< 2021年 10月 3日>主日礼拝「新しい霊と柔らかい心で新たに」 鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 < 2021 10 3五旬節後第19主日

題目 新しい霊と柔らかい心で新たに

聖書 エゼキエル書1117-21

[日/新共同訳]

  1. それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。18.彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。19. わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。20. 彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。21. しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。

<説教>

10月第一主日です。コロナウィルス感染事態が続いて伝染病の拡散を防ぐために緊急事態宣言がされ社会的にすべてのことが止まっている状態が続いております。日本は今年の4月の第1週以降6ヵ月ぶりに緊急事態が解除されました。信徒の皆様は信仰生活をされることにおいて大変不便だったと思います。緊急事態が解除されても伝染病が終わったわけではありません。今まで注意をされてきたようにコロナウィルスに感染されないように最初にお願いします。教会に来て礼拝をささげる信徒とまだワクチンを打ってない世代と家庭で映像礼拝に参加されている信徒が、健康に過ごされて心配なく教会で会って礼拝をささげ、交わりができる日が早く来ることを願いながらお祈りしましょう。

10月になれば、教会と信徒は共同体と個人の信仰的な状態を省みます。特にプロテスタト教会の私たちの教会は500年前にあった宗教改革の精神を考え、今私たちがどのような信仰の姿で立っているのかを確認する為です。教会は神様の意志に立てられた信仰共同体です。教会は聖霊の導きを信じる信徒と教会指導者の個人の信仰を土台にして、教会が持っている法律と規則によって運営されます。さる9月12日任職式を行い、長老と勧士になられる方を前に立たせ、地方会長と堂会長である私が誓約(せいやく)をしました.その誓約の最初に出る質問は「新旧約聖書は神様のみことばで信仰と行為に対する完全唯一の基準だと信じて従いますか。」です。この誓約の意味は、聖書は神様のみことばだというキリスト教の一番根本的なことを聞いているのです。私たちの信仰生活において、聖書を信じて実践することを前提にしています。

その次の内容は、「聖書に記録されている真理と道理を信じて在日大韓キリスト教会の信仰告白と信条と憲法と規則を誠実な心で従うことを誓いますか。」です。二つ目の内容です。最初に、聖書が神様のみことばであることを前提にして真理と道理を信じる事はもちろん、在日大韓キリスト教会の信仰告白と憲法と規則をよく守りますと約束することです。イエス様が十字架に亡くなられた3日後に復活され、40日間弟子たちと共に過ごされました。天国に上がられながら、「弁護者の聖霊」が来られることを約束されました。弁護者ー助けの主を送ってくださり、信徒の信仰生活を助けてくださり、教会を助けてくださる方がこの世に来られることを話しております。五旬節の日に聖霊の降臨を通してイエルサレムに最初の教会が立てられ1500年の歳月が流れました。世界の歴史が中世を迎えた時、歴史学者はこの時代を暗黒時代と言います。その理由は教会が歴史と人の前で光を照らすことなく、全世界を暗闇に追い込んだからです.

一体この中世の時代に何があったから暗黒の時代と言われるのでしょうか。この時代のローマカトリック教会と教皇は、当時、世界と呼ばれるヨロッパとアジア、アフリカの一部の地域において政治的権力と宗教的力で抑え込んでいました。宗教と政治と社会全般的なもの、ましてや経済と芸術の部分までカトリックの手の中にありました。全世界がカトリック教会の影響力の中にあったとしても過言ではありません。わたしたちは、この中世カトリック教会が何をしてきたか、なぜプロテスタント教会が生まれたのかを知る必要があります。単純にカトリック教会の一部ではなく、改革された教会として正しい信仰生活のために立てられた教会が、プロテスタント教会です。500年前、当時のカトリック教会は何が問題で、教会が分裂して新しい教会が立てられたかをはっきり知ることは、私たちの教会の正当性と正しい教会になるために必要ことです。事実私たちプロテスタント教会は10月になれば、 「宗教改革の月」「宗教改革」 「教会改革」 「信仰改革」を考えて過ごす意味を、私たち全員が知らなければいけないのです.

先ほど長老と勧士になられる任職式で誓約される内容を話した理由は、神様のみことばである聖書はそのどれよりも最上の高い価値も持っていることを確認するためです。そして神様のみことばを基礎にして各教団が憲法を作り、規則を作り、その規定を守りながら正しい教会運営と信仰生活をするためです。今から500年前、宗教改革がはじまった理由の一つは、神様のみことばである聖書を当時のカトリック教会が勝手に解釈して法を作っり、信徒を縛っておこうとしました。それだけではありません。聖書のみことばを利用してお金を奪い取り、教会が蓄財をすることに集中していました。もちろん神様に礼拝をして信徒の交わりと教育が行われる礼拝堂、教会の建物は必ず必要です。しかし礼拝堂の本質的なことは無視して教会の権威と栄光のために豪華できらびやかにしたからといって、神様に栄光をささげる事ではないのに、当時のローマカトリック教会はそのような過ちを続けて行いました。神様のみ名で犯した罪がありました。最初はローマ教皇庁の搾取問題です。このようなことを行う前に、必ずやることは神様のみことばを歪曲して自身たちの論理に合わせて解釈する過ちです。

