2021年 3月 14日 四旬節第4主日 「神様を試すこと」鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 < 2021 3月 14四旬節第4主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 神様を試すこと

聖書 : マタイによる福音書4章5節-7

<日/新共同訳>

5. 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6. 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」7.イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

 

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間もお元気でしたか。

先週の主日から礼拝堂で皆さんと一緒に礼拝をささげることができ、どれほど嬉しいかわかりません。しかし、まだ映像礼拝をささげている信徒がおられます。厳しい状況でも、讃美で力を得るように願い、祈りながら希望を持ってください。

上級学校への進学をする学生は、希望の学校に入るため受験します。学校の立場では、志願者の中で実力が備わった人を選抜しようとします。学生の立場では、その学校の合格のために最善の準備をし、「試験」に通れば学校に入ることができます。教会で使われる「試験=試す」という言葉は、おおむね信者に信仰があるかを知るために生じることを指します。時には信仰を鍛錬(たんれん)するために特別な人、環境、病などが与えることを言う場合があります。

「試す」、「誘惑する」に該当するヘブライ語は、「ナシュ」(nasah)であり、この単語から「試し」という名詞「マサ」(massah)が出ました。いつも聞いていた言葉だったのにと気づくことでしょう。この単語は、イスラエル民族が神様を試した場所を指している言葉です。モーセと共に脱エジプトしたイスラエル民族がホレブ山の近くで泊りました。水の入手が困難な砂漠と山岳地帯でした。多くの人が飲める水を探すことは容易ではありません。

 

参考出17章6‐7節 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。7. 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。)

水を必要とする人々にヤハウェ、神様がモーセに「岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」と言われました。モーセは神様の言葉に従い、民は水を飲むことができました。ここで行ったことが、なぜ「試し」という言葉の始まりとなったのですか。出17章17節では、そこの名前を「マサ、メリバ」にしたと記しています。この言葉は、イスラエル人がヤハウェ、神様が我々の間におられるかどうかを試したと記録されています。ここで「試し」という言葉が生まれました。飲み水がなかったため、モーセを恨んで、神様を試したことから生まれた「試し、誘惑」という言葉が「マサ」という言葉の始まりです。以降、申命記6章16節「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」

先週に続いて、今日のみことばを一緒に考えてみてましょう!イエス様は霊に導かれ、荒れ野で40日間断食をしながら祈りをしました。イエス様に来たのは悪魔、サタンでした。40日間断食をし、空腹を覚えていたイエス様を試しました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言いました。この試しを受け、イエス様はどう答えましたか。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(申8章3節)というみことばで退けました。

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせてから言います。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。最初の誘惑に対してイエス様が神様のみことばで答えると、悪魔も神様のみことばを用いり、対応します。悪魔が使ったのは詩編91編11節₋12節のみことばです。

『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ちたることのないように、/天使たちは手であなたを支える』。いったい、これはどのような意味ですか。神の子、イエス様のため神様が天使を使い、怪我がないように助けるだろうとの意味です。

ふと映画のワンシーンを思い出しました。青い服に赤いマントをかけ、空を飛びまわる映画「スーパーマン/ Superman」です。困難に陥った人々を救い、正義の味方で弱い者を助けるスーパーマンは天使のようなことをします。神様が日本語の聖書で「天使」と表現する「主の使い」を送り、保護するはずだから飛び降りてみなさいとのことです。最も信仰的に見えるこの行動を要求する理由は何だと思いますか。人の「精神的な面」を攻撃することです。悪魔の二つ目の要求に対するイエス様の答えも、神様のみことばを引用されました。『あなたの神である主を試してはならない』。

イエス様が「主を試してはならない!」と言ったみことばは、説教の前の部分で話したように「マサ」で行われた内容を意味します。旧約申命記6章16節「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない.としました。全能なるヤハウェ、主を試す行動を私たちも行っています。イエス様が悪魔にされた誘惑と同じ内容ではありません。私たちは生きている生活の場で、神様への信仰、信頼が薄まると自然に神様を試す愚かな存在なのです。

信徒に襲いかかる誘惑に関してのみことばを考えてみましょう。どのような誘惑を経験しましたか。初めに、信徒を罪に陥らせようとするサタンがもたらす試しがあります。旧約聖書ヨブ2章6‐7節6. 主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」7. サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。

ヨブに関するみことばは典型的に信徒を罪に陥らせる誘惑です。イエス様が空腹を克服する必要があったように、ヨブも初めに肉体的な苦しみに遭います。私たちも同じだと思います。病による肉体的な苦しみに襲われると、簡単に崩れてしまいます。体が病気になると、肉体的なことだけでなく、精神的にも弱まります。そして、神様に対して疑問が生じ、不満が積り、噴出するようになります。

二番目に人の欲望によって生まれる誘惑があります。新約聖書ヤコブの手紙1章14節に「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」。人間が持つ、罪に走ろうとする習性上、私たちは過(か)欲(よく)によって罪に陥ります。欲とは私が持っているものに満足せず、必要以上に欲しがる心から出てくる罪です。私に与えられたすべてが恵みで、祝福だと考えるのであれば、必要以上に何かを持とうとする欲は手放せられると思います。

三番目に神様からくる誘惑もあります。一番代表的なことが、神様がアブラハムに与えた独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさいとのことです。創世記22章1‐2節「神はアブラハムを試された。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい. これは

信徒の信仰と人格を鍛錬させるためのことで、試練の性質が強いです。自分の欲によって罪を犯すのではなく、信仰をもっと強めるために神様が下す方法なのです。

<思い違いをしてはいけません。>

私たちはこのような色々な誘惑に遭うとき、どのように対処すべきでしょうか。まず、誘惑の性質を分別しなければならないのです。新約聖書ヤコブの手紙1章16節、わたしの愛する兄弟たち、思い違いを してはいけませんとの強いみことばを与えて下さいます。韓国語表現である「騙されるな」より日本語表現「思い違いをしてはいけません」の方がもっと現実的です。

教会が誘惑に陥る場合もあります。お金、物質からくる誘惑があるのです。初代教会で起きた誘惑を使徒言行録5章で見ると、アナニアとサフィラが自発的に自分の財産を処分し、献金をささげる過程で行ったことです。献金をささげながら嘘をついたのは、主の霊を試すことであり、その結果、悲惨な死を迎えたのです。(参考使徒5:9)イエス様が悪魔に最初にされた誘惑が、物質的なものだったと話しました。そして、もう一つは、教会が人を選ぶときの誘惑があります。使徒1章で、イエス様の弟子たちが「イスカリオテのユダが死んだ後、使徒一人を選ぶ場面が出てきます。一人を選ぶために初代教会は祈りながら、そのことを推進しました。1章26節に「くじをひくと、マティアが当たった」と記しました。初代教会が行ったくじをひく全過程こそ、教会が持つべき姿勢です。「祈ること」です。教会がサタンの思惑から逃れる唯一な方法は祈りを通して、聖霊の導きに委ねることです。

今日、我々は、2021年に公同議会で決めなければならない重要なことの一つである教会の任職者を選挙する日でもあります。普段は静かだった教会なのに選挙が近づくと、なぜか良い人も多く、悪い人も多いのですか。それが悪魔の誘惑の中にいる様子です。公同議会を控え、祈祷会を持ちましょう。その理由は、正しく特定の人物の選出するためではありません。神様がこの時代に、私たちの教会に最も必要で尚且つ適切な人物を選ぶ機会を与えて下さったことに感謝しながら、私の心を開くためです。選挙の時期になると誹謗し、人を見下げる行動をしてはなりません。

学校は成績が優秀で、自分の学校に適切な学生を選抜することが目標です。神の国のために、教会は、誠実に仕え、奉仕する働き人を選択することが非常に重要です。長老、勧士は名誉のための職分ではありません。自身が欲するからもらえる職分でもありません。信徒の祈りの中で、主のみ前で謙虚に仕えることができる人を選ぶ必要があります。教会の宣教と福音事業を担える働き人を立てなければならないのです。奉仕の先頭に立つ信徒、すべての仕事に的確な判断を下せる知性を備えた人でなければいけません。

イエス様が悪魔の誘惑を受けながら与えられたみことばは「主を試してはならない」という強力なメッセージでした。私たちはうっかり主を試す過ちを犯してはいけないのです。3月28日公同議会が終わるまで、私たちは主のみことばに従い判断する成熟な信徒たちになりますよう、主のみ名で願います。

<祈祷>

神様のみことばで悪魔を退けたイエス様を見倣って生きていきたいと願います。私たちの偏狭な考えで、

神様を試す行動を取らない信仰を与えて下さい。神様のみ国のため、尊い働き人を立てられる知恵と

決断力を与えて下さい。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン