日本語説教

大阪教会主日礼拝 <2021年6月20>五旬節後第四主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

題目 : 기도가 우리에게 주는 은혜 祈祷たちにえる 

聖経 : 디모데전서 2 1-4 テモテへの手紙一2章1節-4節

 

[개역개정] 기도에 대한 가르침

  1. 그러므로 내가 첫째로 권하노니 모든 사람을 위하여 간구와 기도와 도고와 감사를 하되, 2. 임금들과 높은 지위에 있는 모든 사람을 위하여 하라 이는 우리가 모든 경건과 단정함으로 고요하고 평안한 생활을 하려 함이라. 3. 이것이 우리 구주 하나님 앞에 선하고 받으실 만한 것이니, 4. 하나님은 모든 사람이 구원을 받으며 진리를 아는 데에 이르기를 원하시느니라.

[(日)新共同訳]

1. そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。2. 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。3. これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。4. 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間をいかがお過ごしでしょうか。

主からの恵みが信徒の皆さんと共にありますよう、祈願いたします。コロナ感染による緊急事態宣言が6月20日、予定では今日まででした。しかし、状況悪化によって、私たちが住んでいる関西地域は蔓延防止等重点措置が出されました。徹底して健康管理に注意を払ってください。元気な姿で再び教会で集う日を待ち望みます。

今日は信徒たちの信仰生活に重要な柱のような祈りの生活に関する話をしたいと存じます。先週、電話を一本いただきました。教会にかかってきた電話であり、事務室からの伝言によるとうちの教会の信徒ではないが、牧師と相談したいとの内容でした。

私は電話を受け、挨​​拶をしました。お相手の方は、電話した理由を説明されました。 13歳の中学生の娘を持っている母親でした。自分は教会に通っていないが、娘はキリスト教系の学校に通っているとまず話してくれました。本人も娘も、教会に行きたいが、夫が教会に行くことを反対しているらしいです。娘と夫の仲が非常に深刻で、生活面や学校の成績にも影響を及ぼし、苦しんでいるという内容でした。お母さんからの願いは、牧師に娘と夫と自分のために祈ってもらいたいとのことでした。私は、本人の名前や娘が通う学校や家族について一切聞きませんでした。しかし、電話をしたお母さんは、娘の名前だけお知らせますと言いながら、祈ってもらいたいとの要請でした。この電話の後に、私はこのお母さんとの約束を守るために、祈りをささげています。

わたしは、牧会者として考えてみました。このお母さんは、教会を通わず教会に対する理解をどれほどしているのかはわかりません。私と一度も会ったことがありません。どうやって大阪教会を知るようになったかと質問しました。すると、お母さんは在日同胞の教会であることは知っており、それで電話をして、自分の家族のために祈って下さいとお願いしようと思ったそうです。おそらくこのお母さんにとって、教会は祈るところ、牧師に祈りを求めることができることと理解しているようでした。私は電話をされたお母さんに大阪教会について簡単に紹介をしました。教会のホームページや主日の映像礼拝の案内もしました。私は、この時間またはこの後でも、このお母さんがこの映像を見て欲しいと願っております。

私たちはお互いに祈りをお願いし、他人のために祈ることを執り成しの祈りと言います。自分のためではなく他人のために祈ることを意味します。今日読んだ聖書のみことばでは、使徒パウロが自分の後継者として教会の働き人と福音伝道者として召されたテモテにこのように述べています。「まず第一に勧めます。祈りをささげなさい」。他のどのようなことをするよりも、優先的に一番最初にしなければならないことが祈りであることを言っています。そして続いて「君が知っているすべての方法を使って、あなたが知っているすべての人々のために祈りをささげなさい」と話しました。

初代クリスチャンはすでにユダヤ教の伝統を理解しているユダヤ人もいました。ユダヤ人ではなく、異邦人の出身であるクリスチャンたちも自分らが持っていた信仰を基に祈りをしてきた人たちでした。そして、わたしに電話をかけてきた中学生のお母さんも教会は祈る所と知っていました。そして、パウロは「願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい」と言っているのです。すべての人々のため祈りをささげるのと同時に、2節で「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」と続けて言います。この言葉の意味は「統治者や政府が国民を正しく治めるように祈りなさい。」とも考えられます。

王たちやすべての高官のためにもささげなさいという理由を、続くみことばから察することができます。それは「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」。

実際社会的な環境が私たちの信仰生活に影響を及ぼすことができることを、私たちは今回のコロナ禍によって実感しているのではありませんか。このように、社会的な雰囲気が影響を与えるのです。

それだけではなく、国家の運営と市民を安全に保護するために、政府や統治者たちの役割が重要だからです。今、日本の最大の社会的、政治的な問題は何ですか。コロナ禍により、昨年2020年に実施しようとしていた東京オリンピックが1年延期されました。延期決定後、一年が経ちましたが、感染の状態はますます厳しくなっています。このような状況の中でオリンピック開催の妥当性が問題となっています。日本政府は、国民が安心できる安全なオリンピックを開催するという言葉を重ねています。メディアや多くの人々は、国民が安心できる安全であることが一体何なのかを説明するよう求めていますが、答えを出せない状況であります。

このように、政治家は政治を通じて国民や市民に多大な影響力を及ぼす役割をするので、彼らのために祈りなさいということです。初代教会の時代にも多大な影響力を発揮したのは、国の王や支配者と宗教指導者の暴挙でした。当時のローマにキリスト教を初めて伝えたのは、ペトロとパウロではなかったです。すでにローマに住んでいたユダヤ人たちが故郷と母国、イスラエルとエルサレムを尋ね、イエスの福音に触れました。そして、彼らがローマに戻ってきて、信徒の集まりが始められ、家庭教会が建てられたものです。後に、ペトロとパウロがローマに来て福音を宣べ伝えてから、殉教をするところがローマでした。以後、ローマの皇帝の中にはネロのようにキリスト教を弾圧した人もいました。

世界史において、私たちが必ず覚えなければならない重要な人物がいますが、「コンスタンティヌス1世(ラテン:Flavius Valerius Aurelius Constantinus、272年2月27日-337年5月22日)」です。ローマ皇帝(在位306年-337年)として、キリスト教史では「コンスタンティヌス大帝」と呼ばれる人物です。彼は306年7月25日、ブリタニアのヨークで兵士たちによって君主に推戴されて死ぬまで、ローマ帝国を統治しました。彼が統治期間に成し遂げた業績の中で、キリスト教の歴史において重要なターニングポイントになったことがあります。西暦313年、ミラノ勅令(ちょくれい)でキリスト教の受容を宣言して、キリスト教に対する迫害を終え、事実上、正式宗教として公認したのです。また、政府が差し押さえた教会の財産を返し、これに対する国の補償も行いました。彼はまた、325年第1ニカイア公(こう)会議(かいぎ)を招集し、キリスト教の発展にも寄与したことで有名な皇帝です。 324年コンスタンティヌス大帝はビザンティンを「新しいローマ(Nova Roma)」として公表し、330年には正式にローマ帝国の新しい首都と定めました。そこが今日のトルコのイスタンブールです。歴史の中にはこのように、一人によってキリスト教が世界の宗教になることに役立つ指導者もいます。

このように、使徒パウロは、王と高官たちの正しい政治のために祈りなさいと言っています。政権に媚(こ)びて、神が油を注いだダビデのような将軍とお世辞を使いなさいということではないのです。政治家たちが正しく治めると国民が平安に暮らせるでしょう。それだけでなく、信仰生活においても「常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」ことができると言っているのです。そうなると私たちがへりくだった心で黙想でき、静かに心を込めて丁寧に暮らすことができると言いました。それこそ、主が喜ばれる生き方であるとパウロはテモテに伝えています。

このような祈りがもたらす重要な一つの事実は、クリスチャンの平穏な生活のためだけではないとパウロは言っています。テモテにこう教えています。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」。そして、祈りが神の救いにつながる重要な要素であることを強調しているのです。祈りにはいくつかの種類があります。求めは、懇願(こんがん)と哀願(あいがん)をすることです。祈りは信徒が主に申し上げる形式として「プロシュケ」(προσευχη)という意味を持つ言葉です。

執り成しの祈りは、仲裁や調停の意味であり、他の人のための仲裁の祈りとして使われる言葉です。人のために神様に嘆願する祈りを指します。旧約聖書では、この仕事は大祭司が担う貴重な働きでした。(ヘブ5:1)大祭司は罪の許しのために供え物やいけにえをささげるよう、人々のために神に仕える職に任命された人でした。新約聖書で私たちの大祭司であるイエス様は、永遠に生きておられ、この仕事、すなわち信徒たちのために執り成しの祈りを今もしておられるというみことばがあります。ヘブライ人への手紙7:25

「それでまた、この方は常に生きていて、人のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」。

聖霊様も言葉で表せない呻(うめ)きを持って執り成してくださるとローマ書8章26節に書かれています。

「同に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。

特に新約聖書では執り成しの重要性を強調しています。使徒パウロは、彼が立てた教会の信徒たちに彼自身、パウロのために執り成してほしいという祈りの願いを多くしています。(注:/エフェ6:19;コロ4:2-4)使徒ヤコブも同じく、主に癒していただくために互いのために祈ることと正しい人の執り成しの祈りは大きな力と効果をもたらすと言及しています。(ヤコ5:16)それで、今日の本文で、使徒パウロはテモテに、教会に執り成しの祈りを教えなさいと勧めているのです。

使徒パウロは続けて、祈りは神に何かを求める方法で一貫するのでなく、必ず感謝を共にしなければならないことを教えています。私たちは、長年の信仰生活をしながら、祈りの重要性と恵みをよく知っています。今日はコロナ伝染病がパンデミックを引き起こし、恐怖と不安に覆われている時代です。この時、私たちがやるべきこと、私たちができることが何だと思われますか。一緒に集まって祈れず、一緒に集まって礼拝をささげることもできません。しかし私の小部屋、私の祈るところで、自分だけでなく信徒たちのためにも、他人のために祈ることはできるのではないでしょうか。

牧師として信徒の皆さんにお願いをするのは、使徒パウロが信徒たちに牧会者のために祈って下さいと要請しました。皆さんも牧会者のために祈ってくださいますよう、切に願います。皆さんの祈りなしで牧会はできません。同様に信徒の皆さんも困難なことがあれば隠さず、お互いのために祈れるように祈りのお願いをして下さい。もちろん一人一人の考えに差があるはずです。公開せず祈りを願う場合、牧会者は秘密を守りながら、祈る人たちでもあります。私たちが仲裁と執り成しの祈りを信じる信徒であれば、祈りのお願いをして下さい。

祈りの力と恵みは何ですか。

祈りは信じる信徒たちの魂の糧(かて)です。

祈りは頑(かたく)なに閉ざしている門を開ける神秘のカギです。

祈りは眺めるだけのものではありません。祈りは一方的なものでもありません。

祈りは主、見えないが生きておられるイエス様と向き合って話し合う対話です。

自分自身や家族のための祈りに、希望と感謝と執り成しの祈りが同時にありますよう、願います。

祈りは私だけでなく、我々が共にするものであることを覚えましょう。

祈りの恵みの中で過ごされますよう、主のみ名で祈願いたします。

 

<祈祷>

私たちの祈りを常に聞いて下さり、応えて下さるイエス様に祈りをささげます。

休まず祈る信徒の生き方にならせてください。私だけでなく他人のために頭を下げられる尊い生き方にならせてください。主のみ心を動かせ、この世で救いを分かち合いながら、恵みが享受できる私たちにならせて

ください。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年6月13>五旬節後第三主日/子ども主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

題目 : 훌륭한 부모 좋은 자녀 立派親良ども 

聖經 : 잠언 23장 22절-26절 箴言23章22節26

 

<개역개정>

  1. 너를 낳은 아비에게 청종하고 늙은 어미를 경히 여기지 말지니라. 23. 진리를 사되 팔지는 말며 지혜와 훈계와 명철도 그리할지니라. 24. 의인의 아비는 크게 즐거울 것이요 지혜로운 자식을 낳은 자는 그로 말미암아 즐거울 것이니라. 25. 네 부모를 즐겁게 하며 너를 낳은 어미를 기쁘게 하라. 26. 내 아들아 마음을 내게 주며 눈으로 길을 즐거워할지어다

</新共同譯>

22. 父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。23. 真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。24. 神に従う人の父は大いに喜び躍り/知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。25. 父が楽しみを得/あなたを生んだ母が喜び躍るようにせよ。26.わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ。

 

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間いかがでしたか。

コロナ禍が延び、映像礼拝でささげる期間も長くなりました。一週間、一週間信徒の皆さんの安全と健康のため、祈っております。今日は在日大韓基督教会総会が定めた「子どもの主日」です。各家庭の宝で、教会の未来と天の国の主人公になる子どもと青少年の信仰教育に関心を持つことを目的としています。

信仰教育の出発点はまず家庭だと申し上げます。父母と子どもとの関係が信仰教育の第1歩であるのは言うまでもないです。説教者は説教の題目を決める時、色々と考えを巡らせます。今日の題目は「立派な親、良い子ども」としました。「良い親、立派な子ども」も同じ意味を持つことができると思います。

立派な親、良い親から良い子ども、立派な子どもが育つことは当然だからです。子どもが生まれ、養育され、成長し自立できるまで親は教育します。信仰教育も同じです。教育というのは一日に成り立つものではないから、時間と手間をかけ持続的に目標に向かって進むのではないでしょうか。

時間的に計ると幼児期から思春期と青年期までの教育期間が20年以上かかります。たくさんの教育費もかかります。日本の場合、幼稚園から大学を卒業するまでかかる費用の統計を見ました。国公立と私立学校の差がなんと2.5倍近くなりました。国公立の場合、平均1,000万円、私立の場合はなんと2,500万円でした。国家予算を見ても甚(はなは)だしいです。2021年日本文部科学省の統計をみると教育費予算が4兆216億円です。国家予算が大きい国の中でも、未来のための教育投資に少し異なる点が見受けられます。GDP(國內總生産/gross domestic product)の割合で見ると、ノルウェーやフィランドのような国は6.3%で世界最高です。韓国と米国は4.1%です。これに比べて、日本は3%に過ぎないです。

親たちはわたしたちの子どもが何とか良い教育を受け、立派な人生を送るよう願います。それだけでなく、

信仰の家庭の子どもらしく信仰生活も真摯に送るように望みます。信徒の皆さんはお子さんたちが、どのような信仰人になることを願っておられますか。私たちに目標があれば、その目標を達成するため何かをすべきです。それもとても具体的に行動すべきです。親が子どもに期待し、望みがあるのと同じく、子どもたちも親に望むことがあります。

今日の本文のみことばの理解をこのようにすれば、良いかと思います。

22節「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」としました。私たちの子どもが成長し、自分を育ててくれた父親が言うことを聞き従い、年老いた母親を侮らない人になれば成功と言えるでしょう。24節にも「神に従う人の父は大いに喜び躍り/知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。」と記しています。

この言葉の他の意味は「親は子がよくなると喜び、知恵ある子になれば誇らしい親になる」とも考えられます。この世の全ての親は自分の子が良く成長すると喜びます。知恵ある子だと、他人に自慢したくなるほど

嬉しいのです。しかし、この世の中で、親がどれほど願い望んでも子ども教育の成功が簡単ではないことを私たちはよく知っています。「真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。」と話されています。真理を得て、愛やお金と替えずに知恵と分別力を買いなさいとの教訓です。無論、私たちが真理というのはお金で

売買できるものではないことを知っています。愛も分別力も同じです。

この例えは人生において何が重要なのかを話しています。26節は「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ。」と記しています。このみことばも同じく、「わが子よ、十分に注意して聞きなさい。どうか私が教える通りにしなさい。」とのことです。皆さんと私は子どもにどのように教えましたか。主は喜んで私の道に目を向けよと話されました。

私たちは、私は一体何を教えたのかをもう一度省みるようになります。私たちは大切なものをきちんと守り、持っていたいと願います。このように真理と知恵を持って生きながら、父親を楽しませ、母親を喜ばせるように努力しなさいということが教訓の中心です。このような子に養育させるため、親も血が滲むような努力をせざるを得ないことを私たちは知っています。いつも暗いニュースが溢れていますが、先日、このようなニュースがありました。

父に腎臓を移植させてあげ、病院に入院した息子の姿をニュースで見ました。親から与えられた命に感謝しながら生きてきた息子がいます。ところが、父の腎臓が非常に悪くなり、腎臓移植が必要になりましたが適当な人が見つかりません。それで、息子は父のために自分の命の一部分である腎臓をあげて、それができたことで満足している表情を見ました。無論、人間の道理でもありますが、息子が父への愛で自分の一部をあげるという感動的な姿でした。このような子どもばかりいればよいけど、この世はそうはいかないのです。

このような職業があります。「遺品整理士」という言葉を聞いたことがあると思います。亡くなられた人たちが

残していった最後の痕跡を整理する人たちが「遺品整理士」です。韓国で一冊の本が刊行されました。専門クリーニング業者であるバイオハザードを設立し、今まで千件を超える現場を整理しながら経験したことを基にして本を作ったのです。著者はキムセビョル・チョンエウォン、二人です。亡くなられた人たちの遺品を整理しながら、死が決して遠くない事実を知らせる内容です。生と死の真ん中で、周辺の人たちと共に

一日一日生きていくことから力を得ると言っています。

あるお爺さんが亡くなってから2週間後に気づき、住んでいた家を整理してほしいとの要請でした。約束された時間に家を訪問すると、最後の整理する時間だから子どもたちも来ていました。遺族は箪笥の扉を開けっぱなしにし、布団や引き出しを引っ張り出し、何かを探していました。故人の娘と義理の息子、息子のような人たちでした。大げさに遺書を探していると思ったが、家の契約書などの言葉が聞こえてきました。「一体どこに隠してある?」「金の指輪と金のヒキガエルもあると聞いたが、ないじゃない」。寝室から何も出ないと家族たちは他の部屋や茶の間を隈(くま)なく探し始めました。どうせ出たら渡すのに、家族は家中をごちゃごちゃにひっくり返しており、掃除をしにくくさせていました。いくら依頼人で顧客だとしても、あんな人たちのためにきれいにしなければならないもんかとも思ったそうです。

遺族たちは自分たちが欲しがっていたものを見つけられなかったのか、苛立っていました。その中の一人が大切なものが出てきたら伝えて下さいと要望しました。無論、遺品整理士の仕事は物を分類して捨てることと、家族に返すものを整理することです。2年前、先に亡くなったお婆さんと今回亡くなったお爺さんが一緒に撮った写真の額縁が出ました。これはどうすれば良いですかと息子に渡すと、彼は受け取って捨てるものを積んであるトラックに投げてしまいました。大きな音を立てながら額縁のガラスが割れました。父と母が一緒に撮った写真でした。忌まわしいのであれば、写真だけでも取っておいてもよさそうだったので、額縁を持ち上げるとその裏面に何かが貼られてありました。額縁の裏面に差し込んでいる封筒に家の契約書と現金が入っていました。

遺品整理士はこの封筒を息子に渡しながら、割れた額縁からお父さん、お母さんの写真を抜いてあげました。息子は面倒くさがる気配がありありでしたが、自分もきまり悪かったのか、しぶしぶ受け取りました。息子には家の契約書と現金だけが重要だったのです。その現金は葬式の費用に当てられて、死ぬ間際までも残された子どもの心配をするのが親だと言います。亡くなったお爺さんはまさか親の写真は捨てないだろうと思ったのでしょう。しかし、子どもたちは故人になった自分の親の写真をゴミ扱いしたのです。妻に先立たれ、一人で暮らしていたお爺さんの死を知ったのも子どもたちではなく、隣に住んでいた隣人のお爺さんでした。それも2週間過ぎてから知ったと著者は言っています。

第2次世界大戦が終わり、1952年には原子爆弾より米国を震わせた病気が大流行しました。ポリオでした。一年の発病者が6万名で、死亡者が3,000名を超え、22,000名がポリオに苦しみました。数年間続いたポリオの苦痛で子どもたちが死んでいく状況の中、ワクチン開発が始まりました。

ジョナス・エドワード・ソーク(Jonas Edward Salk)博士はユダヤ人で米国の医学研究者であり、ウイルス研究者でしたが、ポリオワクチンを開発しました。今、全世界がコロナウイルス感染禍の中、世界の研究所や製薬会社がワクチンを開発し、接種をしています。この開発したワクチンに対するワクチン特許保護措置を免除するように要請したが、結局受け入れられなかったのです。甚大な研究費や学者たちが苦労したのに、無料提供できるわけがないのです。ポリオも同じでした。開発に成功した時、米国の製薬会社が先を競って、ワクチンの特許権を自分の会社に売るように要請しました。その時、ジョナス・ソーク博士はこのように話しました。「特許なんてありません。太陽にも特許を出すんですか。」と言いながらワクチンの製造工程を公開し、どの会社も作れるようにしたのです。

どれほどの良いものでも自分のためだけに使おうとすれば、世に有益を与える人ではありません。私たちが

子どもを幸せな子に育てるのか、もしくは成功した子に育てたいのかを自問自答してみる必要があります。

主は主の子たちが世に有益をもたらす道具として使われるのを喜ばれると思います。親である私たちが子どもたちに何を教え、何を残すべきか。これがまさに子ども教育の中心課題です。立派で良い親から立派で良い子どもが生まれるでしょう。

親たちと教会学校は私たちの子どもたちや青少年たちに何を教え、分かち合うべきかを深く考えなければなりません。主のみことばに従い、立派で良い子どもたちになりますよう、養育しなければいけないと思います。主の導きを待ち望みながら、みことばを共にしましょう。

<祈祷>

聖霊様が私たちを教え、憶えるようにして下さることを信じ、感謝します。

今日、子どもの主日を迎え、大阪教会と親たちが神様のみことばを良く教え、社会に貢献する

有益な生活を送れるように子どもたちを教育し、祈りをささげられたことに感謝します。

教師と学生たち、私たちの家庭が一つになり、主の子としてよく育てるように導いて下さい。

感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会主日礼拝 <2021年6月6日>五旬節後第二主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 聖霊の充満と実を結ぶまで

聖書 : ガラテヤの信徒への手紙522節-26

 

</新共同譯>

22.これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23. 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。24.キリストイエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25.わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

<説教>

愛する信徒の皆さん、どのように過ごされましたか。

このような困難の中でも主の導きにより、健康に過ごされますよう願います。聖霊降臨節と三位一体主日が過ぎました。わたしたちがクリスチャンとして生きながら、霊的だけでなく肉体的にも良き信仰生活を望んでいます。今日は信仰生活において、究極的な目標になるみことばを分かち合いたです。

信徒の皆さんは信仰生活を送りながら、どこに目標をおいておられますか。イエス様を信じて霊的に肉体的に祝福されるのも重要だと思います!イエス様を信じる信仰生活の中で、良きクリスチャンと言われたいと思うのも事実でしょう。それでは、真実なクリスチャンの生活のため、どのような姿で生きるべきでしょうか。

それは、聖霊の満たしと聖霊の実を結ぶ生き方だと申し上げたいです。

今日は聖霊様が私と共におられることと聖霊の満たしがどのようなことなのかをまず考えてみたいと思います。同時に、私たちは聖霊の結ぶ実がどのようなものなのかを考えたいです。聖霊の時代を生きている私たちは聖霊の満たしと信徒の真実な生き方のため、聖霊の実について真剣に考えなければなりません。私は2013年にも本文を読み、説教をしたことがあります。2015年5月から8月まで聖霊の九つの実について毎週説教をしました。

聖霊の満たし(Full of the Holy Spirit)、一時期、リバイバルの伝道者たちの専用物のように「聖霊を受けなさい」と言えば、聖霊が受けられたと錯覚しながら信仰生活を送ったりもしました。ある方たちは聖霊の臨在や聖霊の満たしが重要ではない、もしくは無視する考えを持っています。聖霊の臨在のようなものはあまりもシャーマニズム的だと考える信徒たちもいます。様々な考えの中で、聖霊の臨在や満たしをみことばを通して、整理し経験するのも必要だと思います。

イエス様は大工の仕事をしながら、家族を世話しながら暮らしました。イエスの公生涯は、ヨルダン川で悔い改めを叫び洗礼を授けていた洗礼者ヨハネを尋ねることから始まりました。ヨハネのところに来られ、洗礼を受けようとしました。最初ヨハネはその思いをとどまらせようとしましたが、結局イエス様に言われた通りに洗礼を授けました。イエス様の体がヨルダン川から上がってくる瞬間、どのようなことが起きましたか。

イエス様は洗礼を受けて水の中から上がられたとき、神の霊が鳩のようにご自分に降(くだ)って来るのをご覧になったと記しています。他の人が見るのが大切ではありません。イエス様、ご自分が御父である神様の霊をご覧になったのです。そしたら、他の人達は見なかったでしょうか。違います。そこにいた人たちはその光景だけでなく、天から聞こえてくる声も聞きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聴きました。

御父の神様がこの地を救う目的で送った御子が神の働きを始める時、洗礼を受けることを通して神の霊が降り臨在することを見せたのです。聖霊はこのようにイエス様と共にいながら、御父神様の働きを担っているのです。聖霊の臨在は、神様の働きを担うためには絶対的に必要であることを再確認できるわけです。

それでは、聖霊の満たしはなぜ必要なのでしょうか。イエス様も洗礼を受けながら、神の霊を受けたと表現されています。

私たちも信仰告白をし、洗礼を受けるのと同時に聖霊の洗礼を受けます。事実、神学者たちは洗礼と聖霊の洗礼を一回性とみるのか、みないのかで議論しているのです。今日、プロテスタント教会の伝統では洗礼は1回だけ受けると規定しています。洗礼式を通して、聖霊の洗礼と臨在を経験すると定義しています。使徒パウロは一コリ12章13節で「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」と話しています。

水で洗礼をうけることは聖霊の洗礼を通してキリストの中で一つになることを意味します。それで、洗礼も一回で、聖霊の洗礼も一回であると言えるのです。しかし、「聖霊の満たし」は違う意味を持っていることを知っておかなければなりません。聖霊の満たしは一回性の事件ではありません。聖霊の満たしは信徒が聖霊の臨在を持続的に享受できる祝福です。満たしと言う表現で、わたしたちは量的なイメージを持ちやすいです。無論、人たちは胸いっぱいになるように感じたいと思うでしょう。しかし、元来の満たしの意味は「何かに心をとらわれた時」なのです。

聖霊の満たしとは、聖霊が私の心を完全にとらえており、聖霊が司っていることを意味します。聖霊が私の考えと感情と行動を完全に支配することを意味します。聖霊の感動で一日一日生きていくことを指します。しかし、聖霊の満たしというのが自分自身を制御できない、無我の境地をいうことではありません。すでに、聖霊がどのような方で、どのような役割をしているのかについて、2回の説教を通して話しました。もう一度申し上げます。「聖霊は神様であり、人格体であります」。聖霊は信徒の中で人格的に共におられる方です。

聖霊は私たち信徒が人格的に従順に従うとき働く方です。聖霊は私の考え通りに左右にコントロールし、

わたしの意志通りに動かせる方ではありません。私たちが聖霊の導きに従い行動することによって、神様のみ旨を実現させるのです。弟子たちの中でもステファノとバルナバのような人たちの人格を説明するときも「聖霊に満たされた」と表現しています。使徒7章55節には「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、」と、使徒11章24節には

バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。と記されています。

信徒の皆さんと私が心から聞きたい、言われたいみことばではありませんか。「立派で聖霊と信仰に満ちている人」。これが私たち信徒の目指している目標であります。このように聖霊に満ちると信徒は自分自身を正しく知り、聖霊にすべてを委ねて生きるようになります。それだけでなく、聖霊に満ちている人は物事に対して正しい理解と判断ができるようになることもわかります。

使徒パウロはエフェソ信徒たちに向かって聖霊に満たされるようにしなさいと言いました。(エフェ5:18)

聖霊の満たしは神様からの命令であり、信徒が従うべき命令でもあります。聖霊に満ちていないのであれば、それは神様の命令に対しての不従順であり、その結果によって罪の実が私たちの生活に現れると言います。聖霊に満たされて生きることとは、感情的な恍惚の境地を意味するのではなく、聖霊に従い尊く生きることなのを再確認しましょう。聖霊に満たされた信徒の生き方で現れるのは、神様の栄光を語り合い讃美するようになるとエフェ5章18-19節で話しています。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」。続いて20節では「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエスキリストの名により、父である神に感謝しなさい。」と勧めています。

聖霊の満たしは信徒の関係においてもお互いに仕え合うようにさせます。仕え合うという言葉に若干違和感が生じるかもしれません。しかし、21節に「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」と言っているのです。さらに聖霊に満ちると信徒たちは大胆になり、キリストの証人として生きるようになると言います。使徒4章31節「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

最後に聖霊の満たしは聖霊の実を結ぶと今日のみことばガラテヤの信徒への手紙に記されています。聖霊の結ぶ実(Fruit of the Spirit)は聖霊が皆さんと私の中におり、その導きに従う結果で聖霊に満たされるようになることを意味します。使徒パウロは聖霊の結ぶ実を愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と九つを挙げています。聖霊の結ぶ実として提示された属性が互いにつながっており、全部が聖霊の導きに従って生きていく信徒が持つべきことであります。
最終的に実とはクリスチャンの中におられるキリストの生き方を指し、信徒の中で自分の姿を創り上げる方法を指しています。(二コリ3:18、フィリ1:21)すなわち、実とは神様を信じ、尊い生き方と聖霊の満たしの生活を通して動く聖霊の働きなのです。しかし、聖霊の結ぶ実は聖霊の賜物のように神様のみ旨によって与えられるギフトではないです。

信徒一人一人が命であるイエス様と連合して聖霊の導きに従い、自分の肉体からの情欲と戦い、勝たなければならないのです。命をかけた戦いであり、絶対的に服従する生活を通して実が結ばれるのです。果樹から見た目もよくて美味しい果物を実らせるため、木は無論果樹園の人はどれほど手間をかけて育てたでしょう。ギリシャ語で実は「カルポス(karpos)」と言い、ある行動の結果として現れることを意味します。よい実がよい果樹であることを、悪い実が悪い果樹であるのを物語るのと同じです。どのような人が聖霊の実を結んでいるのかということは、聖霊に満ちている生活を送っているのかで判断できます。クリスチャンの真実な霊性の印が聖霊の実を結ぶことであり、イエス様の姿に似ていくことであるのを再確認できるのです。

ユージン・ピータソン博士は今日のみことばをこのように翻訳しています。私たちが神様の道理で生きるのであれば、どのようなことが起きるでしょう。果樹園に豊かな実が実るのと同じく、神様が私たちの生活にたくさんのギフトを与えて下さるでしょう。そして、ピータソン博士は九つの実をこのように紹介しています。神様は私たちに他人に対する好意、豊潤な生活、穏やかさなどを豊かに与えて下さいます。そして、私たちは最後まで耐える心と憐み深い心と物事と人々の中には基本的な尊さが入り込んでいることが確信できるでしょう。私たちは忠誠心で献身し、私たちが生き方を強要せず、私たちのエネルギを賢くまとめ管理することができると言われました。

愛する信徒の皆さん、私たちも生活の中で九つの聖霊の実を結べるよう、聖霊にすべてを委ねてみましょう。私たちのこのような信仰の実を見て、多くの人々が主に戻ってくるようになるでしょう。聖霊の満たしと聖霊の実を結ぶまで自分の生活を主にささげるクリスチャンになりますよう、祈願いたします。

<祈祷>

三位一体の全能なる神様!

今日を生きる私たちを聖霊に満たされるようにして下さり、感謝します。聖霊の満たしを通して、美しい聖霊の実を結ぶ私たちにならせてください。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン

 

大阪教会 三位一体主日礼拝<2021530>

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

題目 : 하나님 주신 은혜의 선물 神様がくださったみの賜物

聖経 : 에베소서 4장 4절-8절 エフェソの信徒への手紙

4. 体は一つ、は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。5. 主は一人、信仰は一つ、洗は一つ、6. すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通してき、すべてのもののにおられます。7. しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりにって、みがえられています。8. そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人に賜物を分けえられた」と言われています。

<説教>

愛する信徒の皆様お元気でしたか?

コロナウィルス禍により緊急事態宣言がまた延長されました。

一日も早くこの事態が終息し、自由に教会で集い共に礼拝をささげることが、またもや数週間少し待たなければいけなくなりました。 65歳以上の信徒のうち何人の方々は、すでにコロナワクチン接種が終わったと聞きました。市民の方が予防接種を受けられ、感染率と死亡率が下がることが重要だと思います。健康管理に万全を期してくださるようお願いします。

先週の主日は聖霊降臨主日で,今日は三位一体主日になります。三位一体とは一人である神様が3つの役割をされることを意味します。役割という言葉は 「一定の資格で自身が行わなければいけないはたらき」と言えます。私は二人の子どもの父親であり,両親からは息子であり,私がする仕事は牧師です。

聖なる父の神様は創造主であります。イエス様は聖なる子であり、能力を持って働かれる方は聖霊様であります。役割が違えば名前も変わります。しかし一つの人格として存在するのです。 三位の神様はおひとりであると今日の本文から述べられています。聖なる父の意志によって、人の体でこの世に来られた聖なる子イエス様の仕事は、十字架につけられ血を流される捧げものになることでした。そして成された働きは人類の救いでした。聖霊の臨在は救いを受けた人々に、神様のみ旨に従い生きていくよう導かれる役割を持っています。

ひとつ特異な点はイエス様の役割、イエス様が働かれる時、「神様の霊」がともに臨在されたことです。

聖霊の臨在を弟子たちは経験しました。五旬節、マルコの屋根裏部屋で集い祈りをささげるときに聖霊が降りました。聖霊の臨在を当時の弟子たちの表現によれば、様々な象徴的な表現とたとえを通して説明しています。代表的な象徴は炎のような舌(使徒2:3 )鳩のように降(くだ)ってきた(マタイ3:21)と表現しています。風(ヨハネ3:8 使徒2:2)生水(ヨハネ7:38)油(ルカ4:18 使徒4:27

二コリ 1:21 一ヨハネ 2:20,27)しるし(印 エフェ1:31 二コリ 1:2)雨(ホセ6:3 10:12  ヨエ2:23-32 ゼカ10:1 ヤコ5:7)地を潤す豊かな雨(詩72:6)のように表現されます。このように来られた聖霊様はどのような働きをされましたか。

聖霊が皆様と私に賜物(たまもの)をくれました。神様が聖霊を通して信徒一人ずつに賜物をくださいました。「

牧師任、私は受け取っていません。」と言われる方がおられたら、今日のみことばを共に分かち合い確認してみましょう。賜物とはどのような意味を持っているでしょうか。賜物すなわちギフト(Gift)とは他人に挨拶や感情を表し、好意の意志をほかの人に与える物を言います。ギフトと似通った形ですが内容が大きく違うものがあります。賄賂は自身の利権を得る目的で一定の職務に従事している人を買収するために ひそかにあたえる不正なお金または品物です。

聖書で賜物は神様から人に、人から人に、人が神様に捧げるときに使います。その中で人の命は神様が代償を期待されず恵みで与えてくださったのが賜物だと言っています。(創2:7)植物と果実は人々が食べて生きる食料としてくださいました。(創2:16 9:3 コヘ3:13)目で見える物だけではなく私たちが働く労働の喜び(申8:18 コヘ3:13)も神様のギフトであると言っています。旧約聖書では神殿で働くレビ支派の人々を神様の者と区別し、イスラエルの民にギフトとして与えられたと言いました。(民18:6)

新約聖書では贈り物を物質的なものより霊的意味が強調されています。物質的なものを追求してそれを得ようと力を尽くし得たとしても、本当の満足を感じられない人に神様は聖霊の賜物を与えると言われました。同時に,義(ロマ5:15-17)救い(エフェ2:8)恵み(エフェ3:7)を贈り物としてくださいました。私たちが正しく生きるために精神的な基盤になる正義と公義も聖霊があたえるくれる賜物です。私たちがこの世で人生と天国を望む根拠になる救いも神様が聖霊を通してくださる賜物です。ギフトという単語を一番よく表現した恵みも神様が下さった賜物です。神様が人に与えられた最高のギフトは神の独り子イエスキリストです。イエス・キリストを受け入れた信徒に神様はすべての賜物を与えると約束されました。教会にもギフトをくれました。教会を支えて福音のために職分者をくださいました。これもまた賜物だとされました。

今日の7節のみことばに「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」 分量はある物の多少の程度を表す言葉です。旧約聖書の創世記にヤコブ(イスラエル)は12人の息子におのおのにふさわしい祝福をもって祝福した(創49:28)とされました。 使徒パウロはローマの信徒に向かい、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と言いました。(ロマ12:3)すべての人に各自主観的に悟れる恵みを個人の分量に応じて与えてくださったとのみことばです。二コリ10:13 「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。」

福音伝道のために神様が定められた活動領域で働くことを言っています。そうであれば、信徒の皆様は

どのようなものを受けられましたか。聖霊が私たちの教会と私にどのような賜物をくださいましたか。

聖霊が与えられた賜物、すなわちギフトをカリスマ(karisma)、カリスマタ(karismata複数)という単語を使います。本来の意味はギフト、恵みのギフト、聖霊の賜物です。新約聖書ではイエス様を主と告白した信仰のある信徒に洗礼を通して与える聖霊を、神様が下さった恵みの賜物と言います。聖霊を復活と永遠の命の保証として神様が信徒の心に与えられたとパウロは言いました。(二コリ 1:22 5:5)

 

賜物をくださった一番大きな目的は賜物が与えられた人が喜んで神様に感謝し、神の栄光のためのささげるものであると使徒ペトロは言いいました。聖霊の賜物は大きく二つに分けれます。一つ目はイエス様を信じて洗礼を受けた信徒に与えられる普遍的な賜物です。洗礼とみことばの宣布を通して全ての信徒に与えられる一般的な賜物はイエス・キリストを信じる信仰に進ませ、永遠の命を得させることを意味します。 二つ目は信徒個人に聖霊の意志により分け与える個別的な賜物です。先に述べたようにギフトは私が求めてもらえるものではありません。賜物を与える人の心に従い、賜物をもらう人に適切なものを選択して与えることを原則とします。

新約聖書において賜物と賜物の間の区分が明確ではありませんが、おおよそ27個の賜物が出てきます。1)予言の賜物2)教える賜物3)知恵の賜物4)知識の賜物5)信仰の賜物6)愛の賜物7)賛美の賜物8)異言で/霊で賛美する賜物9)霊分別の賜物10)救済して分かち合う賜物11)能力を行う賜物などあります12)癒しの賜物 病気を治す賜物を意味します。13)異言の賜物

14)異言通訳の賜物15)預言の賜物16)悪霊を追い払う賜物17)幻(まぼろし)を見る賜物

18)夢を見る賜物 夢を解釈する賜物19)牧師職の賜物20)使徒職の賜物21)伝道の賜物22)指導力の賜物23)勧勉の賜物は教師のように教える賜物であります。24)奉仕の賜物25)慈しみの賜物 人のために施しをする働きの賜物があります。26)助ける賜物27)独身生活を通して現れる賜物があります。 今までお話ししたものが聖書に出ている聖霊の賜物の種類であります。

ある方はここに宣教の賜物、お客さんをもてなす賜物、行政力の賜物、執り成し祈りの賜物もあると言います。すべては信徒が徳を立てるために聖霊が与えられた多様なギフトで賜物です。すべての賜物は一つの聖霊が神様の栄光のために与えられたものです。教会の徳と個人の信仰生活の有益になるようあたえられた事をもう一度強調してお伝えします。先週、受けた賜物は良き働き人の態度でを管理し、使わなければいけないとの使徒ペトロの言葉をお伝えしました。

聖霊は自身の意志によりいつどこでも、そして誰にでも賜物を与えられます。

1)私たちが罪を悔い改め、イエス様を救い主として迎え入れる時2)みことば(福音)を聞く時3)賜物を思い求めて望む(祈り)時4)聖霊の満たしの時5)神様が教会の復興と個人の信仰成長のために必要だと思われた時、各自に一番適切で肝心な賜物を与えるのです。 聖霊が与える賜物と人間の一般的な才能とは違います。賜物をあたえる聖霊はその賜物を取り戻すこともあると言われました。 聖霊の活動は制度化された集団または組織から抑圧を受けることもあります。もう一度お話ししますと教会と個人的な信仰生活が迫害を受ける場合を指します。使徒パウロが聖霊を消滅されず預言を侮らずすべてのことを察して良いものを選びとるようにと勧めていることを私たちは良く知っています。

慎重に、使徒ヨハネはヨハネ手紙一で「どの霊も信じるのではなく神から出た霊かどうかを確かめなさい(4:1)」と警告しております。信徒の皆様、ぜひお願いしたいことがあります。私が受けた賜物と他人が受けた賜物を比べないでほしいです。皆様が信仰生活を送りながら力を失い、後ろ足で下がる場合をよく考えてみましょう。どのような時ですか。自身を他人と比較して挫折するか、傲慢になる時ではありませんか。愛する信徒の皆様、今まで分かち合ったみことばを通して私たちが確認するものなんでしょうか。神様が聖霊を通して私たち一人一人に、一番適切な聖霊の賜物を与えてくださる事を知ることができました。私たちに与えられた賜物がどのようなものかも確認できました。

最後、共に考えるべきことは与えられた賜物をどのように使うかという事です。最初に神様に感謝して栄光をお示しすることは当然です。神様のみ国のため私に与えられた賜物を良く使わなければいけません。

教会の中で徳を立てるために使うべきです。個人的な生活では与えられた賜物をよく使い、神様のみ国を伝道することに目標を置いて使用すべきでしょう。三位一体の神様も他の役割を担当される時、違う姿でそれを実行されます。私たちは聖霊が下さる恵みの賜物をよく使うことにより、神様には栄光を教会には徳を立てるようにしましょう。大きな喜びをもって天国に進んでいく素晴らしい信徒になられますよう、主のみ名によって祈願いたします。お祈りいたします。

 

<祈祷>

全能なる三位一体の神様!今日も礼拝時間に分かち合ったみことばを通して私たちの信仰に力を与えて下さり、実践できる私たちにならせてください。与えられた賜物をよく使い、主に褒められる良き働き人になれるようお導きください。感謝をささげながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン

 

 

大阪教会主日礼拝 < 2021 5月 23> 聖霊降臨主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 : 約束された聖霊が来られ

* 聖經 : 요엘 2 28-32(日/ヨエル31-5) 

()新共同訳]3

1.その後/わたしはすべての人にわがを注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。2.その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわがを注ぐ。3.天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。4.主の日、大いなる恐るべき日がる前に/太陽は闇に、月は血にわる。5.しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれるりの者はそこにいる。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気でいらっしゃいましたか。

ほとんどの信徒は映像で、何人かは教会に出て礼拝をささげておられます。主の祝福が共にありますよう願います。今日、教会の節期は、聖霊降臨主日です。イエス様が昇天された後、120人の弟子たちは、エルサレムにあるマルコの家の上の部屋に集まりました。彼らはイエス様が約束された聖霊を切に願いながら、熱心に祈りました。五旬祭の日になったとき、彼らはすべて約束された聖霊の洗礼を授けられました。

この時期、エルサレムには、ユダヤ人の祝日で五旬祭の日[Pentecost ペンテコステ]を守るために、あちらこちらから多くの人々が集まってきました。ペンテコステは旧約の3大祭りの一つである「七週間」のギリシャ語表記です。レビ記23:16の「五十日」を「ペンテコンタ ヘメラス」(pentekonta hemeras)にしたがここで「ペンテコンタ」は「50」という意味です。「七週間」は過越祭の日に麦束をささげてから50日になる日に祭りが始まるからです。この日から新穀(しんこく)の献げ物をささげ始めます。もう一つの重要な意味を持つのは、イスラエルの民が出エジプトをしたとき、シナイの荒野に着き、律法をもらうようになりました。神様との契約を結び、契約共同体になったことを記念する節期でもあります。ペンテコステは単純な麦秋(ばくしゅう)感謝節ではなく、神との契約によって神の民になったという意味深い節期なのです。

ペンテコステは収穫に対する感謝と律法をいただいたことを感謝する二重的な意味を含めているのです。

神様はこのように意味ある日にもう一つの歴史的なことを加えました。それは、約束して下さった「聖霊」すなわち「神様の霊」をこの世に臨在されました。預言者ヨエルを通して見せた預言を先ほど読みました。

「1.その後/わたしはすべての人にわがを注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。」と話されました。それが、この神様の預言が成し遂げられました。すなわち、神様の約束通り聖霊が弟子たちに下り、神様の新たな仕事行い始めました。イエス様も十字架につけられる前、弟子たちに約束の言葉を与えられました。ヨハネによる福音書16章7節に

「しかし、を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、辯護者はあなたがたのところにないからである。わたしが行けば、辯護者をあなたがたのところに送る。」と話されました。

イエス様がこの世から去っていった後、「弁護者」すなわち「聖霊」が来るとの約束です。ここで、一つの質問が浮かびます。弟子たちはイエス様と3年と言う年月を共に過ごしました。イエス様から学んだ真理と教えだけで彼の精神を引き継ぐのは不可能だったのでしょうか。この質問は今を生きる私たちにも該当されます。私たちがみことばを通して学んだイエス様の生き方と精神だけでは信仰生活が不可能なのでしょうか。この質問は「聖霊はどのようは方で、どのような役割をする方」なのかを定義するのに必要です。

聖霊[Holy Spirit]はギリシャ語で「プネウマ(pneuma)」です。「プネウマ」は新約聖書で聖霊の意味として一番よく使われた言葉であり、旧約聖書の「ルーア(ruach))と対等な意味を持っている言葉です。「ルーア」が旧約聖書で「神様の霊」の意味でよく使われているように新約で「プネウマ」は聖霊の意味でよく使われました。このことばを韓国語聖書では「聖潔の霊」、「御父の霊」、「その御子の霊」「イエスの霊」、「キリストの霊」と表現しています。

旧約聖書で、預言者は聖霊の助けをもらい、神様の民と全ての人にも聖霊は注がれると今日のヨエル書のみことばに出ています。神様の霊が選ばれた民に活力を与えるだろうと預言的に暗示しています。

さらに、来られるメシアには能力を、すべての人類には溢れるほど注がれるその時を預言しています。弟子たちと信じる信徒たちにも聖霊は必要であり、その聖霊がくることを言葉で預言して下さったのです。その約束の聖霊がこの地に降ったのです。イエス様の約束通り、降臨した聖霊がクリスチャンに行うことは何でしょうか。降った聖霊が行ったことがあります。

一つ目は、聖霊降臨を信じている人たちに夢を与えて下さいました。イエス様の弟子たちが心を一つにし

熱心に祈った時聖霊が降り、彼らは神の国の夢を抱けるようになりました。その夢は世を支配する悪霊は去り、神様が治める天国の夢です。悪霊が司ると人間は貪欲となり罪悪に陥ります。悪霊は全ての夢を捨てさせ、諦めさせ、絶望させます。しかし、聖霊がとどまれば、新しい夢を見るようになります。聖霊降臨で神の国の夢を抱くようになった弟子たちは初代教会を建て、地の果てまで福音を宣べ伝えました。

今日、クリスチャンにも同じ夢が必要です。 物質主義と世俗主義に捉えられている現代の人々は真実な夢を失い彷徨っています。彼らに真なる人生の夢を提供し、救いに導く夢を抱かせないといけません。

去年から経験しているコロナ禍の中でも、私たちが祈り、期待していることがあります。一日も早いコロナの終息を期待しています。無論、科学や医学的にワクチンを接種することによって、免疫ができ感染を遮断することができることもわかっています。

イエス様の公(こう)生涯(しょうがい)の期間、多くの病人が集まってきました。時には、イエス様が病で苦しんでいる人たちを尋ねて行ったこともありました。エルサレムを訪問した時、ベトザタの池に行きました。そこは神秘的な物語が伝えられていました。天使が通ったあとに池の水が沸騰するが、その時一番に池に飛び込む病人はどんな病であろうが、綺麗に治るとの話でした。その池に行かれたイエス様は38年間病気で苦しんでいる人を見、「良くなりたいか」と言われました。38年間病人だった人は自分が治る希望を捨てて生きていました。深い絶望で人生を諦め、諦念した状態で生きていたのです。しかし、ある日彼に来られたイエス様が「良くなりたいか」と聞かれました。この質問は神秘であり強力でした。元気で幸せに暮らしている人たちと一緒に生活できる夢が彼の暗鬱な心に芽生えました。そして、イエス様は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と命令されました。

今日もこの時間、神様はクリスチャンに夢を約束されました。神様の中で、平和で正義ある世界が創り上げられる夢です。多くの人が絶望し諦めたまま生きているが、聖霊がとどまり、神様のみ声をきくと諦めていた夢を再び抱くようになります。

約束通りこの世に降った聖霊は私たちに救いに至る信仰を与えて下さいます。神様は全能であり、信仰を持っている人を通してその全能な力が現われます。イエス様は病を癒すたびに、信仰を確認し、「あなたの信じる通りになる」と話されました。信仰の人にはすべてが可能です。使徒パウロは「わたしを強めて下さる方のお陰で、私はすべてが可能です。」と言いました。神様の夢を抱き、現実化しようとするとき、多くの障害や妨害や試練があります。しかし、信仰の人には問題ではありません。信仰の人は問題を超えておられる神様を崇めているからです。

約束通り聖霊が降り、弟子たちに信仰を与えました。弟子たちは彼や彼らを逼迫(ひっぱく)する宗教指導者や群衆を眺めずに共におられる神様に注目しました。エルサレム神殿の美しい門のそばに座っていた生まれながら足の不自由な人を立ち上がらせた奇跡を起こした後、ペトロは神様がなさったことだと宣布しました。弟子たちを脅かす議場で、堂々に話します。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいどうか考えて下さい」。聖霊が彼らに与えた信仰に世間は勝てませんでした。今日を生きるクリスチャンは約束された聖霊で満たさらなければなりません。聖霊の人は劣等意識や敗北意識に陥りません。平凡であっても、聖霊様を受け入れることによって、最も偉大な人生を生きるようになります。

3.約束の通り降臨した聖霊は能力を与えて下さいます。

使徒言行録1章8節であなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける, わたしの証人となる。」とイエス様は約束されました。力はギリシャ語で「デュナミス」と言います。聖霊の力は世を変える前に、クリスチャンを変えます。聖霊は平凡な弟子たちを偉大な使徒にならせました。ガリラヤ湖の漁師だった彼らを卓越な伝道師に変えられました。ガリラヤの田舎者を、全世界を抱く宣教師にさせました。恐れに勝ち抜き、勇気と能力を持つ証人にさせました。約束された聖霊を授けられた使徒パウロは全人生をささげて証人になられました。パウロは使徒言行録20:24でこのように叫びます。

「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神のみの福音を力く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

最後のもう一つは、約束された聖霊の賜物を授かることです。

約束された聖霊の臨在を通して、各自聖霊の賜物(カリスマ)を授かるとのことは、神様の様々な恵み(カリス)を受けた管理者、奉仕者になることを意味します。使徒ペトロの第一手紙、一ペト4:10

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまなみの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい.

聖霊の賜物を授かった人の使命は仕え、奉仕することです。使徒パウロは聖霊の賜物を授かり、教会を造り上げるために使いなさいと言いました。(一コリ14:12)実はこのような全ての賜物を神様のお呼び、すなわち使命と直結しているのがわかります。賜物を授けるのは聖霊ですが、聖霊は神の子、イエス・キリストと父なる神の約束と繋がり、働くことがわかります。

愛する信徒の皆さん、今日を生きるこの時代の苦難はコロナ禍によって苦しみを受けて生きていくことだとも言えます。このような苦難までも、約束されたみことばで勝ち抜き、克服しましょう。苦難の中でも、その苦難に勝てる信仰を与えて下さり感謝です。神様は聖霊の力と賜物を授け、この時代を勝ち抜けるように導いて下さるでしょう。

2021年 聖霊降臨節・ペンテコステは私たちの信仰を顧みる尊い時間になりますよう、祈願いたします。

聖霊様と共にすべての苦難に勝ち抜くようにしましょう。

<祈祷>

聖霊様が信徒たちに授ける夢と信仰と賜物を通して、神様の国を造り上げるようにさせて下さり感謝します。慈しみ深い聖霊様が今日もみことばで、私たちと共におられることに感謝します。私たちを助ける弁護者の約束の言葉に従い、信仰を持って歩めるようにさせて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会主日礼拝 < 2021 5月 16> 復活節第7主日 母の日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 : 부모의 훈계는 생명을 얻는  父母訓戒生命ること

* 聖經 : 잠언 4 1-4 箴言 4章1節4

 

[()新共同譯]

1.子らよ、父の諭しを聞け/分別をわきまえるために、耳を傾けよ。2.わたしは幸いをいているのだ。わたしのえを捨ててはならない。3.わたしも父にとっては息子であり/母のもとでは、いとけないり子であった。4.父はわたしにえて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気でしたか。映像礼拝をささげている信徒たちと教会に出席された信徒の皆さんに主の平安が共にありますよう祈願いたします。

今日は母の日の主日を記念し、感謝の礼拝をささげています。日本は先週が「母の日」で、韓国は「父母の日」として両親に感謝する日でした。しかし、私たち大阪敎会は、毎年教会創立主日と重なって5月の第3主日を「母の日」として守っています。私たちがこのように何かを覚えて記念することは、その意味を考え生かせるためです。「母の主日」や「父母の日」は母と父、つまり、両親の愛を考えてもう一度両親を思い、感謝の気持ちを伝える時間でもあります。普段なら、教会学校の子どもたちが信徒の皆さんにカーネーションをささげながら感謝の挨拶をしますが、今日はそれができない状況です。愛する子どもたちをさらに祝福する親になられますよう、願います。

この世の大変なことの一つが親になることではないかと思います。親になることも大変ですが、良い父母になることはもって大変なことだと思います。「母の日」主日には子が親をどのように敬うべきかを考えるのが当然です。親を敬う立派な子と子を愛する献身的な親の愛を共に考えざるを得ません。

子どもたちに両親が大切なのは、両親が持っている独特な点があるからです。それは愛です。子どもへの両親の愛の姿から私たちは、神の愛を悟ります。神様は私たちをお造りになったので、愛し守って下さいます。このように、父母は神様の創造の摂理に沿って、私たちをこの世に生み出した方々だからです。この世の誰も真似できない真心の愛で自分の子どもを育てます。神様の愛を最も近くで感じられる存在が両親の愛です。両親は、自分の子たちの世話をするとき、神様がご自身の子の世話をするようにできる存在なのです。神様が私たちをこの世に出される際、父母を通してなさいました。神様の子たちには最も偉大な贈り物をくださったのが、それがまさに父母です。

それで、神様のみことばは親を愛する方法を先に教えているのです。箴言のみことばを読みました。子たちに先に与えるみことばは1節「子らよ、父の諭しを聞け/分別をわきまえるために、耳を傾けよ。」です。

訓戒(戒め)というのは「間違わないように教え諭す」という意味を持つ言葉です。子たちに、まず、「父の諭しを聞け」と話しています。神様はイスラエル民族との関係において最も重要である「十戒」を与えました。イスラエルの民が神様に仕えるときに、どのような姿を持つべきかに関するみことばです。多くの中で最も重要なこと、10の戒めを選んだのが十戒です。この十戒で、神様は「あなたの父母を敬え」と諭しておられます。

「敬う」という言葉は、ヘブライ語で「キーベッド」と言います。ところが、このキーベッドという言葉は、非常に意味深い言葉がルーツです。その語源は人の内臓の一つである「肝、肝腸」という言葉です。イスラエル人は、肝臓が人間の内臓の中で一番重いと思ったし、それほど重要だと考えました。実際に医学的に、肝臓の機能が非常に重要なのは、日常生活で私たちはわかっています。人体の肝臓は、栄養素の代謝作用と解毒作用をしており、人の生命維持に必要な臓器(ぞうき)です。

聖書で、「敬う」を「肝臓」という語源を持つ言葉を用いた理由を、我らの生活を通してみればわかりそうです。父母を肝臓のように重要に思いなさいとの言葉です。父母の愛は人間らしさの基本です。父母の教え、つまり諭しをよく心に保ち知恵を得て、賢く生きなさいと話されているのです。続く2節、人間は善き道理に従い正しく生きなければなりません。親が子を育てながら「あなたは、こんな悪いことをしながら生きなさい。」と言う親は一人もいないでしょう。どのような環境と苦しい生活であっても、人間らしく正しい道理を守り生きなければならないと教え育てるでしょう。神様の戒めから離れてはいけないと言いながら育てるでしょう。

3節、「私も父にとっては息子であり、母のもとでは、いとけない独り子であった」というみことばを見ましょう。皆さんがよく知っている通り、箴言は「ソロモン」が書きました。ソロモンはイスラエルの偉大なるダビデを父に、母も賢い女性を代弁する「バテシバ」でした。父ダビデと母バテシバに関しては皆さんがよく知っておられます。二人の間で生まれたソロモンは、ダビデの子の中では10番目の王子でした。ダビデが加齢と共に弱い面が生じます。その隙に、王子たちは自分が王になろうと必死でした。ソロモンは王子ではあるが、他の兄弟よりも弱かったのも事実でした。すでに二人の王子が王になろうとしてクーデターを起こしました。王の周辺の参謀(さんぼう)たちが自分にとって有利な王子を立てようとする状況の中、ソロモンの立場は非常に弱いものでした。ソロモンを支持する勢力がなかったからでした。ただ神様の預言者ナタンしかいませんでした。バテシバは権力の周りで起こる政争についてわからなかったのです。このとき、預言者ナタンはソロモンの母バテシバを訪ねて、ダビデの他の王子たちが王になろうと宣言し、勝手に油を注ぐなどの騒ぎが起きていることを通告します。バテシバに「あなたの命を守るためにも、息子ソロモンが王になる必要があり、ダビデ王は誓いを守らなければならない」と言います。

 

ナタンはソロモンが生まれたとき、ダビデ王に頼まれソロモンの名前を「エディドヤ」としました。その意味は、「主に愛された者」という意味でした。母は命をかけ、ダビデ王の私室に入り「なぜアドニヤが王になったのか。」と挑戦的な質問をします。今、ダビデ王が分かっていない中、外で起きている状況を教えました。結局、ダビデはナタンとソロモンを呼びます。大祭司ツァドクと後に軍司令官になるベナヤを呼び「ギホン」へ下り、私の後を継がせる王として油を注ぐように命じます。角笛を吹き鳴らされ民にソロモンが自分に継ぐ新しい王になったことを宣言します。母バテシバの献身的で勇気ある行動によって、子ソロモンは王になったのです。

ソロモンは、いつも自分の立場を考えており、母の行動と父ダビデの決断の行動を見ました。王上2章から見ると、ダビデ王は死期に近づくと、息子ソロモンに遺言を残します。重要な内容は、「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されている通り、主の掟と戒めと法と定めを守れ。」と遺言をしました。もちろん、ソロモン王も歳月を経て、多くの子どもたちを生みました。箴言の内容を見ると、自分の立場を説明します。「私も父にとっては息子であり、今では多くの子の父として言う」としました。実は私たちもそうです。私が父母の子であると同時に、今では子を持っている親になっているからです。

使徒パウロは、エフェソ6章で、親子関係に関するみことばを書いてます。「子どもたち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。」と言います。ソロモンが伝える内容と同じです。使徒パウロは、続いて「それは正しいです。父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です」と言います。先に述べたように、「敬う」という言葉が出てきます。その後、「敬う」という言葉は私たちの生活にどのように具体的に適用できますか。敬うことは行為であり、理論ではありません。敬うという言葉自体が非常に実際的な意味を持っています。「敬う」は、英語で「Honor」、「Respect」と翻訳します。これは「礼を持って仕えること、慎み敬うやまうこと」を意味します。

「あなたの父と母を敬え!」という戒めは,十戒から初期キリスト教に至るまで続いてきた重要な言葉です。敬うということは、理論ではありません。口で敬うと言ったから実現できることではありません。行為、行動として現れる必要があります。お年老いた両親と同居している信徒が多くいらっしゃいます。私も同じです。私にも年配のお母さんがおり、義父母もおります。この親たちに礼を尽くし、敬わなければいけない人です。しかし、そのことが十分にできていない自分が恥ずかしいのです。

神様が私の父母を敬うとき、子孫に与える祝福を話されました。その約束は、エフェ6:3「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。人間が持っている基本的な希望は、この地で元気に長く生きることではないでしょうか。箴言1章4節にも、「わたしの言葉をお前の心に保ち、私の戒めを守って、命を得よ。」と言っています。死が蔓延しているこの世の中で、長く生きるとの約束がどれほど大切なのでしょうか。この希望が成就できる道は父母を敬うことなのを

再度わからせてくれるのが母の日、父母の日です。

よい父母になるため、子どもたちとの関係を説明するみことばが4節に出ます。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」と話されます。使徒パウロは箴言のみことばをよく理解していました。

今日を生きる私たちも同じです。子どもたちの関係がどれほど難しく大変なことでしょうか。この世で一番易しそうで難しいのが子どもと父母の関係だと思います。あまりも簡単なことなのに、なぜこのようなことが実現できないのですか。子を愛しない父母がどこにおり、親を敬わない子がどこにいるのかと言うかもしれませんが、現実はそう簡単ではありません。

この説教を伝える私自身も、親孝行と父母を敬うことに疎かでした。それだけでなく、子どもたちと円満な関係を保ちたいが、それもうまくいっていません。それで、常に自分の至らなさを感じ、後悔しております。

親と子の間で互いに愛し、尊敬し、理解する心があれば、家庭は無論個人の生活も円満で平安でしょう。昔話が私たちにためになるときがあります。韓国の歴史に記録された過去の話を伝えます。

昔、「ジウン」という乙女が住んでいました。幼く父を亡くし、年を老いた母親の世話のため、嫁げませんでした。日雇い仕事をしていたが、それも限界がきて貧困に耐えられなくなりました。考えた挙句、ジウンは金持ちの家の下女になり働くことにし、お米10俵(じっびょう)をもらいました。そして、数日後のある日、母親が言います。「以前はもらってきたご飯でもおいしかったけど、最近は良い米で炊いたご飯なのに美味しくなく肝臓をえぐるようなのがおかしい。」と言いました。その言葉を聞いたジウンは事実を告げました。母親は「私のせいで下女になったなんて、早く死ねなかったのを恨む」と慟哭し、親子が泣き崩れました。この話を聞いた王は

ジウンの主人に米100俵と衣服を与え代位弁済してあげました。また、王は「ジウン」の親孝行に感動し、下賜(かし)品として米500俵と家一軒を与え、その町「孝養方(ひょやんばん)」と呼ぶように命じました。この物語は『三国史記』列伝の載っている孝行娘(こうこうむすめ)ジウンに関する記録です。

真実な心がその乙女にあったから、孝心が光りました。真心を込めて親を敬い、愛すれば、親孝行になるでしょう。真なる信仰は神様のみことばを成就することであります。父の諭しを聞いて、戒めを守ることが私を生んでくれた父母に対する子の道理です。この道理を守ることによって、私たちは神様の祝福を得るようになるのが神様の定めた戒めです。一つ目、戒めを守れば問題が全く起きません。二つ目、戒めを守ることによって主が備えている祝福がもらえるということは私たちにとって大きな慰めになります。

説教内容をまとめます。

神様の戒めと父母の訓戒を守ることで、命を得る人になりましょう。みことばを守ることで、祝福をもらう子になり、父母になりますように主のみ名によって祈願いたします。

<祈祷>

「父を嘲笑(あざわら)い、母への従順を侮(あなど)る者の目は/谷の烏がえぐり出し、鷲(わし)の雛(ひな)がついばむ

〈箴言30:17〉というみことばを覚えます。今日のみことば通り、父母の訓戒を聞きながら、正しい道理の

道を歩ませてください。みことばの戒めを従うことで、主が備えている祝福をもらう私たちにならせてください。

この地の全ての母と父を祝福し、子として父母をよく敬えるようにさせて下さい。子を怒らせず、よく育てる父母になり幸せな家庭を築く私たちにならせて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン

 

大阪教会 教会創立100周年記念主日礼拝 < 2021 5月 9日> 復活節第6主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 희년의 기쁨을 출발점으로  禧年(ヨベルの年)の喜びを新しい出発点として

* 聖經 : 레위기 25 8-12 レビ記 25章8節12

 

</新共同訳>

8. あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度えなさい。七を七倍した年は四十九年である。9. その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは中に角笛を吹き鳴らして、10. この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地にり、家族のもとにる。11. 五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑のを集めることもしてはならない。12. この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする。

<説教>

愛する信徒の皆さん、映像で礼拝をささげている信徒の皆さん、お元気でしたか。

先月の25日、日本政府は関西地域に緊急事態宣言を再発令しました。政府や私たちの期待とは違い、感染事態が日に日に深刻になっています。5月末まで緊急事態を延長するとのニュースを見られたと思います。健康管理に留意し、コロナによる被害がないことを願うばかりです。このパンデミックの疫禍が早く終わりますよう、共に祈りましょう。

今日は大阪教会が設立されてから100周年になる主日です。今まで過ごして来られたのが神の恵みです。信仰の先輩の血汗を流した結果で、今日があることを知っているのでさらに感謝です。ティアスポラである私たちの民族の中で、自分が住んでいる場所で教会を建て、100年を続けてきた信仰共同体は多くないです。キリスト教が中心である米国の場合には、ハワイに農作業移民で行った方が地元の助けを受けて教会を建てました。米国の西部地域では、サンフランシスコに初めて韓国人教会が建てられました。多くの民族の指導者を育てた教会でもあります。日本の場合には、1906年に今の在日本YMCAが青年活動を中心に、福音事業を始めました。 1908年にYMCAの関係者たちと留学生10人ほどが礼拝をささげました。これが東京教会であり、同時に在日大韓基督教会の始まりでした。 1919年三一独立運動の始発点になる2.8独立宣言を行いました。

今から100年前、1921年に関西地域では、仕事を探してきた若者たちと留学に来た学生たちがいました。当時、私たちの民族は、クリスチャンが多くない時期でした。1919年三一独立運動の勃発後、民族的には、日帝の弾圧はますます激しくなっていく時でした。食べて生きるという人間の最も本能的な経済問題を解決するために、日本に渡り始めたのです。このうち極めて少ない少数のクリスチャンたちが集まり、神様を礼拝し、福音を伝えるため、大阪教会が始まりました。

100年、今日この場におられる信徒たちと映像礼拝をささげる信徒の中でも、この年月を経た方はおられません。しかし、年老いた信徒たちは、この時代を生きて来ました。個人の歴史と信仰共同体である大阪教会の歴史と共に生きてきた証人であります。過ぎた100年の歴史を顧みることは容易ではありません。明らかな一つのことは、今日まで主の体である大阪教会を主が守って下さいました。サム上7章12節、サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベンエゼル(助けの石)と名付けた。

「エベン・エゼル」今まで、主は我々を助けてくださった!そうです。主が大阪教会を100年前に始め、今日まで助けてくださいました。イスラエル民族が出エジプトをし、カナンの地、今日のパレスチナ地域に入ったのが、今から6000年前でした。その地にはすでに住んでいたいくつの民族がありました。ほとんどはパレスチナ地域で消えるか、または他の地域に移住しました。

ヨシュア記13章を見ると、イスラエルはペリシテ民族が住んでいた「ガザ」地域は、最初からその地域を占領できませんでした。このペリシテは5つの城が中心で強力な軍隊を持っており、絶えずイスラエルとは紛争状態にありました。ペリシテとの絶え間ない戦争をしながら、勝利と敗北を繰り返し経験することになりました。そのような激しい戦いの中で、生き残った人々と預言者サムエルは神様に感謝のいけにえをささげました。一つの石を置き、証拠の印として立てました。今までイスラエル民族を守ってくださったことに対する信仰の告白でした。「エベン・エゼル」神様が今まで主は我々を助けてくださった!と告白をしているのです。

今日、コロナ感染事態により、教会に集まって感謝と喜びを分かち合えない状況です。しかし、私たちは、今日のこの日を覚え感謝しています。石一つを講壇に立てることを目的としていません。大阪教会の信徒の信仰と私たちを覚えて大切にする信徒の真心を込めた記念碑を私たちの心に立てたいと思います。私たちがこのように100周年と言い、意味を探り記念しようとする理由はどこにあるのでしょうか。今日のみことばを通して考えてみる必要があります。

イスラエル民族が民族共同体として、また信仰共同体としての意味を持つことがここにあります。再び説明すると、民族共同体がよく維持できるのは、彼らの信仰と深い関連があるということです。単にイスラエル民族の血を引き継いだから、同じ民族だということではありません。信仰的にも一つになることが非常に重要なものでした。信仰共同体は、ヤハウエ、神様を信じることが、彼らの生活と生活の中心となるのは当然のことでした。その上、神様からの戒めと律法を守ることを非常に重要だと思いました。その中の一つが「ヨベルの年」に対する思想です。このヨベルの年の思想は、イスラエル民族が一つになるため、どのような役割をしているのかを、今日の聖書のみことばからわかります。

100周年を迎える私たち大阪敎会の今年の標語であるみことばでもあります。イスラエル民族にとって安息日は、神様を中心にし聖なる日として守ります。今日のユダヤ人たちも、彼らのアイデンティティを確認することの中で一つが「安息日を守ること」であると言っても過言ではありません。6年が過ぎ、7年目に迎える「ヨベルの年」も大切にしました。例えば農作物を耕す人たちにとって土地は重要な資源です。

農作業をするとき、毎年穀物を続けて植え収穫だけすれば、まもなくその土地が持っている土壌、すなわち栄養分は枯渇するでしょう。土地に肥料を与え、耕作を休むことを通して多くの収穫を期待するため、土地を一年休ませることでした。このような安息の年を7回過ぎ、迎える年を「ヨベルの年/ Year of Jubilee」としました。土地を耕していた農夫が、ある困難のせいで土地を抵当しお金を借りてしまった場合があるでしょう。それがヨベルの年になると、その土地を元の所有者に条件なしで返さなければなりませんでした。土地だけではなく、人を奴隷にした場合に、その奴隷を元の身分に戻すのが掟(おきて)でした。お金を貸してあげた人の立場からは、悔しいこともあるでしょう。しかし、イスラエル民族が民族共同体として、信仰の共同体として一つなれるために、このヨベルの年が大きな役割を果たします。イスラエルの民族に「ヨベルの年」はレビ記とイザヤ書によってみると、恩惠の年、身元の日に宣布されました。

貧しい人々を豊かに満たしてくれる歓喜を持たせる年でした。心に傷を負った人々は癒される回復の年となりました。捕らえられた人々を解放し、自由を与える喜びの年でした。悲しみの象徴である灰を被り泣いている人に花冠(はなかんむり)を作って頭にかぶせる慰めが宣布される年です。憂慮に満ちた人には笑いと讃美で心を回復してくれる日がまさに「ヨベルの年」だったのです。

私たち大阪教会がこのような「ヨベルの年」を迎えるようになったのです。今日(こんにち)、現代社会で私たちは「ヨベルの年」の意味をどのように探すべきでしょうか。いつもの5月教会創立周年を考えながら、100周年の記念礼拝を私たちは夢見て来ました。今日のみことばを見ると、祭司長が角笛を鳴り響かせて始まるヨベルの年の行事が始まりました。私たちも無論「グロリア吹奏楽部」のラッパの轟で100周年の行事を迎えたでしょう。しかし、今はそれすらできない状況です。

私はこの貴重な時間、信徒の皆さんと一緒に分かち合いたいことがあります。ヨベルの年の喜びと感謝を信徒の皆さんと共にするのは当然のことです。そして、この喜びと感謝を分かち合って伝える大阪敎会になることを願い、今年の標語を堂会と相談して決めたのです。まさにこの標語のように、100年の喜びと感謝を分かち合って伝える教会になることを切に願います。過ぎた100年を顧みると感謝することしかありません。今新たに始まる新しい100年、つまり一世紀の出発点で、私たちの決心が必要だと思います。私たちは、過ぎた100年を顧みながら感謝するとともに、同時に前に進むべき新たな100年の出発点に立っているのです。この出発点に立って、私たちは新たに決心すべきです。

使徒パウロは、エフェソ信徒への手紙第3章9節以下でこのように話しています。救いの秘められた計画を盛り込んだ手紙をエフェソ教会と今日の大阪敎会に与えるみことばです。9節「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画がどのように実現されるのかを全ての人々に説き明かします」。教会が持つ最も神秘なことはイエス・キリストの福音に関する秘密です。11節には、これは神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。神様の恵みによって設立された教会は、イエス・キリストの福音に関する秘密を持っています。使徒パウロが言うこの秘められた計画はイエス・キリストの十字架の死と復活、そして人類を救うという驚くべきことを指しているのです。

教会は、イエス・キリストが定められた予定とその意のままにされたものだとパウロは福音の働き人として、伝えています。私たちにはこの100周年ということが偶然与えられたものではありません。神様が予定し、民族の苦難の中で福音を通して、救いの喜びをわからせてくださいました。イエス様が定められた時間に教会を建て、信徒たちを慰めてくださったことを、私たちは信じます。

愛する信徒の皆さん、今日大阪教会創立100周年の記念主日に一番先に考えるべきことは、福音を盛(も)る聖なる器として教会を考えなければいけません。大阪教会の始まりを知らせる言葉が「慰めよう、慰めよう!」という激励と同時に私たちの民族に福音を伝えなければいけないという使命感で教会が始まったことを先週の主日にお話しました。

今日、私たちが信仰生活の中で一番大切な価値である福音の働きについて、再度考えながら、新たな100周年に向かっていく出発点に立たなければいけません。過ぎた100年、エベン・エゼルの主が大阪教会を今日まで助けてくださいました。少し、身が引き締まる思いですが、喜びで新たな出発点に立って、出発信号を待つ選手たちのように主の信号を待つようにしましょう!

<祈祷>

慈しみ深い神様、過ぎた100年の年月の間、大阪教会を守ってくださり、感謝をささげます。

今から新たに始まる1世紀の出発点で福音を盛る教会としての使命を担わせてください。

全てに感謝しながら、イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会 主日礼拝 < 2021 5月 2日復活節5主日

                         說敎 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 100年前に来た手紙

聖書 : イザヤ書40章1節 / コリントの信徒への手紙二323

 

1. 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。

 

 

</新共同>

2.わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。3.あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気で過ごされましたか。過ぎた一週間も関西地域でコロナ感染が非常に深刻な状態となりました。主が私たち、全員を守って下さるよう祈願いたします。

大阪城公園に行けば天守閣の下に広い空間にモニュメントが一つあり、それはタイムカプセル(time capsule)です。タイムカプセルは、それを作る当時の時代を象徴するものを中に入れ、土に埋めておきます。歳月が経過した後、それを開けて昔を振り返って意味を考えてみるものです。大阪城にあるのは、日本では非常に有名で、1970年に日本万国博覧会(大阪万博)が開かれた年に、松下電器(現・パナソニック)と毎日新聞社が企画したものです。このタイムカプセルを開ける時は6970年だそうです。今から5000年後に、それを開いて見る人はどのような姿、どんな心なんだろうかと一人で想像してみました。

100年前に私達に送ってくれた手紙が一通あります。まさに大阪教会が神の恵みに設立されたニュースです。私たちが100年前の姿に戻れるのであれば、タイムカプセルを通してその時代が見られると思います。私たちには、過去の歴史がわかる方法がいくつかあります。過ぎたことを文字で残す方法がありますが、それが「手紙」です。本を作って残す方法もあるでしょう。最近は、写真や映像を通しても残すことができます。

私たち大阪教会の歴史がわかる本は、まず「大阪敎會55年史」があると思います。もちろん後に刊行された「大阪敎會80周年史、90周年史」からも知ることができます。私たちの教会の始まりを知らせながら、最初に与えられた聖書のみことばは、今日読んだ旧約イザヤ書40章です。なぜ、私たち大阪教会はこのみことばで歴史の本を書き始めたのかと考えてみました。過ぎ去った過去の歴史を顧みるのは、その時代を振り向かせる力があります。

教会が始まった1921年は、関西地域の工業化が進み、働く人々、すなわち労働力が必要でした。日本全域から人々が集まってきました。それだけでなく、日韓併合(へいごう)が10年目になり、朝鮮からも多くの人が渡ってきた時期でした。このように故郷と家族を離れ異国で生活する若者たちに、福音を伝えるために神学生と二人の女性で始まった集いが、私たち大阪教会の始まりです。その方々は、同じ境遇にある人々にどのようにすれば、イエス様の福音を伝えられるか考えるようになりました。互いを励まし合い、救いの福音を通して慰め合うのが目的であったと記録しています。

職場でつらい毎日を送り一週間が過ぎると休み時間が大切だったでしょう。それにもかかわらず、職場の寮の部屋一つに集まり、祈った人々が約10人になりました。多くの若者たちが、朝鮮人が集まる教会があるという噂を聞き集まってきました。彼らに福音を伝えると共に、互いに慰めと励ますことが非常に重要だったとユ・シハン長老は教会史の「はじめに」で記録しています。特に信徒たちは互いの親密な交わりを通して信徒の交わりを行ったそうです。もう一つは、今日のように、通信が発達した時代でもなかったので、家族に安否を伝えるためには手紙を書いて送ったでしょう。

教会の重要な役割は集い、交わり、激励し合うことがとても大切です。最近、コロナ禍により一番つらいのは何でしょうか。愛する信徒同士が会えず、交わりができないことではないでしょうか。無論、交わりも大切ですが、神様のみことばの交わりがどれほど重要なのかは信仰を持っている私たちがよく気づいています。

疲労困憊でも一週間ごとに集い、神様に礼拝をささげながらみことばから慰めを得ていました。イザヤ書

40章1節「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」とのみことばです。

100年前、始めの時に集まった我々の信仰の先輩たちは互いに慰めとみことばの励ましを分かち合ったとのことです。イスラエル民族はバビロン捕虜時代を経て、むしろ信仰的な面で新しくなったことがありました。捕虜時代以前には、エルサレムの神殿を中心とする生贄をささげる祭事が信仰生活の中心でした。彼ら捕虜として捕らえられて行く時代には、すでにエルサレム神殿はバビロンの兵士たちによって破壊がされました。神殿で生贄をささげられなかっただけでなく、今はそこに行くこともできない状況になりました。

このように、捕虜生活の中で生まれたのが「シナゴーグ」つまり、会堂でした。ゲバル川沿い住んでいたユダヤ人移住者たちが集まり集会を持ちました。生贄をささげる祭事ができませんでした。当時は建物も立てられませんでした。安息日になると、彼らは集まり、モーセの五経(トーラー)を子どもたちと孫たちに読んであげました。みことばが中心だったのです。詩編119編50節では、「あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう。苦しみの中でもそれに力づけられます。」としました。生贄をささげる祭事が中心だったイスラエル民族は、今ではみことばが中心になる集会をするようになりました。今日の礼拝が、祭事よりもみことばが中心になった理由がここにあります。捕虜生活の辛さと民族的な苦難の中で、神様のみことばが民に命を得させ、力づけたのです。

新約時代にも同じでした。使徒言行録4章をみると、使徒たちが神殿を訪れる人々にイエス様の復活を伝えました。祭司たちは、ペトロとヨハネを捕らえ牢に入れました。そして翌日に、議員と律法学者と長老たちが集まったところにペトロとヨハネを引き出し真ん中に立たせました。ペトロの頭の中では数日前の出来事が浮かび上がったでしょう。彼らのまえで尋問を受けていたイエス様の姿です。

質問の内容もイエス様にしたのと同じです。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」と祭司が尋問しました。ペトロは答えました。病人がよくなって、皆さんの前に立っているのは、あのナザレのイエス・キリストの名によるものだと言いました。そして、他のだれによっても、救いは得られないし、病気が治ったのがその証拠だともしました。祭司と議員たちは、この目覚ましいしるしを見ているので、弟子たちに言い返せませんでした。当時の宗教指導者たちは、非常に深刻な危機感を感じていました。

ペトロとヨハネに「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と脅してから釈放しました。弟子たちを釈放しながら、彼らはイエス様の復活を伝えることが深刻な事態であることに気づきました。使徒言行録5章では、彼らはイエス様の弟子たちを捕らえ公の牢に入れ始めます。ところが、牢に入れられた弟子たちに奇跡的なことが起きました。夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出してくれたのです。そうすると、今度はエルサレムで始まった初代教会にユダヤ人からの大迫害が起こりました。イエス様を信じる人たちを引き出し再び牢に入れました。

使徒言行録5章33節に「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」と記されています。民衆を恐れた

祭司たちは弟子たちに鞭打ちをし、叩きました。二度とイエスを救い主だと教えることと福音を宣べ伝えるなと命令し、釈放しました。しかし、弟子たちの心にはイエス・キリストの福音で満ちていました。七人の執事の一人だった「ステファノ」がイエス様の福音を伝えたため、当時のユダヤ教の若い指導者「サウロ」の主導によって石を投げつけられ殺害されました。そのことが起きた後、ユダヤ人はイエス様を信じる人たちと

弟子たちを殺害しようと奔走するようになりました。それで、弟子たちと他の皆はエルサレムから離れ、地方に散っていきました。

私たちがよく知っている通り、ステファノを殺害した人は「サウロ」でした。このようなサウロがイエス様と出会い、イエス様の弟子になり、名前も「パウロ」に替えました。パウロは小アジア地域を渡り歩きながらイエス様の復活を告げ知らせる福音伝道者となりました。使徒パウロを待っている地域の教会を尋ねるのが容易ではなかった時代に、パウロは手紙を書き始めました。新約聖書27巻の内、21巻が書簡、すなわち手紙形式で書かれています。その中でも使徒パウロの名で書かれたのが13巻です。

使徒パウロが書いた13巻の書簡の内容を見ると、「わたしパウロが自分の手で挨拶を記します。」(一コリ16:21)もしくは、「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」(ガラ6:11)その中でも、コリントの信徒への手紙一と二はとても重要な手紙です。コリント教会は使徒パウロが第2次伝道旅行の際、コリントで一年半滞在しながら建てた教会です。(使徒18:1‐8)パウロはアデン、今日のアテネからコリントに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれひどく不安でしたと言っています。(一コリ2:3)このような困難の中、パウロはとても貴重な人たちと出会います。

クラウディウス帝の全ユダヤ人をローマから退去させる命令によって、コリントに来ていたアキラとプリスキラと出会い、伝道活動をするようになりました。(使徒18:1‐3)マケドニア州に派遣していたシラスとテモテもやって来て、みことばを語ることに専念しました。パウロの宣教において「コリント」はとても重要な拠点でした。しかし、教会の中で問題が起き、教会は分裂の危機に直面してしまいます。さらに、パウロを妬む異端の指導者たちはパウロは偽弟子だと言いました。彼らの主張によると、自分らはエルサレム教会の指導者からもらった手紙、すなわち推薦状を持っているととし、パウロを非難しました。しかし、彼らは偽りの人であり、パウロは真なる福音の使徒でした。

パウロが第3次宣教旅行をしながら、コリントを尋ねると手紙を送ります。しかし、この願いは簡単には成就できませんでした。今日(こんにち)のように交通が発達した時代でもありませんでした。パウロは今のトルコのエフェソに留まりながら、ギリシアにあるコリント宛の手紙を書いたのです。その内容は、偽推薦状を持って渡り歩いている偽使徒やずる賢い働き手の言葉に耳を傾ける必要がないとのことでした。パウロは彼らが重要だと思っている推薦状は意味がなく、現れる結果、つまり信仰的な現象と実りがもっと重要であると言っているのです。

使徒パウロは自分の立場をコリントの信徒たち自身で確認すべき重要なことだと言います。この部分をユージンピータソン博士はこのように翻訳します。私たちは皆さんに見せる推薦状や皆さんからもらう推薦状が必要ない人です。あなたがた自身こそ、私たちが必要とする推薦状です。皆さんの誠実な生き方が私たちの必要とする推薦状の全部です。皆さんの誠実な生き方こそ、だれでも見て読める手紙です。キリストが私たちを用いてお書きになった手紙で、その手紙は墨ではなく生ける神の霊によって書きつけられました。その手紙は石の板ではなく、人の心の板に刻んだのです。私たちはその手紙を伝える人であります。

使徒パウロが苦労して建てたコリント教会にはよい働き人がいました。アキラとプリスキラ、テモテとシラスのように命をかけて福音を告げ知らせるよい働き人がいたからこそ、福音伝道が可能でした。それだけでなく、コリント教会には純粋な信仰を持っている信徒たちがいました。使徒パウロが早く来て、教会の全ての問題を解決してくれるよう、祈る信徒たちがいたのです。

信徒たちに対する使徒パウロの信頼を見て下さい。私は推薦状を皆さんに見せる必要がありません。その理由はコリント教会の信徒、あなたがたが私の推薦状だからですと言いました。コリント教会の信徒たちの誠実な生き方と苦難の中でも耐えて生きてきた信仰が墨で書かれた推薦状より大切だと言いました。モーセ時代のように変わらぬ石の板に刻まれたものより、貴重であると言いました。コリント信徒たちの生活と生き方に刻まれたものであり、生ける神の霊によって書きつけられた手紙だからだと言いました。

愛する信徒の皆さん、この映像礼拝に共に参加する皆さんと私は本当に祝福された人たちです。キリストが自ら書きつけられました。大阪教会の信徒の皆さんは100年前、私たちの信仰の先輩たちが書き残してくれた手紙からどれほど力づけられるでしょう。使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙二4章15節のみことばで「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。」と言っています。

今から私たちがすべきことがあります。私たちのため、先輩たちが残して下さった手紙があります。このように

私たちの子どもたちと孫たちのため、福音の手紙を書き残さねばならないのです。

愛する信徒の皆さんと至らない僕である私がキリストの手紙です。

墨で書かれた手紙ではなく、生ける神の霊によって書きつけられた手紙です。

石の板に書かれた手紙ではなく、人の心の板に書かれた手紙です。

この手紙は永遠に栄光を表す尊く大切な手紙です。

<祈祷>

慈しみ溢れる神様、今日、この尊い礼拝を通して、神様が私たちに送って下さった福音の手紙に感謝をささげます。100年前、大阪教会は信仰の先輩たちによって教会が建てられました。今日に至るまで、子どもたちと子孫が福音を抱き、生かせて下さり、感謝します。ここで、私たちも決心します。私を、子どもたちと子孫にとってのキリストの手紙にならせて下さい。来週、100周年記念主日を迎えるとき、感謝に満ちるようにならせて下さい。教会の頭(かしら)である主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会 主日礼拝 < 2021 4月 25復活節第4主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 불안에서 담대함으로 不安から大胆さへ

聖經 : 요한복음 21장 17절-20절 ヨハネによる福音書21章17節-20節

 

<日/新共同訳>

15.食事が終わると、イエスはシモン․ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16.二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17.三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18.はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 19.ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。20.ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。

 

<説教>

4月の最後の主日です。信徒の皆様1週間お元気でしたか。ニュースを見るのもつらかったと思います。

コロナ感染患者数が増えて結局緊急事態宣言が再発令され、生活全般に渡って苦しくなると思います。

人が生きていく中で、このように大変で難しい出来事が続くのが事実です。ある災害が起これば、それによって心に不安が襲います。どのようにしてこの苦しみを乗り越えられるかと心配になります。それで、力を出してみようと決心をします。 しかし、人はだれでも苦難と苦しみに遭うと恐れるしかありません。

イエス様が十字架の死と復活以後、弟子と周辺の人の姿を続けて探っています。弟子たちにおいて素晴らしい師匠、偉大な先生として慕っていたイエス様があまりにも無残に死を迎えたため、衝撃も大きかったのです。そして弟子たちの心に大きな恐れがありました。自身たちにある出来事が起こるかもしれないとの不安な気持ちがありました。どれほど恐ろしかったのか、彼らだけいるときにも戸に鍵をかけていたのです。

先週、説教の中で弟子トマスのことを考えてみました。人が心に疑いを持てば、すべてのことが不確実に見えます。何が正しいことか何が間違っているかを判断するとき、自信を失ってしまいます 自分も知らない間に心の中に不安や心配が生じます。心配とは脅威や危険を感じ、心が不安になって用心深い感情を抱くと国語辞典で説明されています。日本語で見てみるともっとたくさんの表現があります。名詞としての意味として怖さ、恐れ、恐怖、不安、心配、失敗するかもしれないという不安な心を表現します。失敗するかもしれない不安、形容詞の意味で恐ろしい、怖い、心配だ、不安だ、気掛かりだとの意味で表されています。

結局心配とは戸を閉め、心を閉ざし、関係を閉じてしまうことを意味します。不安と恐れを人々はいつ感じるのでしょうか。今全世界を襲っているコロナ禍の中で、人々は不安と恐れを抱いています。コロナ病原菌に私が感染したらどうしようという恐れを感じる事は当然のことであり、心に不安が広がります。そして、周りの人を考える余裕を失い、自身だけの世界の中で心を閉じて生活するようになります。コロナ禍以降、心理的に苦しんでいる人がたくさん増えたとのニュースを皆様も見られたと思います。恐怖は心を閉ざすことです。同時に鍵をかけて戸を閉ざしてしまいます。現代社会は、隣人との関係が信頼よりは疑いを抱く時代になってしまいました。隣の人が自分に危害を加えるのではないかと不必要な恐れが起きる世の中になり、鍵をかけて生きていきます。そして今まで維持されてきた関係を切ってしまうことによって、人々は不安と恐れを持つようになるのです。

人々はいつ一番恐れるでしょうか。最初に自身の身辺に脅威を感じる時でしょう。自身の地位または立場が厳しくなることに対して、恐れを感じるようになります。自身を取り囲む環境において自分が認められなくなるのではとの考えが起こり、恐れに囚われるのです。

BC1000年頃、イスラエル民族は周辺国家と戦争を続けておりました。イスラエルに一番大きな脅威はペリシテ民族でした。イスラエルは戦争において、組織的に国家と軍隊を導く指導者を立ててくれることを、当時の祭司長サムエルに要求しました。祭司長サムエルはこのことを神様に頼みました。しかし、最初神様は民の要求を拒みました。この願いが続けられたため彼らの声を聴いて王を立てなさいとサムエル上8章を見ると許したと記しています。そして最初に王に立てられたのがベニヤミン支派に属しているサウルでした。 サウルを王に立て、イスラエルを統治させました。周辺の国家と戦争をし、勝利を収めた王になり、国民の信任を受けた王になりましたが、自ら傲慢になってしまいました。神様のみことばに従わず、自分がしたいようにする誤った行動をとるようになりました。神様は祭司長サムエルを通して、サウル王を審判すると預言させました。

サウル王はダビデの登場とともに、自分の王の立場がどうなるか心配になり、恐れと不安に襲われます。 さらに口寄せのできる女性を尋ねていき、自身が持っている不安を解決しようとしました。結局この不安感はダビデを殺そうとする殺人の心を抱かせます。ダビデは自身の婿であり、王子ヨナタンとも厚い信頼の仲でした。それにもかかわらず、サウルの心にはダビデに対する必要のない妬みと不安が起こりました。結果的にサウルはふたたびペリシテとの戦争で自身の命を失ってしまうのです。このように、サウル王の話は妬みと不安がもたらす悲しい歴史でもあります。

今日の聖書のみことばは、ガリラヤ湖に訪ねて来られたイエス様と弟子ペトロの出会いと交わされた会話が中心です。ペトロはイエス様の12弟子の中で中心的な役割をした人です。ゲッセマネ丘で祈っておられたイエス様を逮捕しに来た人に剣を抜いて片方の耳を切り落としたのもペトロでした。しかし、私たちが良く知っている通り、ペトロはイエス様がローマの軍人に逮捕され尋問を受ける姿を見ていました。結局ペトロはイエス様を知らないと嘘をついて逃げ出してしまいました。イエス様が十字架につけられ苦しみを受け、死んでいく時も弟子たちは隠れていました。この不安と恐れは私たちの想像を絶するものです。誰も責められない人間本来の姿ではないでしょうか。当時のユダヤ教の指導者たちはイエスを殺し、彼に従っていた弟子たちを捕まえて殺そうとしたとも考えられます。このような危機感は弟子たちに不安と恐れをもたらしたのです。

ペトロと弟子たちはガリラヤ湖に戻り、漁をしている朝に復活されたイエス様が来られました。一晩中網を降ろしていたが、一匹の魚すら捕れなかった彼らは岸に立って叫ぶ声を聞きました。「船の右側に網を打ちなさい」。 網を引き上げることができないくらいたくさんの魚を捕らえました。湖の上に立っておられるのがイエス様だということを知った時、服を脱いで作業をしていたペトロは上着をまとって湖に飛び込み、イエス様に向かっていきました。7名の弟子たちはイエス様が準備された朝の食事をいただきました。この朝の食事を共にしたことを考えてみると、ある意味大変ぎこちない食事時間だったかもしれません。復活されたイエス様が弟子たちの前に3度現れましたが、弟子たちと食事をされたのは初めてです。食事が終わるとイエス様は弟子たちと対話をされます。今日の本文ではペトロに言われたみことばを見ることができます。

食事が終わるとイエス様はペトロに質問をされました。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか。」という不意な質問でした。私たちが良く知っている内容ですが、この質問はすごく敏感な内容にもなります。ペトロの立場から見れば最後の晩餐でイエス様がされたお話、「あなたは今夜鶏(にわとり)が鳴くまでに、三度私のことを知らないと言うだろうと話されたときも、強く自分の意志を伝えました。絶対そのようなことはないと誓ったのに、ほんの数時間後、彼は卑怯にも先生を知らないと嘘をついてその場を逃げた経験が思い浮かんだはずです。イエス様がこの質問を2度繰り返された時もすぐ答えました。しかし3度目も同じ質問を受けて、本文17節を見るとペトロは悲しくなり「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。

ペトロはなぜ悲しくなったのでしょうか。主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。なぜこのような答えをしたのでしょうか。ペトロの悲しみは自責の念からくる心理的不安です。自ら自分が何をしたのか知っているからです。心配は解決されないことのために心が乱れ憂鬱になることです。イエス様とペトロの間に解決されない出来事があるのです。ほんの数日前に起きたことですが、自ら解決できず心が乱れているのです。復活されたイエス様が弟子たちに現れました。しかし、ペトロは自責の念で心が憂鬱に陥っている状態でした。

今日、私たちも心配なことがたくさんあります。個人的には健康問題、経済的なことで自身の力では解決できないことがたくさんあります。社会的にはコロナ禍のように、大きな災害が襲ってくれば生活の不安と恐れで心配になるのは当然のことでしょう。このような時期にわたしたちはどうすればよいのでしょうか。信徒の皆様はどのようにしておられますか。イエス様とペトロの会話をもう少し読み解いてみましょう。

ペトロは心配な気持ちと恥ずかしくて大きな声で言えずに話しました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えます。弁明に近しい言葉です。責任を先生に負わせるような言葉です。しかし驚くことに、この言葉を聞かれたイエス様が弟子ペトロに与えたみ言葉です。「わたしの羊を飼いなさい。」との命令でした。信徒の羊飼いになりなさいとのことです。そしてより真摯に「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばすとされました、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と言われました。それだけではありません。最終的には死を迎えるようになると言われました。愛していますと言った弟子ペトロがどのような死に方を迎えるかを話されたのです。もちろん人は誰でも個人的な終末を迎えますが、それが死です。ペトロの立場から見れば、彼はどのような気持ちだったのでしょうか。

もし、イエス様が私たちに同じ言葉を与えて下さるならば、「アーメン。主よ、感謝します。」と答えられますか。そうでなければ、ペトロのように心配しながら「イエス様、少し考えてみます」と言われますか。率直に言えば、私たちの心には不安がもっと広がり、心配が深まるでしょう。イエス様はペトロの死までも神様の栄光のためだと言われました。人々が不安と心配が逃れられる唯一な道があります。それは使命のために死ですら受け入れ、死を覚悟する心を持てば、すべての不安と心配から逃れられるのです。死を覚悟することはやむを得ず死を受け入れる事とは違います。事実、人間は死を覚悟すれば、できないことはありません。本当に私の命を捧げても成し遂げるべき仕事、その使命がわかれば恐れは消え去るでしょう。

ペトロはイエス様に言われたみことばをに従い、使命を認識するようになりました。「私の羊を飼いなさい」。

今日を生きる私たちはこの時代的状況から与えられた使命があります。それをわかってこの使命を成せるため、主のみ手にわたしたちをゆだね進むとき、成し遂げられることを信じます。愛する信徒の皆様!今、私と皆様の前におかれているコロナ禍の不安が高まっていることは事実です。しかし、神様が私たち全員を守ってくださるでしょう。そして、私たちも私たちに与えられた使命に従い、自ら冷静さと同時に大胆さを持って生きていきましょう。神様が私たち全員を守って下さいます。

<祈祷>

私たちの考えと行動を見守ってくださる神様、弟子たちも不安と心配の中にいました。その不安から解放させるために、復活された主が弟子たちに再び使命を確認させ、大胆な心を持たせました。今日を生きる私たちすべてに強い信仰と与えられた使命をわからせ、知恵がある人生を生きていけるようお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。 アーメン

大阪教会 主日礼拝 [ 2021 4月 18復活節第三主日

説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 의심에서 믿음으로 いから信仰

聖書 : 요한복음 20 24-29 ヨハネによる福音書20章24節-29

 

[/新共同譯]

24. 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスがられたとき、彼らと一にいなかった。25. そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26. さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一にいた。にはみな鍵がかけてあったのに、イエスがん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27. それから、トマスに言われた。「あなたの指をここにてて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28.トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29.イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気でしょうか。

先週の主日から映像礼拝を中心に礼拝をささげています。映像礼拝をささげる信徒は不便だと思いますが、忍耐することによって大きな恵みが溢れますよう祈願いたします。一週間、関西地域のコロナ感染が驚くほど増えました。去る16日(金曜日)、世界の患者の統計を見ると、死者が300万人を超えました。大阪市の全人口が275万人ですが、それより多くの人が死んだということです。私たちは、一日も早く終息できますよう祈りましょう。

イエス様が復活され、マグダラのマリアと女たちの前に現れました。弟子たちが集まっているところに来られましたが、トマスは一緒にいなかったです。トマスは弟子たちから復活したイエス様が現れたと聞きました。この話を聞いたトマスはどうやって死んだ人が甦るのかと反問します。自分はイエス様が再び生き返ったら、彼の体の痕跡を触ってみて、目で確認できれば信じようと言いました。このようなことがあった8日後、イエス様は弟子たちのところに現れました。

今日のみことばを見れば戸には鍵がかけてあったのに、イエス様が来て真ん中に立っておられたと記しています。弟子トマスも他の弟子たちと一緒にいました。イエス様がまずトマスに声をかけました。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。」と言われました。この言葉は、イエス様がいないときに、弟子たちにトマスが言った言葉です。十字架にかけられ死ぬ際にできた釘の跡がイエス様の手にはありました。ローマの兵士たちはイエス様のわき腹に槍を刺して死を確認しました。そのとき負った傷に触れれば信じられるとの言葉です。トマスの言葉を聞いていなかったのに、イエス様はトマスが疑うことを知っており、自分の手を見、わき腹にあなたの手を入れなさいと話されたのです。

イエス様が語られたみことばを見ると、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」でした。この話を聞いたトマスは、想像を超える話をするようになりました。28節で、「わたしの主、わたしの神よ。」と答えました。この言葉は、変貌(へんぼう)の山で弟子ペトロがイエス様に告白した内容と並ぶ信仰告白であります。マタイ16章16節では、「シモンペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた」。その告白を私たちはよく知っています。

今日の状況は復活された後に、弟子たちからもらった最初の信仰告白です。イエス様は、このような告白をした弟子トマスに話し続けます。 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。復活されたイエス様を見るだけでなく、体に残っている痕跡を見れば信じられると言ったトマスがイエス様に出会った瞬間、彼の考えが変わりました。普通は「あ!先生は本当に復活されましたね!」と興奮し声を張り上げますが、トマスは違いました。彼は3年間、イエス様のそばですべてを見ました。イエス様がどのような生活をし、何をされたかを見て知っています。死を迎えることと3日目に再び甦るとの話を彼は覚えていたはずです。それが実現された形で、自分の目の前に立っておられるイエス様を見てこみあがったのが彼の信仰の告白だったのです。

トマスの心には「疑い」がありました。疑いとは、「信じられない、または正しく知らず不思議に思うこと。」という意味を持っている言葉です。 「確実な根拠がなくて信じられない状態」を指します。似通った言葉で「疑惑」もあります。 「ある事実を信じることができず、不正があるのではなどと疑いを持つ」という意味です。私たちがよく使う「疑い」、「疑惑」という言葉は、人の心理的な状態を表します。言語は、心理的な言語と物理的な言語があると学者たちは言います。体と心を持っている人は、脳と胸にあることを表現する言語は同一ではないそうです。心理的な言語は、人が経験した痛み、苦しみ、考えと感覚的なものを表現します。物理的言語は、人が経験したある状況で、実際することを通して認識して表現することばです。

私たちが生きていきながら、私たち自身も、弟子トマスのような経験をします。イエス様が十字架にかけられ死んだことは弟子の立場にとって、あまりにも大きな衝撃でした。それで、トマスも、十字架で死んだイエス様が復活したということを受け入れ難かったのです。自分に確信を与えられるいくつかのことを考えていたでしょう。トマスは、他の弟子たちに「あの方の手の釘跡を見、わき腹に手を入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うほどだったのです。

このような考えをしているトマスの前に、先生、イエス様が立っておられるのです。イエス様が先に言われました。「トマスよ、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」。みことばで重要に扱われるのは次の言葉です。「トマスよ、あなたが言う通り、わたしの手を見て、手をわき腹に入れ、確認して疑心を捨てなさい」、すなわち「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」でした。疑う心では信仰を抱けないのです。

人が生きながら、人間関係に疑いを持つと互いの信頼が崩れます。より発展的な関係を持つことができないことだけでなく、むしろ関係が切れ、悪化します。疑いは先入観から来る場合もあります。「多分そうだろう。」、「私が考えていることが正しい。」とし、自分の経験や普段の思い、心理的な思考をするようになります。時には他人の言葉だけ聞き、人を疑う場合もあります。もう一つは、コミュニケーションの不在から来る場合もあります。お互いが持っている考えを分かち合いながら、会話や他の方法で互いにコミュニケーションを取れば良いのです。しかし、お互いの間のコミュニケーションがうまくいかない場合は、いつも誤解を招き、進んでは疑いをもたらします。それで、人はコミュニケーションを取り、関係をよく維持することが必要だと言われます。

疑いを持つようになる理由はもう一つあります。それは、事件や物事の本質、すなわちその本質がわからないときです。皆さんはビジネスの取引をするとき、小切手を使用します。私は、最初小切手を見たとき、現金通貨とは別の方法で、金額だけ記録された紙がお金の価値と同等であることが不思議で疑いを持ちました。「どうやってこの紙一枚が莫大な現金貨幣のような機能を持ってるのだろう。誰のお金を出すのだろう。」という考えをしました。これは私が小切手の本質をよく理解できなかったときに生じた疑問でした。

弟子トマスの考えは、自分が経験した人間の本質、人は死ねば終わり、肉体は土に帰る存在だと思っています。もしイエス様が復活をされたということを、物理的な事件として受け入れられるためには、自分が直接手を入れてみるときだけだと思ったのです。これは弟子トマスだけでなく、誰でもそう考えたでしょう。

戸に鍵がかかっている家の中に入って来られたイエス様がトマスの前に立っておられるのです。

「トマスよ、指をここに当てて、わたしの手を見なさい。そしてわたしのわき腹に入れなさい。その疑いを捨て信じる者になりなさい。」と言う、その現実の前で物理的な言語で答えます。これは夢でもなくイエス様の霊でもない現実の前で、彼は驚かざるを得ませんでした。死んだと思っていた先生が、自分の目の前にいるのです。

復活されたイエス様に出会った弟子たちに共通点があります。復活されたイエス様に会ったとき、彼らは驚きと同時に、普段先生が話された言葉が思い浮かびました。それに注意を払うべきです。教育は、まさにこのような目的を持っているのです。イエス様が3年間行った働きの中で重要なのが、弟子たちを訓練させ教育させたことであると言っても過言ではありません。トマスの告白に対するイエス様の賞賛は、今日、イエス様を信じ従う私たちにまで至ります。イエス様は言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。

愛する信徒の皆さん、皆さんと私は本当に幸いな人です。弟子トマスの経験を通して確実となったイエス様の復活を信じられるからです。信仰は聞くことから生まれると言った使徒パウロの言葉が浮かびます。復活されたイエス様に出会った弟子たちが疑いから解放され、信仰に進みました。私たちの心にも起こる疑いを今日のみことばで解決されますよう願います。疑いは神様のみことばに対して否定的に考えるようにさせます。疑いは信仰共同体である教会の中でも悪い影響をもたらします。信徒と信徒の間だけでなく、指導者たちと信徒の間でも、これらの疑いが生じると信仰生活に役立ちません。教会の活動や福音の働きにも悪い影響を及ぼします。お互いが円満なコミュニケーションをしながら本質をよく把握し、理解することで、お互いの誤解や疑いがない共同体を作り上げるべきです。

信仰は、お互いの心に平安を与えます。信仰は、お互いに強く信頼する心をもたらします。疑いから解放させ、信仰の道に進む弟子の告白「イエス様は私の主、わたしの神です!」。弟子トマスが復活したイエス様に出会った際行った信仰告白を私たちができることに感謝です。疑いから解放され、真の信仰の道へと進みましょう。

<祈祷>

愛の神様、私たちが疑いに陥り、正しい信仰の道へと進めないとき、聖霊様が知らせ、みことばを

通してわからせて下さり、感謝します。イエス様の復活は大きな疑いをもたらせる出来事でした。

イエス様の復活の実体を見、驚くほど変わる弟子たちの姿を見ます。主は私の救い主で、私の神様です。

今日も生きておられ、私たちを信仰の道に導き、祝福して下さり、感謝します。

難しい時代を生きる私たちに力を与え、守って下さい。復活されたイエス様のみ名でお祈りいたします。

アーメン