2020年4月19日 説教日本語訳

大阪教会 復活節第2主日礼拝<2020年4月19日>

説教:鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 :私の信仰を顧みます!

* 聖経 :マルコによる福音書16章14節

 

<日本語/新共同訳>

14.その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人の言うことを、信じなかったからである。

 

<説教>

イエス様の復活は、キリスト教の始まりと言えます。

イエス様の3年間の働きは、弟子たちを選び、訓練させました。

一般的なユダヤ人たちには、神の国の民になるための悔い改めを宣布されました。

そして、神の国がどんな所かを教えて下さいました。

それだけでなく、ユダヤ人たちには彼らの生活を労ってあげました。

民の痛みを知っておられ、癒やし、労りました。

 

今日、我々は、イエス様の復活の出来事を中心におき、弟子たちの姿を再度探って見たいと思います。

そして、私たちの個人的な信仰の変化も顧みたいと思います。

イエス様は弟子たちへの招きから、世界のどの組織とも異なる面を見せます。どの共同体でも、その共同体の存在を続けていくためには、次の指導者を選び、教え、育て、次期の指導者として立てます。新約聖書の全体を通して、イエス様の指導力、リーダーシップが見られます。ただし、現代の私たちの考えとは少し離れていると感じます。ほとんどの共同体は、良い条件を持っている人を選択します。最近の言葉で言うと、頭が良く、学歴があり、よく準備されている人々を指します。しかし、イエス様はその基準が違っていました。

イエス様の弟子たちを私たちはよく知っています。彼らの出身地は洗練された東京、大阪やソウルのような大都市ではなかったです。ガリラヤ周辺の出身でした。一個人を見てもあまり優れた人ではないのです。それにもかかわらず、イエス様は一人ひとり、その人が持っている才能、性格と可能性を見て、選択されたのです。イエス様の弟子たちの研究をし、本にまとめた神学者がいます。 「ウィリアム・バークレー博士(William Barclay)」です。 『イエス様の弟子たち』という本は、日本語に翻訳されるほど、多くのクリスチャンが読んだ本です。私たち大阪教会男性会の聖書勉強の教材としても使用されました。 ウィリアム・バークレー博士は「イエス様が当時の弟子たちを選択されたのを見れば、ローマの植民地政策者、すなわち総督や、ユダヤ人の指導者たちから見れば、本当にたいしたことない人々の組み合わせだった!」と話します。

 

先週(15日)大韓民国の第21代国会議員選挙がありました。その結果を皆さんもニュースで見てご存じでしょう。各政党の候補者を見てください。すごい学歴と背景を持っています。ニュースで知られた光州のある選挙区で当選された女性は、大学卒ではない方でした。高校を卒業してから、大韓民国を代表する職場の研究助手として入社しました。驚くべきことに役職を経て、政党のスカウトを受け、出馬しました。前回は落選だったが、今回は当選しました。無論この方は、後に工学系大学院で勉強をし、工学修士になりました。私たちは一般的に人の学歴や出身で評価します。

 

イエス様は弟子たちを選ぶとき、エルサレム出身なのか、祭司の家系なのか、家柄や背景を問いませんでした。イエス様は弟子たちを選ぶとき、一人ひとりの情熱を見て、選択されたのです。ガリラヤ湖で魚を取っていた漁師が一番多かったです。税金を集めていた徴税人がいました。ユダヤの独立のために隠れて独立運動をしていた人もいました。各職業を良く見てみると、彼らは集中力を持って力を尽くす仕事を持っている人と言っても良さそうです。復活されたイエス様は、墓を見に来た婦人たちにどのような言葉をかけましたか。「ガリラヤで会おう!」と話されました。

 

ここで言う「情熱」とは何を意味する言葉でしょうか?

情熱、「あることに熱烈(非常に激しく強い)な愛情を持って、熱中する気持ち」という言葉です。この言葉は「普通ではない!」との意味です。一度心に決めたら、非常に激しく強く、熱中する気持ちとの意味です。このような人々を選ばれたのです。そして、3年間の訓練をさせました。お金を帯に入れないようにし、二人ずつ組を作り、伝道訓練をさせました。察するに、ユダヤの伝統社会に入り、「イエス様の福音」を伝えることは非常に大変なことだったでしょう。しかし、権能を授け、行く所々で福音を伝え、汚れた霊を追い出し、奇跡を現わしたのです。彼らがイエス様に戻り、喜んで彼らの宣教活動を報告したのを、私たちは聖書を通してよく知っています。そして、彼らはイエス様から福音を学び、イエス様の働きを一番近くで見ました。経験し、身を持って体験をしました。

 

このような弟子たちの姿から私たちを顧みる時間を持ちましょう。

私たちは、私、個人の信仰的な経験を通して、クリスチャンとしての人生を生きます。

どのような信仰的な背景であろうか、それぞれ違う形でクリスチャンになりました。そして、イエス様を信じて生きる信仰人です。生まれてから自然に教会に出席し、イエス様を主と告白して生きる方もいらっしゃるでしょう。子どもの頃友人の伝道を受け、教会生活を始めた方もおられると思います。年を取ってから信仰生活を始めた方もおられるでしょう。教会の中にはこのように多様な信仰の背景を持つ方がおられます。

私が信仰を持つようになり、信仰生活をしながら、その信仰がどのような変化をしてきたのかを顧みることが必要です。

イエス様の弟子たちには、3年間、イエス様と共にいながら経験した異なる体験を持っていました。

イエス様が十字架にかけられ、死なれた先生の姿を見た後に,弟子たちにはどのような変化があったのだろうか。私がもしこのようなことに直面した場合、私の信仰はどのような形で表れるだろうかと思うようになります。イエス様が復活したのが、墓に行ってきた婦人たちによって伝えられました。しかし、弟子たちは戸に鍵をかけて、不安な気持ちで自分らに害が及ぶのではと恐怖感にとらわれていました。先週の主日の説教の通りです。今日の本文で、「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人の言うことを、信じなかったからである。

 

イエス様の復活後、弟子の立場から見れば、イエス様の復活が信じられなかったことがよく表れている聖句です。 「イエス様が蘇られたことを見た人々の言葉さえも信じなかった!」マグダラのマリアと婦人がアリマタヤのヨセフの墓に、イエス様の遺体に香油を塗るために行きましたが、イエス様の遺体はありませんでした。天使が伝える言葉とイエス様がガリラヤで会おうという言葉を聞き、弟子たちに伝えました。しかし、弟子たちはそれを信じませんでした。食事をしている弟子たちに現われたイエス様が「弟子たちの不信仰と、かたくなな心を咎められました!」ここで、「不信仰!」というのは、普段の弟子たちのイエス様に対しての信頼、信仰を言うことではないです。 「イエス様が蘇られた!」ことに対する「イエス様の復活を信じるのができない」ことを指しています。

かたくな、あくどい「強情で頑固で酷い」、日本語聖書の表現では、「その不信と頑固な心を叱った。」、「かたくなな心をお咎めになった」となっています。人間が持っている根本的な罪による性格の一つは、「頑固で酷く当たる強情さ」があります。イエス様は、弟子たちのこのような不信仰の心に向かって「咎められた!」としています。私たちも同じです。「頑固で酷く当たる強情さ」には、イエス様が断固として叱るでしょう。

 

信徒の皆さんは両親、先生に叱られたことがありませんか?実は私は幼いときもそうだったし、今もそうですが、両親や先生に度々叱られながら、育った人です。大人の目でみると足りなかったからそうなったのでしょう!しかし、若いときには、それが非常に寂しかったです。年月が過ぎると、どれほど私が愛された人だったのかが、少しずつ分かるようになりました。イエス様も弟子たちを愛しておられました。そして足りなさを見たとき叱ったり咎めたりしますが、イエス様は弟子たちを愛され、また期待していることがありますので、その過ちを悟らせ、直すためでした。

 

私は今日、この説教を準備しながら、私の信仰の姿を顧みるようになり、信徒の皆様の信仰生活を考えてみました。時代的な状況の中で、どのような信仰の姿で生きているのか?コロナウイルスによって、私たちは自分の命を大切にするように、他人の命を大切にすべきです。

 

最近、私たちは、今まで聞いたこともなかった言葉を耳にします。

先週の主日の説教でも申し上げたように、「コロナブルー」、「コロナトラウマ」のような言葉と「ソーシャルディスタンス」という言葉も聞きます。「ソーシャルディスタンス」をしてみると、「人と人との心の距離は離れて行っているのではないか?」弟子たちのように「戸は閉めていますが」、「私たちの心の扉は閉じないようにする必要がある」のです。物理的に距離は置きますが、心はさらに近くにいる人を愛する心を持たなければならないと思います。

 

イエス様は弟子たちが本来持っていた情熱を回復させるため、彼らを咎めました。あなたが最初に私に従うとき、持っていたその情熱はどこに行ったのか!と叱ったのです。復活を伝えたのにもかかわらず、不安がり、恐怖心で戸に鍵をかけ、復活が信じられないのかと叱責をされたのです。

 

愛する信徒の皆さん、私と皆さんにイエス様が期待されているのは、まさに私たちが持っていた最初の愛とその情熱の心を蘇らせてもらいたいと願っておられます。明らかに今、私たちが過ごしている時間は、不安を持たせます。恐怖心を抱かざるを得ない状況です。しかし、イエス様は、このような私たちに来られ、条件なしの愛を与えて下さるのです。咎めと叱責した後、与えて下さる新しい使命に感謝する私たちになりますよう、主のみ名によって祈願いたします。

 

<祈祷>

イースター後、第二週目の主日、主のみ前に出て礼拝を捧げます。不安と恐怖に取り憑かれていた弟子たちの前に現れ、彼らの不信仰を咎め、頑固さを叱責され、新たにして下さいました。主よ、この時間私たちに来られ、私たちの不信仰と頑固さを捨てさせ、復活の主を信じ従う信仰の人にならせてください。

感謝しながら、復活された主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。