2020年7月5日主日礼拝<揺れ動かない信仰>鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <202075日>五旬節後第5主日

説教 鄭然元牧師 / 金光成長老

 * 題目 : 요동하지 않는 믿음으로 かない信仰

* 聖經 : 누가복음 646-49 ルカ646-49

<日本語/新共同訳>

46. 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。47. わたしのもとにて、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。
48. それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、
り動かすことができなかった。49. しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、そのれ方がひどかった。

今日は2020年7月の初めの主日です。一年の半分が過ぎ,後半を迎えました。6月から教会で礼拝を捧げてから、一ヶ月になりました。新型コロナウイルス感染拡大により、緊急事態宣言が出された後、解除されました。皆さんもニュースで知っておられるように、過ぎた一週間に、日本全国では患者が多く増えている状況です。また悪くなるかもとの不安の中で一日一日を送っているのが事実です。

私は牧師として、大阪敎会と信徒の皆さんと共にみことばに基づいて、神の国と義を実現するために、主によって召された人だと思います。牧師は説教者として、信徒の皆さんと神のみことばである聖書を共に読み、解釈をし、説教を行います。説教を通して、信仰生活の方向を提示し、励ますのが役割でもあります。

私は、新型コロナウイルス禍の中で、信仰生活と教会生活は無論、社会生活の中でどのような姿勢を持つべきかについてお話ししたいです。まず申し上げたいのは、新型コロナウイルスは、私たちが住んでいる社会を「危険(きけん)社会」に変えたことです。残念ながらリスクが社会の中心となり、人々はこの危険の中で不安を抱えてから生きるようになりました。それとともに、人々は心に、ある瞬間、危機意識を持つようになりました。それで、社会学者たちは、このコロナウイルスの時代を「危機(きき)社会」という言葉でも表現しています。このような「危険社会」と「危機社会」の中で、教会とクリスチャンはどのような考えで生活すべきかを悩む時点に立たされています。

コロナウイルスは、伝染性が強い病気です。そして、この危険はどこにでも発生しています。一般市民は、伝染病の感染や防疫についてよくわかっていないのです。専門家の意見を聞き、社会が回るのを見ながら、理解するのが普通の感覚なのではないでしょうか。私も同じです。一つ明らかなのは、コロナウイルス禍により、私たちが住んでいる生活様式が大きく変わったことです。教会ももちろん同様です。社会は、経済活動が中断され、人々は自由に動けなくなりました。教会は礼拝堂の門を閉め、礼拝を捧げることができなくなりました。社会では、「社会的距離(ソーシャルディスタンス)」という言葉が一般化しています。教会も、今日の礼拝のように、信徒と信徒の間に距離を置いてから座らないといけません。

伝染性が強いコロナウイルスの場合、感染経路の発表を見て、驚きました。狭い空間で、短い時間を一緒にしただけなのに、集団感染が起きています。韓国ではアパートで集団感染が生じましたが、「エレベーター」が原因だったそうです。これらの危険と危機が常に周囲にあるとのことです。今日まで、教会は信徒たちに、「集いと参加」を強調しました。教会に集まって、主に礼拝を捧げることを、教会の最も重要な本質であると考えました。教会に集まった信徒たちは、互いに交わり、励ますのが重要な役割であります。福音を伝えるために、伝道すべき相手を訪ねていくことを重要に考えてきました。このような働きをしていた教会がいきなり門を閉ざされました。

讃美をし、祈り、説教を聞き、礼拝を捧げる、それらのことが瞬く間にできなくなりました。聖歌隊の美しい讃美とグロリアの演奏を私たちはしばらく聞けなくなりました。牧師である私と信徒の皆さんは混沌に陥りました。「集う教会」から一瞬で「散らばる教会」を経験するようになったのです。戦争という危機の中で、大統領が言った有名な言葉があります。「国民の皆さん、我々は集まれば生に、散らばると死にます!」最近は、「集まれば死に、散らばれば生きる!」と表現される世界なのです。集まりさえすれば何でもできると考えた教会に、危機が襲い、変化が起きました。しかし、今より、今後がより大きな問題です。

ウイルスの感染経路が100%把握されてません。ワクチンがいつ出てくるかもしれません。新しい薬が出ても、ウイルスはインフルエンザのように人と共生するだろうと言う方もいます。そうすると、コロナ禍の終息がわからない、不確実な社会になるのです。私たちが生きていく社会が変われば、今までの生活様式や価値観や方法を変えざるを得ません。人々が会えば、手を握り、握手をしながら喜びを分かち合いました。しかし、今、私たちは、このような喜びを表わすことができません。今までの教会は、その規模が大きく、信徒が多く集まることに高い価値があると見做しました。しかし、今、私たちは願っても集まれない状況であり、今では信仰的価値をどこに置いていたのかを顧みるようにさせます。

私は急変する社会の中で、教会は二つの姿を持つべきだと思います。目まぐるしく変わる世だとしても、決して変わらない、いいえ、変えてはならない、教会の価値があります。それは真理のみことばを守ることであり、福音を世に伝えることは変えられない価値であります。その一方、私たちは、世界の変化に敏感で、正しい判断を下し、社会と共に積極的に変えられる柔軟性が必要です。

今回のコロナウイルス禍により、教会が礼拝のため、集まれない状況を迎えました。しかし、ある教会は、以前と同じように礼拝活動をし、交わりも行いました。私たち大阪敎会も信徒たちの健康と安全性、そして周囲の地域住民に不安を与えないために非対面礼拝を実施せざるを得ませんでした。問題は、この二つの方法の間でも、考えが違い、判断が異なります。この事態が終われば、また別の議論が起こりうるでしょう。

今日信徒の皆さんと共有したいのは、「生命の原理」です。ウイルスの深刻性は、知らずに感染し、自分の体に入ってもそれに気づかずに、症状が現れるのと同時に命を落とす場合です。しかし、このコロナ禍は、私たちが住んでいる日本とは違って、世界では多くの人が、命を亡くしています。その原因は、感染だけでなく、社会的な構造不条理により、生命を落としている事実も、私たちが知っておくべき実態です。

このコロナ禍が始まった頃、私たちの教会で二人の医療関係者の信徒が会話中、このような話しをされました。 「今後、お金がある人々は酸素ボンベを事前に買い置きし、お金のない人は死ぬしかないときがくるだろう」。世界の総患者数1,100万人、死亡者52万人であり、米国の患者数は280万人、死亡者13万人です。世界最強の国、米国でこのような現象が起こり、世界の人々は驚いています。一つの注目すべき統計があります。 4月初めの統計によると、シカゴ全体に黒人人口は32%なのに、コロナ死亡者の67%の割合を占めていました。ニューヨークも黒人とヒスパニック系市民の死亡率が白人の2倍だったそうです。貧しい労働者、不法滞在者、医療保険未加入者は、治療さえも受けられず、死んでいったということです。

この世で、何よりも貴重で大切なのが人間の命だとイエス様は言われました。主のみことばで生きるべきクリスチャンが命の尊さを失っているのです。その理由はどこにあるでしょうか。正しい価値観を持っていなかったからです。私の命が大切だと考えるならば、他人の命も大切にしなければなりません。コロナウイルス禍は、生と死に分ける基準を明確に示しています。私たちの告白は、命を守る原理に従わなければなりません。コロナウイルスが脅かす命について、私たちは真剣に考えるべきです。

死んでいく人までも生かす責任がクリスチャンにはあります。死んでいく人を放っておいてはいけません。私たちは共に生きる努力をしなければなりません。愛する信徒の皆さんと真剣に分かち合いたいのはこういうことです。「危険社会」、「危機社会」、この時代を共に生きながら、より高い価値観と正しい信仰を持って生きてみようではありませんか。真に命が何か、救いの意味が何かを自分に問い、答えなければなりません。生と死、人間の価値、贖(あがな)いと救いを新たに解釈し、探ることです。

大きな美しい教会を建てました。しかし、そこで礼拝を捧げられない状況が続けば、何の役に立つでしょうか。SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)を利用した礼拝、会議に関する提案があります。そうすると、年配の方と利用できない方が一番ついていけなくなります。私たちはこれを活用し、福音を分かち合い、教会で集まって礼拝を捧げない状態でも礼拝を捧げる機会を持てるので、とても貴重なツールであります。しかし、その中でも忘れてはならないことがあります。科学が担えない意味を私たちは探るべきで、今までしてきた中で貴重なものを忘れてはいけません。

主よ、なぜ私たちに不安と恐怖、死を見せておられるのでしょうかと聞きます。これがいつ終息しますか。

主からの答えが明確にあれば良いのに違っていました。むしろみことばで私に聞きました。「あなたは今までどこに何を積み上げたのか。」まさに今日の本文のみことばでした。

46. 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。

私は再び聖書を読み始めました。説教を準備するための聖書読みではありませんでした。私に向かって下さる主のみことばを頂こうとしました。「ユージン・ピーターソンのメッセージ」を読む際、私の頭を振り下ろすような衝撃がありました。なぜなら、あまりにも私を轟かせるみことばだったからです。主への信仰的な礼を保たせるため、常に気遣う牧師に、礼儀正しく先生、先生としながらも、イエス様が教えたみことばを、少しも実践せず、説教ばかりする私のような人に与えたみことばでした。みことばは人々の生活水準を高めるためのリノベーションや飾りではないと教えて下さいました。

昨年10月に長野県で起きたことを覚えておられるでしょう。突然の集中豪雨が高い山間地域に降りました。千曲(ちくま)川(がわ)の水が氾濫し、堤防(ていぼう)決壊(けっかい)が起こり、町を襲いました。大きな被害を被ったことをニュースで見ました。「ユージンピーターソン」は、最後の部分を非常に簡単に翻訳しました。「あなたがたが私のみことばを聖書の勉強時にだけ使い、生活で実践しなければ、あなたがたは、礎を省いてから家を建てた愚かな大工と同じである。川の水が溢れ、家を襲うと、その家は一気に崩れてしまった。」と言われています。聖書のみことば、主のみことばは、聖書勉強や説教に引用され、読んで学びます。必ず必要です。重要なのは、これが私たちの生活の中で実践されるべきであるというのが今日のメッセージの中心です。

愛する信徒の皆さん!

コロナウイルスの時代に、私たちが決心すべきことは、主のみことばにまっすぐ立たなければならないことです。不安と危険、危機と恐怖の中で、私たちは揺れています。私たちの教会と私たちは、社会共同体として、命のケアのため、共に立てられますように主のみ名によって祈願いたします。

<祈り>

危険と危機の時代を生きている私たちを守って下さる主に感謝します。今日もこのように主の前に出て、礼拝を捧げ、みことばを分かち合う恵みを与えて下さいました。死の恐怖が私たちを捕らえているこの時間に、不安を克服できるみことばを下さり、感謝します。私たちに、揺れ動かない人生のため、主のみことばを人生の礎にしろとの教えに感謝します。私たちの考えと価値観がイエス様のみことばと生き方にさらに近づくことができるよう、導いてください。愛が溢れる主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン