、現在私たちの心の中におられ、今から再臨されるイエス様を待つ季節です。私たちはこの待降節の期間に、「平和の手、インマヌエルの神様、救いのメシヤ」として来られたイエス・キリストの降臨に感謝し、礼拝をささげ、悔い改める心で過ごすように努めなければいけません。愛する信徒の皆様、この世のどこも真の平和を得るところはありません。ただ、イエス・キリストにおいてのみ、真の平和が共にあります。(4,8節)主は話されます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。 (ヨハネ14:27)

恐れず、心を騒がせず、喜びを持って進みましょう。

<祈祷>

平和の主人で、この世に平安を与えるためにベツレヘムの飼い葉桶に降られた主を待ちます。主よ、来てください!神様の平和が全世界に広がり、妬みや争いや戦争が終わり、愛で覆われた美しい世を夢見ながら祈って進む私たちに新たな信仰と新たな力を与えて下さい。待降節を通して、これが実践できる信仰人にならせて下さい。平和の王である主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年1128日>待降節Ⅰ

                         説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

*題目 : 希望と安全、平安の季節が

聖書 : ヨブ記 1116-20

[/新共同訳]

16. その時、あなたは労苦を忘れ/それを流れ去った水のように思うだろう。17. 人生は真昼より明るくなる。暗かったが、朝のようになるだろう。18. 希望があるので安心していられる。安心して横たわるために、自分のねぐらを掘り 19. うずくまって眠れば、脅かす者はない。多くの人があなたの好意を求める。20. だが、神に逆らう者の目はかすむ。逃れ場を失って/希望は最後の息を吐くように絶える。

<説教>

2021年待降節を迎えました。 人類を救うためにこの地に来られたキリスト・イエスの誕生を待つ節期です。 この世の暦は、2021年の最後の月を控え、一年を整理し、迎春を準備します。 しかし、教会は今日から新しい一年を始めます。 教会はイエス・キリストの誕生と、彼の死と復活、聖霊の降臨が中心となるからです。待降節は、クリスマスを控えて4週間守る節期です。 教会が使う色も紫色に変わります。 キリストの権威と待ち望みを象徴する色です。

年末になると、すべての人はイエス・キリストを信じる人であろうと、信じない人であろうと、一年の終わりを整理しようと考えと共にクリスマスを思い出し、心をときめかせます。特に近年の数十年間、聖誕節は、教会中心ではなく、デパートや商店街が中心となって広げる商業戦略や華やかな装飾に目を奪われてしまいました。教会はまだイエス様を迎える準備ができていない時間でも世の中だけがクリスマスで忙しく歩き回っている様なのです。このような社会現象の中で、どのようにすればクリスマスの本来の意味を回復できるのだろうか。このような心配が今日の教会に与えられた課題です。信仰の家庭の子どもたちも、クリスマスの正しい意味を教えてもらう前に、クリスマスのプレゼントにもっと関心を持つようになってしまいました。神様が人の子となったという驚くべき秘密が込められたキリスト教の本来の意味を再び探してみる待降節第1週目になることを願います。

伝統的に、待降節の第一週目は、待ち望みと希望を象徴し、最初の一本目の蠟燭に火を灯します。 2年前から始まったコロナ禍で全世界が不安と恐怖に陥っています。昨年の聖誕節期のときも、私たちは自由に礼拝をささげることができず、暗くて憂鬱なクリスマスを過ごしました。 1年前、コロナの感染状況は世界の患者6200万人、死者145万人でした。 一年が過ぎた今、世界の感染者総数は2億6000万人で、死者520万人です。 そして、私は皆さんに「希望は捨てられない」という説教を致しました。

私は人間が生きていくこ中で精神的な柱になるのが「希望」だと思います。有名な哲学者キェル・ケゴール(Kierkegaard)は、「死に至る病は絶望である」と言いました。 あまりにも有名なので誰でも覚えている言葉です。 私も彼の言葉に同感しており、キエール・ケゴールの言葉は正しいと思います。 絶望とは希望の断絶を意味します。 絶望が人の心に満ちると、希望が入る空間がないのです。 人は希望を食べて生きる存在だとも言います。 しかし、動物は絶望しません。 また、死者にも絶望はありません。 絶望していることは生きていることを意味します。 しかし、この絶望が大きければ大きいほど希望は小さくなり、生きる価値さえも喪失してしまうのです。

「ヴィクトール・フランクル」(Viktor Emil Frankl)という人は、1905年にオーストリアで生まれたユダヤ人として「ロゴセラピー」という心理学を創始した有名な心理学者、哲学者です。 彼が書いた「夜と霧」(From Death-Camp to Existentialism)という本は、第二次世界大戦捕虜収容所で直接経験した捕虜生活を記録した自叙伝(じじょでん)のような本で、捕虜収容所での経験を通じて自分が研究した個人心理学である「ロゴセラピー」を発表した本でもあります。 フランクルはホロコーストの生存者であり、四つの収容所(テレジエンシュタット、アウシュヴィッツ、カウパーリングとトルクマン収容所)を経た特別な経験をしたのは、彼がユダヤ人医師だったため、収容所で患者の世話をする役割も持っていたからです。

捕虜収容所の状況は悲惨の極まりでした。 飢餓と人間以下の扱いを受ける恥辱、死に対する恐怖、骨に凍みる寒さと労働、そして自分の心から起きる不義に対する憤り、体が経験する肉体的な苦痛や病の中で生きていく捕虜たちの姿を語っています。 多くの人が死んでいく中でも最後まで生き残った人々がいました。

生き残った彼らには一つの共通点がありましたが、「ヴィクトール・フランクル」は、未来に希望を持った人々が生き残ったと証言しています。 ある人は死について平然としようとし、ある人は愛する人の姿を思い出すことで生きようとしますが、彼らは結局死んでしまいます。 しかし、未来の希望を握って生きていく人だけが惨めな死の苦しみに勝ち、結局は生き残ったという話です。 未来に対する希望は生きる意志を引き起こしますが、希望を捨てたり失ったりすると結局死をもたらしました。

苦難と逆境の中で希望を持つことを私はこう考えてみました。第一は、個人的な経験、第二は国家や民族的な経験であり、第三は世界的な、宇宙的なものだと考えます。 その理由を皆さんと一緒に探していきたいと思います。 ヨブが経験した苦難と逆境は個人的な経験だと言えます。旧約聖書の中で、義人になぜ苦難があるのかに対する「苦難の謎」を扱った本です。 ヨブという人物と起こった事件についてはいろいろな意見がありますが、私たちがよく知っているように、サタンがヨブを試すことから始まります。 聖書で神様がヨブをどのような人だと言っているのか見てみましょう。1章8節で、「彼は無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている者」と言います。1:8主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

すると、サタンは神様に「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」とヨブの信仰を軽んじて嘲笑います。サタンは,ヨブが神様を恐れて生きるのは,ヨブの手の業に祝福を与え,彼の家畜が地に溢れるようにしたからだと言います。だから、そのすべての所有物を彼の手から奪うと面と向かって神様を呪うに違いないと言います。結局、サタンはヨブを大きな苦境に追いやります。最初にしたのは祝福だと思っていた10人の子どもたちとその多くの財産を一瞬で奪います。サタンの考えは、子どもと財産を失うと、ヨブが神様を呪い、背くと考えたのです。そしてヨブの体に手を下し、病まで与えました。人にとって子どもや所有する財物を失うことが大きな打撃になりますが、一瞬ですべてを失くし、その上自分の健康も損ない病に苦しむことになると、これも耐え難いことです。その渦中に、妻と友人たちが訪ねて言う言葉は、あなたが犯した罪があって神様に罰を受けているのだから悔い改め、神様の前に行かなければならないと言います。原因を知らずに言う原則的な言葉かもしれません。

ヨブはこのような苦しみと苦難の中で神様に祈り、恨みや不平も言ったりしました。 しかし、彼の心は変わらなかったです。 ヨブはこのような苦しみの中でも神様に対する信仰と希望を捨てませんでした。 友人であるツォファルはこう言います。 「あなたが正しい方向に思いをはせ、神様に向かって手を伸べるなら犯した罪があなたの天幕から離れるだろう」と言いました。 ヨブに襲った苦難の原因は、ヨブが犯した罪のせいだと定めたのです。

ここで、ヨブが持っている信仰の根本的な内容をみることができます。人が神様の前に真っすぐ立つようになれば、命の日が昇り、現在の闇のような苦難の中にいても朝の燦爛(さんらん)な太陽を迎えることができることを知らせます。 希望があるので、人生において安全かつ平安が宿ることをわからせてくれます。一人の人生において希望を持つということが、どれほど重要なことかを確認できます。

二つ目は、国家と民族が困難の中でも希望を捨ててはならないことを、神様が預言者たちに知らせてくださいました。エレミヤの預言者も苦難と苦しみの中で神様のみことばを受け、民に伝えながらあまりも苦しく、民が遭う苦しみを考えると涙しか出てこなかったので「涙の預言者」と言われます。ユダに臨む神様の裁きは、バビロンを使って戦争で負けることは無論、民は捕虜になって異国の地に連れて行かれるだろうと予言させたのです。うまくいくのか、祝福を伝えてもなかなか信じないのが人々の心理なのに、審判で滅亡され、死なれ、捕虜になる苦しみが臨むだろうという言葉を気持ちよく受け入れる人がどれくらいいるでしょうか。神様の裁きの内容はすでに決まっていました。捕虜生活も日にちが決められて祖国ユダに戻ってくるだろうと言いました。しかしユダの指導者たちと民はエレミヤの言葉を信じませんでした。

エレミヤ32章で、預言者エレミヤはユダが滅亡を避けられず、バビロンによって滅びると重ねて預言しました。そのため、ゼデキヤ王はエレミヤを獄舎に拘留させました。この時、預言者に臨んだ主の言葉は、「アナトト」にある叔父の畑を買い取るように命じます。アナトトはエルサレムの北東に約5キロ地点にあるところでエレミヤの故郷です。そこにはエレミヤの親戚が住んでいました。おそらく、いとこの中で一人が土地を売らなければならない境遇だったようです。そしてユダヤの習慣によって、土地を相続し所有する法的な権利がエレミヤにあり、それでいとこがエレミヤに畑を買うようにと言います。エレミヤは神の言葉に従って、銀十七シェケルを量って支払い、証書を書いて、証人を立て、バルクに購入証書を長く保存するようにと頼みます。

一般的な常識では理解できないことが起きました。 間もなく国がバビロンに滅亡され、国土は荒廃され、エレミヤ個人も獄舎に拘留されており、未来がわからない暗鬱な現実でありました。 このような時期には、持っていた土地も売って現金を作るか、持ち運びしやすくするため金塊に変え避難するのが常識です。 しかし、エレミヤは叔父の土地をたくさんの銀を支払って購入します。 これは、単に親戚の困難を助けるための慈善の意味でなく、土地を買った後に購入証書を封印し、よく保存するように頼みます。

エレミヤはなぜこのようなことができましたか。 希望があったからです。 国が滅び、命が危ない状況でどのような希望があるのかと言うかもしれませんが、エレミヤには神様から与えられた希望がありました。 エレミヤ30章以降に見るとユダが罪で滅びるが、神様が新しい回復の約束を与えて下さったのです。 神様は土地を買ったエレミヤにこのようにはっきり話されました。30章15節「イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る』と言われるからだ。」

涙を流しながら祖国の敗亡を言い、自分も捕虜に連れて行かれる立場だったのにもかかわらず、エレミヤ預言者は神様の約束を信じました。神様の約束が希望になりました。このような希望があったので、土地を購入したのです。現実の可能性を基にして希望を持ち、行動したのではありませんでした。もしそうなら、エレミヤは何もできなかったはずです。 神様の言葉に従うことができなかったでしょう。彼が畑を買って、明日への希望を持つことができたのは、国の状況が変わったからではありません。 自分の立場が変わったからでもありません。すべての現実の条件は前と変らなかったのですが、預言者は神様の「回復させる」という約束の言葉を信じ、希望を抱きました。真なる神様の約束なので、エレミヤは絶望せず、希望の中で新しい未来を夢見ることができました。

このように、人は希望がなければ人生の未来と情熱を抱き生きることができません。国や国家も挫折を経験しながら絶望するしかない事に遭います。希望がない人は苦難に襲われるとその夢を諦めてしまいます。しかし、希望を持っている人は、苦難の後に来る成功や希望を眺めるのです。希望のない人は生きる情熱を持つことができません。すべてが虚しくて儚いのです。すなわち希望は生きる力であり、人生の力になるという言葉です。

今日の世界がコロナ禍によって大きな苦しみと苦難の中にいる事実を誰も否定できないでしょう。説教準備をしている途中に入ってきたニュースは、南アフリカ共和国で強力な新しい変異コロナウイルスが検出されたというニュースでした。WHO(世界保健機関)がこの強力なウイルスをオミクロン(B.1.1.529・オミクロン)という名前をつけたそうです。日本政府は、南アフリカ共和国から入国するすべての人々に隔離を強化するとのニュースを出し、米国ニューヨーク証券取引所では株価が暴落したとのことです。

このような世界的な災害の中で、聖書でバベル塔の事件やノアの洪水などが頭を過ります。イエス様が来る前に、イスラエルはすでにローマ軍によって戦争で敗北を経験し、イエス様の予言どおりに西暦70年、再びエルサレムは敗亡しました。しかし、これらが世界の終わりではないと言われたことを私たちは覚えています。イエス様が弟子たちと信じる信徒たちに再臨を約束されました。2000年前にベツレヘムの飼い葉桶に来られたイエス様の誕生を祝うのと同時に、今日を生きる私たちクリスチャンは再び来られるイエス様を待ちながら生きるのです。

ヨブが愛する子どもたちと神様から与えられた財物をすべて失っても、神様に対する信仰と希望を捨てなかったので、彼は神様から再び回復の祝福を受けました。涙を流しながら神様の言葉を伝えた預言者エレミヤは、間もなくバビロンの捕虜になることを教えるのと同時に、土地を購入せよということと捕虜からユダに戻る回復を約束された神様の言葉を固く信じました。エレミヤは絶望せず、希望を持ってその土地を生きる信仰を見たのです。

全世界が水の海になり、城が崩れ、民族が散らばる苦難の中でも希望を捨てなかった信仰の先輩たちがいました。世界が生き残ったことを覚え、コロナ禍中でも2021年に迎える待降節と聖誕節、神様が私たちを守って下さり、回復して下さることを信じて進みましょう。

希望!それは主がすべてに勝たせるために私たちに与えて下さった祝福です。希望と安全、平安の季節が

私たちの心に、私たちの教会と地域社会と全世界に臨まれることを共に祈りましょう。

<祈祷>

慈しみ深い神様、絶望の中でも希望を失わないように導いて下さり感謝をささげます。2021年待降節の第一主日、私たちに希望を歌わせ、希望のみことばを分かち合わせ、希望を祈り、希望に満ちた信仰を持って生きていくようにならせて感謝します。世界に主からの真なる希望が宣布できるようにさせて下さい。感謝をささげながら、希望を与えるためにベツレヘムの飼い葉桶に来られた主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年1121日> 五旬節後第26主日

                         説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

*題目 : 美しく創造された世界

聖書 : 創世記1章26節-31節

[/新共同訳]

26. 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 27. 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28. 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 29. 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30. 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31. 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六である

<説教>

教会の暦(節期)は感謝節を過ぎ、待降節を一週前と控えている主日です。今日は、皆さんと分かち合うみことばは、神様が私たちに与えて下さった宇宙と地球村の話を一緒にしたいと思います。

先週、イギリスのグラスゴーという地域に世界から197の政府代表団が集まりました。 実際、国連に加入している国が193カ国ですが、ここに集まった国数はもっと多かったです。 会議の名は第26回国連気候変動協約締約国総会(COP26、議長国:イギリス)で、2週間の会議を終え、11月13日午後23時30分頃(イギリス現地時刻基準)に閉幕しました。 元来の計画は11月12日(金)に終了予定だった国際会議が一日延期する想像できないことが起こりました。 今回の会議には、197ヵ国の締約国政府代表団を含め、産業界、市民団体、研究機関などで4万人余りが参加した大規模の国際会議でした。 国連が中心となり、「地球を生かそう!」と掲げました。

元来この国際会議は2020年開催予定でしたが、コロナ禍で1年延期して集まった会議でした。120カ国では大統領や首相や関係省庁の長官や責任者が集まりました。この会議の中心課題は、一言で言えば地球温度が上がっているので、1.5℃以内にしてみようという内容で、世界のすべての国々が気候行動を強化しようという約束をする会議でした。コロナ禍の後、私たちは温度に非常に敏感になりました。 人の平均体温を36.5℃としたとき、コロナ菌に感染すると発熱します。それも1.5℃から2℃ぐらい上がっても病院で一般的な診療を受けれないことを経験しました。実際、最近の地球は10年単位で見ると、平均2℃以上上がると、地球に大災難が起こるだろうという専門家の研究を基にして、1.5℃以内にしようとのことです。

皆さん、地球の気温が1.5℃や2℃上がることが、私たちと何の関係があるのかと思うかもしれません。しかし、これは他人事ではありません。 まさに私たちの事です。 さらに、神様が創造されたこの美しい世界を私たちに与えて下さったので、この創造秩序をよく守り、幸せな生活を送るべきです。 今日、私たちはこのみことばを共に考えながら決心することは、クリスチャンにおいての社会的責任と神様のみことば、戒めに対する従順を一緒に考えなければなりません。

宇宙万物を最も美しく、秩序を持って創造されました。最後には人間を創造されますが、神様はご自分にかたどって人を造られました。そして、神は彼らに祝福を与えられ、産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ、地上のすべての生き物を支配し、管理する権威と能力と知恵を与えて下さいました。しかし、今日に至っては平安の代わりに不安と恐怖が、豊かさの代わりに貧困と窮乏(きゅうぼう)が来て、生きて繁栄せよという祝福がむしろ呪いのように、人口爆発の問題に変わってしまいました。それだけでなく、人間に美しさと有益を与える自然はますます破壊され始めました。なぜ祝福が災いに変わってしまったのでしょうか。それは創世記3章に記されているように、人間が神様の前に罪を犯したから生じたのです。創世記3:17後半を見ると、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。」と言われ、18節には「お前に対して土は茨とあざみを生(は)えいでさせる。」と言っています。人間が堕落した後、地は呪われるものとなりました。

その理由は、人間が罪を犯すことで管理能力を失ったからです。 神様中心の人生が自己中心の人生に堕落したからです。 したがって、利己主義は人間の堕落の結果の1つであります。 罪によって美しい人間の性格が破壊され、これによる管理不注意で自然環境はますます破壊されているのです。 農夫にいくら肥沃(ひよく)な土地を与えるとしても、管理を疎かにすれば荒地になってしまうのです。 管理する人がいつも酒に酔っており、仕事に関心がなければ、それが土地であろうが家であろうが廃墟になってしまいます。 したがって、土地であろうが家であろうがよい管理者に出会うのが重要です。

人間は一言で言うと良い管理者ではなく、破壊者です。 神様がくださった美しい状態を破壊しました。 良心を破壊し、神様との関係を破壊しました。 それだけでなく、エデンの園を破壊し、環境までも破壊してしまいました。 そして今は地球を破壊しています。 サタンは破壊者です。 人間が破壊の道具になったのは罪で神様に背いて、サタンの僕になったからです。 サタンが人間の背後で働いているからです。 それで今日もサタンは家庭を破壊し、人間の和睦を破壊し、教会を破壊し、さらには天国まで破壊しようと動いているのです。

世界の各国が環境問題に関心を持ち始め、1972年にスウェーデンの首都ストッククホルムで国際連合人間環境会議が開かれました。そして、そこで人間環境宣言を宣布しました。それから20年後の1992年6月にブラジルの「リオデジャネイロ」で国連環境開発会議が開かれました。 1997年には京都で開かれました。このように長い間、多くの人々が地球を生かそうとスローガンを掲げながらも、変わらず地球を破壊してきました。地球環境を専門的に研究する学者たちは、もし人類が10年以内に地球を生かさなければ、地球は滅びてしまうと警告しています。今でも地球の至る所では毎分6つのサッカー場の大きさである熱帯林が破壊されています。このまま行けば、今後30年以内に地球上にある熱帯林の3分の2がなくなるとのことです。もしそうなるのであれば、地球には想像を絶する災難が来るでしょう。

「ジョナサン・フォリット」は科学者です。彼は、「私たちが地球を生かせるために与えられた時間は10年ほどであり、これは最後の機会になるかもしれません。」と言いました。この言葉は30年前の言葉です。そして、地球のオゾン層の破壊で異常気温現象が起こり、地球は砂漠化していきながら、氷河が溶け落ちて海の水面がますます高くなっていくので、地球の土地の広さはますます狭くなってきているそうです。それだけでなく、オゾン層の破壊によって殺人の光線が防げられないので、結局人間は恐ろしい病で死んでいくことになります。熱帯林の消失で1年に5万種、1日に140種余りの無脊椎動物が絶滅しており、結局他の生物がそのように死ぬとしたら、次は人間の順番になるのです。地球の温暖化現象は、頻繁な干ばつと洪水の交差現象を起こし、台風まで頻繁に起こしているということです。

ところが、今回この気候変動に対する国連基本条約のための会議では、人間に与えられた30年の時間の中で、取り組むことができなかったという反省から始まったのです。 それは、自国の利益と発展を考えるのに勤しんで、地球全体の問題に気を使うことができなかったからです。 実は今回の会議が、一日延長され、協議書を決議する過程で、結局いくつかの国が反対をしたため会議が遅延したそうです。

最後の協議文締結と閉会をする日、議長だったイギリスの気候関連長官である「アロック・シャマール」議長は、声が震え、涙声交じりで会議の最後の発言と閉会を宣言した内容を、皆さんもニュースでご覧になったはずです。前回アメリカを襲ったハリケーンによって、ある都市が廃墟になるほど、多くの人命と財産の被害をもたらしました。 それだけでなく、ヨーロッパ地域ではフランス、イギリス、ドイツ、イタリアが、アジアでは、中国と私たちが住む日本でも集中豪雨によって甚大な被害を受けました。気象異変による災害が発生し、数百人が命を落とし、建物や高速道路や鉄道などが破壊されたことはニュースを見てよく知っています。

なぜ地球が死んでいくのですか?

無分別に捨てた工場廃水の重金属、ごみ、フロンガス、自動車の排気ガス、合成洗剤、そして蒔かれる農薬や殺虫剤…など結局、私たちが捨てるもののせいで、地球が病んで死んでいくのです。申命記20:19を見ると、「あなたが町を攻略しようとして、長期にわたって包囲するとき、斧を振るってその町の木を切り尽くしてはならない。…」と話されました。

このみことばは、樹木が人間の生存にどれほど重要であるかを説明しています。問題は、なぜ人間が地球をこのように破壊し、今も続けているのかということです。それは人間が堕落して病んでいるからです。これは歴史が語っています。創世記や出エジプト記を見ると、当時エジプトは中東地域の穀倉地帯でした。それで、イスラエルの国に大きな凶年が襲うたびに、民族がエジプトに降りて生きていたのを見ることができます。そのようにエジプトは肥沃な土地でした。しかし今はどうですか。今のエジプトは干ばつと凶年が繰り返される砂漠です。だからすべての必需品をほぼすべてを外国から輸入している実情です。乳と蜜が流れるカナンの地の場合はどうですか。同じです。不毛になってしまいました。白(しろ)香木(こうぼく)で鬱蒼(うっそう)としたレバノンはどうですか。今は一本の草も、一本の木も自然に生きにくい荒れ地になってしまいました。堕落した人間がそうしたのです。

神様は人間のために自然を創造されました。ですから人間が正しくなると自然も正しくなり、人間が腐れば自然も腐るようになるのです。その理由は管理を人間に任せたからです。どんなに良い車もドライバーの管理次第で、すぐにおんぼろ車になってしまいます。しかし、良いドライバーに会えば、新車のように走れて長持ちできます。車も良いドライバーに会わなければならなく、そうでなかったら台無しになってしまいます。環境学者たちは「環境難民」という新しい言葉を使っています。その言葉の意味はそこに住むことができない環境になり、追い出された人々を指します。人間が腐れば自然も腐り、自然が死ねば人間もそこで生きられなくなるのです。アダムとエバが罪を犯し、エデンから追い出されたました。恐らく、人類歴史初の環境難民ではないかと思います。罪を犯すと腐ってしまい、腐ってしまうと根づくところがなくなるのです。

「ジョナサン・フォリット」は、彼が書いた「地球を救おう」という本の中で、私たちは地球を短期間借りて使うのに過ぎないと言いながら、個人の責任が重要だと強調しました。正しい言葉だと思います。この地球は自然に生まれたものではありません。神様が造られました。この世には神様が作らなかったことは何一つありません。そして人間を作った後、そこに住みながら地球をよく管理するようにしばらく任せてくださったのです。ですから、私たち全員は地球を上手に管理しなければならない管理者です。私たちは善き管理者にならなければいけません。私たちは今、教会の良い管理者であるだけでなく、神様の地を借りて使う人間として地球の善き管理者になるべきです。まさにここにクリスチャンの大きな責任があるのです。実際、私たちクリスチャンは、自然環境問題や気候変動の問題においても、この世の人々とは少し違った視線を持って見なければならないと思います。

この地球村の問題は、自然と土地が問題ではなく、人が問題です。 人はそのままにしておき、いくら地と自然を直そうとしても何の効果もないでしょう。 少しは良くなるかもしれません。 しかし、基本的なものではありません。 根本的な解決策は人を直すことです。 それは教育だけでも足りません。 今日ほど素晴らしい教育方法と教育熱は、恐らく今までなかったでしょう。 しかし、人はますます悪に染まり、腐敗していきます。 罪悪に向かっている人類の足は誰も止めることができません。 唯一神様の力で可能なのです。

詩104:30節「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。」詠っています

そうです。 聖霊の力で新しい人になると、地も新しくなるということです。 私たちがまず神様の前に謙虚に悔い改め、新しい人にならなければなりません。 地球会議や環境会議のスローガンや標語のどれよりも重要なのは、聖霊の力でキリストの中で人々が変わらなければなりません。 新しい被造物として再創造されなければなりません。 それで人々の良心が甦り、価値観が新たになれば、環境も地も新たになるのです。 良心が動けば、工場排水を川に排出せず、ごみをこっそり捨てず、公害物質を躊躇いなく捨てることができなくなります。

良心が甦り、倫理が甦り、道徳性が甦るためには、聖霊様の力が働かなければなりません。 聖霊の力は人を変えるからです。 それで、まず自分自身が新しい人になり、他の人をキリストの前に導くのです。 簡単に言えば、私たちがまずイエス様を正しく信じなければなりません。 自然環境問題は人口の増加を、都市の人口集中はごみの処理問題、水質汚染、大気汚染などの問題を起こしていることを私たちは知っています。

国家的には核実験、核廃棄物の処理問題、原油流出事故も環境汚染を引き起こす原因となっています。また、今回の会議の重要課題であった化石燃料(石炭、石油、天然ガス)の使用も大気汚染、地球温暖化現象などを起こしていますが、これらの使用を減らそうとしました。これを私たちが一緒に協調し合うとき、奇跡が起こるのです。神様がくださったみことばの祝福、産め、増え、地に満ちるようになります。神様がアブラハムに祝福して下さった内容を新約聖書 ヘブライ人への手紙11章12節を見れば、特にキリストの中で霊的な子、言い換えれば、イエス様を信じる子どもに与えることを約束されます。私たちが自分の便利な生活だけを考えるなら、神様が作ってくださった地球を守ることができないということです。私が少しの不便に耐え、我慢しながら共同の利益のために再創造する心構えが必要であります。

自然環境運動の内容を説明したいとは思いません。そのような時間の余裕もありません。この社会が行っている環境問題を私たちが一緒に助け合わなければならないことはもちろん、進んでは、私にとって少し不便で面倒でも神様の喜ばれることとすべての人に有益になることなら、従い、実践しなければなりません。 地球村の管理人として呼ばれた私たちは、自己中心的に生きる存在になってはいけません。 まずは神様のために生きるべきで、次は隣人のために生きなければなりません。 それが自分のためにもなるのです。 しかし、自己中心的なすべての行動は、神様に背く罪であり、隣人を殺し、結局自分までも殺す自害行為です。

出エジプト記15:23節を見ると、苦い水が甘い水に変わる奇跡が記録されています。神様が指示されたとおり、モーセが従った時、苦い水が甘い水に変わる奇跡が起きたのです。 これは基本的な変化です。 飲めない水ですが、モーセが神様の前に従うときに、のどが渇き苦しんでいたイスラエルの民がきれいでおいしい水を存分に飲めて活気を取り戻せました。 私たちが神様の前に出て信仰を持って従うときに、水が変わって葡萄酒になったように、苦い水が変わって甘い水になったように、古い人が変わって新しい人になれるのです。

愛する信徒の皆さん、神様が私たちに与えてくださった貴重な使命をよく担って、私自身が祝福を受け、隣人が祝福を受け、この地が祝福を受け、地の果てまで神様の栄光を表わすことができますように主のみ名で祈願いたします。

<祈祷>

美しい世界を創造し、人が幸せに暮らせるために与えて下さったことを感謝します。人間の罪は自然との関係を破壊してしまいました。 この罪が貪欲で無関心で利己的であることをわからせて下さり、感謝します。 この美しい自然で神様の子として生きられるように導いてください。

世界を愛される主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。 アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年1114日> 五旬節後第25主日/

                         說敎 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 生涯感謝

* 聖書 : デサロニゲの信徒への手紙一516-18

</新共同訳>

16. いつも 喜んでいなさい.17. 絶えず 祈りなさい.18. どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

<説教>

72歳の黒人の老人が27年間の刑務所生活を終えて出所します。白髪になった老人を迎える多くの人々に向かって、彼は手を振って出てきます。 27年間刑務所生活をしてから、釈放になったこの老人は、その後南アフリカ共和国8代大統領「ネルソン・マデラ」でした。彼は人生の3分の1を刑務所で生活した人で、世界の指導者たちの中で最も長く捕らわれていた人です。当時、多くの人々はマンデラが無罪なのに、政治犯として刑務所に監禁されたので、怒りと挫折によって健康が極端に悪化し、もしくは自害するかもしれないと憂慮(ゆうりょ)しました。しかし、マンデラ大統領は刑務所の中でも「怒り」の代わりに「感謝」を選んだ人でした。

出所する日、70歳を超えた老人マンデラは、気丈で元気な姿で市民の前に立ちました。取材のため集まった記者たちがびっくりしてマンデラに近づき、質問をします。「他の人は5年ぐらい刑務所にいただけでも、健康を失って出てくるのですが、どのようにしたので、27年間刑務所で過ごしたのにこんなに元気なのですか。」するとマンデラは大きい声で答えました。 「私は刑務所で神様にいつも感謝しました。天を見て感謝し、地を見て感謝し、水を飲みながらも感謝し、食べ物を食べる時も感謝し、強制労働をする時も感謝し、いつも感謝したので健康を守ることができました。私にとって刑務所生活は呪いではなく、発展のための貴重な時間でしたと答えました。マンデラは1993年にノーベル平和賞を受賞し、翌年の1994年南アフリカ共和国において史上初の黒人大統領に当選されました。苦難の中でマンデラが選んだのは感謝する気持ちであり、見通しができない状況でも祈り、一歩ずつ進むように導いて下さった光というのが、感謝と祈りだったと告白しました。

感謝節の主日は、先週の説教を通して、申し上げた通りに旧約聖書から始まります。イスラエルの人々は年に大きな三大の節期を守っていますが、ヤハウエ神様がイスラエルの人々に命じられたからです。現代の収穫感謝節はアメリカで始まりました。 1621年、信仰の迫害を避け、イギリスから信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗って、新天地アメリカに渡ってきたピルグリムたちがその苦難と逆境を耐え抜き、この地に定着するようになってからでした。アメリカ教会の宣教師たちに宣教された韓国教会と日本教会は、感謝節を非常に大切に思って守っています。私たちの文化と歴史とは全く違うところから始まった感謝節であっても、すべてのことにおいて神様の恵みに深く感謝し、感謝する言葉を発するとき、私たちの子どもたちと隣人たちが私たちの感謝の言葉を聞いて良い影響力を受け、一緒に教会に出て、神様に栄光をささげる祝福された節期になると信じます。

今日、私たちの生活の中で失われた感謝を再び見つける機会でもありました。私たちは日常生活で、感謝します。 ありがとうございます。」という言葉を忘れがちです。 感謝するという言葉でなく、お互いに恨み、不満、批判し、傷つける言葉をよく使い、生きてきたのが事実です。 特に昨年から全世界を覆い、不安と恐怖の世界にならせた「新型コロナウイルス禍」により、「ありがたく、感謝する」ことが現実的に遠ざかってしまいました。これはキリスト・イエスの中であなたがたに向かった神の御心です。 いつも 喜んでいなさい.17. 絶えず 祈りなさい.18. どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

説教者としてこのみことばを選びながら、いったいこのみことばを信徒の皆さんが日々の生活の場でどのように受け入れているだろうと考えました。

信仰を持って生きている私たちにとって、このみことばは、単純ですが、私たちの心に響くみことばであります。事実、私たちが幸せに生きる秘訣は、いつも人生を楽しく生き、神様と交わり、感謝しながら生きることであるのは誰もが知っている事実です。これら3つ、いつも喜ぶことと絶えず祈ること、そしてどんなことにも感謝する生活は、別々のようですが、事実は別々ではなく、とても密接な関係を結んでいます。これらは3つではなく1つです。いつも喜ぶ人生はいつも感謝する人生と繋がっています。私たちの生活の中に喜びが消えるとき、感謝の気持ちがなくなることを経験していませんか。私たちの生活の中に真の感謝がなければ喜びもあり得ません。このように喜びと感謝は幸せな生活の両面であり、裏表だとも言えます。私たちの心の中に抑えきれない喜びが湧き出る時、私たちは自然に私たちの生活に感謝せざるを得ません。

私たちが自分の信仰生活を振り返れば、このような喜びと感謝は結局祈ることから始まるのを知っています。 私たちの人生の旅が嵐に襲われ、人生が崩れてしまいそうな苦難の中でも静かで平安な生活を可能にする唯一の砦(とりで)が祈ることであり、同時に感謝につながります。 私達がどんなことにも感謝できるのか。むしろ、逆境の中でも感謝できるのか。 それは不可能です。 しかし、人生を祈る心で生きていく人にとっては、損失と失敗の中でも感謝できる知恵と勇気が湧き出るのです。

1714年に82歳で亡くなった老牧師であり、神学者である「マシュー・ヘンリーMatthew Henry」の聖書の解釈書は、彼の没後、1​​00年が過ぎた1811年に彼の弟子たちの手によって本として刊行されました。それ以来、今日まで、世界教会の説教者は彼の解釈を読み、説教を準備するほど、彼は大きな影響力を持つ神学者です。 「マシュー・ヘンリー」牧師が旅行中に盗賊に会いました。後に、この証をしました。まず、前には盗賊に出会ったことがないのに初めて盗賊に出会ったことに感謝し、第二に、彼らが私の財布だけを盗んで行き、私の命を奪っていなかったことに感謝し、第三に、彼らが私のものを持っていったが、あまり多くの物は失わなかったことを感謝し、第四に、私が盗賊にならず、盗賊に出会ったことを感謝すると言いました。こうして彼は盗賊に出会った損失にも感謝できました。私たちももっと深く考えてみて、信仰の目で見れば、失敗と損失の中でもいろいろ感謝できるようになるということです。

スイスの格言(かくげん)には「いつも歌いたい人だけが歌を見つけることができる」という言葉があります。 感謝の歌を歌いたい人には、より豊かな人生が訪れるようになり、さらに感謝するようになるのです。 皆さんもご存じの8歳の時に目が見えなくなったが、有名な讃美歌の作詞家になったFanny J. Crosbyはこうして自分の信仰を詩と歌で表しました。 「私は見えないが、ああ、私はどれほど幸せな魂ですか! この世で私は満足することを学んだので、 目が見えなくても私は多くの人が涙を流して嘆くことを、しないのです。」と感謝しました。

これは、信仰によって感謝の人生を悟った人でなくでは、告白できない人生の証です。 まさにそうです。 目で見たために欲を呼び、嫉妬し、妬み、犯罪する時がどれほどたくさんありますか。 「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」」 どんな環境や生活の条件の中でも感謝できるのがクリスチャンの生活です。 世界には3種類の感謝があると言えます。

まず、一つ目、物質的な感謝です。

多くの人が物質的な祝福とか利益を得たときに喜び感謝します。子どもたちにおもちゃを買ってあげ、ゲーム機をプレゼントすると、全世界を得たように喜んで感謝します。 しかし、そのおもちゃを奪われたときや、ゲームの時間を少し減らされたら、全世界を失ったように悲しみます。 これは大人の世界も同じかもしれません。 この類(たぐい)の感謝を我々は、物質的感謝または経済的な感謝と言えます。 つまり、感謝を常に物質的な面で計る感謝なのです。

二つ目は哲学的な感謝です。

哲学的な感謝とはどのような意味を持つのかというと、ある人が道で倒れ足を怪我しました。 しかし、起きあがり、首が折れてないことがどれほど幸いか考えて感謝するのです。 この類の感謝は、哲学的または思弁(しべん)的な感謝と言うことができます。 より大きな損失を考えているので、少ない損失だと慰める消極的な感謝です。

三つ目はクリスチャンの感謝です。

もちろん、クリスチャンの感謝にも先に申し上げた物質的な感謝と哲学的な感謝がないわけではありません。 そのような感謝も含まれます。 なぜなら生きていきながら最も近くても簡単に判断して感謝できるからです。 しかし、クリスチャンの感謝は、より少し深いところに基づいているはずです。 キリストによる許しの恵みと救いの恵みに感謝し、神様が許してくださった人生そのものに感謝できる生活なので、クリスチャンはどんなことにも感謝できるということです。

しかし、私たちの皆さん、私たちの生活の中でこのように感謝するのは簡単ではありません!

他人の話は簡単です。しかし、私の話をするときは変わるしかありません。

「どんなことにも感謝!」と説教するのは簡単です。 「いつもありがとう!」といくらでも大声で叫ぶことができます。しかし、皆さん、もっと真剣に、このみことばを私の言葉として受け入れる時は容易なことではないことを知っています。若いのに癌で死んでいく妻を見つめる夫が果たして感謝できるでしょうか?持病を持って神様の前でいくら祈って叫んでも治らないで、むしろ病気はますます深くなっていく自分を見ながら、果たしてその口から感謝が出るでしょうか。生涯重い十字架を背負って生きなければならない障害を持つ子供を抱えて苦しんでいる両親は、その口から本当に感謝していますか?一度考えてみてください。履歴書を数十通を持ち歩きながら就職をしてみようと思うが、会社の面接すらできず、却下されっぱなしの若者の口から果たして「神様ありがとうございます!」という言葉が出ますか。私がそのようなケースに遭遇した場合、本当に感謝することができますか?私や皆さん、このような立場でこの言葉を見なければなりません。

人間的に言えば、この言葉は現実性がないようです。 非現実的な言葉のようです。 理論にとどまる言葉のようです。 したがって、このような言葉は適度に流すことができます。 しかし、私たちがこのような態度でこの言葉を流しても大丈夫でしょうか。 結論から先に申し上げると、絶対にならないのです。 なぜなら、神様がくださったみことばだからです。

今日の本文で、私たちは二つの事実を必ず悟らなければなりません。 なぜどんなことにも感謝しなければならないのか、なぜ生涯感謝しなければならないのか、これら二つの事実を明確に知る必要があります。

第一に、「私たちの主にイエス・キリストの名のもとで、常に御父の神様に感謝しなさい!」と言いました。なぜ感謝しなければならないのですか。それは私たちの主イエス・キリストによるみことばだからです。

第二に、私たちの御父である神様が、どんなことにも感謝するよう命じられているからです。 「神様これはあまりにも非現実的な言葉です。 どうすればそのようなことができますか。」 このように言い訳してはいけないという話です。

イエス様の一生を私たちはあまりにもよく知っています。 十字架を担わなければいけない神様のみ子、彼も感謝しながらその十字架を背負ってゴルゴダの丘に行きました。2021年感謝節、昨年に続きコロナ禍中で迎えました。愛する信徒も皆さん、コロナ禍で多くの命が犠牲になり、未だに世界が苦しんでいます。 神様が私たちを守ってくださったことを考え、主に感謝の礼拝を共にささげましょう。

この苦難の現場で主の十字架を考え、喜びを回復してください。難しければ難しいほど、苦しかった苦しい中ら、ひざまずいて祈ることによって喜びが回復します。 祈りの中で感謝が溢れ出ることを経験するようになるでしょう。

<祈祷>

「いつも喜んでください。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい、これこそ、キリストイエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」と話されました。そのみことば通りに生きる私たちにならせて下さい。主イエス・キリストのみ名でお祈りいたします。

アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年11月7日> 五旬節後第24主日/聖礼典主日

                         説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 受けた祝福に感謝して

* 聖書 : 申命記16章13節-17節

 

</新共同訳>

13. 麦打ち場と酒ぶねからの収穫が済んだとき、あなたは七日間、仮庵祭を行いなさい。14. 息子、娘、男女の奴隷、あなたの町にいるレビ人、寄留者、孤児、寡婦などと共にこの祭りを喜び祝いなさい。15. 七日間、主の選ばれる場所であなたの神、主のために祭りを行いなさい。あなたの神、主があなたの収穫と手の業をすべて祝福される。あなたはただそれを喜び祝うのである。16. 男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。17. あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。

<説教>

11月を迎えました。自然の色も変わりました。保育園の庭園の木の葉っぱの色もきれいに変わりました。11月は感謝の月です。感謝というのはどのような意味を持っていると思われますか。国語辞典にありがたいことを表す挨拶、ありがたく思う、日本語の辞典には感謝、ありがたい気持ちを伝えると説明しています。

ヘブライ語では賛美する、祝賀する、ありがたく思う、称賛するという意味を持っています。ヤハウエ神様を賛美します、私を救ってくださり感謝します、祝賀しますという意味があります。

 

神様とほかの人からもらった愛と感謝の意を、真心をこめて表現するのが感謝です。昔話にこのよう話があります。ある村に心がやさしくてまじめな人が住んでいました。その年に大根を植えましたが、あまりにもよく育ち強くてしっかりした大根を収穫できました。農夫はその村をよく治めてくれている村長に感謝の気持ちで、大根を何本捧げました。村長はこの農夫の感謝の気持ちにこたえるために、何でお返ししようかと考えました。村の官吏に聞いてみたら子牛が一頭はいってきたものがありますと伝えました。村長はこの子牛を農夫にあげました。このうわさが隣の村にも伝えられ、この話をきいたある村人が考えました。大根何本で子牛を得たならば、大きな牛一頭をささげたら村長が感謝の気持ちで土地でもくださるはずだと考えました。それで、大きな牛一頭を村長に捧げました。村長は大変うれしく思い、職員に聞きました。村の倉庫に貴重なものがあればこの人に渡してあげなさい。官吏曰く「はい。数日前に入庫されたすごく貴重な大根が何本あります」と告げたところ、それではその大根をこの人にあげなさいと村長は言ったのです。本当の感謝は代価を期待するのではありません。心より溢れてくる感謝が真実の感謝です。信仰を持っている私たちが神様にささげる感謝を考えれば、たくさん思い浮かぶはずです。感謝する条件が多ければ多いほど恵みが増していくのでしょう。何よりも私たちが先に感謝することは、

1.罪と過ちで死ぬ私たちを救ってくださった神様の恵みに感謝しなければいけません。

ローマの信徒への手紙6:17-18「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、18. 罪から解放され、義に仕えるようになりました。」とされました。神様の救援の摂理を見せてくださったことに感謝をささげるのが、感謝節の意味です。旧約聖書には感謝節は新約で成就される神様の救いの摂理を見せています その理由は何でしょうか?今日一緒に読んだ申命記よく記されています。申命記16:12「あなたがエジプトで奴隷であったことを思い起こし、これらの掟を忠実に守りなさい。」と神様は告げられました。

本文16節に「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵節、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。」3節期はエジプトから救われ約束の土地で得られた果実を通して感謝の祭りをささげる意味があるのです。除酵節(Feast of Unleavened Bread)は、過ぎ越し祭が始まる夜から7日間無酵餅を食べて守る節期を言います。(出12:15-20)除酵節と過ぎ越し祭は、大概区別なく一つの節期として、除酵節は過ぎ越し祭を含めて1週間の間種なしのパンである無酵餅を食べて守る節期を言います。出エジプトの救いを記念して感謝する節期です。7週祭(The Feast of Weeks)は、3大節期の一つである過ぎ越し祭から7週後の50日になる日を守る節期です。 この日、イスラエルの民は麦の収穫の最初の実を記念して、穀物をくださった神様に感謝して祭りを行いました。

仮庵祭(Feast of Tabernacles)はオリーブ、ブドウなどを収穫して貯蔵した7月(太陽歴9-10月)15日から守る感謝の節期です。(レビ記23:34-41)穀物を収穫して貯蔵することを守る節期として収蔵節とも言います。(出23:16)幕屋節とも言います。(ヨハネ7:2標準新翻訳)

今の収穫感謝節と似通った意味になります。神様の恵みと祝福を記念する節期と同時に、新年を迎えることになるのです。この期間、イスラエルの民は7日間楽しく過ごし、先祖たちがモーゼと共に荒れ野で過ごした40年の生活を記念して幕屋で生活しました。

信仰の先輩たちやわたしたちも、神様の恵みに対する応えの方法として感謝をささげるのです。信徒たちは生きている間に与えられた恵みに感謝と証しで、神様の救いに対して讃美しなければいけません。旧約の信徒たちは神様がくださった実を収穫してそれで祭事を行い、感謝をささげたとしたら、今日の信徒は聖霊の中で真実な心で告白して神様を喜ばすように行わなければいけません。ヘブライ人への手紙13:15では「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」と言っています。

その次に救いを受けた人として妥当な実を神様に捧げるのです コロサイ信徒への手紙1:10「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」と勧めています。善と義と愛を追求する生活を行い、救いに妥当な人生の実を結ぶことが信徒の本分であり、神様に対して最善を尽くして感謝をささげる方法です。

2.労苦して仕事をした報酬として収穫を与えていただいた事に対しての感謝です。

ロマ7:4に「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」と記されています。

物質的な収穫を与えていただき感謝します。収穫感謝節の第一次的な意義は、収穫物に対する感謝です。神様が与えてくださった物質に対してコリントの信徒への手紙9:10では「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」と言っています。義と光の実を結ぶようにしてくださり、感謝します。私たちは先週まで、宗教改革についてみことばを分かち合いました。その中で注目しなければいけないものはなんでしたか。主の恵みで作られたものを、人間が人為的に強調して誤った道に落ちてはいけないことでした。

秋収感謝節を前にした信徒が必ず覚えなければいけない内容は、まさに信徒自身が結んだ義と光に対する感謝です。物質の収穫は誠実に努力する人に対しての神様からのプレゼントです。誰でも熱心に仕事をすれば物質の祝福を受けます。しかし、イエス・キリストに似るための義と光の実は、人間の努力だけでは得られません。唯一聖霊様の助けによって、結ぶことが可能なのです。信徒たちが神様の真理のみことばと聖霊様の意志に従う人生の対価として、義の実、光の実を結ぶことが可能なのです。エフエッソの信徒への手紙5:9で「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」と言っています。信徒たちはこのように神様がイエス・キリストの人格に似させてくださり、偉大な義と光の実を結ばせてくださった恵みにもっと感謝をささげなければいけません。

3.神様の保護と恵みに感謝しなければいけません。

2019年末より始まった新型コロナ禍により世界は大きな苦しみの中にいます。患者さんが2億5千人に達しました。命を失った死亡者が505万人を超えました。去る1年間も多くの人が命を失い、地震や台風や洪水などの災難と危険に晒され、涙を流した方が大勢おられます。 病気で苦しんでいる人たちもおられます。このような中で、私たちを特別保護してくださったことに対して感謝せずにはいられません。忘れてはいけないことがあります。この中で2重の苦しみを受けている方がおられます。極端な貧富の格差によって、食べる物すら十分でない貧しい人たちの問題です。まさしく私たちの隣人がこのような状況にいる事を覚えていつのであれば、感謝を口だけでするのではなく、神様の恵みに感謝するのであれば貧しさで苦しんでいる人達に愛の手を差し伸べる行動を実践すべきです。いつも私たちを守ってくださる神様の保護と導きに感謝しなければいけません。

4.私たちは逆境の中でも感謝しなければいけません。

私たちが生きながら、感謝しつらい時間があります。それにもかかわらず、その中で感謝する条件を探し感謝することを神様は特別に喜ばれ、祝福してくださいます。私たちが感謝できない環境の中でも感謝をささげるとき、そこに神様の奇跡が現れます。病院に見舞いに行きにくい最近、闘病中である信徒の方と連絡をとりながら、牧師である私も大きな恵みを受けます。つらい抗がん治療を受けているにも関わらず、神様が守ってくださるとの確固たる信仰で治療を受けておられる方の証しは本当に勇気つけられます。

私の長くない人生をふりかえり、告白することも同様です。皆さんは心に決めた事、計画したことが実現できなかったことをどのように感じますか。皆さんが家庭の事、子どもの事、そして私の場合は牧会の現場でこのような事を経験しながら生きているかも知れません。お祈りをしたからといってすべてが叶いますか。時にはお祈りの応えも時期を待たなければいけない事を教わります。私の長男の場合、苦しんでいる息子に背中をなでて抱いてあげれない状況で、お祈りしながら見守るしかできない凄惨な状況でもその時期を待ちます。今日の週報に出ているように、去る3日に娘の時温が結婚式を挙げました。コロナ禍と祖父である楊烔春牧師の召天により、信徒に連絡もできない状態だったですが、神様の前で結婚誓約のために家族のみ集まり、質素な式を行いました。娘もまた自身が計画したことが実現できない状況で、自分に失望し立ち上がることができない挫折を味わいました。何一つ手助けできない親の心情は、本人と同じくらいつらかったのです。しかし、このような試練の中でも神様は計画がありました。また、このようなことは信徒の皆さんの家庭でも経験する苦しみの中のひとつかもしれません。

苦難と試練の中でも私たちが神様の愛とその摂理を理解しようとすれば、必ず聞こえてくる声があるはずです。私の好きな聖書のみことばは、ローマの信徒への手紙8章28節です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とのみことばです。

感謝しなければいけない理由が確かにあります。

1.罪と過ちで死んでいく私たちを救ってくださった神様の恵みに感謝をささげるべきです。

2.労苦して仕事をした報酬として収穫を与えて下さった事に対して感謝すべきです。

3.神様の保護と恵みに感謝すべきです。

4.私たちが逆境の中にいるとしても感謝すべきです。

<祈祷>

今年1年を振り返りながら、神様に感謝をささげます。 新型コロナ禍中でも私たちを守ってくださり、与えられた職場と仕事を通して生きていく力を与えてくださり、感謝します。自然災害と経済的困難と精神的につらい生活の中でも導いてくださり、感謝します。農業を営む農夫が収穫に感謝をするように、私たちも生活に与えてくださった祝福に感謝し、来週は収穫感謝節を迎えようとします。主よ共にしてください。

イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年1031日> 五旬節後第23主日/宗教改革主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 福音は救いをもたらす神の力

* 聖経 : ローマ人への手紙1章15-17

</新共同訳>

15.それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。16.わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17.福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

<説教>

「牧師任、教会の誕生日がいつですか。」と聞かれ、「はい、5月の第2主日です。」と答えました。すると

「イエス様の誕生日は12月25日ですよね、だと世界教会の誕生日はいつですか」と再度聞かれました。信徒の皆さん、世界の教会の誕生日はいつだと思われますか。はい、聖霊降臨節です。聖霊の降臨によって教会が立てられました。

教会の誕生日はいつですかという質問を受け、私は一人で「そしたら、プロテスタント教会の誕生日は宗教改革を始めた日と答えるべきかな。」と考えました。恐らくそう言えるでしょう。当時、ローマカトリック教会の間違った神学と、教会運営に対する批判文を発表し、正しい信仰と教会になるために宗教改革を始めたその日がプロテスタント教会の誕生日ではないかと思うのです。

今日から504年前、ドイツの若い司祭で神学者だった「マルティン・ルター」がヴィッテンベルク市の聖堂の正門に95カ条の論題を貼ることから始まったのが宗教改革運動です。論題の内容は、当時の贖宥状(しょくゆうじょう)(免罪符)販売と人間の懺悔においてローマカトリック教会の間違った教理に対する質問と指摘でした。

しかし、ローマカトリック教会はそれに対する答えや反論の代わりに、教権、教会の権威という名で踏みにじって、意見を出した人たちを殺そうとする極端的(きょくたんてき)な行動を取りました。結局、この95カ条の論題で宗教改革運動が出発したので、宗教改革記念日を10月31日と定め、今日が10月31日で宗教改革記念日であり、主日なのです。
キリスト教の歴史を語る際、イスラエル民族と共にしてきたユダヤ教から始まるのであれば、イエス様がこの地に降臨し、伝えた福音の内容は当時のユダヤ教が持っていた間違った信仰に対する大きな改革でした。ヤハウエ神様がイスラエルの民の間に約束されたメシヤであるイエス・キリストがこの地に来られたけど、

ユダヤ人たちはその事実を受け取らなかったのです。彼らはイエス様を十字架にかけ、殺してしまいました。

聖霊の降臨によって、エルサレムに教会が立てられ、イエス・キリストの福音がエルサレムを始め、イスラエルの全地域に広まったのです。聖霊降臨と当時のエルサレムに集まっていたディアスポラ、散らばっていたユダヤ人が彼らの住む所に戻り、イエス様の福音を伝え始めました。その時、ユダヤ教指導者たちはエルサレムにいたイエスを信じる人たちを見つけ、宗教的な判決で彼らを弾圧し始めました。

その最初の犠牲者で殉教者である「ステファノ」がエルサレムでユダヤ人の審判で、石打ちの刑に処せられる悲惨なことが起きました。そのことを主導したのが「サウロ」という人で、彼はトルコのタルソス生まれで、律法を学ぶためにエルサレムに来て、当時高名なラビであるガマリエルの門下生でした。また彼はユダヤ教の律法と教えを徹底的に学んだ人でした。メシヤと自称してから死んだイエスの復活と福音に敵意を持ち、イエスを信じる人たちを捜索する仕事をしており、それのために向かっていたダマスコへの途上において、眩しい光を見てその後目が見えなくなり、地面に倒れました。同時に天からの声が聞こえてきました。使徒言行録9章4節「サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。」 自分に注がれる光と主に天からの声をサウロは聞いたが、一緒にいた人たちは何か起きたのか誰一人わからなかったのです。

こうしてサウロは復活されたイエス様に会えたのです。サウロは自分の名前を「パウロ」と変え、彼の信仰もユダヤ教からキリスト教になりました。パウロは罪人が救われる道は、律法と戒めとユダヤ人の伝承を守るのでなく、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰で可能になることをアジア地域に歩きながら、伝えました。当時の小アジア、トルコからエーゲ海を渡って、ギリシャのフィリピ、デサロニア、アテネを経て、コリントへ行って福音を伝えました。使徒言行録に現れた使徒パウロの福音に対する熱情は「ローマ」を訪問することと、スペインまで行くことでした。ローマにはすでキリスト教徒たちが住んでおり、彼らはローマ帝国の迫害で苦しまれていたが、使徒パウロの目標はローマでした。

今日の本文の15節で、「それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」なぜローマに行こうと願っていたのでしょうか。ローマは当時のヨーロッパを支配する帝国でした。ローマは当時のヨーロッパの中心都市で国々から人たちが集まってくるところだったからです、。皆さんがご存じのように、ローマ帝国はB.C6世紀から始まったが、イエス様が来られる27年前に「アウグストゥス」が皇帝になってからローマ帝国が始まりました。ルカ2章1節「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」まさに、ルカによる福音書に出てくる「アウグストゥス」なのです。

パウロはローマに行くと、各国と地域から来た人々にイエス・キリストの福音を伝えることを切望するようになります。 結局、使徒パウロは、自分が罪人になってローマに来て裁判を受けるようになり、ローマで殉教するようになります。 このように「ローマ」は福音を伝えるのに最も適切な環境でした。 かつてローマについて「全ての道はローマに通ず!」 という言葉があるほど、時代の中心でした。 今日(こんにち)も、ローマは世界の人々から多くの関心が注がれています。 それは、ローマカトリックの信仰の中心地であり、教皇がまだ存在しているからです。 宗教改革者たちもローマを訪れたことがありました。

ドイツ出身のマルティン・ルターの場合、先週の説教で言及しましたが、法律を勉強して弁護士になろうと勉強している中、激しい雨が降る夜に友人と一緒に家路に着きました。 1505年7月2日、天から雷鳴とともに雷が落ちました。 友人が真横でこの落雷を受け、死ぬ姿を見ながら神様に祈りをささげます。 助けてくださった命で修道士になると決心し、7月17日にエアフルト(Erfurt)にある「聖アウグスチノ修道会」所属の「黒い修道院」に入会し、修道士になりました。 修道院で司祭の授業を終え、ルターは1507年に初めてミサを直接行いました。 1年後、ルターは1508年にエアフルト修道院からヴィッテンベルク大学に移りました。

当時のローマカトリック教会は、ローマ帝国を守るための戦争を続けていました。大聖堂と豪華で贅沢な教皇庁を建てるために膨大なお金が必要でした。この費用を充てるため、聖書のみことばと異なる内容を教会の指導者たちが与えていました。地方の司教や国の枢機卿は、自分らが政治指導者と考え、そのように行動しました。エアフルトでは、1509年と1510年に、市民と政府の間で激しい社会的な葛藤が起こり、暴力的な衝突につながりました。負傷者が生じ、血を流しながら死んでいく多くの人々を目撃したルターは神様に問います。 「神様がこのような暴力を使うのであれば、誰が神様に仕えることができますか。」ルターに何度も繰り返し質問しました。満足いく方法で神様に仕える道は何だろうか。ルターは1510年に投げたこの問いに対する答えを得られませんでした。

マルティン・ルターがローマへの旅に出ました。 その理由は、修道院内外の葛藤によるものでした。 修道院の代表は誰になるのか、 修道院の場合にも教皇を選出できる代表、つまり総代の権利に対する問題が生じ、ルターともう一人の司祭はローマの教皇庁に行くことになります。最近のドイツとイタリアを結んだよく整備された道路を利用しても1400Kmとなる長距離です。 当時は道路が整備されていない状況で、1日35Kmを歩いても40日以上かかる距離です。 修道院の規則に従って、歩いて旅行しなければいけませんでした。 馬や馬車も利用できませんでした。 一人で旅行することが禁止された規則により、仲間の修道士と一緒に歩いていきますが、互いに雑談しないために間隔を置いて前後して歩いたそうです。

ルターともう一人の修道士がローマに向かって、11月上旬にドイツを出発しました。 夜になると、旅行の経路に位置する修道院に泊まりました。 2人の修道士が巡礼者の道に沿って旅行しましたが、その道はスイス、ミラノ、フィレンツェを通る最悪のコースでした。 この道は山岳地帯で、雪道を通らなければならず、強盗の危険もありました。48日間歩いて、彼らはついに1510年のクリスマスの前夜にローマに到着しました。

ルターはその後、ローマ旅行で自分の信仰と神学を再確立できたと語っています。 「私はローマに長く滞在しませんでしたが、多くのミサに出席しました。 私はそれを思い出すたびに、恐れで震えざるを得ません。 私が主の晩餐席上で行っていた聖職者たちの間で目撃したこと以外に、他の司祭たちがパンとワインをささげながら真剣でなく、横で嘲笑するように笑って騒いでいました。 何よりもミサを司る態度に嫌悪感を抱きました。 彼らにとってミサはまるで一種のいたずらや演劇と同じようでした。」という言葉を残します。

ルターがローマを訪れた時期は、すでに1506年から始まった大聖堂建築が本格的に行われていました。 ルターがローマに滞在したとき、ミケランジェロはシスティーナ大聖堂の壁画を描いており、ラファエロは教皇庁の宮殿の装飾に勤しんでいました。バチカンの巡礼者を助けるためにテベレ川を横渡る橋が建設されました。 その橋の中でひとつは売春税でかき集めたお金で建設したと自慢していました。

ローマを訪れるすべての巡礼者たちにとってローマの七つの大聖堂を訪問することは義務でありました。

巡礼者たちは一日を断食した後、最初に都市の門の外にある「聖パウロ大聖堂」をはじめ、「聖パウロの墓地大聖堂」と「聖セバスチャン大聖堂」と聖なる十字架の大聖堂「聖ヨハネラテラン大聖堂」、「ローレンス大聖堂」 、「聖マリア・マジョーレ大聖堂」、と最後に「聖ペテロ大聖堂」を順番に巡礼をしなければなりませんでした。

聖地ローマを訪れるすべての巡礼者たちは、イエス様がおられた当時のイスラエルのエルサレムにあった「ボンディオ・ヴィラド」の総督宮殿から持ち運んだスカラ・サンタ(Scala-Santa/聖なる階段/地球村の祝福の聖殿)の階段をひざまずいて上がらなければいけませんでした。これはイエス様が血を流し、十字架を担うために聖金曜日に歩いて上がった階段です。 4世紀頃、「コンスタンティヌス皇帝」の母「ヘレナ」がエルサレムを旅して、この石の階段をローマに持ち運んできました。誰もが主の祈りを唱えながら、この階段をひざまずいて上がれば、階段を登るたびに煉獄の魂を救うことができると信じていました。ルターは自分の祖父を救うためにこの階段を上ったそうです。 「ローマで、私は祖父を煉獄から救いたかったのです。それで、主の祈りを唱えながら、ピラトの階段を一段ずつひざまずいて上がりました。誰もこのように祈りながら上がれば、魂を救えるという確信がありました。しかし、私がピラトの階段を上がりきったときに考えました。「これが本当なのかを誰がわかるだろうか」。ルターは敬虔な心を持って階段を一段ずつ上がっていましたが、突然「正しい者は信仰によって生きる」(ロマ1:17)のみことばが雷のように聞こえてきたのです。ルターは

恥ずかしい思いで急いでその階段から立ち上がり、出ていきました。そのとき、驚くべきことに、ルターは救いを得るため、人の行為に頼るのは愚かなことであり、キリストの功績を信じなければならない必要性を、とても切実に悟るようになりました。

金曜日にルターはローマの主教の管区が位置している「聖ジョバンニ・イン・ラテラーノ」という大聖堂に行きました。 なぜなら、当時、司祭がこの大聖堂で正式なミサを集礼するようになれば、自分の母親に特別な祝福を授けられるという通例があったので、そこでミサを集礼したかったからでした。 しかし、それも不可能でした。 ドイツの田舎から来た修道士には順番が回ってきませんでした。 ルターは神様の摂理でローマを訪れました。 彼は歩いて目的地ローマに向かい、帰り道にも修道院で宿泊しました。彼はイタリアのある修道院で、とても贅沢で豪華で裕福な修道院生活を目撃し、大変驚きました。 司祭たちの生活はイエス様の弟子の生活として見るにはあまりにも見苦しいものでした。

 

ルターはこの時、地面に顔を伏せて、「聖なるローマよ!私はあなたに敬意を表します。」と叫びました。彼は神聖な場所で神様を冒涜することが行われるのを見て、そのことについて記しておきました。 「ローマで敢行されているすべての罪と破廉恥な行動は誰も想像できない。それは実際に行って見なければ信じられないことだった。 「世に地獄というものがあるならば、ローマは必ずその上に建てられただろう。そこは、いろいろな罪が生まれる無限地獄だ」という言葉まであるのだと言いました。結局、ルターはこういう教会の姿を見て失望し、「信仰のみ(sola fide)!恵みのみ(sola gratia)!聖書のみ(sola scriptura)!」という主題を掲げたのです。使徒パウロの経験がマルティン・ルターに伝えられる、みことばの力と恵みを私たちは見ることになりました。

ジョン・カルビンもマルティン・ルターのように、ローマ訪問を願っていました。 『キリスト教の綱要』が出版される直前の1536年2月、カルビンは自分が以前に使っていたフランスの名前「シャルル・デスペヴィユ」とし、「ルイ・デュ・ティエ」と共にイタリアへ旅行を始めました。 この時、国王「ルイ12世」の娘であり、「フランソワ1世」の親戚である「レナタ」公爵夫人のフェラーラ宮殿で、改革思想を持った人々と数週間滞在しました。 フランスから逃げてきたプロテスタントたちと会いましたが、その中にはフランスの詩人クレマン・マロもいました。 その間、イタリアは戦争が激しくなり、カルビンは結局ローマまで行けず、再びスイスのバーゼルに戻ったと記録されています。

使徒パウロが神様とユダヤの民と結んだ契約をよく理解するため、律法を熱心に学んだのですが、当時のユダヤ教の指導者たちは神様中心で、善い民のためではなく、人間化され、ただ自分らの栄華と金儲けに目が暗んでいることを彼は悟るのです。イエス・キリストを通して与えて下さった福音が救いを成就させるための神様の能力であることを悟ったのです。律法やラビの伝承をよく守ることで救われるのではなく、信仰によって義になり、それは神様の恵みであり、ギフトであることを悟ったのです。

パウロが自分の命をかけて、イエス・キリストの福音を通して伝える原動力、その力は「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」でした。宗教改革者たちが主張したことは何でしょうか。まさにそれでした。「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」で救われるわけであり、免罪符などの紙切れをお金で買うから得られるものではないということを全世界に知らせたのです。

愛する信徒の皆さん、映像礼拝に同参しておられる皆さん、

私が義の人であると思うのであれば、手を挙げてみて下さい。

私が教会に功績を積んでいると思っておられるのであれば、手を挙げてみて下さい。

私がこのような職分で、このような働きをしたと自慢することが多いでしょう。

それで救われるわけではありません。

聖霊様が私を導き、信徒とならせ、罪を悔い改める心と勇気を与えて下さいました。イエス・キリストが私のために十字架で血を流された事実を、今まで限りなく繰り返し聞かされたこのみことばを信じられるように導いて下さった神様の能力と愛と恵みによって私が救われたのです。

今日、宗教改革記念主日、私たちは再びみことばに戻ろうとする心を持ちましょう。

今日を迎えるまで、すべてが神様の恵みであり、祝福であったことを新たに認識しましょう。

そして、私たちはもっと信仰の道をまっすぐ歩む信徒になろうと決心しましょう。

主が皆さんと私を導いて下さるでしょう。

<祈祷>

全能の神様、血の代価で買われた教会が間違った道を歩んでいる時、正しい道を歩けるように指導者を立てて下さり、今日まで主の恵みと聖霊の能力の中で、喜びを持って信仰生活を送れるように導いて下さり、感謝します。宗教改革記念主日を通して、私たちの信仰を新たにさせて下さい。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名でお祈りいたします。アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年1024日> 五旬節後第22主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 : 新しい心と新しい霊を作り出せ

* 聖経 : エゼキエル書1825-32

</新共同訳>

25. それなのにおたちは、『しくない』とう。け、イスラエルのよ。わたしのしくないのか。しくないのは、おたちのではないのか。26. しいがそのしさかられて不正い、そのゆえにぬなら、それはった不正のゆえにぬのである。27. しかし、悪人自分ったかられて正義みのうなら、自分うことができる。28. めて、自分ったすべてのきかられたのだから、きる。ぬことはない。29. それなのにイスラエルのは、『しくない』とう。イスラエルのよ、わたしのしくないのか。しくないのは、おたちのではないのか。30. それゆえ、イスラエルのよ。わたしはおたちひとりひとりをそのってく、となるわれる。めて、おたちのすべてのきかられ。がおたちをつまずかせないようにせよ。31. たちがしたあらゆるきをてて、しいしいせ。イスラエルのよ、どうしておたちはんでよいだろうか。32. わたしはだれのをもばない。おたちはって、きよ」となるわれる。

<説教>

神様の前で正しく生きると誓い、正しいものを探して学び、それを実践しながら信仰生活をするという固い決心をして、生きてきた信仰人たちも、このような良い考えが思った通りに実現されるわけではありません。私たちが神様のみ旨に従って正しく生きようと決心すればするほど、日常生活では思いもよらないことが起こります。真実が何であるかを学ぶために努力すると、真実ではない周りが騒ぎ出てます。これが正しいと思って実践をしようとすると、不思議にもこれを防ごうとすることが起こります。時には心の中で私が行動することを他人が見ながら、どのように判断するのかという心配が生じる場合もあります。時には最も近い人々によって大きな失望をさせられ、落ち込んでしまい、意志を失くし、傷つき、もはや何もできなくなるときがあります。これこそ人生がもたらす葛藤かもしれません。

宗教改革を目標とし、引っ張っていった当時の指導者たちもこのような経験をしながらも、屈せずに正しく生きようと決心し、正しいことを探し求め、それを実践するため甚大な努力をしたことがわかります。私は今年10月「宗教改革の月」を迎え、1週目エゼキエル書11章を読み、「新しい霊と柔らかい心で新たに」との題目で説教いたしました。イスラエルの民の罪は偶像崇拝でしたが、神様がそれを除き捨て、民に「新しい霊と柔らかい心を」与えることをエゼキエルに預言させました。これの主題は「悔い改め」と「生まれ変わり」でした。

二回目の説教は神様が預言者エゼキエルにゼデキヤ王に伝えさせた言葉でした。北から迫って来る強力な軍隊と戦わず、降伏しなさいとのことことでした。しかし、ゼドキヤ王はエジプトに助けを求め、バビロンと対峙して戦いましたが結局敗北に至ります。その上、自分だけ生き残ろうとエルサレムから逃げ出し、「エリコ」まで逃げましたが、バビロンの軍隊に捕らえられ捕虜として連れて行かれました。この時、神様は「生かして残す人」がいると話され、この残された人たちが神様の前で、イスラエルが犯した罪を異邦の国々で告白するだろうと伝えました。

先週は審判の時が南ユダに臨まれるが、自分の命を救える道は「義になる」すなわち、神様の前で正しく生きることを誓い、真理に従って生きる信仰を持つ人のみが救われると話されました。ノアやダニエルやヨプの話を通して、この審判の日には彼らの子らも救われないと、信仰によって正しく立つときに限って救われるとの厳しいみことばを読みました。しかし、その中にも、神様のみ旨があることを私たちはわかりました。

今日も続けて預言者エゼキエルを通して伝える神様のみことばを読んでみましょう。エゼキエル書18章は

「行ったとおりに報いて下さる神様の姿」が表れています。今日の本文は25節からでしたが、21節に

悪人であっても、もししたすべてのちかられて、わたしのをことごとくり、正義みのうなら、きる。ぬことはない。先週の説教と繋がっているみことばですが、悪人が自分の犯した全ての過ちから離れ、掟を守り、正義と恵みの業を行うのであれば、死なずに生きると話されます。慈しみ深い神様のみ心が窺えるのです。過ちを犯した悪人であっても、悔い改めて神様のみことばに立ち帰って、正義の業を行えば、必ず生きると、このみことばが恵みなのです。

23節に続けて、「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」と記しています。ルカによる福音書17章7節「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。一人の罪人の悔い改めによって、天の国の民になる喜びが大きいことを知らせるみことばです。

預言者エゼキエルはイスラエルの民が今まで神様の前で犯した過ちから立ち帰ったら、その過ちを聞かずに許して下さることを伝えているのです。しかし、民はこの事実を素直に受け入れられませんでした。今日の本文を見ると、神様が行うことが不公平で不公正だと思っている人たちにエゼキエルは25章で、「主の道は正しい」とはっきり言っています。そして、26節でもし正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬと宣言しています。しかし、「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる」と27節で話されていますが、宗教改革者たちの信仰に根づいたのが正義の業を行うことが、すなわち、魂を救うことであり、真理に辿り着く道であることを悟り、

命をかけて宗教改革を行ったのです。

 

もう一つの事実は「マルティン・ルター」と「ジョン・カルビン」の主張通り、免罪符を買うことによって、既に死んだ人が救われるということがいかに間違いで、誤っているのかを糾弾しているが、ほかの尺度でなく、神様のみことばを基準として判断していることを強調しています。30節のみことばをみて下さい。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。」

愛する信徒の皆さん、私たちが長い信仰生活の中で、忘れやすいことが何かご存じですか。私の生活において、神様と人たちと共同体に犯した過ちを考えたくもないし、思い出したくもないでしょう。これは誰も同じだと思います。牧会者である私もそうです!しかし、このような罪から立ち帰って、悔い改めなければ、その罪が私をつまずかせる石になることを私たちはよく知っています。序論で申し上げた通り、私たちが知っていることを実践しようとすれば、それに立ちはだかるものが必ずあります。それを克服しなければいけません。

第2次世界大戦が終わり、世界の教会がリバイバルの歴史を経験しながら、どのような過ち、どのような罪を犯しましたか。物質主義的で、成長志向主義で、地上最高主義に陥りました。イエス様の精神は後になり、目に見えるものに執着しました。教会再建が信仰と正しい神学から再出発しなければならないのに、できませんでした。例えば、太平洋戦争が終わり、韓国が日本から解放されました。

先週の主日にも言及しましたが、神社参拝問題に対する韓国教会の反省と、日本にいる私たちの教会もその問題について一言も口に出さなかったのです。日本教会も同じでした。では、率直に聞いてみましょう。なぜできなかったのですか。全員が罪を犯したのに、誰一人責任を担う指導者がいなかったとのことです。戦争後、教会の再建を急ぐ気持ちとリバイバルを起こさねばという考えに捉えられていたからです。結局自己省察と反省と悔い改めの機会を逃してしまいました。過ぎたことを蒸し返しても何の益もないと話す人もおられるでしょう。しかし、今日のみことばを反芻(はんすう)してみると、わたしたちが正しさや正義から離れてから犯した罪に対する反省と悔い改めを通して、救いの贈り物、救いの喜びを得られることがわかります。

宗教改革者で長老教会の創始者と言えるジョン・カルビンは父親に従って法律を勉強し、弁護士の教育を受けました。社会的な正義を立てて、教会が正しい報告へと進むことを切に願いながら、1530年頃ローマカトリック教会から離れ、宗教改革運動に身を投げます。カルビンは当時の教会の問題を直視しながら、神様のみことばから根本的な意味を探し、それを信徒たちに伝える使命感に燃えました。もう一人の宗教改革者である「マルチン・ブツァー」の招待でフランス国境地帯の「ストラスブール」に行きました。そこに

行った理由は、フランスでカトリック教会に懐疑を抱き、新しい教会を期待しながら脱出した難民のために建てられた教会の牧師になるためでした。その後、カルビンはスイスのバーゼルに身を隠して、かの有名な『キリスト教綱要(こうよう)』の初版を出版するようになります。

バビロンの捕虜時代と比較される暗黒の時代、教会が長らく彷徨(ほうこう)していた間に、彼は神様のみ旨を探るため祈りながら定めたのは、聖書を基にして信仰の根本になる教理をよく整理し、信徒たちがよく理解できるように本を著述することでした。ジョン・カルビンの働きは500年が過ぎた今日も、教会と私たちの信仰生活の性格を決めるのと同時に基礎になっているのです。神様が預言者エゼキエルに与えて下さったみことばの最後の部分を見てみましょう。31節で「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」イスラエルが死なずに生きられる道は、犯したあらゆる背きを捨てて、心と礼を新しくすることだと勧めておられるのです。私たちも良く聞き、実践すべきではないでしょうか。

宗教改革者たちが間違った教理によって、罪な信仰生活を送っていた当時の教会と信徒たちに「心と霊を新しくすること」は悔い改めとみことばに立ち帰ることだと主張したのと同じです。23節と32節のみことばが反復されながら再度記されています。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよと主なる神は言われる。」

愛する信徒の皆さん、この世に生きているどの人も死ぬことを願う人はいないと思います。もし、そのような思いを持っている人がおられるのであれば、そのように死ねば、審判されるしかないことも覚えてもらいたいです。しかし、神様のみ旨はそうではありません。立ち帰って、生きよと話されています。私たちが立っている信仰の場、私が行っている信仰の姿がどのようなものなのか顧みてみましょう。

何で神様との関係において物足りなさを感じていますか。どのようなことで主の体である教会に対する信頼を失っているのか。共に信仰生活をしている信徒たちと、もしくは教会の指導者たちとの関係に溝ができていないのか、その原因は何なのかを考えてみるのも現実的な問題です。そして、その全ての原因を探し、主が喜ばれる信仰生活を送らなければいけないのです。宗教改革の月に、私たち、全員が心を新しくさせましょう。私たちの霊を新しくしてくださいとの願いと共に、行動によって新しい存在となり、恵まれる信仰生活を続けて送るようにしましょう。

使徒パウロは私たちに尊いみことばを与えてくれました。コリントの信徒への手紙一5章17節「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」これは、今日私たちに宣布されたと再び確認させられる尊いみことばです。私たちの心と霊を新しくしましょう。

<祈祷>

万物を新しくさせる全能なる神様、罪人が悔い改めると喜ばれるイエス様、今日もみことばを通して、私たちの信仰を省みながら、聖霊様の導きを切に願います。過ちを見つけ、悔い改められる勇気を与えて下さり、正しさと正義を通して救いを成らせて下さい。私たちが生きる社会や信仰生活の出発点になる教会で、そして、私たち個人の信仰までも深く省察できるように知恵を与えて下さい。ただ主にだけ栄光をささげる信徒たちにならせて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン