2021年11月28日主日「希望と安全、平安の季節が」鄭元然牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年1128日>待降節Ⅰ

                         説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

*題目 : 希望と安全、平安の季節が

聖書 : ヨブ記 1116-20

[/新共同訳]

16. その時、あなたは労苦を忘れ/それを流れ去った水のように思うだろう。17. 人生は真昼より明るくなる。暗かったが、朝のようになるだろう。18. 希望があるので安心していられる。安心して横たわるために、自分のねぐらを掘り 19. うずくまって眠れば、脅かす者はない。多くの人があなたの好意を求める。20. だが、神に逆らう者の目はかすむ。逃れ場を失って/希望は最後の息を吐くように絶える。

<説教>

2021年待降節を迎えました。 人類を救うためにこの地に来られたキリスト・イエスの誕生を待つ節期です。 この世の暦は、2021年の最後の月を控え、一年を整理し、迎春を準備します。 しかし、教会は今日から新しい一年を始めます。 教会はイエス・キリストの誕生と、彼の死と復活、聖霊の降臨が中心となるからです。待降節は、クリスマスを控えて4週間守る節期です。 教会が使う色も紫色に変わります。 キリストの権威と待ち望みを象徴する色です。

年末になると、すべての人はイエス・キリストを信じる人であろうと、信じない人であろうと、一年の終わりを整理しようと考えと共にクリスマスを思い出し、心をときめかせます。特に近年の数十年間、聖誕節は、教会中心ではなく、デパートや商店街が中心となって広げる商業戦略や華やかな装飾に目を奪われてしまいました。教会はまだイエス様を迎える準備ができていない時間でも世の中だけがクリスマスで忙しく歩き回っている様なのです。このような社会現象の中で、どのようにすればクリスマスの本来の意味を回復できるのだろうか。このような心配が今日の教会に与えられた課題です。信仰の家庭の子どもたちも、クリスマスの正しい意味を教えてもらう前に、クリスマスのプレゼントにもっと関心を持つようになってしまいました。神様が人の子となったという驚くべき秘密が込められたキリスト教の本来の意味を再び探してみる待降節第1週目になることを願います。

伝統的に、待降節の第一週目は、待ち望みと希望を象徴し、最初の一本目の蠟燭に火を灯します。 2年前から始まったコロナ禍で全世界が不安と恐怖に陥っています。昨年の聖誕節期のときも、私たちは自由に礼拝をささげることができず、暗くて憂鬱なクリスマスを過ごしました。 1年前、コロナの感染状況は世界の患者6200万人、死者145万人でした。 一年が過ぎた今、世界の感染者総数は2億6000万人で、死者520万人です。 そして、私は皆さんに「希望は捨てられない」という説教を致しました。

私は人間が生きていくこ中で精神的な柱になるのが「希望」だと思います。有名な哲学者キェル・ケゴール(Kierkegaard)は、「死に至る病は絶望である」と言いました。 あまりにも有名なので誰でも覚えている言葉です。 私も彼の言葉に同感しており、キエール・ケゴールの言葉は正しいと思います。 絶望とは希望の断絶を意味します。 絶望が人の心に満ちると、希望が入る空間がないのです。 人は希望を食べて生きる存在だとも言います。 しかし、動物は絶望しません。 また、死者にも絶望はありません。 絶望していることは生きていることを意味します。 しかし、この絶望が大きければ大きいほど希望は小さくなり、生きる価値さえも喪失してしまうのです。

「ヴィクトール・フランクル」(Viktor Emil Frankl)という人は、1905年にオーストリアで生まれたユダヤ人として「ロゴセラピー」という心理学を創始した有名な心理学者、哲学者です。 彼が書いた「夜と霧」(From Death-Camp to Existentialism)という本は、第二次世界大戦捕虜収容所で直接経験した捕虜生活を記録した自叙伝(じじょでん)のような本で、捕虜収容所での経験を通じて自分が研究した個人心理学である「ロゴセラピー」を発表した本でもあります。 フランクルはホロコーストの生存者であり、四つの収容所(テレジエンシュタット、アウシュヴィッツ、カウパーリングとトルクマン収容所)を経た特別な経験をしたのは、彼がユダヤ人医師だったため、収容所で患者の世話をする役割も持っていたからです。

捕虜収容所の状況は悲惨の極まりでした。 飢餓と人間以下の扱いを受ける恥辱、死に対する恐怖、骨に凍みる寒さと労働、そして自分の心から起きる不義に対する憤り、体が経験する肉体的な苦痛や病の中で生きていく捕虜たちの姿を語っています。 多くの人が死んでいく中でも最後まで生き残った人々がいました。

生き残った彼らには一つの共通点がありましたが、「ヴィクトール・フランクル」は、未来に希望を持った人々が生き残ったと証言しています。 ある人は死について平然としようとし、ある人は愛する人の姿を思い出すことで生きようとしますが、彼らは結局死んでしまいます。 しかし、未来の希望を握って生きていく人だけが惨めな死の苦しみに勝ち、結局は生き残ったという話です。 未来に対する希望は生きる意志を引き起こしますが、希望を捨てたり失ったりすると結局死をもたらしました。

苦難と逆境の中で希望を持つことを私はこう考えてみました。第一は、個人的な経験、第二は国家や民族的な経験であり、第三は世界的な、宇宙的なものだと考えます。 その理由を皆さんと一緒に探していきたいと思います。 ヨブが経験した苦難と逆境は個人的な経験だと言えます。旧約聖書の中で、義人になぜ苦難があるのかに対する「苦難の謎」を扱った本です。 ヨブという人物と起こった事件についてはいろいろな意見がありますが、私たちがよく知っているように、サタンがヨブを試すことから始まります。 聖書で神様がヨブをどのような人だと言っているのか見てみましょう。1章8節で、「彼は無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている者」と言います。1:8主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

すると、サタンは神様に「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」とヨブの信仰を軽んじて嘲笑います。サタンは,ヨブが神様を恐れて生きるのは,ヨブの手の業に祝福を与え,彼の家畜が地に溢れるようにしたからだと言います。だから、そのすべての所有物を彼の手から奪うと面と向かって神様を呪うに違いないと言います。結局、サタンはヨブを大きな苦境に追いやります。最初にしたのは祝福だと思っていた10人の子どもたちとその多くの財産を一瞬で奪います。サタンの考えは、子どもと財産を失うと、ヨブが神様を呪い、背くと考えたのです。そしてヨブの体に手を下し、病まで与えました。人にとって子どもや所有する財物を失うことが大きな打撃になりますが、一瞬ですべてを失くし、その上自分の健康も損ない病に苦しむことになると、これも耐え難いことです。その渦中に、妻と友人たちが訪ねて言う言葉は、あなたが犯した罪があって神様に罰を受けているのだから悔い改め、神様の前に行かなければならないと言います。原因を知らずに言う原則的な言葉かもしれません。

ヨブはこのような苦しみと苦難の中で神様に祈り、恨みや不平も言ったりしました。 しかし、彼の心は変わらなかったです。 ヨブはこのような苦しみの中でも神様に対する信仰と希望を捨てませんでした。 友人であるツォファルはこう言います。 「あなたが正しい方向に思いをはせ、神様に向かって手を伸べるなら犯した罪があなたの天幕から離れるだろう」と言いました。 ヨブに襲った苦難の原因は、ヨブが犯した罪のせいだと定めたのです。

ここで、ヨブが持っている信仰の根本的な内容をみることができます。人が神様の前に真っすぐ立つようになれば、命の日が昇り、現在の闇のような苦難の中にいても朝の燦爛(さんらん)な太陽を迎えることができることを知らせます。 希望があるので、人生において安全かつ平安が宿ることをわからせてくれます。一人の人生において希望を持つということが、どれほど重要なことかを確認できます。

二つ目は、国家と民族が困難の中でも希望を捨ててはならないことを、神様が預言者たちに知らせてくださいました。エレミヤの預言者も苦難と苦しみの中で神様のみことばを受け、民に伝えながらあまりも苦しく、民が遭う苦しみを考えると涙しか出てこなかったので「涙の預言者」と言われます。ユダに臨む神様の裁きは、バビロンを使って戦争で負けることは無論、民は捕虜になって異国の地に連れて行かれるだろうと予言させたのです。うまくいくのか、祝福を伝えてもなかなか信じないのが人々の心理なのに、審判で滅亡され、死なれ、捕虜になる苦しみが臨むだろうという言葉を気持ちよく受け入れる人がどれくらいいるでしょうか。神様の裁きの内容はすでに決まっていました。捕虜生活も日にちが決められて祖国ユダに戻ってくるだろうと言いました。しかしユダの指導者たちと民はエレミヤの言葉を信じませんでした。

エレミヤ32章で、預言者エレミヤはユダが滅亡を避けられず、バビロンによって滅びると重ねて預言しました。そのため、ゼデキヤ王はエレミヤを獄舎に拘留させました。この時、預言者に臨んだ主の言葉は、「アナトト」にある叔父の畑を買い取るように命じます。アナトトはエルサレムの北東に約5キロ地点にあるところでエレミヤの故郷です。そこにはエレミヤの親戚が住んでいました。おそらく、いとこの中で一人が土地を売らなければならない境遇だったようです。そしてユダヤの習慣によって、土地を相続し所有する法的な権利がエレミヤにあり、それでいとこがエレミヤに畑を買うようにと言います。エレミヤは神の言葉に従って、銀十七シェケルを量って支払い、証書を書いて、証人を立て、バルクに購入証書を長く保存するようにと頼みます。

一般的な常識では理解できないことが起きました。 間もなく国がバビロンに滅亡され、国土は荒廃され、エレミヤ個人も獄舎に拘留されており、未来がわからない暗鬱な現実でありました。 このような時期には、持っていた土地も売って現金を作るか、持ち運びしやすくするため金塊に変え避難するのが常識です。 しかし、エレミヤは叔父の土地をたくさんの銀を支払って購入します。 これは、単に親戚の困難を助けるための慈善の意味でなく、土地を買った後に購入証書を封印し、よく保存するように頼みます。

エレミヤはなぜこのようなことができましたか。 希望があったからです。 国が滅び、命が危ない状況でどのような希望があるのかと言うかもしれませんが、エレミヤには神様から与えられた希望がありました。 エレミヤ30章以降に見るとユダが罪で滅びるが、神様が新しい回復の約束を与えて下さったのです。 神様は土地を買ったエレミヤにこのようにはっきり話されました。30章15節「イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る』と言われるからだ。」

涙を流しながら祖国の敗亡を言い、自分も捕虜に連れて行かれる立場だったのにもかかわらず、エレミヤ預言者は神様の約束を信じました。神様の約束が希望になりました。このような希望があったので、土地を購入したのです。現実の可能性を基にして希望を持ち、行動したのではありませんでした。もしそうなら、エレミヤは何もできなかったはずです。 神様の言葉に従うことができなかったでしょう。彼が畑を買って、明日への希望を持つことができたのは、国の状況が変わったからではありません。 自分の立場が変わったからでもありません。すべての現実の条件は前と変らなかったのですが、預言者は神様の「回復させる」という約束の言葉を信じ、希望を抱きました。真なる神様の約束なので、エレミヤは絶望せず、希望の中で新しい未来を夢見ることができました。

このように、人は希望がなければ人生の未来と情熱を抱き生きることができません。国や国家も挫折を経験しながら絶望するしかない事に遭います。希望がない人は苦難に襲われるとその夢を諦めてしまいます。しかし、希望を持っている人は、苦難の後に来る成功や希望を眺めるのです。希望のない人は生きる情熱を持つことができません。すべてが虚しくて儚いのです。すなわち希望は生きる力であり、人生の力になるという言葉です。

今日の世界がコロナ禍によって大きな苦しみと苦難の中にいる事実を誰も否定できないでしょう。説教準備をしている途中に入ってきたニュースは、南アフリカ共和国で強力な新しい変異コロナウイルスが検出されたというニュースでした。WHO(世界保健機関)がこの強力なウイルスをオミクロン(B.1.1.529・オミクロン)という名前をつけたそうです。日本政府は、南アフリカ共和国から入国するすべての人々に隔離を強化するとのニュースを出し、米国ニューヨーク証券取引所では株価が暴落したとのことです。

このような世界的な災害の中で、聖書でバベル塔の事件やノアの洪水などが頭を過ります。イエス様が来る前に、イスラエルはすでにローマ軍によって戦争で敗北を経験し、イエス様の予言どおりに西暦70年、再びエルサレムは敗亡しました。しかし、これらが世界の終わりではないと言われたことを私たちは覚えています。イエス様が弟子たちと信じる信徒たちに再臨を約束されました。2000年前にベツレヘムの飼い葉桶に来られたイエス様の誕生を祝うのと同時に、今日を生きる私たちクリスチャンは再び来られるイエス様を待ちながら生きるのです。

ヨブが愛する子どもたちと神様から与えられた財物をすべて失っても、神様に対する信仰と希望を捨てなかったので、彼は神様から再び回復の祝福を受けました。涙を流しながら神様の言葉を伝えた預言者エレミヤは、間もなくバビロンの捕虜になることを教えるのと同時に、土地を購入せよということと捕虜からユダに戻る回復を約束された神様の言葉を固く信じました。エレミヤは絶望せず、希望を持ってその土地を生きる信仰を見たのです。

全世界が水の海になり、城が崩れ、民族が散らばる苦難の中でも希望を捨てなかった信仰の先輩たちがいました。世界が生き残ったことを覚え、コロナ禍中でも2021年に迎える待降節と聖誕節、神様が私たちを守って下さり、回復して下さることを信じて進みましょう。

希望!それは主がすべてに勝たせるために私たちに与えて下さった祝福です。希望と安全、平安の季節が

私たちの心に、私たちの教会と地域社会と全世界に臨まれることを共に祈りましょう。

<祈祷>

慈しみ深い神様、絶望の中でも希望を失わないように導いて下さり感謝をささげます。2021年待降節の第一主日、私たちに希望を歌わせ、希望のみことばを分かち合わせ、希望を祈り、希望に満ちた信仰を持って生きていくようにならせて感謝します。世界に主からの真なる希望が宣布できるようにさせて下さい。感謝をささげながら、希望を与えるためにベツレヘムの飼い葉桶に来られた主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン