2021年12月19日聖誕主日礼拝「誰がイエスを迎えることができるでしょうか?」鄭元然牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年1219日> 聖誕主日礼拝

                          説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 誰がイエスを迎えることができるでしょうか?

* 聖書 : マタイによる福音書21-6

[()新共同訳]

1.イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2.言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3.これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4.王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5.彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6.『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

<説教>

愛する信徒の皆様、2021年聖誕主日の朝です。聖誕の挨拶を申し上げます。

Merry Christmas! イエス様の誕生という喜びのニュースが全世界に轟きますよう願います。

待降節4番目の主日は聖誕節が含まれているため、聖誕主日と重なります。振り返ってみると、昨年の2020年の聖誕主日はコロナ事態によって、礼拝人員の分散のために礼拝を3部に分けてささげました。今年も1,2部に分けて礼拝をささげました。教会学校の子どもたちと先生たち、全信徒たちが一緒に集まって合同礼拝をささげにくい状況になったからです。願わくは全人類が経験しているこの苦しみの時間が一日も早く終息するように願っていますが、今の情勢を見ると少し落ち着いた感があるものの、変異ウイルスである「オミクロン」が再び患者が急増させていることを皆さんもよく知っておられるでしょう。私たちも、注意を払って、感染しないようにしましょう。

聖誕、一人の赤ちゃんが生まれ、世界の歴史が変わりました。 世の初めにことばでおられた方が肉体をまとってこの世に降臨し、すべてが変わりました。世界に光として来て、暗闇の中で死んでいく人々を生かす救いの光で来られたのです。イエス様の誕生を通して、罪によって破壊された世界の秩序が正されるようになりました。最も意味のあることは、イエス様の誕生が皆さんと私の人生を変えました。

 

2021年聖誕主日である今日、聖誕日を前にして、神様に感謝の礼拝をささげる信徒の皆さんと共にささげるみことばは、イエス様の誕生の時間を共にした人たちを考えながら、今日の私たちの信仰の姿を顧みたいと思います。

新約聖書を中心にイエス様の誕生と関係がある人々の中には、赤ちゃんを産む妊婦マリアと彼女の夫ヨセフの物語から始めざるを得ません。聖書の記録によれば、当時のイスラエルの結婚と関わっていることがわかります。もちろん、聖書の翻訳には現代的な解釈が含まれていることを理解する必要があります。ヨセフとマリアは結婚を約束し、婚約していました。この時、神様に遣われた天使が、マリアに聖霊が降り、身ごもることを告げた時、あまりにも驚いて恐れました。しかし、天使が伝えた神様のみことばを通して、自分は主のはしためであり、お言葉通りになりますようにとその事実を受けました。一方、婚約者だったヨセフはどうでしたか。マタイによる福音書第1章18節以下を見ると、主はヨセフにも天使を送って内容を伝えました。ヨセフも驚きましたが、主の天使が命じた通り、マリアを迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかったと25節に記しています。

映画は内容に応じて主役があり、脇役があり、少し顔を見せては消える端役(はやく)もあります。このように、聖誕節の主人公である幼子イエスとその家族と一緒に登場する人々がいます。今日のみことばに登場する人々も非常に重要な役割を果たしています。良い役と邪悪な役をする人も出ています。しかし今日、私はこのように多くの人々の出会いがありましたが、本当にメシアであるイエス様を人格的に会った人は誰なのだろうかを考えてみたいです。

東方から来た学者たちです。今日のみことばと福音書の内容を総合してみると、彼らは天の星を研究し、当時の天体、つまり天で動く太陽と月と星を観察する人でした。今日のように科学的に理解して解釈したわけではありませんが、彼らにとっては非常に重要なことでした。星の動きを通して、世に何が起こるのかを解釈する役割があったのです。

ある日、ある星の動きが尋常でないことを発見しました。そしてその星は世界に大きな変化をもたらすと判断しました。ある国の王が新しく生まれたことがわかったのです。そして学者たちは動く星を追って巡礼をするようになりました。巡礼の距離を推定してみると約1500Km程度です。今のイラン地域からパレスチナのエルサレムまで来ました。学者たちは当時エルサレム地域を治める王である「ヘロデ」を訪れました。それで、学者たちが一番初めて会った人が、ヘロデ王だったのです。イスラエルから遠く離れた東方から来た学者たちは、この国に一人の赤ちゃんがお生まれになったというニュースを持ってきたのです。 ところが、その赤ちゃんはこの国を治める新しい王として生まれたと言うのです。

元来「ヘロデ」は、エドムの人だがローマ政府に気に入られ、ローマ帝国からユダヤの分封(ぶんぽう)王(おう)(領主)になったのです。 分封(ぶんぽう)(Tetrarch)とは、ある国の王が治める領土の一部を分けてもらい、統治権を委任された王を言います。もともとの意味は「四分の一を統治する人」でしたが、段々「小規模の土地を統治する人」という意味で使われました。エドム人がユダヤに来てユダヤ人の王をしているさなかなのに、その地にユダヤ人の王として生まれた子がいるというニュースは、彼としては受け入れ難かったのです。ユダヤ人なら、自分たちが待ち望んでいるメシアであられることを誰もが知っていたのに、ヘロデはこの事実を受け取ることが難しかったわけです。

福音書のみことばを見ると、ヘロデとエルサレムの人々が東方から来た学者たちの話を聞いて、韓国語の聖書の3節では簡単に「騒動した」と記録していますが、日本語聖書を見ると「これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」と記しています。 7節以下には、「彼は自分も学者たちのように熱心なふりをしながら、誕生を知らせる星が現れた正確な時期を確かめました。そして、彼らにベツレヘムに関する預言を教えながら、行ってその子のことを詳しく調べて見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう。」と言いました。しかし、ヘロデ王は学者たちがエルサレムに来ず、自分の国に戻ったことを後で知ります。そして、ヘロデはベツレヘムと周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。ヘロデ王が行った行動は、権力を持つ人々の中で最も悪い人がする代表的な行動です。大きな罪を犯したのです。

なぜヘロデはそこまでしたのですか。彼は誤解したのです。生まれた子が成長して自分の国や権力を奪うのではないかと錯覚したからです。メシアはある地域や国の王として来られた方ではないのです。しかし、ヘロデはイエス様を世の国の王だと錯覚し、自分の位置が危うくなることを遮断したかったのです。その後、彼の子孫までもイエス様の敵対者になりました。

もう一つのグループの人々は大祭司と書記官です。

東方から来た学者たちの話を聞いて、ヘロデ王が「メシアが生まれる場所はどこなのか」と尋ねた時、彼らは旧約聖書に出てくるミカの預言を王に知らせました。彼らは,イスラエル民族がメシアを待っていることを誰よりもよく知っている宗教指導者たちでしたが、王に憎まれないように正しい事は一言も言わずに黙っていました。「知識はあるが信仰がない人がまさにこの人たちです。」 この世界で最も卑怯で卑劣な人がどのような人だと思われますか。

知りながらも行動せず、知りながらも自分の利益と損失を考えて口を閉じている人ではないでしょうか。

大祭司たちと書記官はメシアについての知識はありましたが、心からメシアを待つ信仰はありませんでした。 旧約聖書に記録されていることは知っていますが、その記録されたものが現実に起こるのは否定する人々でした。言い換えれば、いくら霊的な出来事が起きても霊的に見られない、霊的な事柄が見えない人々なのです。今日のように教育のレベルが高くなり、聖書知識が豊かになれば、信仰生活のあらゆる面が高められ、豊かになるべきではないでしょうか。 しかし、今日の現実はどのようなものであるかを自問してください。

妊婦のマリアとヨセフは、住民登録をするために先祖が住んでいた故郷の町「ベツレヘム」に着きましたが、彼らが泊まれる宿屋がありませんでした。ある宿屋の主人は二人を見て、家畜小屋を貸してくれました。ところが、自分が考えたものとは全く違う展開になりました。この家畜小屋で一晩泊まろうとした妊婦は赤ちゃんを産むようになりました。夜空には大きな星が自分の家の上にとどまっていました。この赤ちゃんに会いに来た人々がいました。東方から来た学者たちは、赤ちゃんがどこにいるのかと尋ねます。羊飼いたちも探しに来ました。宿屋の主人は自分の家畜小屋でメシアが生まれたのにも関わらず、何も知らなかったのです。

霊的な無知とは、このように私の周辺でどのような霊的なことが起きているのかに気づかないか、そのような事柄には関心がないことだと言えるでしょう。ただ、自分のことに忠実で、お金を稼ぐことに知恵を使い、関心がある人だとも言えるでしょう。私が学生たちを教える時のことです。聖誕の話をする中で、この宿屋の話が出たとき、「先生、宿屋の主人はヨセフとマリアに宿泊料金を取りましたか。」とある学生が聞きました。

そのとき、自信を持って答えられませんでした。皆様はどう思われますか。宿泊料金を取ったのでしょうか。もしくは家畜小屋だったから取らなかったはずだと思われますか。

そして、最後に考えてみたい人たちがいます。

その日の夜、野宿をしながら羊たちの群れの番をしていた羊飼いたちがいました。夜空には眩い星の光がベツレヘムを照らし、星が流れずに留まっているのを見ました。ルカによる福音書2章9節では「すると

主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼は非常に恐れた。」と記録しています。天使は。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、タビデの町で

救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアであるので、探しに行きなさい。」と言いました。すると突然この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言いました。「いと高きところには栄光、神であれ、地には平和、御心に適う人であれ。」この賛美を聞き、この光景を羊飼いたちは見られたのです。

羊飼いたちは羊たちを野に置いたまま、ベツレヘムに行きました。羊飼いは羊の世話をする責任がある人なのです。しかし、彼らは天使の言葉を聞き、行動を起こしました。明らかに危険負担があったはずです。もし羊一匹でも野獣に捕われるのであれば、責任を取らなければならない人たちです。しかし、彼らは天使の言葉に従い、乳飲み子イエス様に出会ったのです。ここで私たちが覚えておくべきことは、この羊飼いたちが

幼子について天使たちが話してくれた言葉と自分たちが見聞きしたことを会う人々に知らせたとルカ2章で記録していることです。

ある国の王は、自分の民の生活が気になるたびに、身分を隠して民政視察を頻繁に行いました。 宮殿の外に出るときは、みすぼらしい平民の服装をしました。そして自分の身辺を保護する部下たちが密かに守る中に視察を行いました。ある村を通り過ぎる時に、日が暮れて泊まらなければいけなくなりました。 その村にとても大きくて見栄えの良い家があるので、門を叩きました。その家の僕が出てきました。 「一晩泊まらせてもらいたい。」と言うと、悪口を吐きながら拒みました。王は再度頼んでみたが、遅れて出てきた家の主さえもきっぱり断ったので、仕方なく、村の端にある小さな小屋のような家に行きました。

その家の主はとても若い人でした。一晩泊まらせてもらえないかと懇願したところ、部屋が一つしないので困ると最初は拒みました。しかし、夜が深くなり、旅人に他の方法がないことを知った若い夫婦は、自分たちが寝る部屋を出してくれました。それで、王は、一体夫婦はどこで寝るのか探してみると台所で夜を明かすつもりでいることがわかりました。王は知らないふりをして一晩を過ごしました。

翌日の朝でした。思いもよらない朝ご飯が用意されていました。王はこの若い夫婦を部屋に呼び、「ここに住む理由は何ですか。」と尋ねました。すると、若い夫は「科挙(かきょ)試験(国家試験)を受けるために地方から上がってここで過ごしています。」と答えました。王はまた尋ねました。 「試験に合格したらどんなことをしたいですか」 。夫は「国を治める王の身辺を守る事をしたいのです。」と言いました。王は何も言わずに夫婦が出してくれた朝ごはんを取り、その家を去りました。しばらくして、宮殿から連絡が来ました。 この若い夫婦を王が呼ぶということでした。その後の話はもう言いませんので、信徒の皆さんが想像してみてください。どうなったと思われますか。

万王の王イエス・キリスト、彼を受け入れる者は皆、人生が変わり、死ぬべき者が命を得るようになり、永遠に生きられるのです。 ところで、今日のみことばのように、それほど貴重な方が来ましたが、全く気付かず、受け入れられない人々がいました。彼らの過ちを見て、私たちはベツレヘムの飼い葉桶に来られたイエス様を迎える心で、再び来られるイエス様を迎える準備を決心することが聖誕節の意味ではないでしょうか。イエス様が来られました!再度聖誕のご挨拶を申し上げます。Merry Christmas!

<祈祷>

この世を愛する神様、独り子をこの地に送って下さり、救いを成らせました。

ベツレヘムの飼い葉桶に来られた幼子イエス様の誕生を私たちの心に刻みます。今日、

私たちはコロナ禍によって全世界の人々は苦痛の時間を過ごしながら、再臨する主を待ち望みます。「マラナタ」主イエスよ、来てください。私たちの祈りが成就できるよう願います。平和と希望、喜びと愛を与えるためにこの地に来られた主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン