2021年10月31日宗教改革主日「福音は救いをもたらす神の力」鄭然元牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年1031日> 五旬節後第23主日/宗教改革主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 福音は救いをもたらす神の力

* 聖経 : ローマ人への手紙1章15-17

</新共同訳>

15.それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。16.わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17.福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

<説教>

「牧師任、教会の誕生日がいつですか。」と聞かれ、「はい、5月の第2主日です。」と答えました。すると

「イエス様の誕生日は12月25日ですよね、だと世界教会の誕生日はいつですか」と再度聞かれました。信徒の皆さん、世界の教会の誕生日はいつだと思われますか。はい、聖霊降臨節です。聖霊の降臨によって教会が立てられました。

教会の誕生日はいつですかという質問を受け、私は一人で「そしたら、プロテスタント教会の誕生日は宗教改革を始めた日と答えるべきかな。」と考えました。恐らくそう言えるでしょう。当時、ローマカトリック教会の間違った神学と、教会運営に対する批判文を発表し、正しい信仰と教会になるために宗教改革を始めたその日がプロテスタント教会の誕生日ではないかと思うのです。

今日から504年前、ドイツの若い司祭で神学者だった「マルティン・ルター」がヴィッテンベルク市の聖堂の正門に95カ条の論題を貼ることから始まったのが宗教改革運動です。論題の内容は、当時の贖宥状(しょくゆうじょう)(免罪符)販売と人間の懺悔においてローマカトリック教会の間違った教理に対する質問と指摘でした。

しかし、ローマカトリック教会はそれに対する答えや反論の代わりに、教権、教会の権威という名で踏みにじって、意見を出した人たちを殺そうとする極端的(きょくたんてき)な行動を取りました。結局、この95カ条の論題で宗教改革運動が出発したので、宗教改革記念日を10月31日と定め、今日が10月31日で宗教改革記念日であり、主日なのです。
キリスト教の歴史を語る際、イスラエル民族と共にしてきたユダヤ教から始まるのであれば、イエス様がこの地に降臨し、伝えた福音の内容は当時のユダヤ教が持っていた間違った信仰に対する大きな改革でした。ヤハウエ神様がイスラエルの民の間に約束されたメシヤであるイエス・キリストがこの地に来られたけど、

ユダヤ人たちはその事実を受け取らなかったのです。彼らはイエス様を十字架にかけ、殺してしまいました。

聖霊の降臨によって、エルサレムに教会が立てられ、イエス・キリストの福音がエルサレムを始め、イスラエルの全地域に広まったのです。聖霊降臨と当時のエルサレムに集まっていたディアスポラ、散らばっていたユダヤ人が彼らの住む所に戻り、イエス様の福音を伝え始めました。その時、ユダヤ教指導者たちはエルサレムにいたイエスを信じる人たちを見つけ、宗教的な判決で彼らを弾圧し始めました。

その最初の犠牲者で殉教者である「ステファノ」がエルサレムでユダヤ人の審判で、石打ちの刑に処せられる悲惨なことが起きました。そのことを主導したのが「サウロ」という人で、彼はトルコのタルソス生まれで、律法を学ぶためにエルサレムに来て、当時高名なラビであるガマリエルの門下生でした。また彼はユダヤ教の律法と教えを徹底的に学んだ人でした。メシヤと自称してから死んだイエスの復活と福音に敵意を持ち、イエスを信じる人たちを捜索する仕事をしており、それのために向かっていたダマスコへの途上において、眩しい光を見てその後目が見えなくなり、地面に倒れました。同時に天からの声が聞こえてきました。使徒言行録9章4節「サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。」 自分に注がれる光と主に天からの声をサウロは聞いたが、一緒にいた人たちは何か起きたのか誰一人わからなかったのです。

こうしてサウロは復活されたイエス様に会えたのです。サウロは自分の名前を「パウロ」と変え、彼の信仰もユダヤ教からキリスト教になりました。パウロは罪人が救われる道は、律法と戒めとユダヤ人の伝承を守るのでなく、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰で可能になることをアジア地域に歩きながら、伝えました。当時の小アジア、トルコからエーゲ海を渡って、ギリシャのフィリピ、デサロニア、アテネを経て、コリントへ行って福音を伝えました。使徒言行録に現れた使徒パウロの福音に対する熱情は「ローマ」を訪問することと、スペインまで行くことでした。ローマにはすでキリスト教徒たちが住んでおり、彼らはローマ帝国の迫害で苦しまれていたが、使徒パウロの目標はローマでした。

今日の本文の15節で、「それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」なぜローマに行こうと願っていたのでしょうか。ローマは当時のヨーロッパを支配する帝国でした。ローマは当時のヨーロッパの中心都市で国々から人たちが集まってくるところだったからです、。皆さんがご存じのように、ローマ帝国はB.C6世紀から始まったが、イエス様が来られる27年前に「アウグストゥス」が皇帝になってからローマ帝国が始まりました。ルカ2章1節「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」まさに、ルカによる福音書に出てくる「アウグストゥス」なのです。

パウロはローマに行くと、各国と地域から来た人々にイエス・キリストの福音を伝えることを切望するようになります。 結局、使徒パウロは、自分が罪人になってローマに来て裁判を受けるようになり、ローマで殉教するようになります。 このように「ローマ」は福音を伝えるのに最も適切な環境でした。 かつてローマについて「全ての道はローマに通ず!」 という言葉があるほど、時代の中心でした。 今日(こんにち)も、ローマは世界の人々から多くの関心が注がれています。 それは、ローマカトリックの信仰の中心地であり、教皇がまだ存在しているからです。 宗教改革者たちもローマを訪れたことがありました。

ドイツ出身のマルティン・ルターの場合、先週の説教で言及しましたが、法律を勉強して弁護士になろうと勉強している中、激しい雨が降る夜に友人と一緒に家路に着きました。 1505年7月2日、天から雷鳴とともに雷が落ちました。 友人が真横でこの落雷を受け、死ぬ姿を見ながら神様に祈りをささげます。 助けてくださった命で修道士になると決心し、7月17日にエアフルト(Erfurt)にある「聖アウグスチノ修道会」所属の「黒い修道院」に入会し、修道士になりました。 修道院で司祭の授業を終え、ルターは1507年に初めてミサを直接行いました。 1年後、ルターは1508年にエアフルト修道院からヴィッテンベルク大学に移りました。

当時のローマカトリック教会は、ローマ帝国を守るための戦争を続けていました。大聖堂と豪華で贅沢な教皇庁を建てるために膨大なお金が必要でした。この費用を充てるため、聖書のみことばと異なる内容を教会の指導者たちが与えていました。地方の司教や国の枢機卿は、自分らが政治指導者と考え、そのように行動しました。エアフルトでは、1509年と1510年に、市民と政府の間で激しい社会的な葛藤が起こり、暴力的な衝突につながりました。負傷者が生じ、血を流しながら死んでいく多くの人々を目撃したルターは神様に問います。 「神様がこのような暴力を使うのであれば、誰が神様に仕えることができますか。」ルターに何度も繰り返し質問しました。満足いく方法で神様に仕える道は何だろうか。ルターは1510年に投げたこの問いに対する答えを得られませんでした。

マルティン・ルターがローマへの旅に出ました。 その理由は、修道院内外の葛藤によるものでした。 修道院の代表は誰になるのか、 修道院の場合にも教皇を選出できる代表、つまり総代の権利に対する問題が生じ、ルターともう一人の司祭はローマの教皇庁に行くことになります。最近のドイツとイタリアを結んだよく整備された道路を利用しても1400Kmとなる長距離です。 当時は道路が整備されていない状況で、1日35Kmを歩いても40日以上かかる距離です。 修道院の規則に従って、歩いて旅行しなければいけませんでした。 馬や馬車も利用できませんでした。 一人で旅行することが禁止された規則により、仲間の修道士と一緒に歩いていきますが、互いに雑談しないために間隔を置いて前後して歩いたそうです。

ルターともう一人の修道士がローマに向かって、11月上旬にドイツを出発しました。 夜になると、旅行の経路に位置する修道院に泊まりました。 2人の修道士が巡礼者の道に沿って旅行しましたが、その道はスイス、ミラノ、フィレンツェを通る最悪のコースでした。 この道は山岳地帯で、雪道を通らなければならず、強盗の危険もありました。48日間歩いて、彼らはついに1510年のクリスマスの前夜にローマに到着しました。

ルターはその後、ローマ旅行で自分の信仰と神学を再確立できたと語っています。 「私はローマに長く滞在しませんでしたが、多くのミサに出席しました。 私はそれを思い出すたびに、恐れで震えざるを得ません。 私が主の晩餐席上で行っていた聖職者たちの間で目撃したこと以外に、他の司祭たちがパンとワインをささげながら真剣でなく、横で嘲笑するように笑って騒いでいました。 何よりもミサを司る態度に嫌悪感を抱きました。 彼らにとってミサはまるで一種のいたずらや演劇と同じようでした。」という言葉を残します。

ルターがローマを訪れた時期は、すでに1506年から始まった大聖堂建築が本格的に行われていました。 ルターがローマに滞在したとき、ミケランジェロはシスティーナ大聖堂の壁画を描いており、ラファエロは教皇庁の宮殿の装飾に勤しんでいました。バチカンの巡礼者を助けるためにテベレ川を横渡る橋が建設されました。 その橋の中でひとつは売春税でかき集めたお金で建設したと自慢していました。

ローマを訪れるすべての巡礼者たちにとってローマの七つの大聖堂を訪問することは義務でありました。

巡礼者たちは一日を断食した後、最初に都市の門の外にある「聖パウロ大聖堂」をはじめ、「聖パウロの墓地大聖堂」と「聖セバスチャン大聖堂」と聖なる十字架の大聖堂「聖ヨハネラテラン大聖堂」、「ローレンス大聖堂」 、「聖マリア・マジョーレ大聖堂」、と最後に「聖ペテロ大聖堂」を順番に巡礼をしなければなりませんでした。

聖地ローマを訪れるすべての巡礼者たちは、イエス様がおられた当時のイスラエルのエルサレムにあった「ボンディオ・ヴィラド」の総督宮殿から持ち運んだスカラ・サンタ(Scala-Santa/聖なる階段/地球村の祝福の聖殿)の階段をひざまずいて上がらなければいけませんでした。これはイエス様が血を流し、十字架を担うために聖金曜日に歩いて上がった階段です。 4世紀頃、「コンスタンティヌス皇帝」の母「ヘレナ」がエルサレムを旅して、この石の階段をローマに持ち運んできました。誰もが主の祈りを唱えながら、この階段をひざまずいて上がれば、階段を登るたびに煉獄の魂を救うことができると信じていました。ルターは自分の祖父を救うためにこの階段を上ったそうです。 「ローマで、私は祖父を煉獄から救いたかったのです。それで、主の祈りを唱えながら、ピラトの階段を一段ずつひざまずいて上がりました。誰もこのように祈りながら上がれば、魂を救えるという確信がありました。しかし、私がピラトの階段を上がりきったときに考えました。「これが本当なのかを誰がわかるだろうか」。ルターは敬虔な心を持って階段を一段ずつ上がっていましたが、突然「正しい者は信仰によって生きる」(ロマ1:17)のみことばが雷のように聞こえてきたのです。ルターは

恥ずかしい思いで急いでその階段から立ち上がり、出ていきました。そのとき、驚くべきことに、ルターは救いを得るため、人の行為に頼るのは愚かなことであり、キリストの功績を信じなければならない必要性を、とても切実に悟るようになりました。

金曜日にルターはローマの主教の管区が位置している「聖ジョバンニ・イン・ラテラーノ」という大聖堂に行きました。 なぜなら、当時、司祭がこの大聖堂で正式なミサを集礼するようになれば、自分の母親に特別な祝福を授けられるという通例があったので、そこでミサを集礼したかったからでした。 しかし、それも不可能でした。 ドイツの田舎から来た修道士には順番が回ってきませんでした。 ルターは神様の摂理でローマを訪れました。 彼は歩いて目的地ローマに向かい、帰り道にも修道院で宿泊しました。彼はイタリアのある修道院で、とても贅沢で豪華で裕福な修道院生活を目撃し、大変驚きました。 司祭たちの生活はイエス様の弟子の生活として見るにはあまりにも見苦しいものでした。

 

ルターはこの時、地面に顔を伏せて、「聖なるローマよ!私はあなたに敬意を表します。」と叫びました。彼は神聖な場所で神様を冒涜することが行われるのを見て、そのことについて記しておきました。 「ローマで敢行されているすべての罪と破廉恥な行動は誰も想像できない。それは実際に行って見なければ信じられないことだった。 「世に地獄というものがあるならば、ローマは必ずその上に建てられただろう。そこは、いろいろな罪が生まれる無限地獄だ」という言葉まであるのだと言いました。結局、ルターはこういう教会の姿を見て失望し、「信仰のみ(sola fide)!恵みのみ(sola gratia)!聖書のみ(sola scriptura)!」という主題を掲げたのです。使徒パウロの経験がマルティン・ルターに伝えられる、みことばの力と恵みを私たちは見ることになりました。

ジョン・カルビンもマルティン・ルターのように、ローマ訪問を願っていました。 『キリスト教の綱要』が出版される直前の1536年2月、カルビンは自分が以前に使っていたフランスの名前「シャルル・デスペヴィユ」とし、「ルイ・デュ・ティエ」と共にイタリアへ旅行を始めました。 この時、国王「ルイ12世」の娘であり、「フランソワ1世」の親戚である「レナタ」公爵夫人のフェラーラ宮殿で、改革思想を持った人々と数週間滞在しました。 フランスから逃げてきたプロテスタントたちと会いましたが、その中にはフランスの詩人クレマン・マロもいました。 その間、イタリアは戦争が激しくなり、カルビンは結局ローマまで行けず、再びスイスのバーゼルに戻ったと記録されています。

使徒パウロが神様とユダヤの民と結んだ契約をよく理解するため、律法を熱心に学んだのですが、当時のユダヤ教の指導者たちは神様中心で、善い民のためではなく、人間化され、ただ自分らの栄華と金儲けに目が暗んでいることを彼は悟るのです。イエス・キリストを通して与えて下さった福音が救いを成就させるための神様の能力であることを悟ったのです。律法やラビの伝承をよく守ることで救われるのではなく、信仰によって義になり、それは神様の恵みであり、ギフトであることを悟ったのです。

パウロが自分の命をかけて、イエス・キリストの福音を通して伝える原動力、その力は「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」でした。宗教改革者たちが主張したことは何でしょうか。まさにそれでした。「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」で救われるわけであり、免罪符などの紙切れをお金で買うから得られるものではないということを全世界に知らせたのです。

愛する信徒の皆さん、映像礼拝に同参しておられる皆さん、

私が義の人であると思うのであれば、手を挙げてみて下さい。

私が教会に功績を積んでいると思っておられるのであれば、手を挙げてみて下さい。

私がこのような職分で、このような働きをしたと自慢することが多いでしょう。

それで救われるわけではありません。

聖霊様が私を導き、信徒とならせ、罪を悔い改める心と勇気を与えて下さいました。イエス・キリストが私のために十字架で血を流された事実を、今まで限りなく繰り返し聞かされたこのみことばを信じられるように導いて下さった神様の能力と愛と恵みによって私が救われたのです。

今日、宗教改革記念主日、私たちは再びみことばに戻ろうとする心を持ちましょう。

今日を迎えるまで、すべてが神様の恵みであり、祝福であったことを新たに認識しましょう。

そして、私たちはもっと信仰の道をまっすぐ歩む信徒になろうと決心しましょう。

主が皆さんと私を導いて下さるでしょう。

<祈祷>

全能の神様、血の代価で買われた教会が間違った道を歩んでいる時、正しい道を歩けるように指導者を立てて下さり、今日まで主の恵みと聖霊の能力の中で、喜びを持って信仰生活を送れるように導いて下さり、感謝します。宗教改革記念主日を通して、私たちの信仰を新たにさせて下さい。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名でお祈りいたします。アーメン