大阪教会主日礼拝 <2021年9月12日> 五旬節後第16主日
說敎 鄭元然牧師/通譯 金光成長老
* 題目 : 主の忠実な僕として
* 聖書 : マタイによる福音書25章21節、30節
[日/新共同訳]21.主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 30. この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」 |
<説教>
神様が信徒の皆様を守ってくださったことを感謝しながら、説教を始めさせていただきます。主は神様の国のために働き人を立てました。3年間ガリラヤを中心としユダヤ全地域とエルサレムで活動しながら伝えた主題は「神の国」でした。弟子たちを選び、訓練させ、世に送り出しました。2000年が過ぎた今日(こんにち)も主は
信徒の皆さんと私を選び、訓練させながらこの世に生きらせて、教会に使わせて下さいます。
今日は2021年大阪教会にて尊い働き人を立てる喜びの日です。8月中旬からは日本全域のコロナ感染患者が一日25,000人に達するようになりました。最近、少しずつ患者数が減少する傾向ですが依然として1万人程度で、大阪の場合一日で1000人を超えています。コロナ禍は私たちの日常生活と経済活動はもちろん、信仰生活にも苦しみを与えています。
しかし、このような危機の中でも人には必ずすべきことがあります。戦争中でも食べるために田植えをしなければいけないし、学びのために教育させざるを得ない課題を社会は抱えています。子どもたちの感染が深刻になり、教室ではなくOnline授業を実施せねばならないことは、教育の重要性を物語っています。現在、韓国は来年3月9日に行う大統領の選挙のため、各党の大統領候補を選出することを与党、野党がしています。何十人の候補者が立候補し、なぜ自分が大統領にならなければいけないのかを力説しながら選挙運動をしています。食堂で一緒に食事をすることができる人数を4人-6人と制限しながら、選挙運動には数十人が集まっています。日本も9月3日に菅義偉首相が次期の自民党総裁選挙に出馬しないニュースが入り、10日間日本は次の自民党総裁が誰になるのかをかけた選挙に突入しました。与党である自民党の総裁は必然的に日本の首相になるため、国民の直接選挙ではないが、全国民の関心が集まっています。 9月28日には新しい首相が選出されるでしょう。
コロナ禍で大切な命が失いつつあります。経済活動と教育現場に困難が襲ってもなぜ選挙をしなければならないのですか。それは、共同体を動かして生かすために必然的にすべきことだからです。大阪教会は
今年初めの1月に実施予定であった公同議会を3月になってようやく開けました。長老候補と勧士候補を選出し、今日任職式を挙行することになりました。今日行われる任職式は、コロナ禍中でも教会は神様の働きを止めるわけにはいかない意味を持っています。ある人はこのような状況なのに挙行するのかと思っておられるかもしれません。しかし、信仰共同体である教会は働き人をよく選び、選ばれた働き人が一生懸命奉仕できるように協力しなければいけません。教会を健康で丈夫にさせることは使命でもあるので、これを止めることはできません。
今日、このような意味ある時間に私たちの信仰の根本になる主に忠実な信仰の姿を考えてみたいと思います。私は過ぎた7月4日主日説教で「カレブ」の信仰の姿を通して「忠実」という主題を伝えました。新約聖書でイエス様を「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです」と証言しています。この地で真実で忠実だったイエス様も弟子たちと信徒たちに例え話を通して、忠実な良い僕は主人の喜びの宴に参加できると話されました。それだけでなく、忠実な僕には命の冠が与えられるだろうと約束されました。
今日、私たちはマタイ25章の長いみことばの中で、21節と30節の二か所のみことばだけ抜いて読んだのですが、この内容を皆さんあまりにもよく知っておられます。ある主人が僕を呼んで、自分が遠い国へ旅行に出かけると説明し、自分の財産の一部を僕に預けました。 「タラントンの例え、ムナの比喩」と言われます。主人の財産を預かった僕たちの姿を見ると、自分の判断と努力によって結果を残した人がいます。そして一人の僕は、もし失敗してタラントンを失ってはいけないと思い、何もしませんでした。そのタラントンを地の中に隠しておいてから、主人が戻って来て清算するときにそのまま返しました。これを受け取って清算する主人の評価は違いました。僕たちにタラントンを預けた意味は、保管してから返してもらうためではありませんでした。
イエス様のこの例えの根本精神は、経済的活動によって多大なる利益を残すことではありません。みことばをみると、「僕」の心構えと態度を重要視したようです。同じく見えるが、僕たちの考えが異なっていました。信徒の皆さんはその差は何だと思われますか。マタイ25章全体をよく読むと、主人が何を求めているのかを把握した人とそうでなかった人の違いが現われます。例をあげれば、代表的な組織社会だと言える職場で上下関係というのは責任と業務においての役割分担と仕事の効率化のため、十分な意思伝達が必要になります。最近、有能なリーダーは「部下や下の人たちに仕事が良くわかるように説明して明確な目標を示す人である」と言われます。
今日のみことばを私たちの教会内に持ってきて考えてみるのはとても意味あることだろうと思います。これは、ただ職分者に限ったことではないです。まずは、イエス・キリストの福音の中で生きている「信徒たち」「全ての兄弟たち」に該当します。私たちはイエス・キリストの福音でイエス様の弟子になった人たちです。
弟子たちに与えられた使命は神の国の福音を伝えることとこの世を愛することはもちろん、教会内での役割を果たすよう命じられているのです。同時に、私たちに与えて下さったタラントンをよく使えるよう、信仰や知恵や奉仕する心も与えて下さったのです。これを私たちが使わなければいけません。この使命を果たすとイエス様から「充実な良い僕」と褒められるでしょう。願わくは今日、この時間に主が私たちにそして、私に与えて下さったことをよく使い、結果を生み出す信仰的な生活になりますよう願います。
二番目は今日、任職される方々とすでに尊い職分をもらい熱心に仕え、奉仕する職分者に再確認させるみことばがあります。主に呼ばれ、「主の僕」「主の働き人」になった人たちは、まず人間的な考えを捨てるべきです。私たちが言う「主の僕」と「主の働き人」には大きな差があります。「僕」と「働き人」は聖書の中でも違う意味で使われています。
しかし、働き人と僕に同じく要求されるのは「忠実」です。人との関係においては「誠実」ということばで表現できるし、上下の関係構造の中では「忠誠」と言うことばで使われますが、これは強力的な主従関係において可能なことばです。私は今日、任職される方々と主の僕として呼ばれた私たちが心に刻むべきことについて申し上げたいです。まず、人間的な考えを捨てなければいけません。同時に、絶対に相手の機嫌を取るために発言したり、行動してはいけないことを先にお伝えします。勿論これを過度に表現すると、協力や相互関係性において難しいことが生じるかもしれませんが、根本的なことを申し上げると、主の僕として主の働き人として本来の態度を忘れてはいけないとのことです。
主の働き人、主の僕は任されたことを忠実に果たすと賞が伴う職分であることを覚えておくべきです。今日の本文で、主人の心を察して理解した僕たちは最善を尽くしました。成功と失敗は紙一重だと言われます。私は今日の本文を使い数回説教をしました。同じ聖書のみことばでもどのような観点から見るのかによって解釈にも差が生じます。
信徒の皆さん、五タラントンを預かった僕が最善を尽くして努力をしたが、それをすべて失ってしまったと仮定してみます。私たちはどうするでしょう。なぜ失敗をしたのかとせきたて、叱咤をするかもしれません。大金なのにそれを失ってしまったのかと憤るかもしれません。それがきっと私と皆さんが取る態度でしょう。計算してみて下さい。五タラントンと二タラントンを預かった僕が全ての失くし、一タラントンを預かった僕が頑張って残したとしても主人は大きな損害を被ることになるのではないでしょうか。元金が八タラントンだったのに七タラントンは損失で、一タラントンが二タラントンになったとしても。残りは二タラントンしかありません。主人はそのように十分清算できたかもしれませんが、この例えには前提がありました。主人は僕のそれぞれの力に応じてタラントンを預けたという事実です。主人は最初から自分と共に働いた経験を基に、僕たちの性格や能力を知っていたのです。
愛する信徒の皆さん、主は私たちをあまりにもよく知っておられます。それで、私たちに適切な役割を与えて下さったのです。ただ、私たちがすべきことは、自分に対して誠実で忠実に行うべきです。馬鹿とみられるほど誠実でなければ、主の働きはできません。教会の中で相手したくない人はどのような人だと思いますか。主の働きをすると言い、教会の仕事だと言いながら、あれこれ計算して自分の利益や名誉のために動く人たちです。今日、任職される方々が偶然にも二方共、女性です。総会内には教会が約100カ所あります。長老が立てられず堂会が構成できていない教会が2/3です。堂会が結成されている教会は30カ所しかないのです。女性の数はもっと少ないです。新約聖書で記された初代教会の女性たちの活動を参考しながら、大阪教会だけでなく今日(こんにち)の教会が女性たちにもっと奉仕する機会を与えるべきだと思います。
使徒言行録9章を見ると「ヤッファ」に「タビタ」という婦人の弟子がいました。「タビタ」はヘブライ語の名前で、「ドルカス」はギリシャ語の名前でしたが、「美しい」との意味がありました。この婦人の弟子が病気になって死にました。人々は遺体を清めて階上の部屋に安置しました。その時、使徒ペトロが「リダ」という地域いるとの知らせが入りました。それで、二人の人を送り、急いでヤッファまで来てくださいと頼みました。
「リダ」と「ヤッファ」は約18キロ離れたところです。その連絡を受けたペトロは駆け付けました。到着をしてみるとすでに「タビタ」は息を引き取った後でした。葬式の準備を終えた状態でした。使徒言行録9章は
「タビタ」の死と関連する内容でペトロが彼女を生き返らせたことが記されていますが、それと同じく重要な内容は「タビタ」がどのような生き方をしたのかを紹介する部分です。「たくさんの善い行いや施し」をしていたと記しています。たくさんの善い行いや施しができる信徒が一番幸せな信徒です。善い行いや施しが多い信徒は主を最も鮮やかで濃く伝える人だからです。一ヨハ3:18に「 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」と話されています。
このような「タビタ」の善い行いと彼女が死から生き返ったとの噂によって、ヤッファでは主の福音が盛んに言われ、信じる人が多く現れたそうです。今日、私たちはキリスト信徒としての生活と教会内の職分者として、どのような姿勢で信仰生活をし、教会に徳を立てる態度を持つべきかについて真剣に考えるべきです。任職される二方の女性指導者たちと、今後教会で奉仕しようと思う方は「タビタ」のように生きなければいけません。
信徒の皆さんと私は「主の僕」であり、「主の働き人」です。僕と働き人は忠実と真摯に仕えて、奉仕によって主人に喜びを与えられるでしょう。そして、主に栄光をもたらすことになると確認しながら、2021年任職式を挙行する主日のみことばを深く考えるようにしてください。忠実な僕は主人の喜びの宴に参加できるでしょう。しかし、役に立たない僕は持っていたものも奪われ、外の暗闇に追い出され、泣きわめいて歯ぎしりする立場になるでしょう。イエス様を感動させる信徒、信徒たちに褒められる職分者になり、主の香りが漂う信徒になりますよう願います。忠実な僕になりますよう、主のみ名で祈願いたします
<祈祷>
愛が溢れる神様、私たちを主の弟子にさせ、この世の中で尊い使命を与えて下さいました。福音を伝えることと隣人を愛すること、お互いに仕えることで主の善い働き人であり、僕になることをわからせ、決心させたことに感謝をささげます。今日、任職される方々と今まで多大な働きをして来られた名誉推戴者たちに、
限りない恵みを与えて下さい。午後に行う任職式が主の恵みの中で、よく進めるように導いて下さい。主イエス・キリストのみ名によって感謝の祈りをささげます。アーメン