2021年10月24日主日礼拝「新しい心と新しい霊を作り出せ」鄭然元牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年1024日> 五旬節後第22主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 : 新しい心と新しい霊を作り出せ

* 聖経 : エゼキエル書1825-32

</新共同訳>

25. それなのにおたちは、『しくない』とう。け、イスラエルのよ。わたしのしくないのか。しくないのは、おたちのではないのか。26. しいがそのしさかられて不正い、そのゆえにぬなら、それはった不正のゆえにぬのである。27. しかし、悪人自分ったかられて正義みのうなら、自分うことができる。28. めて、自分ったすべてのきかられたのだから、きる。ぬことはない。29. それなのにイスラエルのは、『しくない』とう。イスラエルのよ、わたしのしくないのか。しくないのは、おたちのではないのか。30. それゆえ、イスラエルのよ。わたしはおたちひとりひとりをそのってく、となるわれる。めて、おたちのすべてのきかられ。がおたちをつまずかせないようにせよ。31. たちがしたあらゆるきをてて、しいしいせ。イスラエルのよ、どうしておたちはんでよいだろうか。32. わたしはだれのをもばない。おたちはって、きよ」となるわれる。

<説教>

神様の前で正しく生きると誓い、正しいものを探して学び、それを実践しながら信仰生活をするという固い決心をして、生きてきた信仰人たちも、このような良い考えが思った通りに実現されるわけではありません。私たちが神様のみ旨に従って正しく生きようと決心すればするほど、日常生活では思いもよらないことが起こります。真実が何であるかを学ぶために努力すると、真実ではない周りが騒ぎ出てます。これが正しいと思って実践をしようとすると、不思議にもこれを防ごうとすることが起こります。時には心の中で私が行動することを他人が見ながら、どのように判断するのかという心配が生じる場合もあります。時には最も近い人々によって大きな失望をさせられ、落ち込んでしまい、意志を失くし、傷つき、もはや何もできなくなるときがあります。これこそ人生がもたらす葛藤かもしれません。

宗教改革を目標とし、引っ張っていった当時の指導者たちもこのような経験をしながらも、屈せずに正しく生きようと決心し、正しいことを探し求め、それを実践するため甚大な努力をしたことがわかります。私は今年10月「宗教改革の月」を迎え、1週目エゼキエル書11章を読み、「新しい霊と柔らかい心で新たに」との題目で説教いたしました。イスラエルの民の罪は偶像崇拝でしたが、神様がそれを除き捨て、民に「新しい霊と柔らかい心を」与えることをエゼキエルに預言させました。これの主題は「悔い改め」と「生まれ変わり」でした。

二回目の説教は神様が預言者エゼキエルにゼデキヤ王に伝えさせた言葉でした。北から迫って来る強力な軍隊と戦わず、降伏しなさいとのことことでした。しかし、ゼドキヤ王はエジプトに助けを求め、バビロンと対峙して戦いましたが結局敗北に至ります。その上、自分だけ生き残ろうとエルサレムから逃げ出し、「エリコ」まで逃げましたが、バビロンの軍隊に捕らえられ捕虜として連れて行かれました。この時、神様は「生かして残す人」がいると話され、この残された人たちが神様の前で、イスラエルが犯した罪を異邦の国々で告白するだろうと伝えました。

先週は審判の時が南ユダに臨まれるが、自分の命を救える道は「義になる」すなわち、神様の前で正しく生きることを誓い、真理に従って生きる信仰を持つ人のみが救われると話されました。ノアやダニエルやヨプの話を通して、この審判の日には彼らの子らも救われないと、信仰によって正しく立つときに限って救われるとの厳しいみことばを読みました。しかし、その中にも、神様のみ旨があることを私たちはわかりました。

今日も続けて預言者エゼキエルを通して伝える神様のみことばを読んでみましょう。エゼキエル書18章は

「行ったとおりに報いて下さる神様の姿」が表れています。今日の本文は25節からでしたが、21節に

悪人であっても、もししたすべてのちかられて、わたしのをことごとくり、正義みのうなら、きる。ぬことはない。先週の説教と繋がっているみことばですが、悪人が自分の犯した全ての過ちから離れ、掟を守り、正義と恵みの業を行うのであれば、死なずに生きると話されます。慈しみ深い神様のみ心が窺えるのです。過ちを犯した悪人であっても、悔い改めて神様のみことばに立ち帰って、正義の業を行えば、必ず生きると、このみことばが恵みなのです。

23節に続けて、「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」と記しています。ルカによる福音書17章7節「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。一人の罪人の悔い改めによって、天の国の民になる喜びが大きいことを知らせるみことばです。

預言者エゼキエルはイスラエルの民が今まで神様の前で犯した過ちから立ち帰ったら、その過ちを聞かずに許して下さることを伝えているのです。しかし、民はこの事実を素直に受け入れられませんでした。今日の本文を見ると、神様が行うことが不公平で不公正だと思っている人たちにエゼキエルは25章で、「主の道は正しい」とはっきり言っています。そして、26節でもし正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬと宣言しています。しかし、「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる」と27節で話されていますが、宗教改革者たちの信仰に根づいたのが正義の業を行うことが、すなわち、魂を救うことであり、真理に辿り着く道であることを悟り、

命をかけて宗教改革を行ったのです。

 

もう一つの事実は「マルティン・ルター」と「ジョン・カルビン」の主張通り、免罪符を買うことによって、既に死んだ人が救われるということがいかに間違いで、誤っているのかを糾弾しているが、ほかの尺度でなく、神様のみことばを基準として判断していることを強調しています。30節のみことばをみて下さい。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。」

愛する信徒の皆さん、私たちが長い信仰生活の中で、忘れやすいことが何かご存じですか。私の生活において、神様と人たちと共同体に犯した過ちを考えたくもないし、思い出したくもないでしょう。これは誰も同じだと思います。牧会者である私もそうです!しかし、このような罪から立ち帰って、悔い改めなければ、その罪が私をつまずかせる石になることを私たちはよく知っています。序論で申し上げた通り、私たちが知っていることを実践しようとすれば、それに立ちはだかるものが必ずあります。それを克服しなければいけません。

第2次世界大戦が終わり、世界の教会がリバイバルの歴史を経験しながら、どのような過ち、どのような罪を犯しましたか。物質主義的で、成長志向主義で、地上最高主義に陥りました。イエス様の精神は後になり、目に見えるものに執着しました。教会再建が信仰と正しい神学から再出発しなければならないのに、できませんでした。例えば、太平洋戦争が終わり、韓国が日本から解放されました。

先週の主日にも言及しましたが、神社参拝問題に対する韓国教会の反省と、日本にいる私たちの教会もその問題について一言も口に出さなかったのです。日本教会も同じでした。では、率直に聞いてみましょう。なぜできなかったのですか。全員が罪を犯したのに、誰一人責任を担う指導者がいなかったとのことです。戦争後、教会の再建を急ぐ気持ちとリバイバルを起こさねばという考えに捉えられていたからです。結局自己省察と反省と悔い改めの機会を逃してしまいました。過ぎたことを蒸し返しても何の益もないと話す人もおられるでしょう。しかし、今日のみことばを反芻(はんすう)してみると、わたしたちが正しさや正義から離れてから犯した罪に対する反省と悔い改めを通して、救いの贈り物、救いの喜びを得られることがわかります。

宗教改革者で長老教会の創始者と言えるジョン・カルビンは父親に従って法律を勉強し、弁護士の教育を受けました。社会的な正義を立てて、教会が正しい報告へと進むことを切に願いながら、1530年頃ローマカトリック教会から離れ、宗教改革運動に身を投げます。カルビンは当時の教会の問題を直視しながら、神様のみことばから根本的な意味を探し、それを信徒たちに伝える使命感に燃えました。もう一人の宗教改革者である「マルチン・ブツァー」の招待でフランス国境地帯の「ストラスブール」に行きました。そこに

行った理由は、フランスでカトリック教会に懐疑を抱き、新しい教会を期待しながら脱出した難民のために建てられた教会の牧師になるためでした。その後、カルビンはスイスのバーゼルに身を隠して、かの有名な『キリスト教綱要(こうよう)』の初版を出版するようになります。

バビロンの捕虜時代と比較される暗黒の時代、教会が長らく彷徨(ほうこう)していた間に、彼は神様のみ旨を探るため祈りながら定めたのは、聖書を基にして信仰の根本になる教理をよく整理し、信徒たちがよく理解できるように本を著述することでした。ジョン・カルビンの働きは500年が過ぎた今日も、教会と私たちの信仰生活の性格を決めるのと同時に基礎になっているのです。神様が預言者エゼキエルに与えて下さったみことばの最後の部分を見てみましょう。31節で「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」イスラエルが死なずに生きられる道は、犯したあらゆる背きを捨てて、心と礼を新しくすることだと勧めておられるのです。私たちも良く聞き、実践すべきではないでしょうか。

宗教改革者たちが間違った教理によって、罪な信仰生活を送っていた当時の教会と信徒たちに「心と霊を新しくすること」は悔い改めとみことばに立ち帰ることだと主張したのと同じです。23節と32節のみことばが反復されながら再度記されています。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよと主なる神は言われる。」

愛する信徒の皆さん、この世に生きているどの人も死ぬことを願う人はいないと思います。もし、そのような思いを持っている人がおられるのであれば、そのように死ねば、審判されるしかないことも覚えてもらいたいです。しかし、神様のみ旨はそうではありません。立ち帰って、生きよと話されています。私たちが立っている信仰の場、私が行っている信仰の姿がどのようなものなのか顧みてみましょう。

何で神様との関係において物足りなさを感じていますか。どのようなことで主の体である教会に対する信頼を失っているのか。共に信仰生活をしている信徒たちと、もしくは教会の指導者たちとの関係に溝ができていないのか、その原因は何なのかを考えてみるのも現実的な問題です。そして、その全ての原因を探し、主が喜ばれる信仰生活を送らなければいけないのです。宗教改革の月に、私たち、全員が心を新しくさせましょう。私たちの霊を新しくしてくださいとの願いと共に、行動によって新しい存在となり、恵まれる信仰生活を続けて送るようにしましょう。

使徒パウロは私たちに尊いみことばを与えてくれました。コリントの信徒への手紙一5章17節「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」これは、今日私たちに宣布されたと再び確認させられる尊いみことばです。私たちの心と霊を新しくしましょう。

<祈祷>

万物を新しくさせる全能なる神様、罪人が悔い改めると喜ばれるイエス様、今日もみことばを通して、私たちの信仰を省みながら、聖霊様の導きを切に願います。過ちを見つけ、悔い改められる勇気を与えて下さり、正しさと正義を通して救いを成らせて下さい。私たちが生きる社会や信仰生活の出発点になる教会で、そして、私たち個人の信仰までも深く省察できるように知恵を与えて下さい。ただ主にだけ栄光をささげる信徒たちにならせて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン