2021年11月14日感謝節「生涯感謝」鄭元然牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年1114日> 五旬節後第25主日/

                         說敎 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 生涯感謝

* 聖書 : デサロニゲの信徒への手紙一516-18

</新共同訳>

16. いつも 喜んでいなさい.17. 絶えず 祈りなさい.18. どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

<説教>

72歳の黒人の老人が27年間の刑務所生活を終えて出所します。白髪になった老人を迎える多くの人々に向かって、彼は手を振って出てきます。 27年間刑務所生活をしてから、釈放になったこの老人は、その後南アフリカ共和国8代大統領「ネルソン・マデラ」でした。彼は人生の3分の1を刑務所で生活した人で、世界の指導者たちの中で最も長く捕らわれていた人です。当時、多くの人々はマンデラが無罪なのに、政治犯として刑務所に監禁されたので、怒りと挫折によって健康が極端に悪化し、もしくは自害するかもしれないと憂慮(ゆうりょ)しました。しかし、マンデラ大統領は刑務所の中でも「怒り」の代わりに「感謝」を選んだ人でした。

出所する日、70歳を超えた老人マンデラは、気丈で元気な姿で市民の前に立ちました。取材のため集まった記者たちがびっくりしてマンデラに近づき、質問をします。「他の人は5年ぐらい刑務所にいただけでも、健康を失って出てくるのですが、どのようにしたので、27年間刑務所で過ごしたのにこんなに元気なのですか。」するとマンデラは大きい声で答えました。 「私は刑務所で神様にいつも感謝しました。天を見て感謝し、地を見て感謝し、水を飲みながらも感謝し、食べ物を食べる時も感謝し、強制労働をする時も感謝し、いつも感謝したので健康を守ることができました。私にとって刑務所生活は呪いではなく、発展のための貴重な時間でしたと答えました。マンデラは1993年にノーベル平和賞を受賞し、翌年の1994年南アフリカ共和国において史上初の黒人大統領に当選されました。苦難の中でマンデラが選んだのは感謝する気持ちであり、見通しができない状況でも祈り、一歩ずつ進むように導いて下さった光というのが、感謝と祈りだったと告白しました。

感謝節の主日は、先週の説教を通して、申し上げた通りに旧約聖書から始まります。イスラエルの人々は年に大きな三大の節期を守っていますが、ヤハウエ神様がイスラエルの人々に命じられたからです。現代の収穫感謝節はアメリカで始まりました。 1621年、信仰の迫害を避け、イギリスから信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗って、新天地アメリカに渡ってきたピルグリムたちがその苦難と逆境を耐え抜き、この地に定着するようになってからでした。アメリカ教会の宣教師たちに宣教された韓国教会と日本教会は、感謝節を非常に大切に思って守っています。私たちの文化と歴史とは全く違うところから始まった感謝節であっても、すべてのことにおいて神様の恵みに深く感謝し、感謝する言葉を発するとき、私たちの子どもたちと隣人たちが私たちの感謝の言葉を聞いて良い影響力を受け、一緒に教会に出て、神様に栄光をささげる祝福された節期になると信じます。

今日、私たちの生活の中で失われた感謝を再び見つける機会でもありました。私たちは日常生活で、感謝します。 ありがとうございます。」という言葉を忘れがちです。 感謝するという言葉でなく、お互いに恨み、不満、批判し、傷つける言葉をよく使い、生きてきたのが事実です。 特に昨年から全世界を覆い、不安と恐怖の世界にならせた「新型コロナウイルス禍」により、「ありがたく、感謝する」ことが現実的に遠ざかってしまいました。これはキリスト・イエスの中であなたがたに向かった神の御心です。 いつも 喜んでいなさい.17. 絶えず 祈りなさい.18. どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

説教者としてこのみことばを選びながら、いったいこのみことばを信徒の皆さんが日々の生活の場でどのように受け入れているだろうと考えました。

信仰を持って生きている私たちにとって、このみことばは、単純ですが、私たちの心に響くみことばであります。事実、私たちが幸せに生きる秘訣は、いつも人生を楽しく生き、神様と交わり、感謝しながら生きることであるのは誰もが知っている事実です。これら3つ、いつも喜ぶことと絶えず祈ること、そしてどんなことにも感謝する生活は、別々のようですが、事実は別々ではなく、とても密接な関係を結んでいます。これらは3つではなく1つです。いつも喜ぶ人生はいつも感謝する人生と繋がっています。私たちの生活の中に喜びが消えるとき、感謝の気持ちがなくなることを経験していませんか。私たちの生活の中に真の感謝がなければ喜びもあり得ません。このように喜びと感謝は幸せな生活の両面であり、裏表だとも言えます。私たちの心の中に抑えきれない喜びが湧き出る時、私たちは自然に私たちの生活に感謝せざるを得ません。

私たちが自分の信仰生活を振り返れば、このような喜びと感謝は結局祈ることから始まるのを知っています。 私たちの人生の旅が嵐に襲われ、人生が崩れてしまいそうな苦難の中でも静かで平安な生活を可能にする唯一の砦(とりで)が祈ることであり、同時に感謝につながります。 私達がどんなことにも感謝できるのか。むしろ、逆境の中でも感謝できるのか。 それは不可能です。 しかし、人生を祈る心で生きていく人にとっては、損失と失敗の中でも感謝できる知恵と勇気が湧き出るのです。

1714年に82歳で亡くなった老牧師であり、神学者である「マシュー・ヘンリーMatthew Henry」の聖書の解釈書は、彼の没後、1​​00年が過ぎた1811年に彼の弟子たちの手によって本として刊行されました。それ以来、今日まで、世界教会の説教者は彼の解釈を読み、説教を準備するほど、彼は大きな影響力を持つ神学者です。 「マシュー・ヘンリー」牧師が旅行中に盗賊に会いました。後に、この証をしました。まず、前には盗賊に出会ったことがないのに初めて盗賊に出会ったことに感謝し、第二に、彼らが私の財布だけを盗んで行き、私の命を奪っていなかったことに感謝し、第三に、彼らが私のものを持っていったが、あまり多くの物は失わなかったことを感謝し、第四に、私が盗賊にならず、盗賊に出会ったことを感謝すると言いました。こうして彼は盗賊に出会った損失にも感謝できました。私たちももっと深く考えてみて、信仰の目で見れば、失敗と損失の中でもいろいろ感謝できるようになるということです。

スイスの格言(かくげん)には「いつも歌いたい人だけが歌を見つけることができる」という言葉があります。 感謝の歌を歌いたい人には、より豊かな人生が訪れるようになり、さらに感謝するようになるのです。 皆さんもご存じの8歳の時に目が見えなくなったが、有名な讃美歌の作詞家になったFanny J. Crosbyはこうして自分の信仰を詩と歌で表しました。 「私は見えないが、ああ、私はどれほど幸せな魂ですか! この世で私は満足することを学んだので、 目が見えなくても私は多くの人が涙を流して嘆くことを、しないのです。」と感謝しました。

これは、信仰によって感謝の人生を悟った人でなくでは、告白できない人生の証です。 まさにそうです。 目で見たために欲を呼び、嫉妬し、妬み、犯罪する時がどれほどたくさんありますか。 「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」」 どんな環境や生活の条件の中でも感謝できるのがクリスチャンの生活です。 世界には3種類の感謝があると言えます。

まず、一つ目、物質的な感謝です。

多くの人が物質的な祝福とか利益を得たときに喜び感謝します。子どもたちにおもちゃを買ってあげ、ゲーム機をプレゼントすると、全世界を得たように喜んで感謝します。 しかし、そのおもちゃを奪われたときや、ゲームの時間を少し減らされたら、全世界を失ったように悲しみます。 これは大人の世界も同じかもしれません。 この類(たぐい)の感謝を我々は、物質的感謝または経済的な感謝と言えます。 つまり、感謝を常に物質的な面で計る感謝なのです。

二つ目は哲学的な感謝です。

哲学的な感謝とはどのような意味を持つのかというと、ある人が道で倒れ足を怪我しました。 しかし、起きあがり、首が折れてないことがどれほど幸いか考えて感謝するのです。 この類の感謝は、哲学的または思弁(しべん)的な感謝と言うことができます。 より大きな損失を考えているので、少ない損失だと慰める消極的な感謝です。

三つ目はクリスチャンの感謝です。

もちろん、クリスチャンの感謝にも先に申し上げた物質的な感謝と哲学的な感謝がないわけではありません。 そのような感謝も含まれます。 なぜなら生きていきながら最も近くても簡単に判断して感謝できるからです。 しかし、クリスチャンの感謝は、より少し深いところに基づいているはずです。 キリストによる許しの恵みと救いの恵みに感謝し、神様が許してくださった人生そのものに感謝できる生活なので、クリスチャンはどんなことにも感謝できるということです。

しかし、私たちの皆さん、私たちの生活の中でこのように感謝するのは簡単ではありません!

他人の話は簡単です。しかし、私の話をするときは変わるしかありません。

「どんなことにも感謝!」と説教するのは簡単です。 「いつもありがとう!」といくらでも大声で叫ぶことができます。しかし、皆さん、もっと真剣に、このみことばを私の言葉として受け入れる時は容易なことではないことを知っています。若いのに癌で死んでいく妻を見つめる夫が果たして感謝できるでしょうか?持病を持って神様の前でいくら祈って叫んでも治らないで、むしろ病気はますます深くなっていく自分を見ながら、果たしてその口から感謝が出るでしょうか。生涯重い十字架を背負って生きなければならない障害を持つ子供を抱えて苦しんでいる両親は、その口から本当に感謝していますか?一度考えてみてください。履歴書を数十通を持ち歩きながら就職をしてみようと思うが、会社の面接すらできず、却下されっぱなしの若者の口から果たして「神様ありがとうございます!」という言葉が出ますか。私がそのようなケースに遭遇した場合、本当に感謝することができますか?私や皆さん、このような立場でこの言葉を見なければなりません。

人間的に言えば、この言葉は現実性がないようです。 非現実的な言葉のようです。 理論にとどまる言葉のようです。 したがって、このような言葉は適度に流すことができます。 しかし、私たちがこのような態度でこの言葉を流しても大丈夫でしょうか。 結論から先に申し上げると、絶対にならないのです。 なぜなら、神様がくださったみことばだからです。

今日の本文で、私たちは二つの事実を必ず悟らなければなりません。 なぜどんなことにも感謝しなければならないのか、なぜ生涯感謝しなければならないのか、これら二つの事実を明確に知る必要があります。

第一に、「私たちの主にイエス・キリストの名のもとで、常に御父の神様に感謝しなさい!」と言いました。なぜ感謝しなければならないのですか。それは私たちの主イエス・キリストによるみことばだからです。

第二に、私たちの御父である神様が、どんなことにも感謝するよう命じられているからです。 「神様これはあまりにも非現実的な言葉です。 どうすればそのようなことができますか。」 このように言い訳してはいけないという話です。

イエス様の一生を私たちはあまりにもよく知っています。 十字架を担わなければいけない神様のみ子、彼も感謝しながらその十字架を背負ってゴルゴダの丘に行きました。2021年感謝節、昨年に続きコロナ禍中で迎えました。愛する信徒も皆さん、コロナ禍で多くの命が犠牲になり、未だに世界が苦しんでいます。 神様が私たちを守ってくださったことを考え、主に感謝の礼拝を共にささげましょう。

この苦難の現場で主の十字架を考え、喜びを回復してください。難しければ難しいほど、苦しかった苦しい中ら、ひざまずいて祈ることによって喜びが回復します。 祈りの中で感謝が溢れ出ることを経験するようになるでしょう。

<祈祷>

「いつも喜んでください。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい、これこそ、キリストイエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」と話されました。そのみことば通りに生きる私たちにならせて下さい。主イエス・キリストのみ名でお祈りいたします。

アーメン