<2021年9月26日>主日礼拝「私たちは幸いな人です!」鄭元然牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年9月26日> 五旬節後第18主日

                         説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 : 私たちは幸いな人です!

* 聖書 : 申命記33章29

[/新共同訳]

29. イスラエルよ、あなたはいかにいなことか。あなたのようにわれたがあろうか。はあなたをけるうときのあなたのはあなたにし/あなたはらのみつける。

<説教>

信徒の皆様、主日に迎えた朝です。

今日はこのような質問で説教を始めさせていただきます。「皆様、幸せですか」。

実にシンプルな質問で、簡単に答えられるのではないかと思いますが、再度お聞きします。「幸せですか」。

古代の哲学者アリストテレスは「人生で最高の目的は幸福である。」と言いました。人生の最高の願い、すなわち一生涯において最も望んでいる事、人生の目的が「幸せ」であるということです。すべての人がこの地に生まれてから死を迎える瞬間まで、絶えず求めるのが幸せなのです。

金持ちだから幸せだとは言えません。しかし、一般的に生活が豊かだと心に余裕を持つことができると言われます。所得の水準が上がれば幸福感もある程度上がるそうですが、人が幸福感を感じながら生きることには、複合的に色々な要因が作用するそうです。だから「幸福の指数」という言葉が出るようになりました。自分がどれだけ幸せなのかを自ら測定する指数です。英国の心理学者ロスウェル(Rothwell)と心理士・コーエン(Cohen)が研究し、2002年に発表した幸福の指数が代表的なものです。ロスウェルとコーエンは幸せが、第一に人生観・適応力・柔軟性など、個人の特性を示すP(personal)個人の幸せ、そして第二に、健康・お金・人間関係などの生​​存条件を指すE(existence)の存在的な幸せが必要であることと、第三はは野望・自尊心・期待・ユーモアなど高次元の状態を意味するH(higher order)の次元が高い幸福感、自尊感と社会の関係性の幸せなど、3つの要素によって決定されるものだと見なしました。

二人の学者は、人が生きながら自分の人生観に基づいて適応して生存し、自ら享受して感じる幸せが一次的だと言います。次は、自分の生きていく中で条件的についてくる健康や物質、お金や人間関係は必要性を感じてそれを達成するために多大な努力をしながら、それらの成就で幸せを感じるということです。最後には、健康に生き、経済的にも豊かで良い配偶者との結婚、子どもと孫たちなど家族から得る幸福感が生活に豊かさを与えるということです。しかし、人間は、これらだけでは幸せになれないとのことです。最後には、自分が目標していることに到達することで、最大の幸せを持つことができるとのことです。

しかし、全ての人たちは自分が願うほど幸せではないです。事実、自分が幸せを享受しながら、「幸せだ」と言う人は滅多にいないです。幸せを願うが、探せずに不幸せに生きているのが現実です。特にコロナ時代を生きながら、私たちは「コロナブルー(Corona blue)」という言葉を聞き始めました。「コロナブルー」とは

「新型コロナウイルス19」と「憂鬱(blue)」を合わせて作られた新造語です。新型コロナの拡散により、ソーシャルディスタンスの期間が長引き、人たちと会えなくて、職場に出勤できずに在宅勤務を強いられ、

社会的な孤立感が高まり憂鬱になるか、無気力につながる現象を指します。

コロナ禍中の私たちに「あなたは幸せですか。」と質問すれば、一般的にはそのように聞く人をおかしいと思うかもしれません。説教者で牧師である私が信徒の皆さんに質問していますが、皆さんのお考えは何でしょうか。事実、クリスチャンの生活とは、この世に生きながらもこの時代を超えて生きなければいけない神秘性を持っています。そして、信仰とは現実を超え明日と未来を眺めることなので、憂鬱で苦しい2020年、2021年と終わりの目処が立たないコロナ禍中、私たちは神様のみことばを通して克服しなければいけないので、今日の説教を準備させていただきました。

幸せになるためにはどうすればよいでしょうか。誰に会ったら幸せになるのでしょうか。幸せを探し求めて常に走っていますが、いつになれば幸せになるでしょう。どこに幸せがあるでしょうか。何をすれば幸せになりますか。明らかな事実は、幸せは所有や環境や条件や成績順ではないということです。高い地位にいるから幸せであるわけではありません。地位や名誉ある職分が幸せをもたらしてくれません。良い家に住んでいるから幸せであることでもないです。たくさん勉強して得た知識が幸せにならせません。寧ろ、世のものは持てば持つほど、より多くのものを持とうとする欲望に駆られさせます。

多くの人たちが世のもので幸せになろうとしますが、願っていた幸せを探せず、常に虚脱して疲れた姿で幸せとかけ離れた不幸の中で生きています。それで、人間的に見れば、成功した人のように見えるかもしれないが、実際には人生の失敗者が多いのです。不幸なまま生きている人がどれほど多いかわかりません。すなわち、良い条件が揃ったとしても、それだけで幸せにはなれないということです。

「真の幸せ」は神様のみが与えられるのです。神様を心の主人として受け入れ、神様と共にいる時、はじめて幸せになれるのです。哲学者、物理学者、宗教学者であったパスカル(Pascal)は「人間の心には穴が空いた空間がある」と言いました。しかし、その空間は世のどんなものでも埋めることができず、ただ神様のみで埋められると言いました。本当にその通りです。神様が幸せの源泉だからです。したがって誰もが神様を真に会えるのであれば、幸せになれます。反面、神様を正しく、人格的に、真に会えないのであれば、幸せにはなれません。この世の人たちが神様と出会えば、人生の彷徨(ほうこう)が終わり、人生の幸せが始まります。神様に出会えば、全ての不幸は終わり、幸せな歴史が始まります。私たちが自信を持って言えるのには理由があります。

 

世界で最高の幸福、最上の幸せを味わう人が誰なのかに注目してみてください。神様を信じて頼る信仰人です。したがって幸福は遠くにあるのではなく、神様を心に主人として受け入れることから探す必要があります。神様を受け入れてからの一日一日がどれほど幸せでよいかわかりません。だから、すべての信仰人に「なぜもっと早く神様を信じなかったのか?こんなに良いのに。」と告白しながら、イエス様を信じてから、幸せな自分の人生を証しすることを見ることができます。どこに幸せがありますか。幸福は、世が与えるものではありません。つまり、お金が幸せでなく、権力も幸せでなく、唯一の神様のみが幸せそのものであるということです。したがって、神様を心に受け入れて生きる人なら幸せであるだろうと信じます。幸せとは神様が私たちに与えてくださる最高の祝福です。神様の中にいれば、誰でも幸せになれます。神様のみが真の幸せであります。

今日はみことばを一節だけ選びました。このみことばは神の人モーセが生涯を終えるに先立って、イスラエルの12支族に与えた祝福の言葉の最後の部分です。モーセの祝福の宣言は「エシュルン」が神様を讃美する讃美の詩となっています。「エシュルン」という言葉は「正しくて真っすぐだ」すなわち「正しくて真っすぐな人」という意味です。この言葉は「イスラエル」という名前をもらったヤコブと関係があります。皆さんもよくご存知のように、「ヤコブ」は兄のかかとを掴んで出てきた人で、人を騙す人という意味を持っている名前ですが、「ヤボク川」で天使と格闘後、神様が新しく与えて下さった名前が「イスラエル」です。本来の「ヤコブ」のネガティブ的な面を超えるため、意図的に「エシュルン」、「正しくて真っすぐな人」という名を使っています。

今日のみことば29節を見ると「イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。」と言っていますが、このように話された理由は、神様が私たちを幸せな人にならせるという強い意志表現です。神様が幸せにならせて下さるとのことです。そうです。神様が私たちを幸せな人として祝福して下さることを確認し、私たちは幸せに生きなければいけません。

神様は彼の子になった信徒たちが幸せになるまで、幸せになれない方です。神様は私たちが真に幸せになることを願っておられます。まさに私たちに「いかに幸いなことか」と語りかけることでわかるように、私たちは神様の中で幸せな人になるべきです。したがって、我々は絶対に不幸な人ではありません。重要なことは、人の心と考えであります。何を考えているのかによって、その人の人生が左右されます。考えがポジティブであれば、すべてが幸せに映ります。善い考えは一日を楽しくて幸せにさせます。しかし、絶望的な考えをすると、一日が憂鬱です。成功する人の考えは常にポジティブであるが、失敗する人の考えは常にネガティブです。私は幸せな人だという考えを持って、神様の前で生きれば、日々の生活が幸せいっぱいの祝福があるようになります。

善い考えが信徒を良くさせ、幸せにならせます。幸せな考えが幸せを作り出します。常に神様のみことば通りに「私はいかに幸いな人なのか。」と常に思いながら生きると、その人は本当に幸せな人であります。しかし、不幸に生きている人たちが多いのです。孤独や不安に怯え、悲しんで嘆く人が多いです。自分の生活を呪い、不幸に生きている人が多い時代で、私たちはクリスチャンとしてどのように生きればよいのでしょうか。誰よりも幸せに生きるべき人がまさに皆さんです。幸せな人、幸せな家庭、幸せな信仰人、幸せな牧会者にならなければいけません。クリスチャンだけは必ず幸せに生きなければならないのです。それが、神様のみ旨であり、意志であり、願いだからです。

少なくても私たちはイエス様を信じれば、私のように幸せになることを見せられる、伝えられる幸せの伝道師にならなければいけません。かつて韓国にはテレビ番組によく出演し、幸せに関する講演で人気だった人がいましたが、彼を「幸せの伝道師」と呼びました。人の幸せについて流暢なことばで話し、感動を与えて人気が高かったです。最初、私は彼を伝道師だと勘違いしていました。あれほど幸せについて講演し、人気を博したその方も自分は幸せになれず、自ら自害する不幸な結末を迎えた人となりました。自分が探した人生からのどの条件も真なる幸せは与えられなかったことを教える一例であります。

真なる幸せは神様のみが与えられることを忘れないでほしいです。私たちが真の幸せな人であることを悟らなければいけません。信徒の皆さんも幸せを願いますか。皆さんの人生も幸せになることを願うのであれば、心にイエス様を受け入れて生きて下さい。そうすると、一生涯幸せに暮らせます。私たちの人生を幸せにならせる方は唯一神様だけです。真に神様を信じているのであれば、どの人でも最高に幸せな人になれます。真なる幸せは神様が私たちに与えて下さる最高の祝福です。

イスラエルが出エジプトをしてから40年あまりの年月を荒れ野で過ごしてからカナンに着きました。その旅程は決して順調ではありませんでした。状況が厳しく、苦しくなれば、民は指導者モーセに不平不満をぶつけ、殺そうとまでしました。ヤハウエ神様はこの民にモーセを通してみことばを与えてくださいます。「あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか」。私たちはこのみことばを常に覚え、今までどのように生きてきたかはさておき、今日以降からは無条件に幸せにならなければいけません。神様の特別な愛を受け、神様に救われるので、幸せにならないのがおかしいのではありませんか。

神様を信じる人は呪いを祝福に、不幸を幸せに、闇を光の環境に、地獄ではない天国の民として生きるので、私たちは一生涯を幸せな信仰人として生きるべきです。

愛する信徒の皆さん、真に幸せな人になりたいのでしょうか。神様を人生の真なる主人として受け入れれば、偽りない真なる幸せが訪れるはずです。神様と同行する信仰人になるとき、幸せになれます。神様と共に生きる人ならば、だれでも幸せに生きられ、幸せな人が行く所々は幸せな場所と変われるでしょう。

今、私たちはコロナ禍で不安に満ち、憂鬱な時代を生きていますが、「いつも喜んでいなさい。」

というみことばを覚えて、生きていくべきです。

神様は私たちを幸せにならせて下さいます。神様が皆さんの心を満たして下さる貴重な贈り物がまさに幸せだからです。したがって、あなたは幸せな人であり、私たちは幸せな人であります。

<祈祷>

イスラエルを愛し、諦めないでおられる神様、彼らに宣布された幸せが今日を生きる私たち全員に、全世界に宣布されていることに感謝します。私たちが神様と同行することにより、幸せな人、幸せな生活、幸せな教会と社会になる信仰で、昨今(さっこん)の困難な時代を克服し、よく生きるようにさせて下さい。私たちの喜びとなる主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン