2021年12月12日主日「み言葉の光が全世界へ」鄭元然牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年1212日>待降節Ⅲ

                         説教 鄭元然牧師/通訳 姜志鮮勧士

 

* 題目 : み言葉の光が全世界へ

 

* 聖書 : ヨハネによる福音書11節-5

 

[/新共同訳]

1. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2. この言は、初めに神と共にあった。3.万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4. 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5. 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

<説教>

夜明けに起きて外を見ると、周りは真っ暗です。しかし、朝を知らせる太陽が昇ると、闇に隠されていたすべてが明るみに出て世界のすべてが見え始めます。 太陽が昇る直前が、一番闇が深いそうです。 しかし、太陽の光が明るく照らされると、何一つ隠せず、退けられます。

2021年待降節の第3主日です。 今日、私たちはベツレヘムの飼い葉桶に来られたイエス様の誕生の意味を深く考えています。 世界中の教会と信徒たちは、祈りとともに喜びを持ってクリスマスを待っています。 3番目の蝋燭に灯した火の意味は、「イエス様の愛」を象徴します。 そして今日は、世界の教会が「聖書主日」として守っている主日でもあります。 今日、聖書のみことばは、旧約の創世記の世界創造を浮かばせるみことばです。 創世記1章1節、「初めに、神は天地を創造された」。 今日の本文である新約聖書、ヨハネによる福音書1章は、創世記のみことばと非常に関連しています。 ヨハネによる福音書1章1節は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」です。

「初め」にと翻訳されたヘブライ語「レシュト」(re’shith)は、初め、出発、起源の意味を持つ言葉です。 創世記1章1節に、「初めに、神は天地を創造された」という初めは、無時間的な永遠を言うものではありません。 神様が天地創造で始まった時間の出発点を意味する言葉です。 ヨハネによる福音書第1章1-2節のみことば、「1. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2. この言は、初めに神と共にあった」。ここで「初め」という言葉は、万物の始まりの以前に存在する、物理的な時間を超えた「永遠」を意味するものです。

 

天地を創造された神様は、ことばで世の万物を造られました。 創造主である神様と共におられたのが「言」だと言います。 「言」であるその彼がこの地に来られたという神秘的な事実を教えています。 再び整理してみると,永遠の前からおられたエホバ神様が言で天地を創造され,天地を造られた「言」が肉のまとった形でこの地に来られたということです。

「言」と表現されたこの単語はイエス様を指すことで、御父である神様の創造に関わり、独り子であるイエス様が肉をまとってこの地に来られたことを説明しています。この世を造られ、司る神様が、自ら創造された世にみ子であるイエス様を送ってくださったのです。世の主人の子であるイエス様が生まれたことを意味します。イエス様は人間をまとって、人として来られましたが、この事実を世の中の人々は気付かなかったと言いました。

ここで「言」はどのような意味を持っていますか。神様の口から出てくるみことばであります。ヘブライ語の「ダバール」(dabar)は、神様が自分の姿とみ旨を人間に表わし、摂理通りに歴史を導く手段として使われました。 この言葉はさまざまな意味を持っています。スピーチ、一般的な言語、会話などを意味します。 そして別の意味は、思考、約束、脅威、委任と命令、規則と規定、 教訓、相談、要請と願い、拒絶という言葉も該当する非常に幅広く使われる言葉です。

旧約聖書の詩篇の中で、「言」に関する内容が詩編119編で、新たな関係性を持つ宗教的な意味を持っていることがわかります。 ここで「言」は律法、法、法道、戒め、規律など多様な名称で使われ、同じ意味の言葉として使われました。 新約聖書のギリシャ語は「ロゴス」(logos)で、 陳述(ちんじゅつ)、言葉や言動、質問、命令、報告や噂、強化、記録された言葉、聖書の言葉、宣言または教え、言であるイエスを表す単語として登場しますが、今日の本文のみことばがその代表的な箇所です。

イエス様のみことばは、神様の国が近くまできているとい宣言と、すでにイエス様の人格とみことばの中に現れたもので、神様が全世界を司ることを啓示の言葉で予告をされました。イエス様は「主は言われた」という使者(messenger)の公式フレーズを使いませんでした。「はっきり言っておく」という言葉を使われました。 これはイエス様の言葉が持つ霊的な確信と権威を示すものでした。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と4節で話されます。神様が独り子に与えてくださった「言」の内に命があったと記しています。旧約聖書を通して見ると、神様は選んだ人々を呼び、彼らに会って直接言葉を与えられました。アブラハムとイサクとヤコブに、そしてヨセフにも話されました。 代表的な人物はモーセです。また、預言者たちを呼び、彼らに言葉を与えました。 預言というのは、預言者を通して神様のみことばを伝えた手段でもあったことを私たちはよく知っています。

こうして神様は直接人々を呼び、預言者に神様のみ旨を伝えさせました。今、神様は自分の独り子であるイエス様をこの地に送られました。この表現が「言は肉となって私たちの間に宿られた」なのです。私たちはこれを「受肉(じゅにく)(Incarnation)」と言います。永遠の神が人になることを意味する言葉で、聖書にはこの言葉が直接使われていませんでしたが、神が人になることに対する受肉の教理は聖書のあちこちに散見されます。聖者イエス様は、受肉することで完全な神様であると同時に完全な人になったのだとコロサイの信徒への手紙2:9で、「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、」というみことばで記されています。神様が肉をまとってこの地に来られ、命がその中にあったと言っています。この命は人々の光であるとヨハネは4節で話しています。

信徒の皆様、光はどのような役割ですか。

事物、ここに物があります。 この物が見えるようにする存在が光です。 物が私の前にあっても光がなければこの物を見ることができません。 「かすかに何かが見える!」 その言葉は薄暗いが、少しの光があるとき言います。 先ほどの創世記1章2節、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。 光のないところには、混沌と空虚と深淵の闇だけがあるという言葉です。 ここで言う「混沌」とは「形がない」という意味です。 この言葉を光と結び付けて考えると、光がないため「形を見ることもできない」ことになり、「空虚」という言葉は「何もない」という意味です。 ただあるのは、何も見えない深淵の闇だけがあるとのことです。

この状態を説明するならば、皆さんは洞窟に入ってみたことがあるでしょう。 済州島に行くと、世界的に有名ないくつかの洞窟があります。その洞窟に安全帽子をかぶって入れば、洞窟の中の道を照らしてくれる小さな電灯がついています。もしこの時、この電灯が消えてしまうとどうなりますか。何も見えなくなります。しかし、再び電灯がつくのであれば、太陽のように明るい光ではないが、電灯の光によって明るくなるでしょう。

人類が電気を使うようになったのはエジソンからでしょう。1897年にアメリカの発明王と呼ばれる「エジソン」が白熱灯を作り、照明器具が開発され、太陽のない真夜中でも昼間のように活動できるようになりました。インターネットは、海と地面に敷かれた光ケーブルを通して世界を一つにつなげました。レーザーやX線の光を活用した医療機器は人々の健康のために使われています。ところが、ここで重要な一つの事実は、光が反射されると物体の存在が確認できるということです。

私たちに物体が見えるのは、光が反射する性質を持っているからだということを科学の授業で学びました。 太陽からの光は直進し、物体に当たって四方に反射されます。これらの反射された光の一部が私たちの目に入ると、私たちは物体が認識できます。 そして、光の瞬間加速度は(30万Km/s)に限られているのです。 地球の周りが4万Kmなので、瞬く間の1秒で地球を8周するという論理です。このような光の本質を見ると、この光を人が認識できない理由はありません。しかし、今日のみことば5節には、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と書かれています。

ここで質問が生じます。光は暗闇の中で輝いているが、暗闇は光を理解しなかったという言葉の意味は何でしょうか。 言が肉として現れる前にも永遠である神様の言は、直接話されて、預言者を通しても話したと先説明しました。 結局、堕落した世界に命を持つ光が来られても、人々は気付かなかったのです。

その理由の中で一番に、神様として永遠の言は、堕落した人間の心に入ることを望んでいましたが、人間はそれを簡単に受けいれませんでした。旧約聖書では、人間が暗くなった良心に光を照し、輝くことを期待しましたが、反射できる力が人間にはなかったのです。これは、自力で救いが得られない人間の限界を説明することでもあります。

第二に、旧約の啓示と契約を通して永遠の言は暗闇の中で輝いていました。闇を明かすようにこの世の光に命じた彼自身が、長い間闇の中で輝いていた光であったのです。 しかし、堕落したこの世はあまりにも無力でした。罪と誤りの闇が大きすぎて、この光は覆われていました。光を、啓示で、律法で表した「言」を持っていた当時のユダヤ人たちでさえ、光の中におられるキリストを理解できなかったのです。 ですから、異邦人たちの過ちを正し、ユダヤ教が持っていた真理を補強するために、キリストは必ず来なければならなかったことを、使徒パウロは証ししています。 ほとんどの人は闇の中で輝いている神様の恵みの光を受けられずにいるのです。

このように光が現れたが、その光が反射できないユダヤ人たちと罪人になっている人類に、神様の力のきらびやかな光が降りてきたのです。堕落した人間の無能力の中で、罪に陥り、自ら神様に近づけない凄惨(せいさん)な状況にいた人類に、イエス様が来られたのです。 そしてこの光を受け入れる人々に与えられた祝福は救いでした。

今日、私たちが聖誕節の深い意味を考え、これを信じて進む道は、私たちの努力によるものではありません。私たちを信仰の道に導いてくださるみことばによるものであり、神様の恵みだからです。みことばの役割は、このように信じられない人たちに、能力として来られ、希望と平和と愛と救いの道に私たちを導いてくださることです。

今日21世紀を生きながら、イエス・キリストを信じる私たちに与えられた祝福を悟らなければなりません。 この祝福は、記録された「言」である聖書が私たちに与えられたことです。神様を知って、イエス様がどのような方であるのかを教えてくれるのが聖書です。なぜ聖書のみことばと言いますか。聖書は神様のみことばが記録されているので、私たちは聖書のみことばというのです。聖書とは、聖霊の導きの中で使徒たちと著者によって記録され、今日まで神様のみことばを伝える道具であり、イエス・キリストを知らせる本であり、正しい信仰生活のためのガイドブックなのです。

世界の宣教の歴史を見ると、宣教師が宣教をしなければならない地域に到着し、その地域の言語を学びながら最初にする働きが、聖書を宣教地の人々の言葉に翻訳することです。このように翻訳作業をすることで、その地域や国の人々が神様のみことばである聖書を通して福音を受け入れることができるからです。

昨年、私は日本の聖書翻訳の歴史について少し説明しました。我が国の事情も日本と似通っていました。宣教師たちが当時の朝鮮という、全く知らない国に行って福音を伝えようとしたとき、最も急いだことは、神様のみことばである聖書を朝鮮の人々が読めるように聖書を翻訳することでした。我が国の聖書翻訳の歴史においても、不思議なほど奇跡的なことが続きます。

普通ならば、宣教師が宣教地に行き、言語を学び、翻訳して聖書を作ることが一般的です。しかし、韓国の場合には、宣教師が韓国の土地を踏んだとき、すでに彼らの手にはハングルの聖書があったという事実は本当に奇跡的なものです。我が国のプロテスタント宣教歴史は、米国宣教師のアンダーウッドとアペンセラが仁川(インチョン)に到着したことから始まりました。 1885年です。しかし、宣教師たちは1882年、日本にいた李樹廷(イスジョン)の努力で、聖書の一部が翻訳され、この小さな福音書を持って入国しました。韓国に初めて伝えられたのは漢文の聖書だったが、1832年オランダ聖書公会所属ギュツラフ (KFA Gutzlaff)宣教師が最初であり、以後ハングル聖書翻訳も満州ではスコットランド宣教師ロス(J. Ross)とマッキンタイヤ(J. McIntyre)、李應贊(イウンチャン)、白鴻俊(ベクホンジュン)、金鎭基(キムジンキ)、李盛夏(イソンハ)、徐相崙(ソサンリュン)などの韓国青年たちの助けを借りて、1887年に新約聖書『イエス・宣教全書』を出版しました。

このように、受肉されたイエス様の働きと、神様のみことばとイエス様のみことばが今日、私たちの信仰の最も中心になるので、私たちはこれを大切に考えているのです。待降節の第3主日、「言」で来られたイエス・キリストと私たちの手にある記録されたみことばである聖書を読み、黙想し、実践することで正しい信仰の道を歩んで行きたいと思います。「言」の光が全世界の中で輝いているクリスマスを来週迎えます。

「言」で宇宙万物を造られた神様、「言」であり、独り子であるイエス様をこの地に命の光として、送ってくださったことに感謝します。深淵の闇のような世の中に光として来られたキリストの救いの光が、全世界を生きらせてくださり、感謝します。 来週の聖誕の主日を、喜びを持って迎えるように導いてください。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名で祈り致します。 アーメン