宗教改革の出発点になったきっかけは皆様もよくご存じの免罪符を売ったことです。初代教会は信仰を裏切る行為または偶像崇拝、殺人、姦淫の罪を犯せば、聖餐に参加できず教会から追放されました。しかし教会に対する迫害が始まり、自身の命を救うために信仰を捨てたような行動を起こす背信や背教が生まれました。このような事を犯した人たちが教会に戻ってくるとき、どのようにすればよいのでしょうかという悩みに陥りました。この時、教会が公開的に罪を告白して教会が下した罰を受ければ、また教会の中に受け入れられることが 「告解」をとおしてなされました。中世の教会は、個人が司祭に自身の罪を告白すれば司祭が罪の許しを宣言し、祈祷、断食、慈善、教会に対する寄付など一定の罰を与える個人の告解に代わりました。このようなことが少しずつ深刻になっていったのは、教会がお金の欲しさで、すでに亡くなった人の過ちの人生のために、お金を払い代わりに罪の許しを得られることが可能だという神様のみことばはかけ離れた間違った規則を作り、動くようになったのです。これがすなわち免罪符の販売です.

もちろん今日のローマカトリック教会はこのような事を許していませんが、11世紀末から献金によって与えられる免罪が本格的に始まりました。教皇レオ10世はローマのペトロ大聖堂を立てるために、1506年献金を通して免罪を大々的に宣布しました。そして教会は積極的に免罪符販売を始めました。特にドイツ地方に宣布された条件が議論の的になりました。1.犯した罪を悔い改めまた犯さない事を決心した後、神父に行って告解(コンヒサン ポルトガル語)をしなければいけない.2.少なくても指定された7か所の聖堂を巡礼し、私たちの罪の代わりにつぐなわれた主イエスの五つの傷(両腕、両足、脇腹)を記念して敬う意味で主の祈りと聖母歌を5回熱心にささげる。または神様、慈悲深く私を憐れんでください(詩編50)をささげる。3.ローマの聖ペトロ大聖堂の建築費のために、相応の献金をささげることが良い。しかし天国は貧しい人も金持ちもみんな入れるように開いており、お金のない人は献金の代わりにお祈りで罪の許しを受けることができるとの内容です。

今日の私たちはこのような内容を聞けば、簡単に知ることができますが、当時の教会たちが間違った道を進んでいることに気づきませんでした。理由の一つは、神様のみことばである聖書を聞いて学ぶことができなかったからです。そして神様のみことばである聖書によって教会が定めた法律や規定をもっと重要に考えたのです。このような間違いを正すためにはじまったのが、宗教改革運動です。宗教改革の出発点に立ったマルティン・ルターの95カ条は悔い改めを強調しました。ルターは新約聖書の教えに従い、悔い改めた信徒は十字架を遠ざけないと宣言しました。救いはお金を払ってもらえるものではなく、免罪符を通して得られる安物の恵みではないことを強調しました。反対にキリストの十字架の受難と死を通して価値のある恵みを受けなければいけないと話しました。マルティン・ルターは、クリスチャンは「われらに罪をおかすものをわれらが許すごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」という主の祈りの内容に従い、一生涯悔い改めて肉身の情欲を抑え、聖霊の実を結ぶ新しい人生を生きるように強調しました。

イスラエルの民が神様のみことばを聞かず自身の考えに合わせて神様を信じました。偶像崇拝はもちろん神様のみことばより規定を重んじる当時の宗教指導者の腐敗した姿をみたヤハウエ主が民を審判することが今日の聖書の内容です。自身の子どもを鞭で叩く親の心情は叩かれる子どもより、もっと痛むように,神様はイスラエルの民に審判のみことばを下しながら、彼らが行わなければいけない事を提示されました。預言者エゼキエルを通して、不従順の民に新しい霊とやわらかい心を与えると言われました。新しい霊は神様の3つの役割をされる「弁護者、聖霊様」を考えさせます。やわらかい心は神様のみことばを尊重して従う従順な心です。私たちが岩の畑に種をまいても芽が出ないのと同じです。最初に私たちの心がやわらかく変わらなければいけません。

宗教改革という大きな課題は私たちの心の変化、すなわち神様のみことばに従い実践しようとすることから始まります。間違ったものをみて恨み節や不平を言って解決するのではありません。2021年、宗教改革の月を始める最初の週、私たちは神様が私たちに送ってくださった新しい霊を通してやわらかい心をもって自身の信仰の改革をはじめましょう!周りの人が変わることを期待するのではなく、私が最初に自身の過ちを悟り、変わることで神様に栄光をささげられるのです。中世のローマカトリック教会が、プロテスタント教会の強い対抗を受けて変わり始めたのは、すなわち神様のみことばに対する回復運動です。当然、宗教改革者の改革順位1番は神様の栄光のために、神様のみことばにもどることでした。愛する信徒の皆様、今回の宗教改革の月を過ごしながら、私たちが神様のみことばに帰る信仰に変わることを期待しましょう。そしてこの変化が私たち大阪教会に良い影響を与えるようにしましょう。この変化を通して私たちが生きている社会に変化を与え、神さまの国を夢見ている私たちすべてに実現できる驚くべき時間になれることを、主のみ名によって祈願いたします。

<祈祷>

全能なるヤハウエ神様、

私たちを信仰の道に導くためにあなたのみことばが記されている聖書をくださいました。

立てられた教会を通してみことばを学ばせ、実践させました。しかし愚かな人々は神さまのみことばに従わず、真理にも背きました。むしろみことばを利用して誤った解釈をおこない、罪悪に入る過ちをしてしまいました。今日与えられたみことば通り、新しい霊とやわらかい心を持ってみことばを貴重に思い、従う信仰人の姿勢を持つことを決断するようにさせてください。感謝をささげながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン