2020年9月13日主日説教「非対面の奇跡」鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <2020年 9月13日>五旬節後第15主日 

說敎 鄭然元牧師 / 通訳 金光成長老

* 題目 : 비대면(非對面) 의 기적 非対面奇跡

* 聖経 : 누가복음 7 1-10 ルカによる福音書71-10  

<新共同訳>

1. イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。2. ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。3. イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。4. 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。5. わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 6. そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7. ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。8. わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 9. イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」10. 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

 

愛する信徒の皆さん、過ぎた一週間もお元気でしたか。

大きな台風が来るそうで、みんな心配しながら暑い夏を過ごしています。新型コロナウイルスの時代を生きている私たちに、イエス様は驚くべきことを教え、話してくださいました。私たちが、今回のコロナ禍で、頻繁に使っている言葉の一つが「非対面」です。皆さんもよくご存知のように、非対面とは「お互いが顔を向き合わない」との意味です。直接顔を合わせない状態を指します。先日、日本の大手銀行が口座を作る際に、紙通帳を作成すれば支払いが発生するとの報道がありました。銀行が通帳を作ってくれるのは、あまりにも当たり前のことだと思っていたのに今からは、お金を取るそうです。それでは、銀行の目標は何でしょうか。紙通帳を作るコストと人件費を削減することです。そして、インターネットバンキングやスマートフォンのアプリケーションとSNSを使った非対面取引が望ましいとのことです。

コロナ禍は私たちの日常生活に多くの変化をもたらしました。礼拝は当然礼拝堂に集まって讃美と祈りを捧げ、主のみことばを聞き、信徒の交わりをするものだと思っていました。しかし、今は教会でさえ非対面の礼拝を捧げるようになったのです。イエス様が今日のようなコロナ禍の時代に、牧会の現場におられたのであれば、どうされたのでしょう。新約聖書を読む途中、私の目に飛び込んだみことばがありました。イエス様の宣教初期に起きたことです。

カファルナウム[Capernaum]は、「ナホムの町」という意味の名前を持つガリラヤ西北に位置するところです。イエス様は公生涯の初期に、そこを中心地とし伝道を始めました。それでカファルナウムは「自分の町」と呼ばれたりもしました。(マタイ9:1;マルコ2:1)イエス様にとっても非常に重要な意味を持つ場所です。カファルナウムに関連があるみことばを挙げると、ここの税関で仕事をしていたマタイがイエス様に会い、弟子になりました。発熱で横たわっているペテロのしゅうとめを治したところがまさにカファルナウムです。それだけでなく、中風の人を治し(マタイ9:1-8;マルコ2:1-13)また、多くの悪霊にとりつかれた人と病人を癒やされました。(マタイ8:16-17;マルコ1:32-34;ルカ4:23、40-41)。

イエス様が五つのパンと2匹の魚の奇跡で5000人を食べさせたところでもあります。聖書の考古学的にも重要な所で、玄武岩で造られた1世紀の会堂と4世紀に作られた家庭教会が発掘された場所でもあります。カファルナウムは、ガリラヤ湖を中心に、ローマの軍隊が駐留をするほど重要な地域でした。ここにローマ軍の指揮官がいましたが、彼らの職分は「百人隊長」でした。新約聖書で何人かの百人隊長が登場をしています。カファルナウムのローマ駐屯軍の百人隊長は、非常にユニークな人物でした。今日の聖書のみことばに出てくる百人隊長を見てみましょう。

この百人隊長は、自分が重んじた部下を大切に思っており、彼を失いたくなかったのです。イエス様がカファルナウムに帰って来たという話を聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちに、イエス様を訪ねて自分の部下を助けに来て下さるよう頼みました。それで、ユダヤ人の長老数人がイエス様のもとに来て、百人隊長の部下を治すように願います。この時、長老たちの話を見ると、「この方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」と言っています。この言葉は、異邦人であり、ローマ駐屯軍の指揮官にもかかわらず、植民地下の地域の人々のために、神に礼拝を捧げる場所、みことばが勉強できる教育場所である会堂を自ら建てたと言っています。

それだけでなく、植民地の人々を愛する寛大な百人隊長とも言いました。そこでイエス様は弟子たちやユダヤ人の指導者たちと一緒に百人隊長の家に向かって歩いて行きました。その家に遠からぬところまで来たとき、その百人隊長が送った友だちが走って来て、イエス様に言いました。「主よ、ご足労には及びません。」この言葉を少し説明してみましょう。自分の部下が死にそうになると、イエス様は癒やせると信じ、ユダヤ人の長老たちを送った百人隊長です。いざイエス様が自分の家に向かって来るという話を聞き、他の人をイエス様の一行に早く送ったのです。

そして、その伝言を言わせた人が「主よ」という言葉を使っています。一般的に、「先生」という意味がありますが、能力に満ちた神に対して使う言葉です。さらに「ご足労には及びません。」と言うのです。ユダヤ人の長老たちには部下を助けに来てほしいと言いましたが、今となっては家まで来なくてもいいとのことです。この意味は、病気を治さなくてもいいのではなく、後半でもっと詳しく説明を付け加えています。

百人隊長の言葉を伝える人は「私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と言います。イスラエル人の立場から見れば、異邦人である自分は貞潔な人ではないとの意味です。そして「ですから、私の方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」 と言います。この話から、イエス様がガリラヤの周辺で行ったことを駐屯軍司令官としてよく知っていたのが推測できます。どのようにイエス様と接すればよいのか判断出来なかったのです。その上、軍の司令官がイエス様に直接会って、このようなお願いをすることに対して、自分やイエス様の立場を配慮した上での言葉です。

ところが、より決定的なのが、その次の説明です。百人隊長は、「あえてそのような人である私が、イエス様を私たちの家に来てもらい、部下を癒やしてほしい」。その旨を軍の司令官である自分の姿を通じて説明します。まず、「ひと言おっしゃってください。そして私の僕をいやしてください」私も権威の下に置かれている者です。私が兵隊の兵士に『行け』といえば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。ですからイエス様は私の家まで来なくてもよいのです。ただ「病気が治るようにひと言おっしゃってください」と説明しているのです。

この言葉を聞いておられたイエス様は感心し、従っていた群衆に話されました。今日のみことばでは「言っておくが、イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない。」と記されています。「이만한 믿음은 만나보지 못하였노라!」韓国語聖書ならではの表現です。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない!しかし、このみことばの意味を、メッセージの翻訳者ユージン・ピーターソン博士は、「神を知っており、神のみ働きを知り尽くしているべきイスラエルの民の中でも、こんなに単純な信仰は、まだ見ていない」と訳しました。イエス様は単純でありながら、力強い信仰を持っている百人隊長を賞賛しました。しかし、同時にイエス様は、主の働く方式をまだ知らないとイスラエル人に向けて、叱ったのです。

結果はどうなりましたか。「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」でした。イエス様は百人隊長の家に行かれましたか。当然行きませんでした。しかし、百人隊長の部下は癒やされたとのみことばです。対面、人と人が会わなければならない状況でしたが、会ってから奇跡が起こったわけではありません。非対面、お互いに顔で会ってませんが、言葉によって能力が現れ、奇跡が起こったのです。

新約聖書で、今日の本文のみことばのように、非対面にもかかわらず起きた奇跡がたくさんありました。

今日の焦点を非対面に置いて考えてみると、信徒の皆さんもよく知っているみことばがたくさんあります。その中、マルコ7章に記録されたシリア・フェニキア生まれの女性とイエス様との出会いから成されたことを紹介します。イエス様はティルスの地方で福音を伝えました。イエス様の立場で考えると大衆向けに教えようとされたのかと思います。24節、「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」と記されています。

人々に知られないようにしたかったが、できなかったのです。これを知って、汚れた霊につかれた幼い娘を持つ母親がイエス様のことを聞きつけ、娘を癒やしてほしいとひれ伏しました。しかし、イエス様は異邦人である「シリア・フェニキアの女」の懇願を冷静に断りました。しかし、この母は主人の食卓の下の子犬も、子どものパン屑は頂きますと、自分はパン屑でもいいから娘を治してほしいと懇願しました。この言葉を聞いたイエス様が母親に言ったのは、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」でした。この女性が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていました。イエス様が悪霊にとりつかれた娘に会ったり、悪霊を叱る場面も出ていません。非対面、互いに会わなかったが、奇跡が起こったのです。

聖書の中で「奇跡(Miracle)」という言葉を多く見ます。自然の法則を破ったので驚きが起こり、宇宙の中に神の積極的な介入の証拠として顕れる事件を指します。奇跡を表現するヘブライ語とギリシャ語では、奇跡的な出来事を意味する言葉の中に、意味が少しずつ異なる違う言葉があります。ヘブライ語の「パレ」(pele)という言葉は、「驚くべきこと」、「奇事」、「奇妙」という言葉で、神がなさったことが原因で発生した畏敬の念を強調しながら、使われる言葉です。(出15:11;イザ9:6 )もう一つ別の言葉は、「モフェス」(mopheth)です。 「異跡」、「標識」という言葉は神の懲戒と保護の証拠としての奇跡を説明する際に使用する言葉です。(出4:21;申7:19-24)「オート」(Oth)は奇跡的な標識と神と神の意図を表す特別な啓示を強調する、奇跡を表現する言葉です(申4:34;イザ38:7)。

神がイスラエルの民を出エジプトする過程で、嘘をつき、頑なだった王とエジプト全地域を覆った伝染病は、複数の旧約の記者によって引用されました。それらは、イスラエル人とエジプト人の両方に恐れを抱かせました。これらの奇跡は、主がおられることと(出7:5)、主はイスラエルの民を導き出す(出6:7)ことを表わす道具です。出エジプトの過程で、もう一つの神の意図はこの奇跡を通して、エジプトの神々を懲戒し、主の裁きを証明したことです(出12:12)

イエス様の当時の言語であったギリシャ語で「奇跡」を説明する言葉は、「デュナミス」(dynamis)という言葉が最も代表的です。この言葉の意味は、「能力のある行動」ですが、この奇跡は、自然の法則では説明できず、ただ神の能力だけで説明できる事件です。(マルコ6:2;使徒2:22)また、「セメイオン」(semeion)は、その奇跡を行なう人が本当の神の使者であることを示す徴であるとの意味で使われた言葉です。イエス様の奇跡をまとめて見ると、当時公会議員の一人だった「ニコデモ」がイエス様に対して行った告白が、奇跡の重要性について言ったのだとわかります。

2. イエスのもとにて言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとからられた師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ3:2)

「ニコデモ」は、イエス様がどんな方なのか、また、このような奇跡を行う背景を知っています。イエス様がカファルナウム百人隊長の信仰を褒めるとき、イスラエル人に振り向いて言われた内容を連想させる部分です。 「神を知り、神が働く方式を良く知っておくべきであるイスラエルの民が、知らずにいる」という指摘です。ある信徒は言います。 「牧師任、私こんな状態なので、主の奇跡がおきればと願います」。どれほど大変なら、こんな言葉を口にされますか。私たちは、このような考えをします。間違ったことや悪いことではありません。奇跡が一度起こればいいのに… 。本当に私もそのような願いを切に祈ることがあります。自分の力ではどうしようもない、一人では解決できないことの前で、主にそのような祈願をします。聖書で、多くの奇跡が起き、その内容を聖書は詳細に記録してあります。それで、私たちは、この奇跡を信じ、奇跡が起こることを期待しています。

信徒の皆さん、もう少し深く考えてみましょう。奇跡が信仰を持たせるのではないということです。エジプトの王ファラオの心は神の働きであるモーゼの奇跡によって、よりかたくなになりました。ファラオは神とその民をより一層憎み始めました。(出8:19)イスラエルの歴史の中で最も邪悪な王は、アハブと彼の妻イゼベルです。彼らは預言者エリヤが神のみ力で表わした奇跡を目の前で見ました。それにもかかわらず、その二人は悔い改めませんでした。結局は悲惨な死を遂げます。

イエス様の場合は、メシヤとして多くの奇跡を現わしました。そして、これを目撃した多くの人々は、むしろイエスを拒否しました。(ヨハネ9:28-34)さらに、イエス様に敵対する者たちは、イエス様が悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出したと主張したりしました。(マタイ12:22-30)主の奇跡を見たから、信じるわけではありません。イエス様がカファルナウムで多くの奇跡と教えを行いました。すると、カファルナウムの人々は、どの地域よりも熱心にイエス様を信じるはずではありませんか。

しかし、ここカファルナウムの人々は、奇跡は見て驚いたのですが、悔い改めなかったので、審判に関する警告を聞きました。カファルナウムだけでなく、悔い改めない都市についても戒めました。マタイ11:23-24では、主のみ力と奇跡が最も多く行われた町が悔い改めないので叱っておられます。「お前たちのところで行われた奇跡を、あなたたちは見ていないか?もしこのような奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町は粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいないと話されました。そして続いたみことばは、カファルナウムの傲慢と悔い改めないことによって、裁きを受けると預言されます。

(参考聖書/悔い改めない都市たち)

20. それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。21. 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。22. しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。23. また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。24. しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

奇跡を見ることで、信仰を作り出せない場合があることを申し上げました。しかし、奇跡とは人々が信仰と不信のいずれかを選択できる状況を作ります。奇跡によるキリストの役割、主の働きをよく観察すると、聖霊が共にいることによって、我々が信仰の道を選択できるようになるのです。

今日も非対面で映像礼拝を共に捧げる愛する信徒の皆さん、コロナウイルス禍により、教会の価値の中で最も大切な集い、共に礼拝を捧げることが不可能な状況です。それにもかかわらず、このように非対面での礼拝を捧げますが、主は備えた恵みを与えて下さいます。カファルナウムのローマ軍の司令官、百人隊長は自分の立場を考え、徹底的に自分を下げる謙虚さを見せました。そしてイエス様を配慮しながらも、自分が望んでいたことを成就します。会えることの祝福も重要です。しかし、この非対面の中で起きた奇跡の祝福は、より大きな意味を私たちに与えてくれます。 「ひと言おしゃってください。そして私の僕を癒やして下さい」。これはイエス様がみことばで成就していることを教えています。又、中心になるメッセージであります。このような信仰で生きて行きましょう。みことばが私たちを新たにさせ、新しい力を与えるのに違いありません。

<祈り>

能力が溢れる主よ、お造りになった人の必要を知り、満たして下さる主よ。今日与えて下さったみことばが私たちの生活と信仰生活の良い座標にならせてください。特にコロナ禍によって非対面の時代となり、そのような生き方を強いられている私たちに希望のみことばを与えて下さり、感謝を捧げます。みことばを信じ、生きて行こうとの固い決断と実践する信仰を私たちに持たせて下さり、感謝します。感謝しながら主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン