日本語説教

大阪教会主日礼拝 <2021年7月18>五旬節後第8主日

                         説教 金柄鎬牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 내게 들으라 わたしに耳を傾け 

* 聖書: イザヤ書48:12-16  

</新共同譯>

12ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。 わたしが呼び出したイスラエル。 わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。13.わたしの手は地の基を据え わたしの右の手は天を延べた。 わたしが彼らに呼びかけると、共に立ち上がる。14.皆、集まって聞くがよい。 彼らのうちに、これを告げた者があろうか。 主の愛される者が、主の御旨をバビロンに行い 主の御腕となる人が、カルデア人に行うことを。15.わたしが宣言し、わたしが彼を呼んだ。 彼を連れて来て、その道を成し遂げさせる。16.わたしのもとに近づいて、聞くがよい。 わたしは初めから、ひそかに語ったことはない。 事の起こるとき、わたしは常にそこにいる。今、主である神はわたしを遣わしその霊を与えてくださった。

 

<説教>

神さまはバビロンに捕虜として捕らわれ苦労している神の民を救うために、キュロスという人物を選ばれペルシアの王として立てられました。本文14節はこの事実を暗示しています。「皆、集まって聞くがよい。彼らのうちに、これを告げた者があろうか。主の愛される 者が、主の御旨をバビロンに行い/主の御腕となる人が、カルデア人に行うことを。」とされました。

ここで「主の愛される者が」とはキュロス王を指します。主のみ旨を、すなわちバビロンを滅ぼしペルシアを立てられ神様の民を捕虜から解放される仕事をされると言われました。そして神様はキュロス王に力を与えられました。15節を見ましょう。「わたしが宣言し、わたしが彼を呼んだ。彼を連れて来て、そのを成し遂げさせる」。神様はキュロス王を導かれ、成し遂げられるようにされました。

キュロス王は当時強大国のバビロンを倒し、大帝国を作り上げました。そしてキュロス王は勅書を下し、イスラエル人をエルサレムに戻るようにさせました。紀元前538年、ゼルバベルを中心とした約5万人のイスラエル人はエルサレムに帰還しました。彼らは聖殿を再建するようになりました。皆さま、神様は緻密な計画の中でこの世を治めておられます。神様は一度も失敗した事がありません。世の中のすべてのことは神様のみ手によってなされるのです。神様はすべての事の中心に立っておられます。事実、宇宙万物が神様の作品であります。世の中のすべての物が神様の計画通り、神様の配置通り、神様の意図通りに作られました。本文12-13節を読んでみましょう。「ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル。わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。わたしの手は地の基を据え/わたしの右の手は天を延べた。 わたしが彼らに呼びかけると、共に立ち上がる。」

創造だけではありません。その後のすべての歴史的事件の真ん中に神様がおられます。洪水で世を審判されたこと、その審判からノアの家族を救われたこと、天に向かって聳えているような傲慢な人たちが立てたバベルの塔の工事を中断させたこと、彼らを世界のあちらこちらに分散させたこと、その堕落した人たちの中でアブラハムを選ばれ、その子孫を区別し、神様の民にさせた事、そして彼らをエジプトから救い出され、荒れ野を通過させ、カナアンの地を与え、国を建てて生活するようにさせた事。そのすべてが誰も予測できない神様の計画によって行われたことです。他のどのような存在も神様がされた御働きを知ることができず、したがって誰にも先に教える事はできませんでした。神様以外のその誰もが、人々が信じて頼る多くの偶像も、サタンも神様の計画を知ることはできず、よって事前に伝えることはできませんでした。そのすべての事を知っておられるのは唯一神様おひとりなのです。神様はご自分の僕たちを通して、その計画を教えてくださいます。神様はそのすべての事を計画され、なされる方ですから神様だけが教えることができるのです。

そうであれば神様は、どのような方なのでそのような事ができるのでしょうか。12節に神様はどのような存在とも比較できない特別な方だと説明しています。「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである」。 おどろくべきみことばです。神様は<わたしがそれだ、神>と話されました.ここで<それ、神>とはどのような存在を意味しているのでしょうか。<それ、神>とは世の中のすべてことにおいて最後の原因者であることを指します。この世を存在させた方、人々がびっくり仰天するすべての事をなされた方、すべての世の出来事の背後におられる方、そしてすべての人に<あの方はいったいどなたであろう>と不思議に思われるその方、その方がまさに神様自身であることを明かされたのです。その方だけが<わたしがそれだ>と言えるのです。

そして、その方は<わたしは神、初めでありまた終わりであるもの>です。正確に話せば、世の中のすべてのものを存在するように作られた方、世の中のすべての物を終わらせる方であるとの意味です。神様自身は始まりも終わりもない永遠のお方です。神様は永遠の前から永遠までおられる方です。しかし神様以外の全ての物は永遠ではありません。世の中のすべての物は始まりと終わりがあります。製品も製造年月日があります。ある製品の誕生日なわけです。そして製品はいつか廃棄されます。自動車もいつかは廃棄されます。住宅もいつかは崩れ落ちて立て直されます。

人も同じであります。すべての人は二つの特別な日を持っています。一つ目は生まれた日であり、もう一つは世を去る日です。ある人は二つの日を両方持っています。すでに世を去られた方たちです。まだ生きている私たちは二つの日の内、生まれた日にちだけを持っています。しかしいつかは私たちも二つ目の日を迎えるようになるでしょう。人々はこの二つの日の内、最初の日はすごく喜び祝います。しかし二つ目の日に関しては悲しみ恐れます。神様は二つ目の日を先に教えてはくれませんでした。もしも生まれた時に、すでに腕や額に二つ目の日が書かれていたら、世の中は奇妙な世界になったかもしれません。男女がお見合いをするときに、まず相手の額から見るでしょう。残された日がどれくらいかを確認したいために見るのです。

物質が最高の価値であるのこの世では、ある意味<残された日が短くてお金持ちの人>が最高の新郎新婦かもしれません。一方<持っているものは少なくて残された日が長い人>は最悪の新郎新婦になるわけです。世の中は混乱に陥るはずです。教会の週報の広告も変わるでしょう。今のように<だれだれさんが召天された>としないのです。その代わり<今週亡くなられる方>となるでしょう。曜日ごとに亡くなられる方の名前をすでに書いておき、<今週亡くなられる方の送別礼拝が午後礼拝の後に小礼拝室であります。皆様集まってお別れのあいさつをしてください>となるでしょう。これが我々人間の話です。すべての始まりと終わりを司るのが神様なのです。そして神様自身は始まりも終わりもありません。生まれた日もなく

亡くなる日もありません。永遠に存在しておられる方です。私たちとは次元が違います。そうであるから神様は私たちが恐れる方であり、対等な存在ではないのです。その方は絶対的な存在であり、信仰はその神様の存在の絶対性を認める事から始まります。

それで、私たちはその方を敬拝します。讃えます。讃美します。その方に私たちを委ねます。信じます。 従います。従順します。そうであれば、私たちがその方に栄光をささげる方法は何でしょうか。それは<耳を傾ける>ことです。今日の本文は繰り返して<聞きなさい>と言ってます。12節の最初の部分は「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。」となっています。そして14節を見れば「皆、集まって聞くがよい。」と記しています。16節も同じです。「私に近づいてこれを聞け」とされてます。これは48章1節も同様です。「これを聞け ヤコブの家よ」と言っています。
「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

信徒の皆様、ここで神様をどのように敬うのかを学ぶことができます。その基本は「聞くことです」。私たちは間違えれば「話す事」が信仰のように錯覚しやすいです。祈りをささげる、讃美をささげる行為は私たちの口を開く行為です。熱心にお祈りをして熱心に讃美をすれば、信仰が篤いと考えがちです。しかし信仰の基本は聞くことから始まります。神様の子供である私たちはその方のみことばを聞くときに、私たちは最も愛される神様の子になれるのです。皆さま、神様に向かいましょう。耳を開いて出て来て聞いてください。神様のすべてのみことばに耳を傾けましょう。聞くことから信仰は始まります。ローマ書10章17節はこのように教えています。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。アーメン。

話すことが好きな人が聞くことが好きになる時、信仰生活は可能になります。今までは自分の考え、自分の哲学、自己主張を言ってきました。しかし、自身の考えと哲学に限界を感じ「神様、お話してください。主の僕が聞きます。」と告白するときに、ようやく信仰の出発線上に立つことができるのです。そして、聞くと言っても神様が聞かなければ、それは信仰ではありません。他人の話を聞き、間違った異端の宗教の話を聞くことは信仰ではありません。私たちは唯一神様のみことばだけを聞かなければいけません。したがって最高の説教は面白くて流暢な説教ではなく、聖書に記録された神様のみことばを最も正確に伝える説教です。最近コロナ禍によって自宅でYouTubeなどのメディアを通して説教を聞きます。自分の教会の礼拝と説教を聞かなければいけないのに、世に回っている説教動画をあれやこれやと分別なく見る現象が増えています。時々聞くこともあるでしょう。しかし、異端の教会たちが送り出す動画も世間では出回っており、これに惑わされることもしばしばあります。注意しなければいけません。

イスラエルの人たちが一番重要に考える聖書の書が申命記です、その申命記6章4節以下のみことばの最初の単語が「聞きなさい」です。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」とされていますが、ヘブライ聖書では「聞きなさい」との単語が最初に出てきます。これが「シェマ」です。神様は謙遜な人を愛されます。つきまして、その謙遜を表現する最も基本的な態度は聞くことです。礼拝に出席する我々にとって「聞こうとする心」ほど重要なものはありません。

後輩の牧師任の中で釜山壽安教会の出身の神学校教授がおられます。この牧師任は米国に留学され、有名なプリンストン神学校で博士学位を取りました。この牧師任から聞いた話です。本人は説教が上手ではないと思っていたそうです。勉強は頑張りましたが、説教の経験は少なかったとの事です。しかし米国に住んでいるときに韓国から大きな教会の牧師任が訪れ、韓国に来られたら自分が牧会している教会で説教してもらいたいと要請されました。韓国に帰国したとき、説教をするため教会を訪問しました。本当に大きな教会でした。講壇に立ったら足に震えが来ました。その上、米国からそれもプリンストンで博士学位をとった牧師が来て説教をするということで、数千人の信徒が一斉に目を輝かせて説教者から恵みをうけようと注視いるのです。そして、自身の面白くない説教に真剣に耳を傾けて聞いてくれたそうです。お互いに貴重な恵みの時間になったとのことです。自身で考えても自分の説教は、たいして流暢でもなく上手な面白い説教でもないのに、聞く側の姿勢によって説教が恵みあふれるものになることを悟ったそうです。聞く側の姿勢、聞こうとする姿勢が重要であるということです。

しかし、私たちが耳を傾けなければいけない重要な理由があります。それは、神様が私たちに向かってご自身の計画を話そうとしておられるからです。今まで一度も失敗されなかった神様の作戦,私たちに向かう神様の作戦内容を聞きたくありませんか。そうであれば、私たちに向かう神様の計画は何でしょうか。今日の本文は、神様がキュロス王を通してイスラエルの民をバビロンから救い出そうとしている内容だけではありません。今日の本文は2重の意味を孕んでいます。本文14節に<主の愛される者>は究極的にイエス・キリストを意味します。そしてバビロンはサタンの国、サタンが支配する罪悪の国を意味します。これのために神様はイエス様を送られました。イエス様はサタンの勢力を退け、私たちを救われました。

その計画の核心はイエス様の十字架と復活です。十字架を通して罪と刑罰を解決され、復活を通して死亡から勝ち抜くことが作戦の核心です。そして聖霊様が私たちをそちらに導かれます。本文16節の終わりには「今、主である神は私を遣わし、その霊を与えてくださった。」と記しています。神様の聖霊が私たちに来られ、私たちの中で動いておられます。私たちは私たちに向かう神様の救いの計画、私たちを祝福される計画を知らなければいけません。このために、いつもみことばを聞かなければいけません。そして、神様の計画が一度たりとも失敗されたことがない事を信じ、大胆にならなければいけません。今も神様の作戦計画は滞りなく進行していることを信じます。

今まで生きてきた私たちの過去の一瞬一瞬に、神様はその場におられまし。私もそうです。私が生まれたこと、私が勉強して過ごしてきたこと、神学を勉強し牧師になったこと、妻に出会い家庭を築いた事、 友だちは一人いましたが親戚一人いない日本に来て在日大韓教会の牧師として生きていること、そのすべての背後には神様がおられます。「誰が私をここまで導かれたか?」と質問すれば神様が「私は神である」と答えられるでしょう。私は今まで、ここまで、私の人生を導いて下さった方が神様であることを信じているため、これから私を導いて下さる計画に胸がときめきます。それで、神様に耳を傾けたいのです。「神様、 私に対しての神様の計画を教えてください。僕が聞きます。そして、そのみことばを信じて従います。」と告白いたします。

皆様、私たち自身に向かう、私たちの家庭に向かう、私たちの教会に向かう神様の作戦計画を信じましょう。そして、耳を傾けて聞きましょう。大胆になりましょう。私たちのために、今も準備されている永遠の天国を仰ぎ見て、毎日神様に頼り歩んで行きますよう願います。不安に思われることはありません。怖がることもありません。私たちが生きて死ぬ、そのすべての事は神様の計画通りに行われます。それまで偉大な天の神様を崇め讃えるよう祈願いたします。正しくそれこそが神様に仕える方式なのです。

 

 

 

大阪教会主日礼拝 <2021年7月11>五旬節後第7主日/青年主日 

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 청년이여 갈 길이 있습니다! 青年、行があります

* 聖經 : 디모데후서2장 22-23  テモテへの手紙二2章22節23

 

</新共同訳>

22.若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。23.愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。

<説教>

愛する信徒の皆さん、過ぎた復活節の礼拝から3か月ぶりに教会に集まり、礼拝をささげることになりました。コロナ禍中で今も深刻な状態でありますが、皆さんと会えてとてもうれしく思います。今日は在日大韓基督教総会が定めた青年主日です。例年だと青年たちと共に礼拝をささげながら祈りし、激励の時間を設けたのです。しかし、今日は青年たちと共にできず、青年主日礼拝をささげています。

総会が青年主日を定めた理由があります。思春期を脱し壮年に進む入口で信仰的に独立すべき教会の若い青年たちに関心を持つためです。それで青年主日を通して、青年たちを理解することと青年たちが良い信仰生活がきるように祈りと愛を分かち合う時間を設けたのです。中高年の立場からは、青年のやることが生半可に見え、不安な気持ちで見守ることも事実です。しかし、今日の青年は、中高年が見るのとは異なり、非常に合理的であり、自分たちの世界を作りながら、未来に向かって進んでいます。

今日の社会のように価値観が急変する状況の中で、青年たちは途方に暮れ、目標を設定することができず彷徨う場合もあります。社会の貧富の格差と差別主義は若者にとって挫折の原因にもなります。平等な機会が与えられていない閉鎖的な社会で青年たちが自分の夢を実現することはあまりにも高いハードルと感じます。特に在日同胞の皆様がひしひしと身に染みたことは何ですか。民族差別の問題です。職場生活をしようとしても見えない差別の中で挫折感を感じ苦しかったことが今も日本社会に残っています。

若者たちに「夢は何なのか?」と尋ねると、「夢のようなものを持たないのが夢です!」とあまりにも突飛な答えをします。すなわち、夢を持っていてもその夢が実現されることは、あまりにも遠く感じる話だからです。「青年よ、希望、夢を持ってください!」と叫ぶから夢が持てるわけではありません。

そしたら、未来を生きていく、私たちの青年たちにどのような言葉をしてあげればよいでしょうか。

今日のみことばは、使徒パウロが青年の働き人テモテに託す言葉です。テモテはどのような人ですか。テモテは「リカオニア州の町であるリストラで、父はギリシヤ人、母はユダヤ人の間に生まれた混血児、最近の言葉で、多文化家庭に生まれました。事実、父がギリシヤ人であることを考えてみると、多神教的な背景を持っていたとも言えます。それにもかかわらず、「テモテ」は母「ユニケ」と祖母「ロイス」の影響でユダヤ教を信じる家庭だったが、イエス様の福音を受け入れ家族とテモテはクリスチャンになりました。

使徒パウロが第1次伝道旅行で「ルステラ」で福音を伝える途中、命が危ぶまれる出来事がありました。イエス様の福音を伝えるパウロはルステラの人々に石打ちされ、血だらけになり死んだと思われて、城壁から投げられました。その後、約4〜5年が過ぎ、第2次伝道旅行で再び「ルステラ」を訪問します。数年の間に「テモテ」は、キリスト教の福音の内容がよく訓練でき、良い信仰を持つ青年になっていたのです。二テモ1章でも使徒パウロは、「純粋な信仰が祖母と母とそしてテモテのうちにあることを見てとても喜びに満たされた」と記しています。

使徒パウロはルステラを再訪問し、「テモテ」という霊的な子を得ました。テモテをエルサレムまで連れてきて神殿で彼に「割礼」を施すことにより、割礼に対する是非を問わないように事前に賢く対処しました。

その後、使徒パウロはマケドニアで自分が立てた教会で問題が起こり、困難な状況に置かれたときテモテを送り、教会に仕えさせました。テモテは「テサロニケ教会」の中で起こった問題を使徒パウロに報告しました。そして、この問題の解決のために一テサ3節2節で「テモテ」を遣わすと言っています。テモテは、教会のために、コリント、フィリピ、エフェソ、マケドニアで、使徒パウロの後に続いて牧会と宣教活動をしました。

テモテはパウロがローマで殉教をする瞬間までお供した信仰の息子でした。そして、今日、私たちが読んだテモテへの手紙二は、使徒パウロが記録した最後の手紙でした。このように、若い青年テモテが使徒パウロの牧会と宣教を助けることができたのは、家庭での信仰の訓練と同時に、使徒パウロという偉大な伝道者であり指導者に会ったので、このような働きが可能だったと思われます。

《参考》

(日/新共同譯/3절, わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。4. わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。5. そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。

使徒パウロの働きの終盤の頃、テモテはパウロから彼の使命について、もう一度挑戦を受けることになります。

《参考》

一テモ1/18. わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、19. 信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。

使徒パウロは、「以前あなたに言った預言に従い、雄々しく戦い、信仰と正しい良心を持ちなさい。」と言いました。パウロは世を去る時が近づいていることがわかり、テモテを催促しまた。テモテ4章9節、「 ぜひ、急いでわたしのところへ来てください」。人が自分の人生の終期が近づいてきたのを悟れば、その最後の瞬間を誰と一緒にしようとしますか。当然家族でしょう。愛する人と親しかった友人ではないでしょうか。家族がなかった使徒パウロは、信仰の息子であるテモテが遠いところにいたが、ローマまで来てもらいたいと願うのです。

テモテはかつての牢獄に閉じ込められたが釈放され、ヘブ13章23節、「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。」。最近の言葉に直して表現してみましょう!テモテの「メンター」は、使徒パウロでした。「メンター」とは、相手よりも経験や年輪が多い人で、相手の可能性を見抜き、彼の夢とビジョンが実現できるように導く人を指します。

「メンター」の相手になる人を「メンティー」と言います。まず、メンターはメンティーを真の人格を持って接しなければいけません。また、生活の態度がポジティブであり、オープンマインドが必要です。指導者であるメンターはメンティーの才能を見抜く力があり、開かれた耳を持って、彼の話をよく聞くことができる人でなければならないということはリーダーシップに関する本を一冊でも読んだ人ならば知っている話です。

聖書にメンターとメンティーの関係が多く出ていますが、舅エトロと婿モーセ(出18章)、イスラエルの最初の指導者であったモーセと次世代の指導者ヨシュア(申31:1-8)、友人で互いに助け合ったヨナタンとダビデもあります(サム上18章)、預言者にはエリヤとエリシャ(王上19章)、バルナバとパウロの仲もあります。バルナバがなければ、偉大な福音の伝道師であるパウロもいなかったでしょう。(使徒4:36-37)、パウロとテモテ(使徒16:1-3)、パウロとテトス(二コリ7:6)の場合も、このような関係でした。しかし、誰よりも優れたメンターは弟子たちを訓練させたイエス様であることを誰もが認めることです。その後、宣教の歴史の中で、このような流れを確認することができます。

私たちは歴史を振り返ってみることで、学ぶことがあります。過去を通して、その時代と信仰的な背景がどうだったかを知ることになります。18世紀に最も顕著な教会歴史の特徴の一つが、米国で起きた「大覚醒運動」です。この運動は、ジョナサン・エドワード、ジョージ・ホウィットフィールドのような指導者たちが主に活動しました。これらの積極的な復興運動は、多くの人々に大きな変化をもたらしました。その中でも多くの青年たちに改心(悔い改め)の機会を与えました。青年たちを神様の偉大な福音の働きに同参させました。そして、これらの復興運動に参加した多くの20代前半の若い青年たちが全世界へ散り、宣教活動を始めました。

韓国において初めての宣教師は1885年入ってきた長老教会派遣宣教師アンダーウッドでした。彼は、(Horace Grant Underwood)は26歳、メソジストのアッペンゼラー(Henry Gerhard Appenzeller)宣教師は27歳でした。この二人の宣教師だけでなく、後に韓国に来た宣教師たちは当時の「大覚醒運動」によって影響を受け、宣教の使命を持って韓国に来て殉教を覚悟して、福音宣教の働きを行いました。

日本の場合も同様です。日本にプロテスタントの宣教師が初めて到着したのは、韓国より26年早い1859年です。アメリカ合衆国長老教会の医師ジェームズ・カーティス・ヘップバーン( James Curtis Hepburn)も26歳の若さでペンシルバニア医科大学とプリンストン大学を出て、日本宣教師として来ました。現在の明治学院大学を設立し、聖書の翻訳作業と橫浜に日本初の西洋式病院と教会を立て、医療と教育宣教を行いました。ジェームス・ハミルトン・バラ(James Hamilton Ballagh)も1859年神学生の時に日本宣教の話を聞き、宣教師サポートをすることになります。

青少年の人は価値観の混乱を持っており、何かと直面すればそれに対する善悪の判断を下しにくいのです。しかし、青年の時期に自分の価値観を確立し、善悪の判断をすることができるまでがダイナミックな時期だとも言えます。バラ宣教師は韓国に来た「アンダーウッド」宣教師と同じニューヨークのブランズウィック神学校を卒業して、28歳に日本に来て教会を立て、日本人に初めて洗礼を施した宣教師でもあります。

ダニエル・クロスビー・グリーン(Daniel Crosby Greene)はシカゴ神学校を卒業し、26歳に日本に来た宣教師です。彼は同志社大学を創立することを手伝い、一生涯日本宣教のため、努めました。グリーン宣教師は44年間の宣教生活を終え、天に召されました。彼の墓は同志社大学にあります。

靑山学院大学を設立したメリマン・コルバート・ハリス(Merriman Colbert Harris)宣教師も28歳で日本に来ました。内村鑑三先生に洗礼を授けたメソジスト所属の宣教師でした。当時ハリス宣教師は日本と韓国を担当したメソジスト監督でもありました。最後の瞬間まで日本で宣教活動をし、召天されてからは東京靑山墓地に安置されました。このように、若い青年の時期に神様に会い、自分の使命を悟り、決心して最後までその働きを全うした力は、まさにその若い日に決心したその心をずっと抱いてきたことなのです。

去る6月19日(土)午後に在日同胞宣教のために貴重な足跡を残した故麦仁道宣教師召天20年を迎えて追悼会をオンラインで集いました。26歳の青年の時、日本に来られ召天されるまで在日同胞たちのために宣教活動をした宣教師です。

青年の時期に正しい価値観と神に対する従順があれば、その人は確かに一生涯、神様に向かう心が変わらないでしょう。また、神様との同行を決心した青年が増えるほど、社会が正しく立てられるようになり、教会がその役割を担うことができます。しかし、なぜ今、全世界的に経済的、政治的、文化的に苦しんいますか。それは私たちの時代の青年たちが、当然行くべき道を行かず、ただ、肉の情欲を追っていくからです。今日読んだ使徒パウロの手紙は、テモテにのみ適用されるものではなく、すべての青年たちに言っているのです。

すると、使徒パウロがすべての青年を代表するテモテに求めることは何ですか。「若いころの情欲からとおざかりなさい。」ということです。ここで青年の情欲というのは、人間の強い肉体的な欲望を意味するものです。つまり過度の性欲と権力の欲望、また物質に対する欲求、名声への欲望などを言うのです。これらの肉体的な欲望は、血気盛んな青年たちにとって最も陥りやすい現象です。テモテがいた当時の環境は、性的にひどく堕落したエフェソ地域でした。エフェソはとても商業が発達した都市でしたが、商業的に発達している反面、偶像崇拝と性的に堕落した都市でした。使徒パウロは、このような環境で働かなければならない若者テモテを心配していたのです。

青年の時に最も注意しなければならない一つは、どのような人に会うのかということです。善良な人に会っているのか。それとも悪い人に会っているのか。パウロは、清い心で主を呼び求める人々と共にいなさいと言っています。ここで、清い心を持つとのことは、正しい良心を持っている人を指します。教会でも職場でも、勉強する学校でも私たちの青年たちがどのような人に会うのかということは非常に重要なことです。

ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)宣教師は札幌羊ケ丘展望台のクラーク像と北海道大学の校庭にも銅像があることで有名な方です。クラーク博士は、日本に来て1年という短い期間を宣教師として活動をしました。当時、日本政府の招待で北海道の農業学校で農業と化学を教えながら、青年たちに多くの影響力を及ぼしました。私たちがよく知っている「少年よ、キリストにあって大志を抱け!Boys、be ambitious in Christ」。(青年よ、利己のためやはかなき名声を求めることの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱けと述べたという説がある)クラーク博士の影響を受けた日本の若者たちは後に日本社会で立派な役割を果たすようになりました。クラーク博士が米国の教授でいるとき、新島襄(同志社大学の創始者)が日本人出身の弟子でした。結局、このように日本と深い

関わりを持っていることがわかります。

愛する信徒の皆さん、壮年である私たちが青年たちのためにできることを考える必要があります。今、韓国では「2030」突風が起きています。韓国の第1野党は丁度1か月前である6月11日に党代表を選出しました。36歳の若者が党首になりました。国会議員の選挙に出馬3回して全部落選をした、経験不足だと言われている青年が党の最高指導者になったので、既成世代は不安がります。

実際、韓国は過去2020年4月に総選挙をして国会議員を選出しました。当時29歳の若い女性が最年少国会議員になりました。30代の若い人たちが11人も当選しました。男女比率を見ても、総国会議員300人のうち、男性243人/女性57人、女性の割合が19%でした。

私たちの教会が青年たちを教育させようとしてもうまく行かないと思います。すでに青年が持っている新しいトレンドがあります。青年たちは、彼らが作っていこうとする世界観を持っているのです。ただ、私たちができるのは、彼らのために祈ることと協力することだけなのです。

主の青年たちがいつも「義」と「信仰」と「愛」と「平和」を従って生きて行くよう信仰的な協力をしてあげる必要があります。したがって、私たちが住んでいる地域でそして住んでいる場所の市民として、正しい精神で生きていけるよう祈ることです。今の青年たちが少しの時間が経つと、私たちの教会を担って主の国を広げるのに大きな役割を果たすことになるでしょう。今日、青年主日の礼拝をささげる信徒の皆さんと青年たちの上に主の導きがありますよう祈願いたします。

<祈祷>

朝露のような青年たちを主の神殿に来させ、彼らの生活においてイエス様のように光と塩になる使命を

担い、主のみ国に臨ませてください。青年たちに力と勇気を与えて下さい。

感謝しながら主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会主日礼拝 <2021年7月4日>五旬節後第六主日 

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 충성함으로 얻은 기업  忠誠によって祝福

* 聖書 : 여호수아14 6-9  ヨシュア記14章6節9

 

[/新共同訳]

6. そのころ、ギルガルのヨシュアのもとにユダの人々が来た。その一人ケナズ人エフネの子カレブがこう言った。「主がカデシュバルネアでわたしとあなたのことについて神の人モーセに告げられた言葉を、あなたはご存じのはずです。7. 主の僕モーセがわたしをカデシュバルネアから遣わし、この地方一帯を偵察させたのは、わたしが四十歳のときでした。わたしは思ったとおりに報告しました。8. 一緒に行った者たちは民の心を挫きましたが、わたしはわたしの神、主に従いとおしました。9. その日、モーセは誓って、『あなたがわたしの神、主に従いとおしたから、あなたが足を踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子孫の嗣業の土地になる』と約束しました。

 

<説教>

愛する信徒の皆さん、7月の第1主日です。一週間もお元気でいらっしゃいましたか。

主の恵みが信徒の皆さんに満たされることを祈願いたします。85歳の一人の老人が、イスラエルの民の前で自分の過去を話しています。この老人は、イスラエルの歴史において主演の役割を果たした主人公ではありません。助演の役割をしたと言える人物です。もちろん、人生や自分の生活の中では誰でも自分自身が主演であり、主人公であります。

一本の映画を作るとき、登場する人物の中で中心になる役割をする人に主演、助演という表現を使います。世界の映画界に最も影響力のあるアカデミー賞の授賞式が、4月25日、米国LAで行われました。映画賞授賞式前、年老いた一人の女性俳優に関心が集中していました。主演賞ではなく、助演賞候補に名が上がっていました。発表の結果、「ユン・ヨジョン」韓国人の俳優が女性助演賞を受けることになり、世界的なニュースになりました。英語圏の人でない74歳の老年である韓国人の女性俳優が受賞されたのです。素晴らしい一本の映画には主人公がいれば助演もおります。

カレブは、イスラエルの歴史において非常に重要な時期に大切な仕事を引き受けた人でした。モーセと共にエジプトを脱出したイスラエルの民がゴーセンの地から離れて「カデシュ・バルネア」に到着しました。一日も早く神様が備えてくださった「乳と蜜の流れる地」に入らねばならないのに思い通りにことが運びせんでした。モーセは、部族ごとに一人ずつ、賢くて判断力があり信頼できる指導者を選んでもらい、遣わしました。(民数記13章)偵察する12人が選ばれ、集まりました。

カレブは、ユダの部族のエフネの子です。「カレブ」という意味は、「犬」という意味だが、それは僕としての忠誠心と愛情を表しています。カレブを「ケナズ」としたが、「ケナズ」はもともと、エドム族の中の一つです。カレブの家門は、純粋なヘブライ血統ではないが、ユダ族に流入されたエジプト生まれの人です。このように、イスラエルの共同体が出エジプトをする過程でもヘブライ血統ではない周りの人々とどのような関係であったかを教えてくれます。カレブをユダ子支派の代表者、指導者に選んで偵察させたのは、非常に開放的だったことがわかります。今日(こんにち)の教会も、人種や民族、身分と地位を超越した開放的な共同体を作り上げる必要があると思います。

民数記13章-14章は、カナンの地、すなわち今のパレスチナを見回って偵察したことをモーセと民の前で報告している内容です。 10名は、「その土地の住民は強く、町という町は城壁で囲まれ、大層大きく、しかもそこで巨人族であるアナク人の子孫を見た」、「あの民に向かって上って行くのは不可能だ」、「彼らは私たちよりも10倍、百倍強い」、「私たちは、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたに違いない」と報告しました。この報告を聞いた、共同体全体は声をあげて叫び、夜通し泣き言を言いました。イスラエルの人々はモーセとアロンに対して不平を言います。 「私たちがエジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどなしだった。どうして主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか」と叫びます。イスラエルの民は「妻子は奪われてしまうだろう。それぐらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」と言います。

そのとき、カレブは民を静め、集中させた後に進言しました。「断然上(のぼ)って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」。しかし、イスラエルの民の泣き声に埋もれてしましました。今度はヨシュアとカレブが衣を引き裂き、イスラエルの共同体全体に訴えました。「我々が偵察して来た土地は、とても素晴らしい土地だった。もし我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えて下さるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない」。しかし、共同体全体は、彼らを石で打ち殺そうとしました。カレブは完全に主に従った人で、他の10名の偵察者とは違って勇気ある行動をしました。そのとき、主の栄光が臨在の幕屋でイスラエルの人々すべてに現れました。信仰と不信仰はこのように一つの事件を見ても雲泥(うんでい)の差があります。カレブは、主は我々と共におられることを信じる人でした。不平、不満、不信に覆われているイスラエルの民の前でもただ主を信頼し、未来を見て希望を持つ信仰の人でした。

今日の本文は、カレブがどんな人だったかをよく示しています。先ほど説明した偵察後の報告を通して、出エジプトした人々の中で、カナンの地に入った人は、ヨシュアとカレブ二人だけだと聖書は何度も記しています。カナンの地に入ったカレブは85歳の高齢の老人でした。しかし、カレブは、この年齢でもヨシュアに巨人たちが住んでいる城壁のある大きな町を私にくださいと懇願したほどでした。このようにすることができたのは、敵が自分たちよりも優れていることを知っていても、敵よりも偉大な神様の能力を信じていたからでした。

「カレブ」の名前の意味が「犬」という言葉だと申し上げました。動物の中で犬は人と親密な関係を持ち、人と共存する動物です。犬は主人に非常に忠実な動物と言われます。今日の聖書のみことばで、カレブを主に従いとおした人だと言います。従いとおした、忠誠という言葉は、国、組織、指導者などに逆らうことなく、仕え従うことを意味しています。これに該当する(ヘブライ語)「ネーマン」(ne’eman)は確実、真実という意味だが、「アマン」(aman)から由来した言葉、「アーメン」と同じ意味を持っています。

主はモーセを「神の家全体の中で忠実だった者」と褒められました。ヘブライ人への手紙の著者もモーセを指し、「将来に語られるすべてのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でした」と言及しました。その他、旧約の人物の中ではアブラハム、ダニエル、ハナニヤを忠実な人と記しています。

新約聖書で、イエス様を「キリストは御子として神の家を忠実に治められた」としました。イエス様も、忠実な良い僕は主人の楽しい宴に一緒に座ると言われました。それだけでなく、忠実な僕たちには命の冠が与えられることになると約束されました。誠実は、聖霊の九つの実の一つです。神の秘密を引き受けた者が求めなければならない徳目が誠実だとしました。(ギリシャ語)「ピーストス」は、頼る、従う、信頼される、誠実さ、信頼性の高い、忠実な証人という意味を持っています。反対語(ギリシャ語)「アピーストス」は、信じない、頼れない、信頼できないという言葉です。忠誠と誠実を表現する名詞として(ギリシャ語)「フィッシュティス」は、信念、確実性、意志、保障、保証という言葉として使用されます。もう一つ、言語学的に言うと忠誠と誠実が英語表現では、同じ言葉を使っています。 「Faithfulness」「信仰に満ちている」忠誠と誠実は信仰なしでは不可能な行動であることが分かります。

カレブを「誠実な人」としました。7節を見るとカレブは45年前のことを想起しながら、少し躊躇せずにはじらわず、神の命令に従いとおしたと告白しています。信仰人の告白は、人の前ではなくて、神様の前で神のみ旨と命令に従いとおしたと明確に告白できなければいけません。カレブの「私が思ったとおりに」という言葉は、神様に向かう誠実な心があったことを意味するものです。決して人の顔色を窺わなかったとの意味です。また、神様に対して誠実であるという言葉は、人たちの言葉と神様の言葉が異なる場合、神様の言葉と神様のみ旨に従うことを意味するものです。

カレブは民の反応を全く意識せずに、自分の誠実さと神様に従う心で、偵察の結果を報告することができたのです。信仰的に「誠実」という言葉を最もよく表現してくれる言葉が8、9節に記録されています。「わたしは、わたしの神、主に従いとおした」というみことばです。完全に(マレ)は「満たす」、「満足させる」という意味です。つまり、神様のみ心を満足させることが誠実であるという意味です。

誠実なカレブは神様の御心を満足させた人であり、ただ主を信頼し、主に従いとおしたので思ったとおりに

報告ができたのです。詩編31:24「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる。」詩編7:8には「主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください/お前は正しい、とがめるところはないと」。

再びお話ししますと、「神の裁きの尺度(しゃくど)、基準が誠実」ということです。誠実(エムト)は、「正しい」、「確実である」、「強固である」という意味があります。約束において、双方の間で誠実が重要であるように、神様と信徒の契約関係においても誠実さによって固く結ばれるようになります。カレブは正しく、確実で、強固な信仰の所有者であったので、出エジプトしたイスラエルの民は荒野で生涯を終えたが、彼はヨシュアと共にカナンの地に入る祝福が享受できたのです。大変な時や苦しい時も、敵陣の前や勝利の後も、いつどこでも主を信じて従ったカレブは、誠実な信仰人であり、神様は誠実な彼を見守り、賞を与えられました。

ヨシュアは、カレブの話を聞きました。そして彼は土地を分配します。13節には、「ヨシュアはエフネの子カレブを祝福し、ヘブロンを嗣業の土地として彼に与えた。」と記しています。旧約聖書の嗣業(ナハラ)は「財産、所有、相続」の意味で使われています。神様がイスラエルの部族に分配された約束の地、「土地」のような概念です。イスラエルの民に、嗣業とは、神様が彼らに与えられた贈り物です。最終的には神様のもののために、自分たちは管理人として嗣業をよく保たなければならないと思いました。それ故に、神様が下さり先祖に受け継いだ嗣業を売るなり移すことは、罪だと考えたのです。

映像で礼拝をささげる信徒の皆様、この礼拝堂で共におられる皆様!

神様が私たちを呼び、神様の子として、神様の僕としてならせて下さいました。私たちに与えて下さった全ての祝福を考えれば、感謝しかありません。私が神様のみ前でどれほど誠実で従いとおしたのかを顧みてみましょう。神様のみ前でもっと誠実で従いとおす人になられますように祈願いたします。

今日、我々が享受する全ての祝福が、我々の子孫の嗣業になりますよう切に願います。この嗣業は神様を正しく知る知恵です。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰です。この福音の喜びを持って、分かち合うことに忠実な良い僕になりますよう主のみ名で祈願いたします。

<祈祷>

私たちに嗣業を祝福として与えて下さるヤハウエ神様!

誠実と忠誠で主に仕え、愛することができるようにならせて下さい。

与えて下さった全てに感謝しながら、隣人と分け合うことができる信仰を与えて下さい。

天の国の祝福を分け合う私たちにならせてください。

感謝をささげながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会主日礼拝 <2021年6月27>五旬節後第五主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 염려를 기도로 바꾸는 신앙으로   思いをりにえる信仰 

* 聖経 : 빌립보서 4 6-7 フィリピの信徒への手紙節-

<개역개정>

  1. 아무 것도 염려하지 말고 다만 모든 일에 기도와 간구로,너희 구할 것을 감사함으로 하나님께 아뢰라. 7. 그리하면 모든 지각에 뛰어난 하나님의 평강이 그리스도 예수 안에서 너희 마음과 생각을 지키시리라

 

</新共同訳>

6. どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7. そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう。

<説教>

愛する信徒の皆様 一週間お元気にお過ごしでしたか。

主から与えられる平安が皆さまのともにありますようお祈りします。今、私たちはコロナウイルス感染病によって不安と恐怖に脅かされています。このような不安と恐怖により私たちの心は思い煩いと心配にあふれています。私たちの力でどうすることもできないとてつもない出来事が起これば,信仰をもって生きるとはいえ人間ですから憂いと心配しないわけにはいかないかもしれません。水を離れて魚が生きていけないように私たちも心配から離れて一日も生きていけないのではと思ってしまいます。心配が多すぎて心配ですし,心配が一つもなければそれがまた心配です。心配事が多いのにかかわらず、心配しない自分を省みて急に不安が襲いかかります。

コロナウイルス感染病は自身も知らないうちにウイルスが体の中に入ってきたら、病気にかかってしまいます。

このように私たちも知らない間に心配というウイルスが私の心に入ってきたら,感染され心配中毒症になってしまうと思われます。人が日常で生きながらする心配は習慣であり、心配は病気とも言えるでしょう。心配という病気にかかれば私の意志と関係なく、先に心配をしてしまいます。よく考えてみれば、心配は長い時間にわたり学習された習慣性行動の一種と思われます。私たちがこのようにいう事があります。肉も食べたことがある人が上手に食べる。心配もしたことがある人が巧みにできる。正しいと思われますか。

生きながら私たちは実際に問題が深刻になり心配事が生じ、思い煩うときもあります。また一方で、人が心配を習慣的に行えば、無意識のうちに憂慮の心と言葉が行動に表れてしまうかもしれないのです。思い煩いのウイルスに感染された人はどのように考えて生きている人だと思いますか。心配がなければ、不安で耐えれない人です。ある意味、私たちは知らぬ間に心配を楽しんでいるのかもしれません。心配は「首を絞める」「心が分裂する」などの意味があります。心配は悩む、思いめぐらす、憂い、気がかりになることを指します。近い表現では憂いです。憂いと不安はいつもともに存在します。憂いは心が落ち着かずはらはらする感情的な苦しみ,迷いを意味します。

私たちは一日にも数十回意味のない思い煩いと心配をして生きています。罠にかかった動物のように、息がつまる痛みをみずから感じています。それだけではありません。信仰的な面においても、やっとの思いで自身の姿勢を正し主に向かう心で満たされようとします。しかし、その時に必ず憂いと心配が入ってきて私たちの心を四方八方に裂(さ)き,そして粉々に壊してしまうのです。サタンが使う古い武器の内の一つが心配と憂いです。その心配の中には実際辛くて難しい問題もあります。しかし、ほとんどはすでに過ぎ去った過去に対する後悔、しゃくに触った思い出、さらにはまだ訪れていない未来に対する心配です。何年か前に新年の宝くじの話をしました。日本は新年の宝くじの金額がすごく高いので、新年に大勢の人が宝くじを買います。数億円が当たることもあるからです。しかし宝くじを買ってもいない方が一番よくすることがあります。なんだと思われますか。宝くじを買って一等が当たってそのけた外れのお金を受け取れば、どうしよう。そのように思い煩う事をするのです。これが人間の本来の姿なのです。

サタンは私たちの心理的戦闘で勝つために手段と方法を選びません。人を一番簡単に倒す方法は心配と憂いの心をひそかに入れ込めば勝ってしまうのです。サタンは心配と憂いで信徒の首を絞めて、主に向かう心を分裂させるのです。結局神様に対する集中力を低下させ、神様との交際を断絶に導きます。これが、サタンが心配と憂いを武器に使用する絶対的な理由です。サタンがこの武器を最先端の武器に替えない理由があります。心配と憂いという武器は、信徒の心を怖いほど破壊する力があるからです。物事を冷静に考えれば、心配したり憂いをしたからといって進展したり解決できることは世の中に一つもないことを知っています。心配より大きな心配を生み出し、小さな憂いがもっと大きな憂いを作るのです。

心配と憂いの心にサタンが陣取っている人に、どのような事件が起きるでしょうか。結局、様々なストレスと病気を引き起こしてしまうことは、医療専門家でなくても一般常識として知られている事実です。心配と憂いは神様に向かないようにするだけではありません。人と人との間、信徒と信徒の間に互いに信用できない不信感をもたらせます。心配が非生産的で非効率的であることを知りながら、私たちは繰り返される心配の渦に溺れて生きています。それもかかわらず、イエス様は私たちに「心配してはいけない」と命じておられます。しかし私たちはこのみことばにしばしば衝突しながら信仰生活を送ります。「人ならば、どうやって心配せず生きていけるのかできようか」と考えます。「イエス様はこの世の実情を知っておられないから、そのように話をされるのだ。」とむしろ主を教えようとするのが私たちの姿ではないでしょうか。

しかし、この衝突はイエス様が世の実情を知らないのではなく、私たちが主の心をよく理解できないから起こることなのです。私たちは髪の毛までも数えられる主が、私たちが、胃腸に穴があくほど大変で苦しい生活でも生きていかなければいけない日々を知らないわけがありません。心配するなと言われた主のみことばをより深く黙想してみれば「心配するな」という事が中心ではありません。「主にゆだねなさい」とのことに重点が置かれているのがわかるようになります。心配しない事は私たちの力では不可能です。主にすべてをゆだねることも私の力では難しいのです。このような事実を私たちの心の中で認めなければいけません。心配と憂いのような心の病気と生活習慣は私の修行、努力、決心で簡単に治されるものではないのです。

これから私たちは心配と憂いを克服する方法を共に考えてみましょう。心配と憂いは私たちがずっと休まずしたからといって解決できるものではないことを確認できました。そうであれば、今度は私たちの心にいつも宿っている心配と憂いをどうやって追い払い、平安な心をもって生きていけるかを探るべきです。今日の本文のみことばを通して使徒パウロは6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」と話しています。先週の説教の中でお祈りと執り成しの祈りについて申し上げました。祈りは神様と信徒の間の交わりであり、互いに対話することです。信徒は神様にイエス様のみ名で讃美し、うやまい、感謝をささげるのです。信徒がすべきことは自身の罪を悔い改め、救い求め、執り成しの祈りをささげる事だと話をしました。

お祈りはギリシャ語では二つの単語が使われています。「メオマイ」とはお祈りする、要請する、求めるとの意味です。同じ意味で「ユコマイ」とは望む、質問する、誓うとの意味があります。ここでもう一つ、祈りをささげるとの意味は「神様を呼び求める」との意味があります。私が祈る行為を通して必要を求めて要請して望むことを成就してくださることを求めるのです。そして祈りを通して、神様の意志を聞くこともできるのです。祈りを通して私の心の決心を誓うこともできるのです。同時に祈りは神様を呼び求めることにもなるのです。

ダビデの時代イスラエルの初代王であったサウルは、天の神様が自分から離れていったと考えました。その時 サウル王がした行動を皆さんは覚えておられると思います。サムエル上28章によれば、サウル王はエンドルに住んでいる口寄せ女を訪ねていきました。11節にサウルがこの女性に求めたことは預言者サムエルを呼び起こして欲しいとのことでした。死んでこの世にいない人の存在を呼び起こしてとの願いでした。サムエルの霊がサウル王にどのように語られましたか。すでに神様が与えられたみことば通りになされるでしょうと言いました。祈りは神様を私たちの生活の場に呼ぶことなのです。同時に神様の望んでいるところに私たち自身を引っ張っていく行為です。使徒パウロは本文で心を煩わって心配するのではなく、心配の代わりに祈りをささげなさいと勧めます。救い求めと讃美で皆様の心配を祈りに替えて、神様に皆様の願いを知らせなさいと言っています。そして、パオロは私たちの心を捉えている心配と憂いの気持ちを、神様に祈りをささげることにより、願いを成就させる人生になりなさいと勧めています.

続けて与えられた7節のみことばには、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう。」と記しています。このみことばは私たちも知らない間に完全なる神様の感覚を身に感じるようになると言っています。また一方で、すべてのことが協力し合い善に成し遂げられるという信仰が生まれ、私たちの心を平安にさせてくださるという約束のみことばです。最後の部分はキリストが私たちの人生の中心から心配を追い出してくださる時、生じる驚くべきことを見ることになるとのみことばです。祈りは信徒の霊的な呼吸であり、神様の子たちだけが持てる特権でもあります。イエス様がマタイの福音書6章25-34節で心配に対するみことばを与えてくださったことを覚えておられるでしょう。その中でいくつかのみことばを分かち合ってみます。 

25. 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何をもうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思いむな。

27. あなたがたのうちだれが、思いんだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

28. なぜ、衣服のことで思いむのか。

31. だから、『何を食べようか』『何をもうか』『何を着ようか』と言って、思いむな。

34. だから、明日のことまで思いむな。明日のことは明日自らが思いむ。

私たちは神様のみことばを信じて生きているイエス・キリストの弟子たちです。イエス様は人間の人生を見通しておられます。万病を癒した医師であるイエス様だけが、私たちの心の病気の心配と憂いから私たちを治癒して自由にしてくださることができます。そのために、私たちができる事は、まず、いつも心配して憂いに陥っている自分の足りなさと弱さを認めなければいけません。イエス様を完全に信頼し、すべてを委ねる意志がなければいけません。これには訓練と体質改善が絶対的に必要だと私は考えます。ある意味、私たちが心配しないことより委ねることがもっと難しいことかもしれません。このとき、聖霊様が私たちを助けてくださるはずです。すべての心配と憂いを祈りによって昇華させる成熟な信仰人として生きていきましょう。

<祈り>

不安と憂いの中にいる私たちに心配せずに祈りと願い求め、そして感謝で祈りなさいと教えてくださり感謝します。神様の平安が私たちの生活の場で実現できるようにならせてください。この世に平安を与えてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会主日礼拝 <2021年6月20>五旬節後第四主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

題目 : 기도가 우리에게 주는 은혜 祈祷たちにえる 

聖経 : 디모데전서 2 1-4 テモテへの手紙一2章1節-4節

 

[개역개정] 기도에 대한 가르침

  1. 그러므로 내가 첫째로 권하노니 모든 사람을 위하여 간구와 기도와 도고와 감사를 하되, 2. 임금들과 높은 지위에 있는 모든 사람을 위하여 하라 이는 우리가 모든 경건과 단정함으로 고요하고 평안한 생활을 하려 함이라. 3. 이것이 우리 구주 하나님 앞에 선하고 받으실 만한 것이니, 4. 하나님은 모든 사람이 구원을 받으며 진리를 아는 데에 이르기를 원하시느니라.

[(日)新共同訳]

1. そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。2. 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。3. これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。4. 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間をいかがお過ごしでしょうか。

主からの恵みが信徒の皆さんと共にありますよう、祈願いたします。コロナ感染による緊急事態宣言が6月20日、予定では今日まででした。しかし、状況悪化によって、私たちが住んでいる関西地域は蔓延防止等重点措置が出されました。徹底して健康管理に注意を払ってください。元気な姿で再び教会で集う日を待ち望みます。

今日は信徒たちの信仰生活に重要な柱のような祈りの生活に関する話をしたいと存じます。先週、電話を一本いただきました。教会にかかってきた電話であり、事務室からの伝言によるとうちの教会の信徒ではないが、牧師と相談したいとの内容でした。

私は電話を受け、挨​​拶をしました。お相手の方は、電話した理由を説明されました。 13歳の中学生の娘を持っている母親でした。自分は教会に通っていないが、娘はキリスト教系の学校に通っているとまず話してくれました。本人も娘も、教会に行きたいが、夫が教会に行くことを反対しているらしいです。娘と夫の仲が非常に深刻で、生活面や学校の成績にも影響を及ぼし、苦しんでいるという内容でした。お母さんからの願いは、牧師に娘と夫と自分のために祈ってもらいたいとのことでした。私は、本人の名前や娘が通う学校や家族について一切聞きませんでした。しかし、電話をしたお母さんは、娘の名前だけお知らせますと言いながら、祈ってもらいたいとの要請でした。この電話の後に、私はこのお母さんとの約束を守るために、祈りをささげています。

わたしは、牧会者として考えてみました。このお母さんは、教会を通わず教会に対する理解をどれほどしているのかはわかりません。私と一度も会ったことがありません。どうやって大阪教会を知るようになったかと質問しました。すると、お母さんは在日同胞の教会であることは知っており、それで電話をして、自分の家族のために祈って下さいとお願いしようと思ったそうです。おそらくこのお母さんにとって、教会は祈るところ、牧師に祈りを求めることができることと理解しているようでした。私は電話をされたお母さんに大阪教会について簡単に紹介をしました。教会のホームページや主日の映像礼拝の案内もしました。私は、この時間またはこの後でも、このお母さんがこの映像を見て欲しいと願っております。

私たちはお互いに祈りをお願いし、他人のために祈ることを執り成しの祈りと言います。自分のためではなく他人のために祈ることを意味します。今日読んだ聖書のみことばでは、使徒パウロが自分の後継者として教会の働き人と福音伝道者として召されたテモテにこのように述べています。「まず第一に勧めます。祈りをささげなさい」。他のどのようなことをするよりも、優先的に一番最初にしなければならないことが祈りであることを言っています。そして続いて「君が知っているすべての方法を使って、あなたが知っているすべての人々のために祈りをささげなさい」と話しました。

初代クリスチャンはすでにユダヤ教の伝統を理解しているユダヤ人もいました。ユダヤ人ではなく、異邦人の出身であるクリスチャンたちも自分らが持っていた信仰を基に祈りをしてきた人たちでした。そして、わたしに電話をかけてきた中学生のお母さんも教会は祈る所と知っていました。そして、パウロは「願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい」と言っているのです。すべての人々のため祈りをささげるのと同時に、2節で「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」と続けて言います。この言葉の意味は「統治者や政府が国民を正しく治めるように祈りなさい。」とも考えられます。

王たちやすべての高官のためにもささげなさいという理由を、続くみことばから察することができます。それは「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」。

実際社会的な環境が私たちの信仰生活に影響を及ぼすことができることを、私たちは今回のコロナ禍によって実感しているのではありませんか。このように、社会的な雰囲気が影響を与えるのです。

それだけではなく、国家の運営と市民を安全に保護するために、政府や統治者たちの役割が重要だからです。今、日本の最大の社会的、政治的な問題は何ですか。コロナ禍により、昨年2020年に実施しようとしていた東京オリンピックが1年延期されました。延期決定後、一年が経ちましたが、感染の状態はますます厳しくなっています。このような状況の中でオリンピック開催の妥当性が問題となっています。日本政府は、国民が安心できる安全なオリンピックを開催するという言葉を重ねています。メディアや多くの人々は、国民が安心できる安全であることが一体何なのかを説明するよう求めていますが、答えを出せない状況であります。

このように、政治家は政治を通じて国民や市民に多大な影響力を及ぼす役割をするので、彼らのために祈りなさいということです。初代教会の時代にも多大な影響力を発揮したのは、国の王や支配者と宗教指導者の暴挙でした。当時のローマにキリスト教を初めて伝えたのは、ペトロとパウロではなかったです。すでにローマに住んでいたユダヤ人たちが故郷と母国、イスラエルとエルサレムを尋ね、イエスの福音に触れました。そして、彼らがローマに戻ってきて、信徒の集まりが始められ、家庭教会が建てられたものです。後に、ペトロとパウロがローマに来て福音を宣べ伝えてから、殉教をするところがローマでした。以後、ローマの皇帝の中にはネロのようにキリスト教を弾圧した人もいました。

世界史において、私たちが必ず覚えなければならない重要な人物がいますが、「コンスタンティヌス1世(ラテン:Flavius Valerius Aurelius Constantinus、272年2月27日-337年5月22日)」です。ローマ皇帝(在位306年-337年)として、キリスト教史では「コンスタンティヌス大帝」と呼ばれる人物です。彼は306年7月25日、ブリタニアのヨークで兵士たちによって君主に推戴されて死ぬまで、ローマ帝国を統治しました。彼が統治期間に成し遂げた業績の中で、キリスト教の歴史において重要なターニングポイントになったことがあります。西暦313年、ミラノ勅令(ちょくれい)でキリスト教の受容を宣言して、キリスト教に対する迫害を終え、事実上、正式宗教として公認したのです。また、政府が差し押さえた教会の財産を返し、これに対する国の補償も行いました。彼はまた、325年第1ニカイア公(こう)会議(かいぎ)を招集し、キリスト教の発展にも寄与したことで有名な皇帝です。 324年コンスタンティヌス大帝はビザンティンを「新しいローマ(Nova Roma)」として公表し、330年には正式にローマ帝国の新しい首都と定めました。そこが今日のトルコのイスタンブールです。歴史の中にはこのように、一人によってキリスト教が世界の宗教になることに役立つ指導者もいます。

このように、使徒パウロは、王と高官たちの正しい政治のために祈りなさいと言っています。政権に媚(こ)びて、神が油を注いだダビデのような将軍とお世辞を使いなさいということではないのです。政治家たちが正しく治めると国民が平安に暮らせるでしょう。それだけでなく、信仰生活においても「常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」ことができると言っているのです。そうなると私たちがへりくだった心で黙想でき、静かに心を込めて丁寧に暮らすことができると言いました。それこそ、主が喜ばれる生き方であるとパウロはテモテに伝えています。

このような祈りがもたらす重要な一つの事実は、クリスチャンの平穏な生活のためだけではないとパウロは言っています。テモテにこう教えています。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」。そして、祈りが神の救いにつながる重要な要素であることを強調しているのです。祈りにはいくつかの種類があります。求めは、懇願(こんがん)と哀願(あいがん)をすることです。祈りは信徒が主に申し上げる形式として「プロシュケ」(προσευχη)という意味を持つ言葉です。

執り成しの祈りは、仲裁や調停の意味であり、他の人のための仲裁の祈りとして使われる言葉です。人のために神様に嘆願する祈りを指します。旧約聖書では、この仕事は大祭司が担う貴重な働きでした。(ヘブ5:1)大祭司は罪の許しのために供え物やいけにえをささげるよう、人々のために神に仕える職に任命された人でした。新約聖書で私たちの大祭司であるイエス様は、永遠に生きておられ、この仕事、すなわち信徒たちのために執り成しの祈りを今もしておられるというみことばがあります。ヘブライ人への手紙7:25

「それでまた、この方は常に生きていて、人のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」。

聖霊様も言葉で表せない呻(うめ)きを持って執り成してくださるとローマ書8章26節に書かれています。

「同に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。

特に新約聖書では執り成しの重要性を強調しています。使徒パウロは、彼が立てた教会の信徒たちに彼自身、パウロのために執り成してほしいという祈りの願いを多くしています。(注:/エフェ6:19;コロ4:2-4)使徒ヤコブも同じく、主に癒していただくために互いのために祈ることと正しい人の執り成しの祈りは大きな力と効果をもたらすと言及しています。(ヤコ5:16)それで、今日の本文で、使徒パウロはテモテに、教会に執り成しの祈りを教えなさいと勧めているのです。

使徒パウロは続けて、祈りは神に何かを求める方法で一貫するのでなく、必ず感謝を共にしなければならないことを教えています。私たちは、長年の信仰生活をしながら、祈りの重要性と恵みをよく知っています。今日はコロナ伝染病がパンデミックを引き起こし、恐怖と不安に覆われている時代です。この時、私たちがやるべきこと、私たちができることが何だと思われますか。一緒に集まって祈れず、一緒に集まって礼拝をささげることもできません。しかし私の小部屋、私の祈るところで、自分だけでなく信徒たちのためにも、他人のために祈ることはできるのではないでしょうか。

牧師として信徒の皆さんにお願いをするのは、使徒パウロが信徒たちに牧会者のために祈って下さいと要請しました。皆さんも牧会者のために祈ってくださいますよう、切に願います。皆さんの祈りなしで牧会はできません。同様に信徒の皆さんも困難なことがあれば隠さず、お互いのために祈れるように祈りのお願いをして下さい。もちろん一人一人の考えに差があるはずです。公開せず祈りを願う場合、牧会者は秘密を守りながら、祈る人たちでもあります。私たちが仲裁と執り成しの祈りを信じる信徒であれば、祈りのお願いをして下さい。

祈りの力と恵みは何ですか。

祈りは信じる信徒たちの魂の糧(かて)です。

祈りは頑(かたく)なに閉ざしている門を開ける神秘のカギです。

祈りは眺めるだけのものではありません。祈りは一方的なものでもありません。

祈りは主、見えないが生きておられるイエス様と向き合って話し合う対話です。

自分自身や家族のための祈りに、希望と感謝と執り成しの祈りが同時にありますよう、願います。

祈りは私だけでなく、我々が共にするものであることを覚えましょう。

祈りの恵みの中で過ごされますよう、主のみ名で祈願いたします。

 

<祈祷>

私たちの祈りを常に聞いて下さり、応えて下さるイエス様に祈りをささげます。

休まず祈る信徒の生き方にならせてください。私だけでなく他人のために頭を下げられる尊い生き方にならせてください。主のみ心を動かせ、この世で救いを分かち合いながら、恵みが享受できる私たちにならせて

ください。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

大阪教会主日礼拝 <2021年6月13>五旬節後第三主日/子ども主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

題目 : 훌륭한 부모 좋은 자녀 立派親良ども 

聖經 : 잠언 23장 22절-26절 箴言23章22節26

 

<개역개정>

  1. 너를 낳은 아비에게 청종하고 늙은 어미를 경히 여기지 말지니라. 23. 진리를 사되 팔지는 말며 지혜와 훈계와 명철도 그리할지니라. 24. 의인의 아비는 크게 즐거울 것이요 지혜로운 자식을 낳은 자는 그로 말미암아 즐거울 것이니라. 25. 네 부모를 즐겁게 하며 너를 낳은 어미를 기쁘게 하라. 26. 내 아들아 마음을 내게 주며 눈으로 길을 즐거워할지어다

</新共同譯>

22. 父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。23. 真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。24. 神に従う人の父は大いに喜び躍り/知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。25. 父が楽しみを得/あなたを生んだ母が喜び躍るようにせよ。26.わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ。

 

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間いかがでしたか。

コロナ禍が延び、映像礼拝でささげる期間も長くなりました。一週間、一週間信徒の皆さんの安全と健康のため、祈っております。今日は在日大韓基督教会総会が定めた「子どもの主日」です。各家庭の宝で、教会の未来と天の国の主人公になる子どもと青少年の信仰教育に関心を持つことを目的としています。

信仰教育の出発点はまず家庭だと申し上げます。父母と子どもとの関係が信仰教育の第1歩であるのは言うまでもないです。説教者は説教の題目を決める時、色々と考えを巡らせます。今日の題目は「立派な親、良い子ども」としました。「良い親、立派な子ども」も同じ意味を持つことができると思います。

立派な親、良い親から良い子ども、立派な子どもが育つことは当然だからです。子どもが生まれ、養育され、成長し自立できるまで親は教育します。信仰教育も同じです。教育というのは一日に成り立つものではないから、時間と手間をかけ持続的に目標に向かって進むのではないでしょうか。

時間的に計ると幼児期から思春期と青年期までの教育期間が20年以上かかります。たくさんの教育費もかかります。日本の場合、幼稚園から大学を卒業するまでかかる費用の統計を見ました。国公立と私立学校の差がなんと2.5倍近くなりました。国公立の場合、平均1,000万円、私立の場合はなんと2,500万円でした。国家予算を見ても甚(はなは)だしいです。2021年日本文部科学省の統計をみると教育費予算が4兆216億円です。国家予算が大きい国の中でも、未来のための教育投資に少し異なる点が見受けられます。GDP(國內總生産/gross domestic product)の割合で見ると、ノルウェーやフィランドのような国は6.3%で世界最高です。韓国と米国は4.1%です。これに比べて、日本は3%に過ぎないです。

親たちはわたしたちの子どもが何とか良い教育を受け、立派な人生を送るよう願います。それだけでなく、

信仰の家庭の子どもらしく信仰生活も真摯に送るように望みます。信徒の皆さんはお子さんたちが、どのような信仰人になることを願っておられますか。私たちに目標があれば、その目標を達成するため何かをすべきです。それもとても具体的に行動すべきです。親が子どもに期待し、望みがあるのと同じく、子どもたちも親に望むことがあります。

今日の本文のみことばの理解をこのようにすれば、良いかと思います。

22節「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」としました。私たちの子どもが成長し、自分を育ててくれた父親が言うことを聞き従い、年老いた母親を侮らない人になれば成功と言えるでしょう。24節にも「神に従う人の父は大いに喜び躍り/知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。」と記しています。

この言葉の他の意味は「親は子がよくなると喜び、知恵ある子になれば誇らしい親になる」とも考えられます。この世の全ての親は自分の子が良く成長すると喜びます。知恵ある子だと、他人に自慢したくなるほど

嬉しいのです。しかし、この世の中で、親がどれほど願い望んでも子ども教育の成功が簡単ではないことを私たちはよく知っています。「真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。」と話されています。真理を得て、愛やお金と替えずに知恵と分別力を買いなさいとの教訓です。無論、私たちが真理というのはお金で

売買できるものではないことを知っています。愛も分別力も同じです。

この例えは人生において何が重要なのかを話しています。26節は「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ。」と記しています。このみことばも同じく、「わが子よ、十分に注意して聞きなさい。どうか私が教える通りにしなさい。」とのことです。皆さんと私は子どもにどのように教えましたか。主は喜んで私の道に目を向けよと話されました。

私たちは、私は一体何を教えたのかをもう一度省みるようになります。私たちは大切なものをきちんと守り、持っていたいと願います。このように真理と知恵を持って生きながら、父親を楽しませ、母親を喜ばせるように努力しなさいということが教訓の中心です。このような子に養育させるため、親も血が滲むような努力をせざるを得ないことを私たちは知っています。いつも暗いニュースが溢れていますが、先日、このようなニュースがありました。

父に腎臓を移植させてあげ、病院に入院した息子の姿をニュースで見ました。親から与えられた命に感謝しながら生きてきた息子がいます。ところが、父の腎臓が非常に悪くなり、腎臓移植が必要になりましたが適当な人が見つかりません。それで、息子は父のために自分の命の一部分である腎臓をあげて、それができたことで満足している表情を見ました。無論、人間の道理でもありますが、息子が父への愛で自分の一部をあげるという感動的な姿でした。このような子どもばかりいればよいけど、この世はそうはいかないのです。

このような職業があります。「遺品整理士」という言葉を聞いたことがあると思います。亡くなられた人たちが

残していった最後の痕跡を整理する人たちが「遺品整理士」です。韓国で一冊の本が刊行されました。専門クリーニング業者であるバイオハザードを設立し、今まで千件を超える現場を整理しながら経験したことを基にして本を作ったのです。著者はキムセビョル・チョンエウォン、二人です。亡くなられた人たちの遺品を整理しながら、死が決して遠くない事実を知らせる内容です。生と死の真ん中で、周辺の人たちと共に

一日一日生きていくことから力を得ると言っています。

あるお爺さんが亡くなってから2週間後に気づき、住んでいた家を整理してほしいとの要請でした。約束された時間に家を訪問すると、最後の整理する時間だから子どもたちも来ていました。遺族は箪笥の扉を開けっぱなしにし、布団や引き出しを引っ張り出し、何かを探していました。故人の娘と義理の息子、息子のような人たちでした。大げさに遺書を探していると思ったが、家の契約書などの言葉が聞こえてきました。「一体どこに隠してある?」「金の指輪と金のヒキガエルもあると聞いたが、ないじゃない」。寝室から何も出ないと家族たちは他の部屋や茶の間を隈(くま)なく探し始めました。どうせ出たら渡すのに、家族は家中をごちゃごちゃにひっくり返しており、掃除をしにくくさせていました。いくら依頼人で顧客だとしても、あんな人たちのためにきれいにしなければならないもんかとも思ったそうです。

遺族たちは自分たちが欲しがっていたものを見つけられなかったのか、苛立っていました。その中の一人が大切なものが出てきたら伝えて下さいと要望しました。無論、遺品整理士の仕事は物を分類して捨てることと、家族に返すものを整理することです。2年前、先に亡くなったお婆さんと今回亡くなったお爺さんが一緒に撮った写真の額縁が出ました。これはどうすれば良いですかと息子に渡すと、彼は受け取って捨てるものを積んであるトラックに投げてしまいました。大きな音を立てながら額縁のガラスが割れました。父と母が一緒に撮った写真でした。忌まわしいのであれば、写真だけでも取っておいてもよさそうだったので、額縁を持ち上げるとその裏面に何かが貼られてありました。額縁の裏面に差し込んでいる封筒に家の契約書と現金が入っていました。

遺品整理士はこの封筒を息子に渡しながら、割れた額縁からお父さん、お母さんの写真を抜いてあげました。息子は面倒くさがる気配がありありでしたが、自分もきまり悪かったのか、しぶしぶ受け取りました。息子には家の契約書と現金だけが重要だったのです。その現金は葬式の費用に当てられて、死ぬ間際までも残された子どもの心配をするのが親だと言います。亡くなったお爺さんはまさか親の写真は捨てないだろうと思ったのでしょう。しかし、子どもたちは故人になった自分の親の写真をゴミ扱いしたのです。妻に先立たれ、一人で暮らしていたお爺さんの死を知ったのも子どもたちではなく、隣に住んでいた隣人のお爺さんでした。それも2週間過ぎてから知ったと著者は言っています。

第2次世界大戦が終わり、1952年には原子爆弾より米国を震わせた病気が大流行しました。ポリオでした。一年の発病者が6万名で、死亡者が3,000名を超え、22,000名がポリオに苦しみました。数年間続いたポリオの苦痛で子どもたちが死んでいく状況の中、ワクチン開発が始まりました。

ジョナス・エドワード・ソーク(Jonas Edward Salk)博士はユダヤ人で米国の医学研究者であり、ウイルス研究者でしたが、ポリオワクチンを開発しました。今、全世界がコロナウイルス感染禍の中、世界の研究所や製薬会社がワクチンを開発し、接種をしています。この開発したワクチンに対するワクチン特許保護措置を免除するように要請したが、結局受け入れられなかったのです。甚大な研究費や学者たちが苦労したのに、無料提供できるわけがないのです。ポリオも同じでした。開発に成功した時、米国の製薬会社が先を競って、ワクチンの特許権を自分の会社に売るように要請しました。その時、ジョナス・ソーク博士はこのように話しました。「特許なんてありません。太陽にも特許を出すんですか。」と言いながらワクチンの製造工程を公開し、どの会社も作れるようにしたのです。

どれほどの良いものでも自分のためだけに使おうとすれば、世に有益を与える人ではありません。私たちが

子どもを幸せな子に育てるのか、もしくは成功した子に育てたいのかを自問自答してみる必要があります。

主は主の子たちが世に有益をもたらす道具として使われるのを喜ばれると思います。親である私たちが子どもたちに何を教え、何を残すべきか。これがまさに子ども教育の中心課題です。立派で良い親から立派で良い子どもが生まれるでしょう。

親たちと教会学校は私たちの子どもたちや青少年たちに何を教え、分かち合うべきかを深く考えなければなりません。主のみことばに従い、立派で良い子どもたちになりますよう、養育しなければいけないと思います。主の導きを待ち望みながら、みことばを共にしましょう。

<祈祷>

聖霊様が私たちを教え、憶えるようにして下さることを信じ、感謝します。

今日、子どもの主日を迎え、大阪教会と親たちが神様のみことばを良く教え、社会に貢献する

有益な生活を送れるように子どもたちを教育し、祈りをささげられたことに感謝します。

教師と学生たち、私たちの家庭が一つになり、主の子としてよく育てるように導いて下さい。

感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会主日礼拝 <2021年6月6日>五旬節後第二主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 聖霊の充満と実を結ぶまで

聖書 : ガラテヤの信徒への手紙522節-26

 

</新共同譯>

22.これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23. 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。24.キリストイエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25.わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

<説教>

愛する信徒の皆さん、どのように過ごされましたか。

このような困難の中でも主の導きにより、健康に過ごされますよう願います。聖霊降臨節と三位一体主日が過ぎました。わたしたちがクリスチャンとして生きながら、霊的だけでなく肉体的にも良き信仰生活を望んでいます。今日は信仰生活において、究極的な目標になるみことばを分かち合いたです。

信徒の皆さんは信仰生活を送りながら、どこに目標をおいておられますか。イエス様を信じて霊的に肉体的に祝福されるのも重要だと思います!イエス様を信じる信仰生活の中で、良きクリスチャンと言われたいと思うのも事実でしょう。それでは、真実なクリスチャンの生活のため、どのような姿で生きるべきでしょうか。

それは、聖霊の満たしと聖霊の実を結ぶ生き方だと申し上げたいです。

今日は聖霊様が私と共におられることと聖霊の満たしがどのようなことなのかをまず考えてみたいと思います。同時に、私たちは聖霊の結ぶ実がどのようなものなのかを考えたいです。聖霊の時代を生きている私たちは聖霊の満たしと信徒の真実な生き方のため、聖霊の実について真剣に考えなければなりません。私は2013年にも本文を読み、説教をしたことがあります。2015年5月から8月まで聖霊の九つの実について毎週説教をしました。

聖霊の満たし(Full of the Holy Spirit)、一時期、リバイバルの伝道者たちの専用物のように「聖霊を受けなさい」と言えば、聖霊が受けられたと錯覚しながら信仰生活を送ったりもしました。ある方たちは聖霊の臨在や聖霊の満たしが重要ではない、もしくは無視する考えを持っています。聖霊の臨在のようなものはあまりもシャーマニズム的だと考える信徒たちもいます。様々な考えの中で、聖霊の臨在や満たしをみことばを通して、整理し経験するのも必要だと思います。

イエス様は大工の仕事をしながら、家族を世話しながら暮らしました。イエスの公生涯は、ヨルダン川で悔い改めを叫び洗礼を授けていた洗礼者ヨハネを尋ねることから始まりました。ヨハネのところに来られ、洗礼を受けようとしました。最初ヨハネはその思いをとどまらせようとしましたが、結局イエス様に言われた通りに洗礼を授けました。イエス様の体がヨルダン川から上がってくる瞬間、どのようなことが起きましたか。

イエス様は洗礼を受けて水の中から上がられたとき、神の霊が鳩のようにご自分に降(くだ)って来るのをご覧になったと記しています。他の人が見るのが大切ではありません。イエス様、ご自分が御父である神様の霊をご覧になったのです。そしたら、他の人達は見なかったでしょうか。違います。そこにいた人たちはその光景だけでなく、天から聞こえてくる声も聞きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聴きました。

御父の神様がこの地を救う目的で送った御子が神の働きを始める時、洗礼を受けることを通して神の霊が降り臨在することを見せたのです。聖霊はこのようにイエス様と共にいながら、御父神様の働きを担っているのです。聖霊の臨在は、神様の働きを担うためには絶対的に必要であることを再確認できるわけです。

それでは、聖霊の満たしはなぜ必要なのでしょうか。イエス様も洗礼を受けながら、神の霊を受けたと表現されています。

私たちも信仰告白をし、洗礼を受けるのと同時に聖霊の洗礼を受けます。事実、神学者たちは洗礼と聖霊の洗礼を一回性とみるのか、みないのかで議論しているのです。今日、プロテスタント教会の伝統では洗礼は1回だけ受けると規定しています。洗礼式を通して、聖霊の洗礼と臨在を経験すると定義しています。使徒パウロは一コリ12章13節で「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」と話しています。

水で洗礼をうけることは聖霊の洗礼を通してキリストの中で一つになることを意味します。それで、洗礼も一回で、聖霊の洗礼も一回であると言えるのです。しかし、「聖霊の満たし」は違う意味を持っていることを知っておかなければなりません。聖霊の満たしは一回性の事件ではありません。聖霊の満たしは信徒が聖霊の臨在を持続的に享受できる祝福です。満たしと言う表現で、わたしたちは量的なイメージを持ちやすいです。無論、人たちは胸いっぱいになるように感じたいと思うでしょう。しかし、元来の満たしの意味は「何かに心をとらわれた時」なのです。

聖霊の満たしとは、聖霊が私の心を完全にとらえており、聖霊が司っていることを意味します。聖霊が私の考えと感情と行動を完全に支配することを意味します。聖霊の感動で一日一日生きていくことを指します。しかし、聖霊の満たしというのが自分自身を制御できない、無我の境地をいうことではありません。すでに、聖霊がどのような方で、どのような役割をしているのかについて、2回の説教を通して話しました。もう一度申し上げます。「聖霊は神様であり、人格体であります」。聖霊は信徒の中で人格的に共におられる方です。

聖霊は私たち信徒が人格的に従順に従うとき働く方です。聖霊は私の考え通りに左右にコントロールし、

わたしの意志通りに動かせる方ではありません。私たちが聖霊の導きに従い行動することによって、神様のみ旨を実現させるのです。弟子たちの中でもステファノとバルナバのような人たちの人格を説明するときも「聖霊に満たされた」と表現しています。使徒7章55節には「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、」と、使徒11章24節には

バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。と記されています。

信徒の皆さんと私が心から聞きたい、言われたいみことばではありませんか。「立派で聖霊と信仰に満ちている人」。これが私たち信徒の目指している目標であります。このように聖霊に満ちると信徒は自分自身を正しく知り、聖霊にすべてを委ねて生きるようになります。それだけでなく、聖霊に満ちている人は物事に対して正しい理解と判断ができるようになることもわかります。

使徒パウロはエフェソ信徒たちに向かって聖霊に満たされるようにしなさいと言いました。(エフェ5:18)

聖霊の満たしは神様からの命令であり、信徒が従うべき命令でもあります。聖霊に満ちていないのであれば、それは神様の命令に対しての不従順であり、その結果によって罪の実が私たちの生活に現れると言います。聖霊に満たされて生きることとは、感情的な恍惚の境地を意味するのではなく、聖霊に従い尊く生きることなのを再確認しましょう。聖霊に満たされた信徒の生き方で現れるのは、神様の栄光を語り合い讃美するようになるとエフェ5章18-19節で話しています。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」。続いて20節では「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエスキリストの名により、父である神に感謝しなさい。」と勧めています。

聖霊の満たしは信徒の関係においてもお互いに仕え合うようにさせます。仕え合うという言葉に若干違和感が生じるかもしれません。しかし、21節に「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」と言っているのです。さらに聖霊に満ちると信徒たちは大胆になり、キリストの証人として生きるようになると言います。使徒4章31節「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

最後に聖霊の満たしは聖霊の実を結ぶと今日のみことばガラテヤの信徒への手紙に記されています。聖霊の結ぶ実(Fruit of the Spirit)は聖霊が皆さんと私の中におり、その導きに従う結果で聖霊に満たされるようになることを意味します。使徒パウロは聖霊の結ぶ実を愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と九つを挙げています。聖霊の結ぶ実として提示された属性が互いにつながっており、全部が聖霊の導きに従って生きていく信徒が持つべきことであります。
最終的に実とはクリスチャンの中におられるキリストの生き方を指し、信徒の中で自分の姿を創り上げる方法を指しています。(二コリ3:18、フィリ1:21)すなわち、実とは神様を信じ、尊い生き方と聖霊の満たしの生活を通して動く聖霊の働きなのです。しかし、聖霊の結ぶ実は聖霊の賜物のように神様のみ旨によって与えられるギフトではないです。

信徒一人一人が命であるイエス様と連合して聖霊の導きに従い、自分の肉体からの情欲と戦い、勝たなければならないのです。命をかけた戦いであり、絶対的に服従する生活を通して実が結ばれるのです。果樹から見た目もよくて美味しい果物を実らせるため、木は無論果樹園の人はどれほど手間をかけて育てたでしょう。ギリシャ語で実は「カルポス(karpos)」と言い、ある行動の結果として現れることを意味します。よい実がよい果樹であることを、悪い実が悪い果樹であるのを物語るのと同じです。どのような人が聖霊の実を結んでいるのかということは、聖霊に満ちている生活を送っているのかで判断できます。クリスチャンの真実な霊性の印が聖霊の実を結ぶことであり、イエス様の姿に似ていくことであるのを再確認できるのです。

ユージン・ピータソン博士は今日のみことばをこのように翻訳しています。私たちが神様の道理で生きるのであれば、どのようなことが起きるでしょう。果樹園に豊かな実が実るのと同じく、神様が私たちの生活にたくさんのギフトを与えて下さるでしょう。そして、ピータソン博士は九つの実をこのように紹介しています。神様は私たちに他人に対する好意、豊潤な生活、穏やかさなどを豊かに与えて下さいます。そして、私たちは最後まで耐える心と憐み深い心と物事と人々の中には基本的な尊さが入り込んでいることが確信できるでしょう。私たちは忠誠心で献身し、私たちが生き方を強要せず、私たちのエネルギを賢くまとめ管理することができると言われました。

愛する信徒の皆さん、私たちも生活の中で九つの聖霊の実を結べるよう、聖霊にすべてを委ねてみましょう。私たちのこのような信仰の実を見て、多くの人々が主に戻ってくるようになるでしょう。聖霊の満たしと聖霊の実を結ぶまで自分の生活を主にささげるクリスチャンになりますよう、祈願いたします。

<祈祷>

三位一体の全能なる神様!

今日を生きる私たちを聖霊に満たされるようにして下さり、感謝します。聖霊の満たしを通して、美しい聖霊の実を結ぶ私たちにならせてください。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン

 

大阪教会 三位一体主日礼拝<2021530>

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

題目 : 하나님 주신 은혜의 선물 神様がくださったみの賜物

聖経 : 에베소서 4장 4절-8절 エフェソの信徒への手紙

4. 体は一つ、は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。5. 主は一人、信仰は一つ、洗は一つ、6. すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通してき、すべてのもののにおられます。7. しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりにって、みがえられています。8. そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人に賜物を分けえられた」と言われています。

<説教>

愛する信徒の皆様お元気でしたか?

コロナウィルス禍により緊急事態宣言がまた延長されました。

一日も早くこの事態が終息し、自由に教会で集い共に礼拝をささげることが、またもや数週間少し待たなければいけなくなりました。 65歳以上の信徒のうち何人の方々は、すでにコロナワクチン接種が終わったと聞きました。市民の方が予防接種を受けられ、感染率と死亡率が下がることが重要だと思います。健康管理に万全を期してくださるようお願いします。

先週の主日は聖霊降臨主日で,今日は三位一体主日になります。三位一体とは一人である神様が3つの役割をされることを意味します。役割という言葉は 「一定の資格で自身が行わなければいけないはたらき」と言えます。私は二人の子どもの父親であり,両親からは息子であり,私がする仕事は牧師です。

聖なる父の神様は創造主であります。イエス様は聖なる子であり、能力を持って働かれる方は聖霊様であります。役割が違えば名前も変わります。しかし一つの人格として存在するのです。 三位の神様はおひとりであると今日の本文から述べられています。聖なる父の意志によって、人の体でこの世に来られた聖なる子イエス様の仕事は、十字架につけられ血を流される捧げものになることでした。そして成された働きは人類の救いでした。聖霊の臨在は救いを受けた人々に、神様のみ旨に従い生きていくよう導かれる役割を持っています。

ひとつ特異な点はイエス様の役割、イエス様が働かれる時、「神様の霊」がともに臨在されたことです。

聖霊の臨在を弟子たちは経験しました。五旬節、マルコの屋根裏部屋で集い祈りをささげるときに聖霊が降りました。聖霊の臨在を当時の弟子たちの表現によれば、様々な象徴的な表現とたとえを通して説明しています。代表的な象徴は炎のような舌(使徒2:3 )鳩のように降(くだ)ってきた(マタイ3:21)と表現しています。風(ヨハネ3:8 使徒2:2)生水(ヨハネ7:38)油(ルカ4:18 使徒4:27

二コリ 1:21 一ヨハネ 2:20,27)しるし(印 エフェ1:31 二コリ 1:2)雨(ホセ6:3 10:12  ヨエ2:23-32 ゼカ10:1 ヤコ5:7)地を潤す豊かな雨(詩72:6)のように表現されます。このように来られた聖霊様はどのような働きをされましたか。

聖霊が皆様と私に賜物(たまもの)をくれました。神様が聖霊を通して信徒一人ずつに賜物をくださいました。「

牧師任、私は受け取っていません。」と言われる方がおられたら、今日のみことばを共に分かち合い確認してみましょう。賜物とはどのような意味を持っているでしょうか。賜物すなわちギフト(Gift)とは他人に挨拶や感情を表し、好意の意志をほかの人に与える物を言います。ギフトと似通った形ですが内容が大きく違うものがあります。賄賂は自身の利権を得る目的で一定の職務に従事している人を買収するために ひそかにあたえる不正なお金または品物です。

聖書で賜物は神様から人に、人から人に、人が神様に捧げるときに使います。その中で人の命は神様が代償を期待されず恵みで与えてくださったのが賜物だと言っています。(創2:7)植物と果実は人々が食べて生きる食料としてくださいました。(創2:16 9:3 コヘ3:13)目で見える物だけではなく私たちが働く労働の喜び(申8:18 コヘ3:13)も神様のギフトであると言っています。旧約聖書では神殿で働くレビ支派の人々を神様の者と区別し、イスラエルの民にギフトとして与えられたと言いました。(民18:6)

新約聖書では贈り物を物質的なものより霊的意味が強調されています。物質的なものを追求してそれを得ようと力を尽くし得たとしても、本当の満足を感じられない人に神様は聖霊の賜物を与えると言われました。同時に,義(ロマ5:15-17)救い(エフェ2:8)恵み(エフェ3:7)を贈り物としてくださいました。私たちが正しく生きるために精神的な基盤になる正義と公義も聖霊があたえるくれる賜物です。私たちがこの世で人生と天国を望む根拠になる救いも神様が聖霊を通してくださる賜物です。ギフトという単語を一番よく表現した恵みも神様が下さった賜物です。神様が人に与えられた最高のギフトは神の独り子イエスキリストです。イエス・キリストを受け入れた信徒に神様はすべての賜物を与えると約束されました。教会にもギフトをくれました。教会を支えて福音のために職分者をくださいました。これもまた賜物だとされました。

今日の7節のみことばに「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」 分量はある物の多少の程度を表す言葉です。旧約聖書の創世記にヤコブ(イスラエル)は12人の息子におのおのにふさわしい祝福をもって祝福した(創49:28)とされました。 使徒パウロはローマの信徒に向かい、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と言いました。(ロマ12:3)すべての人に各自主観的に悟れる恵みを個人の分量に応じて与えてくださったとのみことばです。二コリ10:13 「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。」

福音伝道のために神様が定められた活動領域で働くことを言っています。そうであれば、信徒の皆様は

どのようなものを受けられましたか。聖霊が私たちの教会と私にどのような賜物をくださいましたか。

聖霊が与えられた賜物、すなわちギフトをカリスマ(karisma)、カリスマタ(karismata複数)という単語を使います。本来の意味はギフト、恵みのギフト、聖霊の賜物です。新約聖書ではイエス様を主と告白した信仰のある信徒に洗礼を通して与える聖霊を、神様が下さった恵みの賜物と言います。聖霊を復活と永遠の命の保証として神様が信徒の心に与えられたとパウロは言いました。(二コリ 1:22 5:5)

 

賜物をくださった一番大きな目的は賜物が与えられた人が喜んで神様に感謝し、神の栄光のためのささげるものであると使徒ペトロは言いいました。聖霊の賜物は大きく二つに分けれます。一つ目はイエス様を信じて洗礼を受けた信徒に与えられる普遍的な賜物です。洗礼とみことばの宣布を通して全ての信徒に与えられる一般的な賜物はイエス・キリストを信じる信仰に進ませ、永遠の命を得させることを意味します。 二つ目は信徒個人に聖霊の意志により分け与える個別的な賜物です。先に述べたようにギフトは私が求めてもらえるものではありません。賜物を与える人の心に従い、賜物をもらう人に適切なものを選択して与えることを原則とします。

新約聖書において賜物と賜物の間の区分が明確ではありませんが、おおよそ27個の賜物が出てきます。1)予言の賜物2)教える賜物3)知恵の賜物4)知識の賜物5)信仰の賜物6)愛の賜物7)賛美の賜物8)異言で/霊で賛美する賜物9)霊分別の賜物10)救済して分かち合う賜物11)能力を行う賜物などあります12)癒しの賜物 病気を治す賜物を意味します。13)異言の賜物

14)異言通訳の賜物15)預言の賜物16)悪霊を追い払う賜物17)幻(まぼろし)を見る賜物

18)夢を見る賜物 夢を解釈する賜物19)牧師職の賜物20)使徒職の賜物21)伝道の賜物22)指導力の賜物23)勧勉の賜物は教師のように教える賜物であります。24)奉仕の賜物25)慈しみの賜物 人のために施しをする働きの賜物があります。26)助ける賜物27)独身生活を通して現れる賜物があります。 今までお話ししたものが聖書に出ている聖霊の賜物の種類であります。

ある方はここに宣教の賜物、お客さんをもてなす賜物、行政力の賜物、執り成し祈りの賜物もあると言います。すべては信徒が徳を立てるために聖霊が与えられた多様なギフトで賜物です。すべての賜物は一つの聖霊が神様の栄光のために与えられたものです。教会の徳と個人の信仰生活の有益になるようあたえられた事をもう一度強調してお伝えします。先週、受けた賜物は良き働き人の態度でを管理し、使わなければいけないとの使徒ペトロの言葉をお伝えしました。

聖霊は自身の意志によりいつどこでも、そして誰にでも賜物を与えられます。

1)私たちが罪を悔い改め、イエス様を救い主として迎え入れる時2)みことば(福音)を聞く時3)賜物を思い求めて望む(祈り)時4)聖霊の満たしの時5)神様が教会の復興と個人の信仰成長のために必要だと思われた時、各自に一番適切で肝心な賜物を与えるのです。 聖霊が与える賜物と人間の一般的な才能とは違います。賜物をあたえる聖霊はその賜物を取り戻すこともあると言われました。 聖霊の活動は制度化された集団または組織から抑圧を受けることもあります。もう一度お話ししますと教会と個人的な信仰生活が迫害を受ける場合を指します。使徒パウロが聖霊を消滅されず預言を侮らずすべてのことを察して良いものを選びとるようにと勧めていることを私たちは良く知っています。

慎重に、使徒ヨハネはヨハネ手紙一で「どの霊も信じるのではなく神から出た霊かどうかを確かめなさい(4:1)」と警告しております。信徒の皆様、ぜひお願いしたいことがあります。私が受けた賜物と他人が受けた賜物を比べないでほしいです。皆様が信仰生活を送りながら力を失い、後ろ足で下がる場合をよく考えてみましょう。どのような時ですか。自身を他人と比較して挫折するか、傲慢になる時ではありませんか。愛する信徒の皆様、今まで分かち合ったみことばを通して私たちが確認するものなんでしょうか。神様が聖霊を通して私たち一人一人に、一番適切な聖霊の賜物を与えてくださる事を知ることができました。私たちに与えられた賜物がどのようなものかも確認できました。

最後、共に考えるべきことは与えられた賜物をどのように使うかという事です。最初に神様に感謝して栄光をお示しすることは当然です。神様のみ国のため私に与えられた賜物を良く使わなければいけません。

教会の中で徳を立てるために使うべきです。個人的な生活では与えられた賜物をよく使い、神様のみ国を伝道することに目標を置いて使用すべきでしょう。三位一体の神様も他の役割を担当される時、違う姿でそれを実行されます。私たちは聖霊が下さる恵みの賜物をよく使うことにより、神様には栄光を教会には徳を立てるようにしましょう。大きな喜びをもって天国に進んでいく素晴らしい信徒になられますよう、主のみ名によって祈願いたします。お祈りいたします。

 

<祈祷>

全能なる三位一体の神様!今日も礼拝時間に分かち合ったみことばを通して私たちの信仰に力を与えて下さり、実践できる私たちにならせてください。与えられた賜物をよく使い、主に褒められる良き働き人になれるようお導きください。感謝をささげながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン

 

 

大阪教会主日礼拝 < 2021 5月 23> 聖霊降臨主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 : 約束された聖霊が来られ

* 聖經 : 요엘 2 28-32(日/ヨエル31-5) 

()新共同訳]3

1.その後/わたしはすべての人にわがを注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。2.その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわがを注ぐ。3.天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。4.主の日、大いなる恐るべき日がる前に/太陽は闇に、月は血にわる。5.しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれるりの者はそこにいる。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気でいらっしゃいましたか。

ほとんどの信徒は映像で、何人かは教会に出て礼拝をささげておられます。主の祝福が共にありますよう願います。今日、教会の節期は、聖霊降臨主日です。イエス様が昇天された後、120人の弟子たちは、エルサレムにあるマルコの家の上の部屋に集まりました。彼らはイエス様が約束された聖霊を切に願いながら、熱心に祈りました。五旬祭の日になったとき、彼らはすべて約束された聖霊の洗礼を授けられました。

この時期、エルサレムには、ユダヤ人の祝日で五旬祭の日[Pentecost ペンテコステ]を守るために、あちらこちらから多くの人々が集まってきました。ペンテコステは旧約の3大祭りの一つである「七週間」のギリシャ語表記です。レビ記23:16の「五十日」を「ペンテコンタ ヘメラス」(pentekonta hemeras)にしたがここで「ペンテコンタ」は「50」という意味です。「七週間」は過越祭の日に麦束をささげてから50日になる日に祭りが始まるからです。この日から新穀(しんこく)の献げ物をささげ始めます。もう一つの重要な意味を持つのは、イスラエルの民が出エジプトをしたとき、シナイの荒野に着き、律法をもらうようになりました。神様との契約を結び、契約共同体になったことを記念する節期でもあります。ペンテコステは単純な麦秋(ばくしゅう)感謝節ではなく、神との契約によって神の民になったという意味深い節期なのです。

ペンテコステは収穫に対する感謝と律法をいただいたことを感謝する二重的な意味を含めているのです。

神様はこのように意味ある日にもう一つの歴史的なことを加えました。それは、約束して下さった「聖霊」すなわち「神様の霊」をこの世に臨在されました。預言者ヨエルを通して見せた預言を先ほど読みました。

「1.その後/わたしはすべての人にわがを注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。」と話されました。それが、この神様の預言が成し遂げられました。すなわち、神様の約束通り聖霊が弟子たちに下り、神様の新たな仕事行い始めました。イエス様も十字架につけられる前、弟子たちに約束の言葉を与えられました。ヨハネによる福音書16章7節に

「しかし、を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、辯護者はあなたがたのところにないからである。わたしが行けば、辯護者をあなたがたのところに送る。」と話されました。

イエス様がこの世から去っていった後、「弁護者」すなわち「聖霊」が来るとの約束です。ここで、一つの質問が浮かびます。弟子たちはイエス様と3年と言う年月を共に過ごしました。イエス様から学んだ真理と教えだけで彼の精神を引き継ぐのは不可能だったのでしょうか。この質問は今を生きる私たちにも該当されます。私たちがみことばを通して学んだイエス様の生き方と精神だけでは信仰生活が不可能なのでしょうか。この質問は「聖霊はどのようは方で、どのような役割をする方」なのかを定義するのに必要です。

聖霊[Holy Spirit]はギリシャ語で「プネウマ(pneuma)」です。「プネウマ」は新約聖書で聖霊の意味として一番よく使われた言葉であり、旧約聖書の「ルーア(ruach))と対等な意味を持っている言葉です。「ルーア」が旧約聖書で「神様の霊」の意味でよく使われているように新約で「プネウマ」は聖霊の意味でよく使われました。このことばを韓国語聖書では「聖潔の霊」、「御父の霊」、「その御子の霊」「イエスの霊」、「キリストの霊」と表現しています。

旧約聖書で、預言者は聖霊の助けをもらい、神様の民と全ての人にも聖霊は注がれると今日のヨエル書のみことばに出ています。神様の霊が選ばれた民に活力を与えるだろうと預言的に暗示しています。

さらに、来られるメシアには能力を、すべての人類には溢れるほど注がれるその時を預言しています。弟子たちと信じる信徒たちにも聖霊は必要であり、その聖霊がくることを言葉で預言して下さったのです。その約束の聖霊がこの地に降ったのです。イエス様の約束通り、降臨した聖霊がクリスチャンに行うことは何でしょうか。降った聖霊が行ったことがあります。

一つ目は、聖霊降臨を信じている人たちに夢を与えて下さいました。イエス様の弟子たちが心を一つにし

熱心に祈った時聖霊が降り、彼らは神の国の夢を抱けるようになりました。その夢は世を支配する悪霊は去り、神様が治める天国の夢です。悪霊が司ると人間は貪欲となり罪悪に陥ります。悪霊は全ての夢を捨てさせ、諦めさせ、絶望させます。しかし、聖霊がとどまれば、新しい夢を見るようになります。聖霊降臨で神の国の夢を抱くようになった弟子たちは初代教会を建て、地の果てまで福音を宣べ伝えました。

今日、クリスチャンにも同じ夢が必要です。 物質主義と世俗主義に捉えられている現代の人々は真実な夢を失い彷徨っています。彼らに真なる人生の夢を提供し、救いに導く夢を抱かせないといけません。

去年から経験しているコロナ禍の中でも、私たちが祈り、期待していることがあります。一日も早いコロナの終息を期待しています。無論、科学や医学的にワクチンを接種することによって、免疫ができ感染を遮断することができることもわかっています。

イエス様の公(こう)生涯(しょうがい)の期間、多くの病人が集まってきました。時には、イエス様が病で苦しんでいる人たちを尋ねて行ったこともありました。エルサレムを訪問した時、ベトザタの池に行きました。そこは神秘的な物語が伝えられていました。天使が通ったあとに池の水が沸騰するが、その時一番に池に飛び込む病人はどんな病であろうが、綺麗に治るとの話でした。その池に行かれたイエス様は38年間病気で苦しんでいる人を見、「良くなりたいか」と言われました。38年間病人だった人は自分が治る希望を捨てて生きていました。深い絶望で人生を諦め、諦念した状態で生きていたのです。しかし、ある日彼に来られたイエス様が「良くなりたいか」と聞かれました。この質問は神秘であり強力でした。元気で幸せに暮らしている人たちと一緒に生活できる夢が彼の暗鬱な心に芽生えました。そして、イエス様は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と命令されました。

今日もこの時間、神様はクリスチャンに夢を約束されました。神様の中で、平和で正義ある世界が創り上げられる夢です。多くの人が絶望し諦めたまま生きているが、聖霊がとどまり、神様のみ声をきくと諦めていた夢を再び抱くようになります。

約束通りこの世に降った聖霊は私たちに救いに至る信仰を与えて下さいます。神様は全能であり、信仰を持っている人を通してその全能な力が現われます。イエス様は病を癒すたびに、信仰を確認し、「あなたの信じる通りになる」と話されました。信仰の人にはすべてが可能です。使徒パウロは「わたしを強めて下さる方のお陰で、私はすべてが可能です。」と言いました。神様の夢を抱き、現実化しようとするとき、多くの障害や妨害や試練があります。しかし、信仰の人には問題ではありません。信仰の人は問題を超えておられる神様を崇めているからです。

約束通り聖霊が降り、弟子たちに信仰を与えました。弟子たちは彼や彼らを逼迫(ひっぱく)する宗教指導者や群衆を眺めずに共におられる神様に注目しました。エルサレム神殿の美しい門のそばに座っていた生まれながら足の不自由な人を立ち上がらせた奇跡を起こした後、ペトロは神様がなさったことだと宣布しました。弟子たちを脅かす議場で、堂々に話します。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいどうか考えて下さい」。聖霊が彼らに与えた信仰に世間は勝てませんでした。今日を生きるクリスチャンは約束された聖霊で満たさらなければなりません。聖霊の人は劣等意識や敗北意識に陥りません。平凡であっても、聖霊様を受け入れることによって、最も偉大な人生を生きるようになります。

3.約束の通り降臨した聖霊は能力を与えて下さいます。

使徒言行録1章8節であなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける, わたしの証人となる。」とイエス様は約束されました。力はギリシャ語で「デュナミス」と言います。聖霊の力は世を変える前に、クリスチャンを変えます。聖霊は平凡な弟子たちを偉大な使徒にならせました。ガリラヤ湖の漁師だった彼らを卓越な伝道師に変えられました。ガリラヤの田舎者を、全世界を抱く宣教師にさせました。恐れに勝ち抜き、勇気と能力を持つ証人にさせました。約束された聖霊を授けられた使徒パウロは全人生をささげて証人になられました。パウロは使徒言行録20:24でこのように叫びます。

「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神のみの福音を力く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

最後のもう一つは、約束された聖霊の賜物を授かることです。

約束された聖霊の臨在を通して、各自聖霊の賜物(カリスマ)を授かるとのことは、神様の様々な恵み(カリス)を受けた管理者、奉仕者になることを意味します。使徒ペトロの第一手紙、一ペト4:10

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまなみの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい.

聖霊の賜物を授かった人の使命は仕え、奉仕することです。使徒パウロは聖霊の賜物を授かり、教会を造り上げるために使いなさいと言いました。(一コリ14:12)実はこのような全ての賜物を神様のお呼び、すなわち使命と直結しているのがわかります。賜物を授けるのは聖霊ですが、聖霊は神の子、イエス・キリストと父なる神の約束と繋がり、働くことがわかります。

愛する信徒の皆さん、今日を生きるこの時代の苦難はコロナ禍によって苦しみを受けて生きていくことだとも言えます。このような苦難までも、約束されたみことばで勝ち抜き、克服しましょう。苦難の中でも、その苦難に勝てる信仰を与えて下さり感謝です。神様は聖霊の力と賜物を授け、この時代を勝ち抜けるように導いて下さるでしょう。

2021年 聖霊降臨節・ペンテコステは私たちの信仰を顧みる尊い時間になりますよう、祈願いたします。

聖霊様と共にすべての苦難に勝ち抜くようにしましょう。

<祈祷>

聖霊様が信徒たちに授ける夢と信仰と賜物を通して、神様の国を造り上げるようにさせて下さり感謝します。慈しみ深い聖霊様が今日もみことばで、私たちと共におられることに感謝します。私たちを助ける弁護者の約束の言葉に従い、信仰を持って歩めるようにさせて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

大阪教会主日礼拝 < 2021 5月 16> 復活節第7主日 母の日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 : 부모의 훈계는 생명을 얻는  父母訓戒生命ること

* 聖經 : 잠언 4 1-4 箴言 4章1節4

 

[()新共同譯]

1.子らよ、父の諭しを聞け/分別をわきまえるために、耳を傾けよ。2.わたしは幸いをいているのだ。わたしのえを捨ててはならない。3.わたしも父にとっては息子であり/母のもとでは、いとけないり子であった。4.父はわたしにえて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気でしたか。映像礼拝をささげている信徒たちと教会に出席された信徒の皆さんに主の平安が共にありますよう祈願いたします。

今日は母の日の主日を記念し、感謝の礼拝をささげています。日本は先週が「母の日」で、韓国は「父母の日」として両親に感謝する日でした。しかし、私たち大阪敎会は、毎年教会創立主日と重なって5月の第3主日を「母の日」として守っています。私たちがこのように何かを覚えて記念することは、その意味を考え生かせるためです。「母の主日」や「父母の日」は母と父、つまり、両親の愛を考えてもう一度両親を思い、感謝の気持ちを伝える時間でもあります。普段なら、教会学校の子どもたちが信徒の皆さんにカーネーションをささげながら感謝の挨拶をしますが、今日はそれができない状況です。愛する子どもたちをさらに祝福する親になられますよう、願います。

この世の大変なことの一つが親になることではないかと思います。親になることも大変ですが、良い父母になることはもって大変なことだと思います。「母の日」主日には子が親をどのように敬うべきかを考えるのが当然です。親を敬う立派な子と子を愛する献身的な親の愛を共に考えざるを得ません。

子どもたちに両親が大切なのは、両親が持っている独特な点があるからです。それは愛です。子どもへの両親の愛の姿から私たちは、神の愛を悟ります。神様は私たちをお造りになったので、愛し守って下さいます。このように、父母は神様の創造の摂理に沿って、私たちをこの世に生み出した方々だからです。この世の誰も真似できない真心の愛で自分の子どもを育てます。神様の愛を最も近くで感じられる存在が両親の愛です。両親は、自分の子たちの世話をするとき、神様がご自身の子の世話をするようにできる存在なのです。神様が私たちをこの世に出される際、父母を通してなさいました。神様の子たちには最も偉大な贈り物をくださったのが、それがまさに父母です。

それで、神様のみことばは親を愛する方法を先に教えているのです。箴言のみことばを読みました。子たちに先に与えるみことばは1節「子らよ、父の諭しを聞け/分別をわきまえるために、耳を傾けよ。」です。

訓戒(戒め)というのは「間違わないように教え諭す」という意味を持つ言葉です。子たちに、まず、「父の諭しを聞け」と話しています。神様はイスラエル民族との関係において最も重要である「十戒」を与えました。イスラエルの民が神様に仕えるときに、どのような姿を持つべきかに関するみことばです。多くの中で最も重要なこと、10の戒めを選んだのが十戒です。この十戒で、神様は「あなたの父母を敬え」と諭しておられます。

「敬う」という言葉は、ヘブライ語で「キーベッド」と言います。ところが、このキーベッドという言葉は、非常に意味深い言葉がルーツです。その語源は人の内臓の一つである「肝、肝腸」という言葉です。イスラエル人は、肝臓が人間の内臓の中で一番重いと思ったし、それほど重要だと考えました。実際に医学的に、肝臓の機能が非常に重要なのは、日常生活で私たちはわかっています。人体の肝臓は、栄養素の代謝作用と解毒作用をしており、人の生命維持に必要な臓器(ぞうき)です。

聖書で、「敬う」を「肝臓」という語源を持つ言葉を用いた理由を、我らの生活を通してみればわかりそうです。父母を肝臓のように重要に思いなさいとの言葉です。父母の愛は人間らしさの基本です。父母の教え、つまり諭しをよく心に保ち知恵を得て、賢く生きなさいと話されているのです。続く2節、人間は善き道理に従い正しく生きなければなりません。親が子を育てながら「あなたは、こんな悪いことをしながら生きなさい。」と言う親は一人もいないでしょう。どのような環境と苦しい生活であっても、人間らしく正しい道理を守り生きなければならないと教え育てるでしょう。神様の戒めから離れてはいけないと言いながら育てるでしょう。

3節、「私も父にとっては息子であり、母のもとでは、いとけない独り子であった」というみことばを見ましょう。皆さんがよく知っている通り、箴言は「ソロモン」が書きました。ソロモンはイスラエルの偉大なるダビデを父に、母も賢い女性を代弁する「バテシバ」でした。父ダビデと母バテシバに関しては皆さんがよく知っておられます。二人の間で生まれたソロモンは、ダビデの子の中では10番目の王子でした。ダビデが加齢と共に弱い面が生じます。その隙に、王子たちは自分が王になろうと必死でした。ソロモンは王子ではあるが、他の兄弟よりも弱かったのも事実でした。すでに二人の王子が王になろうとしてクーデターを起こしました。王の周辺の参謀(さんぼう)たちが自分にとって有利な王子を立てようとする状況の中、ソロモンの立場は非常に弱いものでした。ソロモンを支持する勢力がなかったからでした。ただ神様の預言者ナタンしかいませんでした。バテシバは権力の周りで起こる政争についてわからなかったのです。このとき、預言者ナタンはソロモンの母バテシバを訪ねて、ダビデの他の王子たちが王になろうと宣言し、勝手に油を注ぐなどの騒ぎが起きていることを通告します。バテシバに「あなたの命を守るためにも、息子ソロモンが王になる必要があり、ダビデ王は誓いを守らなければならない」と言います。

 

ナタンはソロモンが生まれたとき、ダビデ王に頼まれソロモンの名前を「エディドヤ」としました。その意味は、「主に愛された者」という意味でした。母は命をかけ、ダビデ王の私室に入り「なぜアドニヤが王になったのか。」と挑戦的な質問をします。今、ダビデ王が分かっていない中、外で起きている状況を教えました。結局、ダビデはナタンとソロモンを呼びます。大祭司ツァドクと後に軍司令官になるベナヤを呼び「ギホン」へ下り、私の後を継がせる王として油を注ぐように命じます。角笛を吹き鳴らされ民にソロモンが自分に継ぐ新しい王になったことを宣言します。母バテシバの献身的で勇気ある行動によって、子ソロモンは王になったのです。

ソロモンは、いつも自分の立場を考えており、母の行動と父ダビデの決断の行動を見ました。王上2章から見ると、ダビデ王は死期に近づくと、息子ソロモンに遺言を残します。重要な内容は、「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されている通り、主の掟と戒めと法と定めを守れ。」と遺言をしました。もちろん、ソロモン王も歳月を経て、多くの子どもたちを生みました。箴言の内容を見ると、自分の立場を説明します。「私も父にとっては息子であり、今では多くの子の父として言う」としました。実は私たちもそうです。私が父母の子であると同時に、今では子を持っている親になっているからです。

使徒パウロは、エフェソ6章で、親子関係に関するみことばを書いてます。「子どもたち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。」と言います。ソロモンが伝える内容と同じです。使徒パウロは、続いて「それは正しいです。父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です」と言います。先に述べたように、「敬う」という言葉が出てきます。その後、「敬う」という言葉は私たちの生活にどのように具体的に適用できますか。敬うことは行為であり、理論ではありません。敬うという言葉自体が非常に実際的な意味を持っています。「敬う」は、英語で「Honor」、「Respect」と翻訳します。これは「礼を持って仕えること、慎み敬うやまうこと」を意味します。

「あなたの父と母を敬え!」という戒めは,十戒から初期キリスト教に至るまで続いてきた重要な言葉です。敬うということは、理論ではありません。口で敬うと言ったから実現できることではありません。行為、行動として現れる必要があります。お年老いた両親と同居している信徒が多くいらっしゃいます。私も同じです。私にも年配のお母さんがおり、義父母もおります。この親たちに礼を尽くし、敬わなければいけない人です。しかし、そのことが十分にできていない自分が恥ずかしいのです。

神様が私の父母を敬うとき、子孫に与える祝福を話されました。その約束は、エフェ6:3「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。人間が持っている基本的な希望は、この地で元気に長く生きることではないでしょうか。箴言1章4節にも、「わたしの言葉をお前の心に保ち、私の戒めを守って、命を得よ。」と言っています。死が蔓延しているこの世の中で、長く生きるとの約束がどれほど大切なのでしょうか。この希望が成就できる道は父母を敬うことなのを

再度わからせてくれるのが母の日、父母の日です。

よい父母になるため、子どもたちとの関係を説明するみことばが4節に出ます。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」と話されます。使徒パウロは箴言のみことばをよく理解していました。

今日を生きる私たちも同じです。子どもたちの関係がどれほど難しく大変なことでしょうか。この世で一番易しそうで難しいのが子どもと父母の関係だと思います。あまりも簡単なことなのに、なぜこのようなことが実現できないのですか。子を愛しない父母がどこにおり、親を敬わない子がどこにいるのかと言うかもしれませんが、現実はそう簡単ではありません。

この説教を伝える私自身も、親孝行と父母を敬うことに疎かでした。それだけでなく、子どもたちと円満な関係を保ちたいが、それもうまくいっていません。それで、常に自分の至らなさを感じ、後悔しております。

親と子の間で互いに愛し、尊敬し、理解する心があれば、家庭は無論個人の生活も円満で平安でしょう。昔話が私たちにためになるときがあります。韓国の歴史に記録された過去の話を伝えます。

昔、「ジウン」という乙女が住んでいました。幼く父を亡くし、年を老いた母親の世話のため、嫁げませんでした。日雇い仕事をしていたが、それも限界がきて貧困に耐えられなくなりました。考えた挙句、ジウンは金持ちの家の下女になり働くことにし、お米10俵(じっびょう)をもらいました。そして、数日後のある日、母親が言います。「以前はもらってきたご飯でもおいしかったけど、最近は良い米で炊いたご飯なのに美味しくなく肝臓をえぐるようなのがおかしい。」と言いました。その言葉を聞いたジウンは事実を告げました。母親は「私のせいで下女になったなんて、早く死ねなかったのを恨む」と慟哭し、親子が泣き崩れました。この話を聞いた王は

ジウンの主人に米100俵と衣服を与え代位弁済してあげました。また、王は「ジウン」の親孝行に感動し、下賜(かし)品として米500俵と家一軒を与え、その町「孝養方(ひょやんばん)」と呼ぶように命じました。この物語は『三国史記』列伝の載っている孝行娘(こうこうむすめ)ジウンに関する記録です。

真実な心がその乙女にあったから、孝心が光りました。真心を込めて親を敬い、愛すれば、親孝行になるでしょう。真なる信仰は神様のみことばを成就することであります。父の諭しを聞いて、戒めを守ることが私を生んでくれた父母に対する子の道理です。この道理を守ることによって、私たちは神様の祝福を得るようになるのが神様の定めた戒めです。一つ目、戒めを守れば問題が全く起きません。二つ目、戒めを守ることによって主が備えている祝福がもらえるということは私たちにとって大きな慰めになります。

説教内容をまとめます。

神様の戒めと父母の訓戒を守ることで、命を得る人になりましょう。みことばを守ることで、祝福をもらう子になり、父母になりますように主のみ名によって祈願いたします。

<祈祷>

「父を嘲笑(あざわら)い、母への従順を侮(あなど)る者の目は/谷の烏がえぐり出し、鷲(わし)の雛(ひな)がついばむ

〈箴言30:17〉というみことばを覚えます。今日のみことば通り、父母の訓戒を聞きながら、正しい道理の

道を歩ませてください。みことばの戒めを従うことで、主が備えている祝福をもらう私たちにならせてください。

この地の全ての母と父を祝福し、子として父母をよく敬えるようにさせて下さい。子を怒らせず、よく育てる父母になり幸せな家庭を築く私たちにならせて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン