2021年 3月 7日四旬節第3主日<空腹が与える信仰>鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝< 2021 3月 7日四旬節第3主日

                  說敎 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 空腹が与える信仰

* 聖書: マタイによる福音書4章1節-4節

<日/新共同>

1. さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、に導かれて荒れ野に行かれた。 2. そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3.すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4. イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

<説教>

2021年が始まってから2週後、再び教会で礼拝を捧げることができなくなりました。コロナ禍が深刻になり、緊急事態宣言が再発令されたからです。その間、家庭で映像を見ながら心を込めて礼拝を捧げた信徒の皆様に感謝します。しかし、まだ個人的な状況や健康が良くなく、映像礼拝を捧げるしかない信徒の方もおられます。互いの為に祈りながら激励してくださることをお願いいします。

四旬節の第3主日です。イエス様の苦難を黙想して敬虔な心をもって一日一日を過ごしています。人間は食物を食べて生きています。一日で必要な最低限のカロリーを取って生きています。食物を食べたくなるのは人間の本能です。食欲は空腹を感じて食物を食べたい欲求,韓国語ではごはんの味,または입(イッ)맛(マッ)口の味とも言います。しかし食欲は適切なエネルギー摂取を管理する役割をします。これは消化系統,脂肪組織,脳の間の相互作用によりコントロールされていると言えます。このように、人は本能的に身体的な役割のために食物を取らなければいけません。食べてはいけないと禁じられたら、どのようになるでしょうか?すごく深刻な事が起こるでしょう。健康が良くなくて病院に入院された場合によっては、検査のため,治療のため断食をすることになります。断食とは「一定期間意識的に食物を食べない」との意味です。辞典では「宗教的遂行や儀式のため、一定期間の間食べない事」と出ております。

自身の意思により断食をすることもありますが、宗教的規則を守るために食物をたべられないこととなれば、やや深刻な問題になるかも知れません。信徒の皆様、四旬節の期間「私たち全員、断食しましょう!」と言えば皆さまは驚かれるでしょう。しかし教会の長い伝統の中で断食は行われました。それも40日間も断食を行いました。このような断食の始まりは言うまでもなく、イエス様の荒れ野での40日間が基準になっております。

 

初代教会の生活にも断食の期間はありました。教会法として最初にでてくる二ケア公議会(英語: First Council of Nicaea,ラテン語: Concilium Nicaenum Primum)が325年6月19日、現在のトルコのイズニクにあったローマ皇帝の別宮で集まったキリスト教の最初の公議会でした。ここで復活節が確定されました。キリスト教信仰において、基礎的な部分を当時の教会が共有するための重要な会議でした。このニケア会の内容を見てみれば、すでに四旬節の断食は教会の中で実施されていた様子がわかります。特に5世紀から断食の内容は大変厳格になりました。当時ローマ帝国の人たちは一日4食を食べましたが、この期間は一食、夜の食事のみ許可されました。

9世紀からは実践的な面から相当緩和されるようになりました。朝食と昼食を抜けば、相当お腹がすきます。それで夕食を前倒しに食べたりもしました。13世紀には飲み物と軽食を間食にすることが許されました。15世紀には修道者には午後の食事をとることと、信徒たちには毎日の魚を食べる事が許されました。それでは、教会はなぜこのような決定をして厳格に断食をしたのでしょうか?その理由は、人間は食べなければ生きていけないが、美味しいものを食べたがる欲やお腹いっぱい食べたがる欲を抑えるためなのです。それでは、宗教生活と敬虔な生活のために断食は必ず必要なのでしょうかと言う質問が出てきます。

最近の時代の流れでは、この様な宗教的な事により食物を食べられないようにすることは、話にもならないと考えるようになりました。私たちが四旬節を守るという事は、四旬節が持っている重要な思想を考えて行動に移すことを意味します。20世紀前までは、四旬節は物理的な努力を強調することがたくさんありました。しかし、現在の教会は、世界が経験した2度の大きな戦争と、破壊されつつある自然と生態系を見て神様の世界秩序を考えるようになりました。今日の改革教会が持つ四旬節の精神は、イエス様が最初に行った40日間の断食を深く考えるようになりました。四旬節の精神はイエス様の精神に間違った行動をしたことに対する反省と悔い改めが始まらなければいけません。神さまに逆らった罪に対する懺悔が必要になり、社会的責任を全うすることができなかったことに対する反省が追ってこなければいけません。

もう一度言いますと、四旬節の精神は懺悔と新たになることにあります。事実、懺悔と実践的行動が苦行、霊的な克己をもたらせます。この話は自身の誤った人生を悟り、真実な心で悔い改め、行動に表すことを意味します。「私の生き様を変えます!」という宣言は、私の間違った人生を振り返って正しい人生に戻り立つことを行動で表すことなのです。それで、教会はこの表現の中一つとして「断食の行動」を取り入れたのです。私が四旬節に関する話をするとき、洗礼と深い関係がある節期だと話をしました。洗礼、新しい人生、救いを深く黙想し、そして実践することに繋がるからなのです。四旬節は、特に心を浄化することに中心を置き、私たちの肉体的決断を断食を通して実践するのであれば、大変難しい行いになるかも知れません。

 

四旬節の期間、私たちがいつも心に留めなければいけないみことばがあります。旧約聖書ヨエル書2章12節主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで」と仰せられました。今こそ、このもことばが持っている意味はなんでしょうか。今までどうであれ、これからすることがあるという意味です。何をしなさいとおっしゃっていますか。断食して泣き悲しんだ心で神様の前に来なさいと言っておられます。断食することは少し変わった人がすることだろう、することが無いから一食くらい食べなくても大丈夫な人がすることだ、私は泣くほど過ちを犯してはいない、悲しむほどのことはない!と考えられるかもしれません。みことばは続きます。13節に「衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ」と話されます。

ユダヤ人の長い信仰伝統の中で、悲しい出来事があったり自身の罪を悔い改め反省するときに衣を裂く行為をしました。しかし神様から与えられたみことばは、目に見える衣を裂くのではなく心を引き裂けと言われました。このみことばは心から出てくる真実なる悔い改めをしなさい、悔い改めの意味は「歩んできた道の方向を変える」。悔い改めて神様ヤハウェに戻ってきなさい。そして、神様がどのような方かを説明しています。神さまは恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富む方だといっておられます。それだけではなく、悔い改めて神様に戻ってきたら、災いを下さないと約束されました。

私のお腹を空かせることは、人が自ら行う行動の中で大変な決断をすることです。みずから空腹状態を作る努力を行います。特に四旬節の期間、クリスチャンである私たちが一定の期間、または一日一食の肉体的な断食を決断することは、自身を超越して抑制することを意味します。愛する信徒の皆様、聖霊に導かれ荒れ野に行かれたイエス様が40日の間、昼夜、食事をされませんでした。その理由は人類を救う働きのために準備され、お祈りされたのです。聖霊に導きによって行かれたのにもかかわらず、サタンはイエス様に関わってきました。40日間何も食べなかったイエス様を誘惑しました。

「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。石がパンになるようにして食べなさいということは大きな試みです。しかし、イエス様はどのようにしてこれを克服されましたか?「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」と言われました。今日のこのみことばに頼って、私たちはみことばを受けて生きていくクリスチャンになったのです。今日もサタンの誘惑は私たちに続いています。正しい信仰の道を歩むとき私たちを誘惑します。時には最も敬虔な素振りで、最も熱心にするように見せ、神様の意志に逆らうサタンが私たちの周りに存在しているという事実です。自身を空(から)にすることは、神様のもので埋める良い機会です。私が空腹を経験して我慢するとき、私の魂はみことばで溢れるはずです。私がみずから空腹を作り、私の財布を食べられない人たちに開いてください!この時、主は霊的にも人生においても限りなく多くのものを満たしてくださるはずです。この四旬節の期間、満腹になるより、空腹を選択される生活になれますことを主のみ名によって祈願いたします。

<祈祷>

主よ、私たちがみずから空腹を経験できるようにさせてください。みことばと敬虔を渇望するようにしてくださり、四旬節の霊性と共に進ませてください。過ちの姿を探し出して心を引き裂き、主に戻る人々を祝福してください。私たちを十字架の道に導いてくださるイエス様のみ名によって、お祈りいたします。アーメン