大阪教会主日礼拝 <2021年9月5日> 人権主日/五旬節後第15主日
* 題目 : 差別克服は正義、愛、慈悲で
* 聖書 : ゼカリヤ書7章9節₋14節
<日/新共同訳>9. 「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり 10. やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」 11. ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、12. 心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた。13. 「わたしが呼びかけても彼らが聞かなかったように、彼らが呼びかけても、わたしは聞かない」と万軍の主は言われる。14. 「わたしは彼らを、彼らの知らなかったあらゆる国に散らした。その後に、地は荒れ果て、行き来する者もなくなった。彼らは喜びの地を荒廃に帰させた。」 |
<説教>
信徒の皆様、生きていくのが大変ではないでしょうか。人が生きていくなかで、大変な場面にどれほど直面するでしょう。どう生きればよいのか。どう生きれば人間らしく生きるのか。繰り返し自問してみるが、答えはなかなか見つからないです。よく生きようと努力し、やれることは全部やってみても人間らしく生きるのは大変です。信徒の皆さんは「人間らしく生きることはどのような生き方だと思われますか。」
以前、このような言葉を紹介しました。人の漢字を四つ並べて書いてからこの言葉の意味を解釈して見なさいと。「人、人、人、人」 この言葉の正しい解釈は。「人だと全部人なのか、人らしく生きるとき人だ。」そうです。最近は、漢字人を四つを並べて書いて、最後に一つ空きをおいてから「人」を書き、つまり五つ人を書いてから解釈しなさいと言うらしいです。どんな答えが出るでしょう。
「人だと全部人なのか、人らしく生きるのが人だけと、ソーシャルディスタンスを取ってこそ人だ!」。人が生きることを「関係性」だと言います。コロナ時代には人と人が間隔を置き、離れて生きなければならない。そして、お互いに会えないから多くの問題が起きていることを社会学者たちが指摘しており、憂慮せざるを得ません。
コロナ感染時代はお互いに会えないことと距離を置くことを原則としますが、相対的にもっと近くなる人たちがいます。誰だと思いますか。今までは朝早く事務室に行き、午後遅くまで職場で勤務していた会社人たちが在宅勤務、会社の事務室ではなく、自分の家や自分の空間で業務と仕事をする場合が多くなりました。普段夫が会社に出勤すると、帰宅するまで会えなかった夫婦が今では家で一緒に過ごす時間が長くなりました。子どもたちも外出を控えているので家で生活する時間が長くなりました。
今まで、家族たちが共に過ごす時間が少ないと不満を言ってきたが、コロナ事態によって家族が共に過ごす時間が増えたという肯定的な面もあります。反面否定的な問題が家庭から始まり、社会問題として浮上しているのを皆さんはよく知っておられると思います。家庭内暴力問題は予想外の問題でした。夫が妻と子どもたちと関係が不仲になり、暴力につながるとの報告です。もっと深刻なことは主婦の自殺率が想像を絶するほど高まっていることです。
このように、人は生きている環境によって、生活の質や内容が変わる場合があります。神様が創造された人間は神様の形状(イメージ)、すなわち神様のみことばに従わず、サタンの誘惑に陥り、罪を犯してしまいました。この罪の結果は、長男カインが自分の弟であるアベルを殺す殺人をしたので、罪はもっと拡散していきました。初めての殺人行為が兄弟を殺すことだったので、私たちは聖書を読みながら驚かざるをえません。しかし、神様は殺人者「カイン」を生きらせておいて、罪の代価を払わせます。
人間は自分の選択ではないが、多くの条件を持って生まれます。人種、肌色で人種が決められます。黒の肌色は黒人になり、白い肌色は白人と呼び、黄色い肌だから黄色人種と区別されます。民族や血統によって決定されます。国家はどうですか。国の選択と条件において、自分が生まれたところや父母の国籍によって、どの国なのかが決定されます。世界人口の1位が中国です。2位がインドで、10位の中でアジアの国が五つで、半分を占めています。日本は11位です。世界人口の78億人のうちアジア人口が3/5だそうです。
このようにして、国籍が異なります。生まれると身分も決定されます父母やその先祖たちの社会的な地位によって、だれだれの息子、娘になり、家門の身分や地位を継承される場合もあり、社会的に見下され、差別される身分になったりもします。宗教的な面でも同じです。慣習で父母や先祖たちが信じる宗教を次世代と子どもたちが自然に継承される場合があります。これらは過去にあった制度的なものすぎですか。そうではありません。現代も少しずつ違う面を持っている多様な差があります。
このように互いに異なることは差別をもたらします。人と人の間で生じる人種差別は代表的な差別だと言えるでしょう。人たちの移動は個人の判断で移る場合もありますが、物理的に自分が願うもしくは願わなかったけど、移動して住むようになります。実は人種差別はその代表的な例です。アフリカ系黒人たちがヨーロッパや北米大陸に移って住むようになったのは本人たちが願ったからではありません。
当時、労働力が必要だったヨーロッパとアメリカ大陸はアフリカ人たちに武器を突き付け、動物を捕まるように捕らえ、船に乗せて自分の考え通りに移住させました。労働力が必要な人たちに金をもらい、家畜を売るように売り飛ばしました。そして、黒人たちはヨーロッパや北米大陸では奴隷になり、その子孫も代々に奴隷生活を送ることになりました。黒人解放運動の結果で、自由は得られましたが、今でもアメリカ社会には、根強く人種差別問題があります。昨年も黒人差別によって、事件が起き大きなデモが続きました。最近はコロナ禍でアジア人を憎悪し、差別することが起きています。
この世界である国家や社会にも差別が存在していることを否めません。しかし、問題は人間社会において差別のない平等社会にならなければいけないが、そうではないのが問題です。在日大韓基督教会が人権主日を定め、神様の前で祈りし、礼拝をささげることもやはり人間の基本的な権利である「人権」が守られることを知らせるための出発点でした。しかし、悲しいことに私たちが住んでいる日本社会や私たちの周辺では差別が続き、人間らしく生きる権利が未だ保障されていません。
先週の主日まで、第103回全国高等学校夏の野球大会が甲子園で開催されました。京都地域代表として選抜された京都国際高等学校野球部が春の大会に続き、夏の大会も開校以来、初めて甲子園に出場しました。予選と8強に上がり、勝利するたびに校歌が甲子園球場とTV画面を通して全国に響きました。韓国語で歌われる校歌です。この学校は在日大韓基督教会、総会の先輩牧師と信徒たち、在日同胞の助けで作られた学校であります。校歌を作詞された方は神戸教会で長らく牧会された金ケイチャン牧師です。
この校歌がTVで放映されると、日本国民はこの学校が韓国系学校であるのを知りました。その後、多くの人たちが非難し、差別的な発言が出始めました。内容を見ると度が過ぎるのが一つ、二つではありません。朴キョンス校長先生は大阪で勤務されるとき、3年間大阪教会に出席された協力按手執事です。選手たちと学生たち、学校関係者たちが差別の発言に動揺せず、落ち着いて競技に臨めるよう、個人のSNSを通して祈りの要請をするほどでした。民族と国籍の差別で青少年たちの胸に釘を刺すようなことを気兼ねなくできる非常識な人たちがいるのも事実です。
神様の導きの中、モーセが指導者になり、イスラエル民族をカナンの地に導き、国家を形成するようになりました。イスラエルがカナンの地に定着してから1400年が流れ、民族は大きな混乱に陥りました。北イスラエルは「アッシリア」に、南ユダは「バビロン」との戦争に負け、滅亡しました。異邦の地に連れて行かれたイスラエルの民は神様に祭事をささげられなくなりました。
そのような時、祭司長と預言者によって「シナゴーグ」を作り、安息日を守ることを始めました。自分の国で住んでいたときもきちんと守れなかった断食をするべきか。しないべきか。彼らは判断しかねました。ゼカリヤ7章を見ると、イスラエルの民は祭司長たちと預言者たちに今まで実行してきた、5月と7月の断食し嘆き悲しむことをすべきかと聞きます。神様の民として生きながら、定められた律法と規律に従って行った断食と祈りをどのように守ればよいか教えてほしいとのことでした。
この時に神様は「あなたたちが果たして真にわたしのために断食してきたか。」と質問されました。「祝祭日を守ったのが真に私のためにやったことなのか」と聞かれました。そして、神様はみことばを与えます。この言葉をユージン・ピータソンは「違う、あなたたちは宗教には関心があるが、私は人に関心がある」と答えたと訳しています。その後、続いて話された言葉が今日の本文です。
神様はまず、「このことについてあなたたちに新たに与える言葉はない。」と話されました。エルサレムが人に賑わう都城だったとき、その周りの町々やネゲブにもシェフェラにも人が住んでいたころ、主が先に預言者たちによって呼びかけられた言葉を知らないかと話されます。
そのときゼカリヤに主の言葉が臨みました。そして、今もメッセージは同じであると話されました。そして、預言者を通して与えた内容は「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐み深くあり、やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない。それは悪である。」と話されました。
神様は続けて「あなたの先祖がその言葉に従ったか。そうではない。彼らは耳を傾けることを拒み、頑なに背を向け、耳を鈍くして聞こうとしなかった。彼らは神様の啓示に心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。」と話されました。
神様の言葉に対して耳を鈍くし聞こうとしなかったことは無論、神様の啓示に心を石のように硬くして拒んだと話されました。さらに「歯を食いしばって反抗をした民だ。」と言われました。主が与えられた律法や言葉を聞こうとしなかったので、万軍の主の怒りは激しく燃えたと強調されています。それで、彼らが呼びかけても私は聞かないと話されたのです。最後の警告の言葉は「私は彼らを、彼らの知らなかったあらゆる国に散らした。彼らは寄留者となり、彷徨うだろう。約束の地は荒れ果て、行き来する物もなくなった。彼らは喜びの地を荒廃に帰させた。」でした。
ここで、このようになった理由をみことばから探す必要があります。「なぜ、イスラエルの民をあらゆる国に散らし、寄留者にさせて異邦の地で彷徨わせ、エルサレムを荒れ果てさせ、喜びの地を荒廃させる。」と話されたのでしょうか。その原因を探るためには、神のみことばを与えてくださいと要請した民に主が与えた言葉を想起しなければなりません。これ以上新しいメッセージはないと言い、再度「お互いに正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわりあい、憐み深くあり、やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない。それは悪である」と話されたのです。
愛する信徒の皆さん、差別の克服はこのみことばから始めなければいけません。お互いに正義と真理に基づいて接するのです。イエス様の言葉通り、「互いにいたわり合う」のです。哀れな隣人には慈しみを施し、
やもめ、だれもケアしてくれないみなしご、寄留者を世話にし、貧しい人を虐げではならないと話されたのです。
そして、互いに自分の利益や名誉のため陰謀や計略を企んではならないと言いました。このような行為は悪であると話されたことを見て、私たちはどのような決心をすべきですか。神様の言葉に耳を傾けることと心を開いて受け入れることから始めるべきです。神様のみ旨に従い、具体的に私たちが世話すべき人たちに手を伸ばすのです。貧しい人であろうが、一人で生きる女性であろうが、だれかの助けが必要なみなしごや疎外された人たち、そのような小さい人たちに関心と愛を持って近づくのが差別をなくす第一歩なのです。
コロナ禍で全世界が深刻になっていくこのころ、私たちはどのような差別も許してはいけないし、差別のない世界を作り上げるために、天の国、神様のみ旨が実現できる私にならせ、実践しなければいけません。主が私たちを祝福してくださるでしょう。
<祈禱>
差別なく、この世を愛してくださる全能なる神様。
この世の全ての人たちを救うため、十字架にかかり血を流しながらも、誰一人恨まず、差別もされませんでした。イエス様の生き方を見倣い、生きていく信徒たちが差別ない社会のため、信仰に基づいて行動するようにならせて下さい。神様が自ら形づくって創造された全ての人々が人間らしく生きていけるように恵みを与えてください。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン