<2021年8月29日>主日礼拝「天国の国を望む信仰で」鄭然元牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年8月29>五旬節後第14主日                        

* 題目 : を望む信仰で

* 聖經 : マタイによる福音書1344-50

[/新共同訳]

44. 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。45. また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46. 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。47. また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48. 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49. 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50. 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

<説教>

幼い子供が母親に聞きます。「お母さん、神様はどこにいるの」。お母さんは答えます。「そうね、神様は天国にいるよ」。子どもは再度聞きます。「天国?あんな高い空に神様がいるの?」子どもはまたもや聞きます。お母さんもまた答えます。「そうよ。神様はあの高いて天の国にいるんだよ」。すると子どもは聞くのをやめて、「あ、そうなんだね。神様は高い天国にいるのね。」とお母さんの答えに満足したように見えます。ところが、今回はお母さんが自問し始めました。「本当に神様はどこにいるんだろう」。子どもには「あの高い天の国にいるんだよ。」と答えましたが、自分の心には確信を持てませんでした。

長年信仰生活を送り、常に神様の存在に対して十分わかり、理解していると思っていたが、自分の子の質問に思わず答えたものの、自分自身がその答えに満足できませんでした。いつの間にか、今日の教会は「神の国」、「天国」についてあまり語らなくなりました。私自身も、「神の国」、「天国」を話すことが段々減りました。私の説教ノートをみれば、「神の国」、「天国」についての説教は信徒のお葬式の際に一、二回した程度です。「天国」や「神様の国」を説教すると少し奇妙な感じがし、牧師は何を考えてあんな説教をするんだろうと思う信徒も少なくありません。

キリスト教の信仰の本質の一つである「天国」、「天の国」に対する確実な内容や信仰も持たず中途半端な信仰を持っているのが私たちの信仰の姿であるかもしれません。今日分かち合うみことば、すなわち「天国」、「神の国」というのは、第一歩に異端が既存の教会と信徒に関わろうとするとき使う内容なのです。

マタイによる福音書に出ている天国の意味を調べてみると、「天国」はメシアの初臨(しょりん)から部分的に実現できましたが、メシアの再臨を通して最終的に完成される二つの側面があることが分かります。神様のみ子であるイエス様が肉身を持った人としてこの地に降臨したのを「初臨」と言います。メシアであるイエス様が十字架にかかり、血を流す死を通して人類を救う働きを行った後、召天されました。そして、再度来られると「再臨」を約束されました。それで、初代教会から今日まで、わたしたちは再臨のメシア、再び降臨するイエス様を待つ信仰を持って生きています。

信徒のみなさん、イエス様と洗礼者ヨハネが叫んだメッセージは何でしたか。マタイによる福音書3:2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。そして、マタイによる福音書4:17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたと記されています。イエス様の言葉は悔い改めてメシアを信じることと、神様が治める領域、すなわち「天の国」に入りなさいという内容でした。新約聖書を通して、イエス様が与えてくださったみことばのほとんどが「天国」、「神の国」と関係があります。

私たち大阪教会は長年早天祈祷会の時間に聖書を1章ずつ読み、黙想してきました。8月5日から

新約聖書の初めの書であるマタイによる福音書を読んでいます。マタイ13章にはイエス様が天国(天の国、神の国)について7つの比喩を通して話された内容を既に読みました。この比喩はとても組織的な構成で天国の属性の多様な側面を提示しています。成長する天の国を、種を蒔く農夫の作業にたとえて説明しています。種蒔きの際、必ず良い土地に蒔かれないが、必ず実るだろうと話されます。11節イエスはお答えになった。「あなたがたは天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」

また、農夫は畑に良い種を蒔くのが当たり前ですが、敵が来てその畑を荒らすため毒麦を蒔いていきました。農夫の僕たちが言います。「毒麦を抜いて集めましょうか」。しかし、農夫は言います。刈り入れまで両方とも育つままにしておき、刈り入れのとき区別したらよいと言います。農夫の決定には一つの事実がベースにありました。彼は毒麦を抜く作業中、麦を傷めるかもしれないと知っていたのです。

続くたとえは、とても小さいからし種のたとえでした。このたとえは続いて、酵母と毒麦の例えの意味を再度話しています。たとえは目立たなく、みすぼらしく、隠密な始めと勝利という結果の絶頂の対比に焦点を合わせています。神の国はいくら小さくてみすぼらしい形だとしても、その種が一旦蒔かれると育ち始め、そのあとの実るまで成長する過程を経験します。そして、その成長の過程において反対勢力であるサタンがいくら強くても最終勝利は神の国が収めることを教えておられるのです。

今日の本文である44節からは天の国を畑に隠されている宝、宝を見つけたことのたとえです。良い真珠を探していた商人の行動を説明しています。宝を見つけた人と良い真珠を見つけた商人の行動は、自分の所有を諦め、「宝」、「真珠」を持ちたいとの決断でした。これを聖書学者たちは、自分の所有を放棄することで得たのは、宝と真珠を所有することですが、これは天の国を所有することであり、神様の統治をうけるとの決断であると解釈します。

そして、最後のたとえには湖で網を投げ降ろし色々な魚を集める漁師の人が出ます。網をよく手入れし、力を尽くす努力で魚を取ります。たくさんの魚が網で引き上げられました。引き上げられた魚の中で、良い物は器に入れて売ろうとしますが、悪い物は引き上げられたとしても、投げ捨てられると話されます。

今日のみことばを調べると、容易く成れることはないということが分かります。天の国を得るための徹底的な要求が伴います。貴重な宝と真珠を得るための努力と犠牲が伴うことが分かります。そして、このようなたとえの内容を見れば、天の国を所有することは、神様の統治をうけることであり、自分の所有物を全部放棄することで得られること、すなわち、自分の所有権を放棄して自分が十字架で死ななければいけないとのことを告白しています。このように、十字架は天の国と不可分の関係であります。

日本教会に影響力のある牧会者がこのような表現を使ったことがあります。「天の国はどのようなところですか」という質問に、「行けばよいところだと知っていながら、なかなか行きたがらないところ、それが病院と天国です。私たちがいつかは全員死んでから行くところではありますが、死んでからいくところの電話番号は「1059(てんごく)」です。」と話しました。1059は日本の葬儀社たちが好きな番号だそうです。天国と言う言葉は「国」、「領土」を指す言葉ではありません。神様の愛の支配下で、神様が私たちと共におられる領域を意味します。神様のみ旨が受け入れられるところでもあります。

今日の教会と関連して考えることができます。イエス様が十字架の血で代価を払い、建てて下さった教会は、尊い天国のため招待した場所であり、究極的には未来に完成する永遠なる天国への保障だとも言えます。信徒の皆様、私が8月15日に平和統一主日礼拝を通して、「アフガニスタン」の事態についてお話ししました。タリバン勢力が12の重要な都市を占領したと伝えましたが、次の16日アフガニスタン政府がタリバンに降伏し、彼らは首都カブールに無欠(むけつ)入城(にゅうじょう)しました。そして、今の状態を私たちはニュースを見ながら心配していませんか。

政治、宗教、社会全般にわたって武装集団が行うことが目に見えるようです。はっきりしているのがあります。一つの国もどの人が政権を握ったのかによって国の規定が変わります。2014年、ヨーロッパ連合軍はアフガニスタンの政府に軍事作戦権を移譲しました。しかし、政権は維持できず、米軍が撤退する決定を下したとたん、全国土が武装団体に占領されました。今まで、20年間多くの国が助け成立させた人権問題や女性問題、何一つ保障できない無政府状態になり、武力が物を言う国になってしまったのです。

信徒の皆さん、大韓民国の主権は誰にあると思われますか。大韓民国憲法第1条2項は「大韓民国の主権は国民にあり、全ての権力は国民から出る」とし、国民主権主義を明らかにしています。そしたら、北朝鮮の主権は誰にあると思いますか。大百科事典を調べると、朝鮮人民民主主義共和国の憲法の基本権利は「人がすべての主人であり、すべてを決定する。」と紹介しています。ここで、人が全ての主人であると言う言葉は人が世界と自分の運命の主人であり、人がすべてを決定するということは人が世界を改造し、自分の運命を開拓するにあたって決定的な役割をすることを意味します。

私たちが住んでいる日本の憲法は主権が誰にあると明示しているかを、「日本国憲法の基本原理を「個人の尊厳」に求め、そこから導出される原理として、「基本的人権尊重」、「国民主権」、「平和国家」を示した。」とのことでした。私の周辺の重要な国家は全部同じことを言っています。国家の主権が、国民、人、国民主権だと言いながら、すべての国家が人に主権があると明示しています。

愛する信徒の皆さん、天国、天の国、神の国は、神様の主権が実現されるところです。このような天国に入れる条件は血統ではなく、罪を悔い改めてメシアであるイエス様を信じる信仰で入れます。イエス・キリストによって生まれ変わった主の民で構成されたこの国は民族性や血統を超越するのでユダヤ人や異邦人の差がないことを私たちはイエス様の福音から知っています。ただ、天の国の未来性と現在性を考えれば、二重的な時間で説明しているのがわかります。マタイ12章28節 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

そして、神の国はあなたたちの中にいると、ルカによる福音書17章20節で イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21.『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。これはイエス様を信じるある個人を指す言葉ではありません。共同体の中に臨在し、おられるとの意味です。この共同体は教会を意味する言葉でもあります。

わたしははっきり皆さんにお伝えします。現在と未来の二つの天国は別々のものではありません。現在の天国なしでは、未来に実現できる天国もないからです。ただ、私たちは私たちの罪を悔い改め、神様の主権が実現できることを望みながら、その実現のために力を尽くして信仰生活をすべきであり、希望を持って天の国を目指して進めなければいけないのです。そして、今日、この地に建てて下さった教会が天の国を伝え、この地で経験できる尊くて美しい信仰共同体とならせるために努めなければいけません。

今日、私たちの手に持たされた宝と良い真珠とよい魚たちが、天の国を象徴するたとえであり、私たちは所有しているすべてを投資して、それを見つけて取る信仰を持ちますように主のみ名で祈願いたします。

<祈祷>

愛する神様、私たちに天国を許して下さり、感謝をささげます。この美しい天の国を向かっていく旅人である私たちが、希望を持って天国への旅路ができるよう、強めて下さい。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン