2020年5月17日主日礼拝<エルサレムを離れるな!>鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <2020517>     説教 鄭然元牧師 / 通訳 金光成長老

 

* 설교 : 예루살렘을 떠나지 말라! エルサレムをれるな

* 성경 : 사도행전1 1-5절 使徒言語録11-5

 

<(日)新共同訳>

  1. テオフィロさま、わたしは先に第一を著して、イエスが行い、またえ始めてから、お選びになった使徒たちに聖を通して指え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。3. イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、多くの証をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神のについて話された。4. そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5. ヨハネは水で洗を授けたが、あなたがたは間もなく聖による洗を授けられるからである。」

<説教>

人には誰にでも、すべてがうまくいく時もありますが、うまくいかない試練の時もあります。

長らく願っていたことが形になったとき、本当に私は何かを成し遂げたんだと思うのです。しかし、作り上げたことが一瞬で消えてしまうと、今度は深い失望と大きな試練に陥る場合もあります。これこそが

人生だ!と言いながら、私たちは、このような祝福と試練、幸福と挫折を同時に経験します。

信仰の父と呼ばれるアブラハムは、主の救いの働きを成し遂げるために選ばれ、選択された人でした。アブラハムの信仰を私たちが考えてみると、自分が望んでいないにも関わらず、主が一方的に彼を呼びました。彼は故郷から旅立って、親戚と離ればなれになりました。遠い旅の末、カナン地方に入りました。彼と一緒だったのは甥のロトでした。ロトとは財産の祝福はありましたが、二人の関係は遠くなりました。甥ロトが選んだのはソドムとゴモラの地でした。しかし、その土地は罪に染まって行きました。洪水審判の後、主はソドムとゴモラの地に硫黄の火を降らせ、すべてを燃やし、滅ぼしました。

この光景を眺めているアブラハム、彼は主との取引で甥の家族だけやっとの思いで救い出せたのです。驚くべき主の力を、彼は自分の目でしっかり見ました。アブラハムは辛うじて我に返って、天幕を畳み、新たな旅に出るようになりました。主があなたに海の砂のように、空の星のように子孫を与えると約束して下さったのを考えていたのでしょう。イシュマエルを授かりましたが、主は、彼は契約の子どもではないと話されました。

アブラハムの一行が立ち寄った場所は「ベエル・シェバ」(七の井戸/誓いの井戸)と呼ばれるところでした。そして、そこでアブラハムが100歳のときに、妻サラとの間で男の子を授かりました。

「イサク」が生まれました。この贈り物を授かったとき、アブラハムはどれほど嬉しかったでしょう!

生まれた赤ちゃんが育ち、成長していく息子を見る父の喜びは計り知れないほど幸せだったでしょう。

しかし、なぜ、主は青天の霹靂のようなことを命じるのですか。

創22:2神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛するり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼をくすげ物としてささげなさい。

 

参考

  1. 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。4. 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、)

アブラハムは息子イサクには何の説明もせず、ロバに鞍を置き、献げ物に用いる薪(たきぎ)を積んで出発します。 3日間、道を歩きました。漠然と行ったのではありません。主に命じられたところは「モリヤの地にある山でした」。そこはアブラハムが住んでいた「ベエル・シェバ」から約80Km離れた所であり、ロバに荷物を乗せて歩いて来たので、3日目にたどり着いたのです。アブラハムは少しの躊躇もなく、「焼き尽くす献げ物」に用いる薪を並べました。そして、その契約の息子、その貴重な息子、イサクを屠ろうと手を伸ばし刃物を取りました。想像するだけでも恐ろしいことです!しかし、アブラハムは、このことを実行しようとしました。この姿を見た主が、アブラハムの手に取っていた刃物を下ろさせました。そして、備えておいた雄羊を焼き尽くす献げ物としてささげるようにし、アブラハムは息子と再び山を降りて来るのです。このような、とてつもないことを主はアブラハムに命じたし、アブラハムは命令に従い、息子までも献げようとしたのです。

ここで、質問が一つあります。ベエル・シェバから80Km離れた「モリヤの山」はどんなところだったでしょうか?随分年月が経ちました。モーセとアロンとイスラエルの民は、主の導きにより、エジプトでの奴隷生活を送ってからカナンの地に戻って来ます。それを私たちは良く知っています。しかし、荒野で40年間を過ごして、モーセもアロンも死にました。新しい指導者にヨシュアが立てられ、カナンに入ったことも私たちはよく知っています。ヨシュアも主のみことばに従い、カナン占領のために努力しました。ところが思いもよらぬことが起きます。 「モリヤ山地」に住んでいた「エブス人」がヨシュアを騙して、平和協定を結びました。このモリヤ山を中心としたところが、今日の「エルサレム」です。再度申し上げますと、アブラハムがイサクを献げ物として献げようとしたところが、エルサレムであったのです。

カナンの地を占領したヨシュア、イスラエルの民は、最終的に「エルサレム」は占領できませんでした。そしてずっと「エブス人」が住んでいました。そしてBC1000年には主の命令に従い、ダビデは、モリヤ山を攻撃しました。その城を陥落させた後に、自分の名前を付けて「ダビデの城」としました。まさにここが「エルサレム」なのです。ダビデの息子、ソロモンがエルサレムに神殿を建てて、主に奉納したことを、私たちは聖書の歴史の中でよく知っています。以降、エルサレムはイスラエル民族の信仰と政治の中心地となりました。しかし、エルサレムは長い歴史の中で波乱万丈なことが起きます。イスラエル民族の滅亡も、新たな始まりも、いつも「エルサレム」でした。イスラエル民族の永遠の心の故郷であり、信仰的、霊的には天国を指す所です。

詩編の記者は「主はシオンを選び、そこに住むことを定められました。これは永遠に私の憩いの地」

(詩132:13-14)と言いました。

<参考>13. 主はシオンを選び/そこに住むことを定められました。 14. 「これは永遠にわたしの憩いの地。ここに住むことをわたしは定める。

ソロモンがエルサレムに主の神殿を建てた後、「エルサレム」は、イスラエル民族の政治的、宗教的中心になったのか?といえば、そうでもありませんでした。ソロモンが死ぬと直ちに、イスラエル民族は南北に分かれます。南ユダのみエルサレムを守り、北側はサマリアを中心地と選びます。1000年ぶりに戻ってきたエルサレムは、再びその中心を失います。歴史は流れ、北イスラエルはアッシリヤによって滅亡され、南ユダはバビロンによって滅ぼされました。結局「エルサレム」は廃墟のままになります。このとき、主は、ここに主のみ名を再び立てようと決められます。

捕囚だった民の中で、祭司と指導者である「エズラ」と「ネヘミア」を戻らせ、城を再建させました。そうしてB.C200年頃にはシリアに城を奪われました。B.C60年頃には、ローマのポンペイウス将軍の攻撃を受け、エルサレムをローマ人に明け渡すようになる悲運の都市です。イエス様が来られた当時もローマ帝国の植民地でした。このエルサレム、ここで、イエス様が十字架につけられ死なれました。

イエス様が復活された所が「エルサレム」です。イエス様が復活された後、エルサレムとガリラヤで弟子たちに会いました。そして弟子たちにお願いしたみことばがあります。

ルカ24:49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 

ここの都は「エルサレム」を指します。今日の本文にも出ています。再び弟子の立場から、イエス様が与えて下さったみことばを考えてみましょう!まず、イエス様はローマ総督府の判決を受け、大祭司の要請により、罪人と烙印され、凶悪な罪人に下る十字架刑を受けました。自分たちもイエス様の仲間だと言われ、いつ捕らわれ、困難に遭うのかわからない不安で戦々恐々としていました。自分たちが少しでも安心して過ごせる故郷ガリラヤで住みたかったのでしょう。イエス様が話されたみことばは、「父が約束されたものをあなたがたに送る。力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」でした。なぜそうされたのでしょうか。

答えは明らかです。来週、説教しようと思っておりますが、イエス様が天に昇るところもエルサレムだからなのです。そして聖霊の降臨も、やはりエルサレムで起きるからです。弟子たちに「エルサレム」にとどまっていなさいとのことは、もう一つ、未来に起きることをイエス様は、弟子たちと私たちに与えるためのものです。それが「天のエルサレム」です。「天のエルサレム」という言葉は、ガラテヤとヘブライ、ヨハネの黙示録に出てきます。ガラテヤの信徒への手紙(ガラ4:21-25)とヘブライ人への手紙(ヘブ11:9;12:22)の「天のエルサレム」または「上にあるエルサレム」という言葉は、当時、ユダヤ教との議論の中で言及されている言葉です。しかし、ヨハネの黙示録での「新しいエルサレム」は、大都市バビロンとの論争の中で取り上げられています。

「新しいエルサレム」とは、地上にある「エルサレム」と対になる言葉です。しかし、二つのエルサレムは、互いに連続性を持っています。人類の救いがエルサレムで成し遂げられたからです。「天のエルサレム」は、罪と分離され、徹底的に神様にささげられたので「聖なる」と言われました。「新しいエルサレム」は花嫁、すなわち子羊の花嫁として言われているのを聖書を通して知っています。そして明らかに、イエス・キリストが立てられた教会を指す言葉でもあります。

愛する信徒の皆さん、今日、イエス様は弟子たちに話されています。エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさいと言いました。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく、聖霊による洗礼を授けられるからであるとしました。弟子ペテロに、「わたしの小羊を飼いなさい、私の羊の世話をしなさい、私の羊を飼いなさい」と使命を与えて下さいました。そして今日のみことばでは、「弁護者」聖霊が降り、主の教会が建てられるまで、エルサレムを離れるなと話されました。今日、この時代を見ると、私たちはエルサレムを忘れています。イエス様は目に見えるエルサレム、すなわち教会を通して「天のエルサレム」を与えると約束されました。天のエルサレムが神様から、天から降りてくるでしょう。そして、もはや天と地の区分がなくなると話されました。

難しい神学的解釈をしたいのではありません。この地で主の民が、主のみ国を経験できることを言っておられます。この働きとこの使命が成し遂げられるまで、私たちはこの地にとどまっていましょう!そして、イエス・キリストの福音を通してこれを実現しておられます!弟子たちに与えた使命を、今では私たちに与えるため、「エルサレムを離れず、とどまっていなさい!」と言っておられるのです。今、私たちは非常に厳しい時代を生きています。主のみ国は、苦しみと涙を越え、愛と平和と正義が実現できるの夢見させます。これを信じて進むのが、私たちのクリスチャンの真の姿だと思います。エルサレムを離れず、とどまっていましょう!

 

<祈り>

弟子たちに使命を与えながら、エルサレムを離れるなと話されたイエス様、

イエス様が計画されたことが一つずつ実現できることに感謝します。

私たちに与えた信仰の実が、主のみ国の実現であることをわからせて下さり、感謝します。

この地に立てられた教会を通して、天のエルサレムが実現できるようにさせて下さい。

神の主権が実現できるようにならせて下さい。イエス様の教えに従い、正義と平和の世界にならせて

下さい。苦難の中でもイエス様の愛を実践できる私たちにならせて下さい。

すべてのものに意味と意義を与えられ、共にして下さるイエス・キリストのみ名によってお祈りします。

アーメン。