<2021年9月19日>敬老主日「親に恩返しをする生き方を」 鄭元然牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年9月19日> 五旬節後第17主日/ 敬老主日                        

* 題目 : 親に恩返しをする生き方を

* 聖書 : テモテへの手紙一5章1-

[()新共同訳]

1.老人ってはなりません。むしろ、自分父親ってしなさい。兄弟い、2.年老いた婦人母親い、女性にはらかな姉妹ってしなさい。3.身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。4.やもめにがいるならば、これらのに、まず自分家族大切にし、恩返しをすることをばせるべきです。それはばれることだからです

<説教>

今日は敬老主日です。日本の祝日である「敬老の日」に因んで、社会的に年老いた方に対して尊敬と敬愛を表す日であります。韓国の「父母の日」と似かよった意味がある日だと思います。

「敬老の日」を前に、厚生労働省は14日、全国の100歳以上の高齢者が過去最多の8万6510人になったと発表した。昨年から6060人増え51年連続で増加。女性が全体の88.4%を占め、男性は初めて1万人を超えた。厚労省によると、男性は昨年から585人増の1万60人、女性は5475人増の7万6450人。老人福祉法で「老人の日」と定めた9月15日時点で100歳以上の高齢者の数を、同月1日時点の住民基本台帳を基に集計した。2021年度中に100歳になったか、なる予定の人は4万3633人(昨年度比1831人増)としている。厚労省の発表内容です。「百歳時代」という言葉が益々現実感を帯びてきました。

しかし、今日の社会では、高齢者に対して寛容ではありません。家庭でも年老いた方を敬うことと世話することについて負担に感じつつあるので、本来なら祝福である長寿が荷になり、年老いた方も迷惑にならないようにと気遣いしながら生きているのが現実です。さらに、肉体的に弱くなることにつれ、病気や精神的な不完全から来る軽い認知症であっても、家庭に非常に厳しい状況をもたらすので年配の方を世話するのが簡単ではない状況です。

更に急変する現代社会の中で、家庭や家族関係においても多くの変化をもたらしました。父母が子どもに対する考えや子どもが親に対する考えや行動が段々変わってきました。子どもたちが生まれ、成長する過程で青年期を経ながら経験する社会的な葛藤があります。成長し、社会の一員になるべきときにも自分が思う通りにうまく行かなかったら、その原因を親のせいにする時代になりました。全ての責任を親に転嫁する時代になりました。

人が生まれる出生の過程において、親を選択できないことは誰もが認めることです。親たちも子どもに対して同じです。今日、社会的な状況をみれば、若い人たちに葛藤が多くあります。私たちの民族の歴史において、朝鮮時代は両班(ヤンバン)と平民と、出身によって身分の差を持って生まれました。それにしたがって、両班(ヤンバン)社会と平民出身の間には大きな隔たりがあって、差別が生じました。両班(ヤンバン)階級が社会の指導者としての役割をよく果たせたらよかったのに。平民を搾取し、苦しめて農民たちが蜂起した歴史があります。平民出身の子どもたちは朝廷の試験も受けられなかったし、社会的な地位も得られなかったからです。そしたら、現代社会はこのような差別や区別がない世になりましたか。現代は経済的な状況によって差が生じることを信徒の皆さんはよく知っておられます。

何年か前から韓国で「金のスプーン」、「銀のスプーン」、「土のスプーン」と言う言葉がよく使われていますが、私はその意味がわかりませんでした。ある人の話し中に「あの人は金のスプーンだよ。」と言い、ある人は自己紹介をするとき「私は土のスプーンです。」と言ったので、どんな意味の言葉なんだろうと気になりました。人が生まれる時、どのような経済的な環境を持って生まれたのかをわからせる言葉でした。

それで、調べてみたのですが、私は驚きました。金のスプーンの条件は、資産が韓国のお金で20億以上あるいは、年収が2億ウォン以上の人々であり、大まかに韓国で上位1%に該当するそうです。「金」の次は何でしょうか。当然、「銀」です。「銀のスプーン」の規定は、資産10億ウォン以上、収入8,000万ウォン以上で、上位3%に該当します。その次が「銅」ですが、省略して「土のスプーン」は、資産5000万ウォン未満、年収2000万ウォン以下を「土のスプーン」と言います。結局、経済的な支えがない家庭の子どもたちは自ら自分を「土のスプーン」と言います。今回の大統領選挙の予備戦で何人かの候補者たちが、自分は「土のスプーンの一人」と言いながら自力で成功した一人だと紹介をすることを見ました。

それだけでないのです。皆さんは「お父さんのチャンス」、「お母さんのチャンス」という言葉も聞いたことがあるでしょう。お母さん、お父さん、父母がどのような地位なのかによって、その子どもたちが恩恵を受けることを指します。数年前も韓国の高位指導者たちの子どもたちが兵役免除をもらった確率が高かったのです。それで出回った言葉が「指導者の子どもたちは全部障害を持っているのか、なぜ、軍隊に行かないのか。」と叱責しました。有力な大統領候補が子どもの兵役問題で状況が逆転した場合がありました。父母の地位や経済力で子どもたちが恩恵を受け、貧しくて権力から離れている親たちはそのようなチャンスも使えないとの意味です。

結局、これは若者たちに不信と不満を抱かせるようにしました。自然にその原因を、「私はいい親に出会えなかったので、出世もできず、きちんとした仕事にも就くことができず、良い学校に進学できない身になってしまったと考え、すべてを親のせいにする社会になってしまった。」ということです。日本も同様です。日本の衆議院、参議院のバックグラウンドを見ると、一選挙区に、本人と父親だけでなく、祖父も国会議員であったという人たちが多いです。このごろ日本の若者たちの中で、自分は、親の恩恵を受けられなかったという思いで、親を敬うどころか親を軽視して無視することが多くなっているというニュースを見ながら、胸が痛みました。

親と子どもの葛藤はどの社会でもあったことです。聖書の中でも、親と子の葛藤が出ています。先週の主日に人類にとっての初の殺人が、カインが弟のアベルを殺したことだと言いました。親にはどれほど悲しい出来事だったでしょうか。歴史は流れダビデの時代に入り、ダビデ王と息子「アブサロム」との関係はより深刻にななっているのがわかります。アブサロム(Absalom)は、ダビデ王と夫人「マアカ」の間で生まれた三男です。代上3:2三男はアブサロム、ゲシュルの王タルマイの娘マアカの子。四男はアドニヤ、ハギトの子。聖書では「イスラエルの中でアブサロムほど、その美しさをたたえられた男はなかった。足の裏から頭のてっぺんまで、非のうちどころがなかった。」(サム上14:25)と記録しています。

この記録はどのような意味でしょうか。「スタイルが良くて、格好いい人だ」との意味です。このように、格好良くて非のうちどころがない息子でありましたが、ダビデを深く悲しませた息子になってしまいました。不幸なことが起きます。アブサロムには「タマル」という美しい妹がいました。異腹の兄である「アムノン」が妹「タマル」を無理やりにはずかしめる事件が起きました。それで、アブサロムは弟「アムノン」を殺します。その後、父ダビデを恐れて、3年間逃避生活を送ります。

父ダビデは罪を起こした息子ではあるが、心では生きている息子を捨てるわけにはいかなかったのです。ヨアブの仲裁で親子は和解しましたが、結局、アブサロムは父ダビデに対しての反乱を起こしました。すると、ダビデ王は息子アブサロムと戦おうとせずに、自ら逃避します。しかし、結局アブサロムの軍隊は敗北し(サム下18:1-8)、アブサロムはダビデ軍と戦っている最中、頭が樫の木にひっかかり、殺されました。若者アブサロムを守れとのダビデの命令を逆らったヨアブは自分の任務は果たしたが、ダビデに殺される悲しい歴史があります。

古代社会で王は自身に反逆する人を思う通りに処分できました。王の息子であっても、反逆したら殺すことができました。しかし、ダビデは自分に逆らって立って戦争を起こした息子アブサロムが死んだとの知らせを聞き、身を震わせながら泣きました。ダビデ王がアブサロムの死をこのように悲しんだ理由の一つは、この一連のすべてのことが自分の罪に起因したとわかっていたからです。彼の悲痛は、本当に死ぬべき人は息子でなく自分であることを認める行為でした、それで、「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。」と身を震わせながら泣いたのです。(サム下19:1)
このような親の心を子どもたちがどれほどわかっているでしょうか。父母を敬うことについて、イエス様時代の「ゴルバン」制度を考えれば、当時の宗教の虚構性が見えます。今回マルコの福音書の黙想でも短く申し上げました。ゴルバン(Corban)は「献物」という意味で、「神にささげられた祭物」を指します。元来、ゴゴルバンは神様を崇める信仰で出発した良いものでした。それが段々神様にささげたものを人が個人的な目的で利用することを防ぐため、誓いの語句としても使われましたが、最初の意図とは違って悪用されていました。どのような内容かというと(マルコ7:11)、「神様にささげた(ゴルバン)」と言いながら、親にあげるもの、神様にささげたので親は敬わなくて良い。」と公に言う間違った宗教習慣が生まれました。最近の言葉に変えると「私が神様に十一条献金や多くの献金をささげ、親にあげるものも全部神様にささげたので親にはあげるものがありません。」という意味ですが、妥当だと思われますか。それで、イエス様は父母を敬えという戒めを「ゴルバン」を悪用して守らないのは罪であると指摘されたのです。

新約聖書で使徒パウロは父母を、主に仕えるように敬い仕えないといけないと強調しています。信仰の息子であるテモテに手紙を送る内容が今日の本文です。その内容は自分の親に対するものではありません。社会的に、年老いて経済的な世話が必要な老人や貧しい人たち、すなわち隣人に関する内容です。まず、「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思って諭しなさい」。最近の惨いニュースを見ると、若い人たちが老人や大人に集団暴行を行い、命を奪う残忍な事件が報道されます。それだけでなく、当然世話すべき自分の親に小遣いが少ないといい、殴り殺すことも起こっています。

「年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい」。しかし、今日(こんにち)

女性を卑下(ひげ)する行動をよく行います。力が弱いことを知っている人たちが、女性たちを乱暴に扱います。殴り、性的な暴行を行い、殺すことが世界中で起きているのです。今日の本文の最後に、「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に家族を大切することを教え、信仰心が芽生えるようにしなさい」。私が頻繁に申し上げます。隣人の中で、経済的に貧しくて社会的な地位がなく、他人の助けがないと生きられない社会的な弱者に対する神様の考えは、持っている者、裕福な人、社会的な地位や権力がある人たちは貧しい人たちを顧みる責任があると重ねて強調しているのです。

このような社会になると、助けを受けた人には感謝で恩返しするようにさせなさいと言います。時々、困難な人を助けても心がざわつくときがあります。当然のように助けを受けた人たちの考えのせいです。些細な助けや愛の手に感謝する気持ちがあれば、再び助けようと努力するでしょう。このような感謝や協力が起きることが「神様が喜ばれること」だと記しているのです。弱くなって年老いた方を助けることは私の親を世話することと同じことです。

数年前までも親を世話することは子たちに任せましたが、現代社会は、社会構成員が年老いた方を世話しなければいけない社会構造となりました。私は税金を出し、お金をたくさん出したので十分であると考えてはいけません。疎外された老人、声をかける人がおらず孤独な老人たち、経済的に苦しくて一食の食事すら難しい年老いた方がいたら、私たちが世話すべきではないでしょうか。

2021年の敬老の主日は昨年に続き、コロナ禍中で迎えるとても憂鬱で苦しい敬老主日、敬老の日を過ごすようになりました。私たちの父母、教会の年老いた方、地域の老人を考えながら祈ることと私たちが助けられることを探し実践することで、年配の方が勇気をもって生き甲斐がある社会を作っていくべきでしょう。父母の愛に報える私たちになられますように主のみ名で祈願いたします。

<祈祷>

私たちに親を与えて下さった神様の恵みに感謝をささげます。

父母を敬うことが祝福を第一歩であることをわからせて下さり、感謝します。

コロナ禍で、老人大学と栄光会の集いすら困難な状況におかれていることを主は知っておられます。一日でも早く終息し、子どもたちの明るい姿と年老いた方の嬉しい顔と対面できるように導いて下さい。今日、

私たちが父母を敬うことと隣人に対する愛と責任を持ち、生活の場で実践できるようにさせて下さい。そして、このことに率先する大阪教会にならせて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン