2020/7/19主日礼拝<信仰の再点検が必要な時代に>鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <2020712日>五旬節後第7主日

說敎 鄭然元牧師 / 通訳 金光成長老

 

* 題目 : 신앙의 재점검이 필요한 시대에 信仰再点検必要時代

* 聖書 : 호세아 14 1-4,9 (/ 2-5,10)

         ホセア14章1節-4節、9節(日/2節-5節、10節)

 

[(日)新共同]
2.
イスラエルよ、立ちれ/あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、の中にいる。3. 誓いの言葉を携え/主に立ちって言え。「すべてのを取り去り/みをおえください。この唇をもって誓ったことを果たします。4. アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬にりません。自分の手が造ったものを/再びわたしたちの神とは呼びません。親を失った者は/あなたにこそ憐れみを見いだします。」5. わたしは背く彼らをいやし/喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。10. 知ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神にう者はその道にみ/神に背く者はその道につまずく。

 

<説教>

信徒の皆さん、一週間お元気で過ごされましたか?先週の主日は教会創立99周年を迎え、感謝礼拝と任職式を行いました。ご協力してくださった信徒の皆さんに感謝いたします。

皆様と私は信仰生活をしながら、その目標をどこにおけばよいでしょうか?主のみ旨を成し遂げる生き方にするべきではないでしょうか。私たちがこの世を生きながら、主のみ旨を探し、それを成し遂げることを目標にすべきです。そのために生き生きした活力やポジティブな信仰生活が必要になると思います。

 

最近、社会の雰囲気が落ち込む中で、私たちは信仰生活のために何をすべきかを明らかにしなければ無気力になってしまいます。信仰生活における自分の信仰的な判断や調整が不可能になることがあります。このような現象は、本人が自ら招く場合もありますが、ほとんどは、外部的な影響を受けるからです。コロナ禍で、自分の力や意志とは関係がなく、信仰生活に困難をもたらしているのを、各自経験していると思います。ある方は、このような時間の中で、自分自身を省みて、信仰の本質を深く黙想するとともに、教会生活に関するものまで考えてみる有益な時間であると話されます。明らかなのはコロナ禍により、わたしたちは信仰の再点検が必要であるとのことです。

今日のみことばを通して、光のような教会、塩のような信徒になるために、より具体的な姿を一緒に探ってみたいのです。旧約聖書、39巻のうち17冊が預言書です。神が預言者たちに与えられたみことばを記録した本です。預言の内容は、神の約束の子孫であるイスラエル民族と周辺国家や到来する未来に関するみことばもあります。今日、選んだ聖書のホセア(Hosea、またはHoshea)は、預言者で、人の名前であり、聖書のタイトルです。ホセアの姓は、「ベンべエリ」すなわち「ベエリ家の子」で、ベエリは「井戸」を意味する言葉です。

 

当時は、ヨエル、ミカ、ヨナ、オバデヤ、そしてイザヤが預言している時代でした。

ホセアは、その人たちのうち、イスラエルの滅亡を預言した最初の預言者でした。又、もう一つはイスラエルに向けた預言が自分と関連していることでした。不実な女性とホセアの結婚は、不実なイスラエルを象徴するものでした。預言書全体を通して、神の審判は、イスラエルの不従順と背教行為に基づいています。神を離れて偶像を祭ることが彼らの根本的な罪でした。これに対して、神は厳重に罰を下すとの予言です。

ホセアは、他の預言者たちより独特な形で神に召されました。淫行の女、ゴメルをめとりなさい(ホセ1:2)という神のことばを聞くことから預言の働きを始めました。ホセアとゴメルとの間で「イズレエル」、「ロ・ルハマ」、「ロ・アンミ」が生まれました。(ホセ1:4、6、9)子供の名前も神が名付けられました。まず、「イズレエル」は、地名です。ここで大虐殺事件が起きました。

神はイズレエルにおける流血の罰を下し、イスラエル家における支配を絶つという審判の宣言でした。

 

二番目の子は女の子でしたが、「ロ・ルハマ」と名付けました。名前の意味は、「憐れまれぬ者」でした。

この女の子を乳離れさせた頃に、三番目の子が生まれ、息子で、名前を「ロ・アンミ」と名付けました。名前の意味は、「我が民でない者」という意味です。いくらなんでも、子どもたちの名前さえも不幸と闇が広がる意味を持つものでした。しかし、ここにも、主のみ旨がありました。「審判を下すのだ!憐れまず、決して許さない!あなたたちは私の民ではない!」とても耐えがたい名前です。それだけではありません。品行が良くなかったゴメルは子どもを産んでから、ホセアの元を去りました。それにもかかわらず、主はホセアにゴメルを再び愛し、連れ戻させるように命じます。(ホセ3:1-3)人間的に考えれば、想像できないことであり、受け受け入れがたいことです。

 

これらの過程でホセアは、個人的な経験の中で、神とイスラエルの民との関係が正しくわかるようになりました。そして、それを預言の核心的な主題の一つとして、宣布しました。ホセアは、イスラエルの民に「わが民は神を知ることを拒んだので沈黙させられる」(ホセ4:6)「我々は主のもとに帰ろう」(ホセ6:1)と叫びます。ホセアの審判に対する預言は、将来の希望も含まれています。主は、ご自分の民を審判と捕虜生活の中に永遠に残さず、捨てないだろうという希望の内容も含んでいます。

 

これらのホセアの預言の中心的な内容を念頭に置き、みことばを再解析してみてましょう。ホセアは、預言者のうち、非常に優しい面を持っています。イスラエルの民の霊的な状態が下がっていく原因を主が診断し、それを預言者に言わせたのです。「エフライム」は、イスラエルの12支族の中で最も優勢な部族です。各支族を分けて説明する時もありますが、「エフライム」と言えばイスラエル全体を指すときにも使われるほど、エフライムの地位には比重があり、重要な部族です。「エフライム」に対する主のみことばは、6章4節

4. エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。

 

ここで、「エフライム」は「北イスラエル」を指します。そして、「南ユダ」が出ます。だから、このみことばは、イスラエル全体を指します。どのような内容ですか。「お前たちの愛が(仁愛/ Kindness、Mercy、Compassion)がひどいとのことです。「愛・仁愛」とは慈しみを持って相手を愛する心を指します。ヘブライ語で「ケセド」(chesed)です。しかし、「ケセド」は改訳聖書で「慈しみ」(代上16:41)、「慈しみ」(創19:19)、「尽くす」(創20:13)「憐れみ」(マタイ9:13)などの複数の言葉で翻訳されています。そうすると、広く考えれば、「あなたがたは、慈しみも、尽くしも、憐れみもない人々だ!」とも言えます。愛があるように見えるが、すぐに消え失せる朝露(あさつゆ)の霧のようだということです。

 

今日、私たちの社会の特性がまさにこのようなものです。不確実な社会、不安と危機社会の中で、人々は何かを持続的に、継続しながら、忍耐する姿を失ってしまいました。何かするように見えるが、結果としては何一つ残っていません。光のような教会、塩のような信徒になることは、絶えず光を照らし、塩味を失わずにいることです。

 

2番目は、主はエフライムの混ぜ合わせる聖の危険性を指摘しておられます。ホセア全体を見ると、「エフライム」は、周辺の諸国民の中に混ぜ合わされています。このような状況を主はホセ7章8節でこのように言っておられます。「エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ/エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。」

 

このみことばの意味は、私たちには少し説明が必要ですが、イスラエル人にはおなじみです。

パンを窯(かま)に入れて焼きます。片面だけ焼いたと考えてみてください。パンの味が出ると思いますか。

私たちの信仰生活でも、自分も知らないうちに、このような信仰を持っている場合があります。ある面はよく開発され使っているが、反対側の面には全く関心を持たないために、均衡が取れた信仰生活ができていない場合です。

 

三番目は、無意識のうちに来る危険を感知できない不感症です。今回のコロナ禍で、「無症候性患者」が防疫当局と本人にとって最も困難な場合になるんだそうです。コロナ感染により、症状が現れる場合、発熱や咳があれば、気になって検査を受けてみるでしょう。しかし、このような軽い症状がなく、突然重症の症状が現れ、病院に行ったときは既に遅い場合が多いというニュースを見ます。信仰生活で私たちの霊的な感覚が鈍くなり、下がっていくこと、信仰的に弱まっていくのを知らずにいることは、非常に危ないです。

9. の人が彼の力を食いくしても/彼はそれにづかない。白が多くなっても/彼はそれにづかない。

ある勧士任に「牧師任、髪の毛を染めてください!白髪が多いんですよ」と言われました。その通りです。私も知らない間に髪が少しずつ白くなっていきます。歳月が流れて白髪になって行くのに、本人はよくわかっていないのです。「エフライム」は、異邦人と混ぜ合わされ、その力が抜けて行っても、それに気付かないとの比喩です。ヤハウエ、主への信仰が異邦人と混ざって生きているうちに、弱くなっていくのを気付かないと言うようなものです。

 

今日、私たちの信仰生活も同じです。世の生活に縛られ、生きていると、自分も知らないうちに世に染まっているのです。クリスチャン的な信仰の色を少しずつ失っているのにもかかわらず、気づきません。霊的な状況も同じです。一晩で弱くなるのではありません。普段私たち自身が意識しないうちに、少しずつ弱くなっていくのです。エフライムはそれを知らずに過ごし、結局、神の審判が下るという悲劇を迎えます。

愛する信徒の皆さん、今日のみことばではエフライム、イスラエル民族が主に背き、世の中では無感覚と狭い信仰の判断により、結局神から離れてしまいます。その結果、神の裁きが下るのを教えるみことばです。

 

最後にもう一つ考えるべきみことばがあります。愛が溢れる主が、預言者ホセアの生き方を通して表わしたのは、不実な妻を再度迎えることです。同じく、主が私たちを赦し、受け入れて下さるのは驚くべき事実です。たとえ、主に背き、異邦の国と共に偶像を祀(まつ)り、放蕩したイスラエルでも放っておかずに、主は彼らの苦しみを聞いて上げながら、その懐に憩わせます。預言者を通して告白するみことばを私たちは聞きました。主は私たちの最後の希望です。孤児を憐れむ方は、主しかいないのです」と叫ぶ民の絶叫(ぜっきょう)を聞いてくださいます。主は 「私は背く彼らをいやし、喜んで愛する」 「まことに、私の怒りは離れ去った。知恵ある者はこれらのことをわきまえよ」「わきまえある者はそれを悟れ」と話されました。

愛する信徒の皆さん!

このような厳しい時代の中で生きているが、主のみ旨を成し遂げる人生にならせましょう。私たちが神の懐の中で、主のみ旨を実現するためには、世のどんなものにも心を置かず、義の道を歩いて行くようにしましょう。今日の最後のみことばです。「主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み/神に背く者はその道につまずく。」このような信仰生活のために、私たちが決断すれば、主が私たちに力を与えてくださるに違いありません。

 

<祈り>

主に背いたエフライムを捨てずに、最後まで愛してくださった慈しみ深い神様、今日、この時間、この難しい時代を生きながら、私たち自身も知らないうちに、この世に溺れて生きています。

主から離れて忘れている時にも、私たちの手を離さず、捕まえて下さった愛に感謝します。常に主のみことばに従って生きる私たちにならせて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン