2021年12月26日送年主日「愛の実で一年を」鄭元然牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年1226日>送年主日

                         説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 : 愛の実で一年を

* 聖書 : ヨハネによる福音書158節-12

</新共同訳>

8. あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9. がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10. わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11.これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12. わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしのである

<説教>

今日は2021年の最後の主日です。一年間、私たちを守ってくださった神様に感謝しながら礼拝をささげます。2021年も昨年2020年と同じく新型コロナウイルスが拡大し、教会に集まって礼拝をささげられない時間もありました。映像で礼拝をささげる状況が続いたりもしました。しかし幸い、今年の最後の主日は、信徒たちと共に礼拝堂で礼拝をささげています。まだ個人的な事情で礼拝堂に出られないので映像で礼拝をささげている方もおられます。すべての信徒たちが平安に過ごされますように祈りながら、説教を始めさせていただきます。

今年2021年は私たち大阪教会においてとても意味ある年でした。神様の恵みで教会創立100周年を迎える年だからです。しかし、100周年の行事を挙行できず、2022年に遅延するという悲しい決定も下しました。一年365日、一日一日が神様の守りがなかったらどうなったか見通しが立たない一年でした。今年の教会の標語は「100年の喜びと感謝を分かち合い伝える年」でした。中心のみことばはイザヤ書61章1節₋3節でした。

[()新共同訳]

1.主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。2.主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報される日を告知して/嘆いている人々を慰め 3.シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。

教会創立100周年は,旧約聖書のヨベルの年の思想で意味を探し、メシアが来られることで成就できる救いの喜びを分かち合うことを目指しました。始めたものの、十分な結果を得られなかった物足りなさを感じながら送年主日を迎えました。いつもそうですが、一年を締め括る時間は、個人的な生活や牧会現場での実りを考えながら、新年計画を立てるのが事実です。新約聖書のヨハネによる福音で、イエス様は多くのたとえ話をされました。今日の本文でイエス様が例えたのは「神様は農夫であり、イエス様はブドウの木であり、私たちはその木の枝である」と言われました。このたとえ話には特別な意味があります。それは「私たちを枝として表現したこと」であり、その枝に実が結ばれることを期待するからです。

今日、私たちはこのたとえ話の意味を通して、イエス様から教訓を学び、枝である私たちの人生を省みたいと思います。農夫がぶどうの木の枝を眺めるとき、ぼんやり見ていません。ある意図と目的を持って見ます。それは木の成果を表す実です。枝に実が結ばれなければ、その枝はすでに枝としての目的を失ったものになります。それでは、枝が実を結ぶためにすべきことは何でしょうか。豊かな実、良い実を結ぶために枝は多くのことをしなければならないようですが、実は違います。枝はただ一つのことをすればよいのです。それはそれほど難しいことではありません。ただ木に付いていることであり、枝は木に付いているだけで実を結ぶことができます。そして、「木に付いている」ためにはいくつかの条件があります。付いているのが前提で、茎が根から一生懸命供給される栄養素を枝に与えるときによく受け取らなければいけません。枝に好き嫌いがあると、その枝は良い実を結ぶことができないでしょう。嫌なものも食べ、好きなものも食べて丈夫な状態を維持し、良い状態を維持しているから良い実を結ぶことができるのです。

今日のように何かを決算し、新たに決心するなら、多くの実、すなわち実を結ぶためにどうすべきかを再確認する必要があります。私たちは枝と言いましたが、私たちが実を結ぶ信仰生活のためにそれほどすることは多くないのです。あちらこちらに走り回るからといって多くの実、素晴らしい実が結ばれるわけではありません。主人に喜ばれる実を結ぶためには、木であるイエス様によく付いていることが重要です。よく付いており、主から供給される栄養をよく摂取しなければなりません。つまり、神様のみことばをよく受け入れなければならないということです。私が嫌いならば吐き出し、良ければ受け入れるのでは困ります。みことばが私の口に苦いのであれば、私の病気を治すのに役立つのだと受け入れ、甘ければ成長のために必要なみことばだと受け入れなければなりません。私たちが神様のみことばを聞いたり読んだりするとき、私にとって良いみことばだけを選ぶなら、それはすでに良い実をあきらめたのと同じです。どのようなみことばでもよく受け入れて私のものにし、良い実の栄養素として使う知恵が必要なのです。

 

コロナ禍の中で、教会は集まって行う行事や勉強会を円満に設けられませんでした。例えば諸職会と聖書勉強会を行うのは難しい状況でした。堂会でも何回か非対面会議を検討しましたが、実施までは時間がかかりました。しかし、いくつかのメカニズムを準備して協力してくださる方々の助けを借りて、これまでになかった方法で実施できたことは非常にポジティブな側面だったと思います。

次に、「木に付いている」という言葉は、枝として体験すべき風雨や暑さに耐えなければならないという意味です。枝は激しい風雨が吹くと、まるで折れそうに激しく揺れます。 太陽の強い熱が降り注ぐと耐えられない渇きを感じます。しかし、その時に耐えられずに木から離れてしまうなら、育て主である農夫は折れた木の枝を集めて火に投げてしまうでしょう。良い実を結ぶためには苦難も必要です。苦しみや艱難や試練も必要です。その後に結んだ実こそ価値があり、大切に思う心も生まれるからです。

私たちクリスチャンの試練についてヤコブの手紙の著者はこのように言っています。

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3. 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4. あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(ヤコ1:2₋4)

今日、枝である私たちに試練がありますか。その試練に私たちが勝てば、神様は良い実で私たちに答えて下さるでしょう。それを待ち望み、苦難と試練の時間をよく忍耐してください。私たちは枝として、木に付いて栄養素を選ばずによく受け入れ、雨風と太陽の熱さにもよく耐えて多くの実を結びました。しかし、その次に、私たちには試される時間がおこります。多くの信仰人がここでつまずきます。それは枝になった者としての使命をよく果たしながら多くの実を結んだのですが、時間が少し過ぎると、その実がまるで自分自身がよくやったから結んだような錯覚に陥るのです。私がうまくやって、この多くの実を結んだような錯覚に捉われます。

多くの信仰者が信仰の進歩と成長と業績を成してからつまずく理由がここにあります。人々が褒めます。 場合によっては、教会の職分をもらいました。その実のみごとさに羨ましがられます。彼らに試練に遭った信仰の武勇談(ぶゆうだん)を聞かせて、まるで私がそのことをしたような気がします。その時からみことばも素直に受け入れられません。試練も耐え難いです。私の人生の実は消え去ります。私の枝は徐々に乾き始めます。

今年一年を振り返ると、私たちの信仰状態はどうでしたか。私たちに誇るものは何一つありません。私は枝であり、木ではありません。私は枝であり、農夫ではありません。ですから、私たちは誇れることはありません。ただ私たちが私たちの実を見て羨ましがる人々に言えることがあるならば、「木によく付いていただけなのに、こうなりました」とのことです。高慢が育つと、私たちは再び私たちの本来の姿勢に戻らなければなりません。それが正しく私たちが生きる道なのです。

私は自ら慰めのみことばを探してみました。旧約聖書ハバクク書3章17節「いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。18. しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。」

そうです!愛する信徒の皆さん、私の枝は実をつけず、ブドウやオリーブの木の収穫が少なく、田畑に食べ物が生ぜず、羊と牛がなくても、主によって喜び、救いの神様ゆえに踊るという預言者の祈りのように、コロナの状況を責めて言い訳をする必要もなく、今年は私が主に付いていたという一つの事実だけでも豊かな年であったと思い、感謝をささげましょう。

今日のみことばで、イエス様は御父が自分を愛されたように、イエス様も私たちを愛してきたと言われました。また、父の掟を守り、その愛にとどまったように、私の掟を守るなら私の愛に留まっていることになり、喜びが満たされると言われました。今年、伝道部はこのような困難の中でも伝道紙を配布し、手作りのおかずを持って年老いた方を訪問したいと話されました。牧師である私は最初、引き止めたりもしました。状況を見ながら少し待っていてくださいと言いましたが、信徒たちが牧師よりもっと熱心でした。今は目に見えなくても実が結ばれると信じております。

今日、堂会は2021年の決算を行い、2022年の予算を立てることになります。

前回の堂会でも今年予算より決算がどれほど少なくなっただろうかという心配をしました。長老たちの心配は信仰心が足りないからではありません。教会のやりくりをどのようにすべきかという憂慮の中で、とにかく教会のやりくりをきちんとしなければならないという責任感で互いを励まし、話し合いました。しかし、驚くことに予算より少ない決算であるものの、教会の外壁工事、十字架の工事など、必ず必要なことをしながらも借金をせず、信徒たちが心を込めてして下さった献金でそれに充てることができたという中間報告を受けました。考えてみるとこのようなことが正しく奇跡です。最近の困難な状況の中でも、信徒たちが感謝し、神様にささげた物質が主の教会に美しく使われ、宣教と福音の働きを担えたことが、神様の恵みであり、愛の実だとただ感謝するのみです。

全世界的に540万人の人が命を落としたという今の時代の試練、コロナ禍の中でも私が生きていること、私たちが無事に生きていることも神様が与えて下さった恵みの実であり、愛の実であるのを確認しながら再度感謝をささげるのです。

愛する信徒の皆様、

私たちをぶどうの木の枝にならせたのも神様の恵みであります。枝になった人の使命は実を結ぶことであり、そのことのためにすべき一つのことがあれば、それは木にしっかり付いていることです。今年一年、木に付いて生きている事だけでも感謝であるならば、来年にはもっと栄養をよく摂取し、試練を耐え抜いて、主人である神様に栄光をささげ、主に喜ばれる実をたくさん結ぶ私、そして皆様と大阪教会になりますよう切に祈願いたします。

<祈祷>

「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」というイエス様のみことばに感謝します。2021年、とても大変な一年を過ごしてきました。個人的な生活や教会の活動も難しかったです。その中でも、私たちを恵みで導いて下さり、愛の実を結べるように機会を与えて下さったことに感謝します。一年を送り、新年を迎える私たちに知恵と能力を与えて下さり、この世をよく見渡せる信仰の目も許してください。至らないですが、私たちを主に付いている枝にならせる信仰の道に導いて下さったことに感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン