2021年 4月 18日] 主日「疑いから信仰へ」鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 [ 2021 4月 18復活節第三主日

説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 의심에서 믿음으로 いから信仰

聖書 : 요한복음 20 24-29 ヨハネによる福音書20章24節-29

 

[/新共同譯]

24. 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスがられたとき、彼らと一にいなかった。25. そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26. さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一にいた。にはみな鍵がかけてあったのに、イエスがん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27. それから、トマスに言われた。「あなたの指をここにてて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28.トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29.イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気でしょうか。

先週の主日から映像礼拝を中心に礼拝をささげています。映像礼拝をささげる信徒は不便だと思いますが、忍耐することによって大きな恵みが溢れますよう祈願いたします。一週間、関西地域のコロナ感染が驚くほど増えました。去る16日(金曜日)、世界の患者の統計を見ると、死者が300万人を超えました。大阪市の全人口が275万人ですが、それより多くの人が死んだということです。私たちは、一日も早く終息できますよう祈りましょう。

イエス様が復活され、マグダラのマリアと女たちの前に現れました。弟子たちが集まっているところに来られましたが、トマスは一緒にいなかったです。トマスは弟子たちから復活したイエス様が現れたと聞きました。この話を聞いたトマスはどうやって死んだ人が甦るのかと反問します。自分はイエス様が再び生き返ったら、彼の体の痕跡を触ってみて、目で確認できれば信じようと言いました。このようなことがあった8日後、イエス様は弟子たちのところに現れました。

今日のみことばを見れば戸には鍵がかけてあったのに、イエス様が来て真ん中に立っておられたと記しています。弟子トマスも他の弟子たちと一緒にいました。イエス様がまずトマスに声をかけました。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。」と言われました。この言葉は、イエス様がいないときに、弟子たちにトマスが言った言葉です。十字架にかけられ死ぬ際にできた釘の跡がイエス様の手にはありました。ローマの兵士たちはイエス様のわき腹に槍を刺して死を確認しました。そのとき負った傷に触れれば信じられるとの言葉です。トマスの言葉を聞いていなかったのに、イエス様はトマスが疑うことを知っており、自分の手を見、わき腹にあなたの手を入れなさいと話されたのです。

イエス様が語られたみことばを見ると、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」でした。この話を聞いたトマスは、想像を超える話をするようになりました。28節で、「わたしの主、わたしの神よ。」と答えました。この言葉は、変貌(へんぼう)の山で弟子ペトロがイエス様に告白した内容と並ぶ信仰告白であります。マタイ16章16節では、「シモンペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた」。その告白を私たちはよく知っています。

今日の状況は復活された後に、弟子たちからもらった最初の信仰告白です。イエス様は、このような告白をした弟子トマスに話し続けます。 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。復活されたイエス様を見るだけでなく、体に残っている痕跡を見れば信じられると言ったトマスがイエス様に出会った瞬間、彼の考えが変わりました。普通は「あ!先生は本当に復活されましたね!」と興奮し声を張り上げますが、トマスは違いました。彼は3年間、イエス様のそばですべてを見ました。イエス様がどのような生活をし、何をされたかを見て知っています。死を迎えることと3日目に再び甦るとの話を彼は覚えていたはずです。それが実現された形で、自分の目の前に立っておられるイエス様を見てこみあがったのが彼の信仰の告白だったのです。

トマスの心には「疑い」がありました。疑いとは、「信じられない、または正しく知らず不思議に思うこと。」という意味を持っている言葉です。 「確実な根拠がなくて信じられない状態」を指します。似通った言葉で「疑惑」もあります。 「ある事実を信じることができず、不正があるのではなどと疑いを持つ」という意味です。私たちがよく使う「疑い」、「疑惑」という言葉は、人の心理的な状態を表します。言語は、心理的な言語と物理的な言語があると学者たちは言います。体と心を持っている人は、脳と胸にあることを表現する言語は同一ではないそうです。心理的な言語は、人が経験した痛み、苦しみ、考えと感覚的なものを表現します。物理的言語は、人が経験したある状況で、実際することを通して認識して表現することばです。

私たちが生きていきながら、私たち自身も、弟子トマスのような経験をします。イエス様が十字架にかけられ死んだことは弟子の立場にとって、あまりにも大きな衝撃でした。それで、トマスも、十字架で死んだイエス様が復活したということを受け入れ難かったのです。自分に確信を与えられるいくつかのことを考えていたでしょう。トマスは、他の弟子たちに「あの方の手の釘跡を見、わき腹に手を入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うほどだったのです。

このような考えをしているトマスの前に、先生、イエス様が立っておられるのです。イエス様が先に言われました。「トマスよ、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」。みことばで重要に扱われるのは次の言葉です。「トマスよ、あなたが言う通り、わたしの手を見て、手をわき腹に入れ、確認して疑心を捨てなさい」、すなわち「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」でした。疑う心では信仰を抱けないのです。

人が生きながら、人間関係に疑いを持つと互いの信頼が崩れます。より発展的な関係を持つことができないことだけでなく、むしろ関係が切れ、悪化します。疑いは先入観から来る場合もあります。「多分そうだろう。」、「私が考えていることが正しい。」とし、自分の経験や普段の思い、心理的な思考をするようになります。時には他人の言葉だけ聞き、人を疑う場合もあります。もう一つは、コミュニケーションの不在から来る場合もあります。お互いが持っている考えを分かち合いながら、会話や他の方法で互いにコミュニケーションを取れば良いのです。しかし、お互いの間のコミュニケーションがうまくいかない場合は、いつも誤解を招き、進んでは疑いをもたらします。それで、人はコミュニケーションを取り、関係をよく維持することが必要だと言われます。

疑いを持つようになる理由はもう一つあります。それは、事件や物事の本質、すなわちその本質がわからないときです。皆さんはビジネスの取引をするとき、小切手を使用します。私は、最初小切手を見たとき、現金通貨とは別の方法で、金額だけ記録された紙がお金の価値と同等であることが不思議で疑いを持ちました。「どうやってこの紙一枚が莫大な現金貨幣のような機能を持ってるのだろう。誰のお金を出すのだろう。」という考えをしました。これは私が小切手の本質をよく理解できなかったときに生じた疑問でした。

弟子トマスの考えは、自分が経験した人間の本質、人は死ねば終わり、肉体は土に帰る存在だと思っています。もしイエス様が復活をされたということを、物理的な事件として受け入れられるためには、自分が直接手を入れてみるときだけだと思ったのです。これは弟子トマスだけでなく、誰でもそう考えたでしょう。

戸に鍵がかかっている家の中に入って来られたイエス様がトマスの前に立っておられるのです。

「トマスよ、指をここに当てて、わたしの手を見なさい。そしてわたしのわき腹に入れなさい。その疑いを捨て信じる者になりなさい。」と言う、その現実の前で物理的な言語で答えます。これは夢でもなくイエス様の霊でもない現実の前で、彼は驚かざるを得ませんでした。死んだと思っていた先生が、自分の目の前にいるのです。

復活されたイエス様に出会った弟子たちに共通点があります。復活されたイエス様に会ったとき、彼らは驚きと同時に、普段先生が話された言葉が思い浮かびました。それに注意を払うべきです。教育は、まさにこのような目的を持っているのです。イエス様が3年間行った働きの中で重要なのが、弟子たちを訓練させ教育させたことであると言っても過言ではありません。トマスの告白に対するイエス様の賞賛は、今日、イエス様を信じ従う私たちにまで至ります。イエス様は言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。

愛する信徒の皆さん、皆さんと私は本当に幸いな人です。弟子トマスの経験を通して確実となったイエス様の復活を信じられるからです。信仰は聞くことから生まれると言った使徒パウロの言葉が浮かびます。復活されたイエス様に出会った弟子たちが疑いから解放され、信仰に進みました。私たちの心にも起こる疑いを今日のみことばで解決されますよう願います。疑いは神様のみことばに対して否定的に考えるようにさせます。疑いは信仰共同体である教会の中でも悪い影響をもたらします。信徒と信徒の間だけでなく、指導者たちと信徒の間でも、これらの疑いが生じると信仰生活に役立ちません。教会の活動や福音の働きにも悪い影響を及ぼします。お互いが円満なコミュニケーションをしながら本質をよく把握し、理解することで、お互いの誤解や疑いがない共同体を作り上げるべきです。

信仰は、お互いの心に平安を与えます。信仰は、お互いに強く信頼する心をもたらします。疑いから解放させ、信仰の道に進む弟子の告白「イエス様は私の主、わたしの神です!」。弟子トマスが復活したイエス様に出会った際行った信仰告白を私たちができることに感謝です。疑いから解放され、真の信仰の道へと進みましょう。

<祈祷>

愛の神様、私たちが疑いに陥り、正しい信仰の道へと進めないとき、聖霊様が知らせ、みことばを

通してわからせて下さり、感謝します。イエス様の復活は大きな疑いをもたらせる出来事でした。

イエス様の復活の実体を見、驚くほど変わる弟子たちの姿を見ます。主は私の救い主で、私の神様です。

今日も生きておられ、私たちを信仰の道に導き、祝福して下さり、感謝します。

難しい時代を生きる私たちに力を与え、守って下さい。復活されたイエス様のみ名でお祈りいたします。

アーメン