<2021年8月22日>主日礼拝「新しい契約を結ぶ!」金伸禹牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年8月22>五旬節後第13主日                        

* 題目 :しい契約

* 聖書 : エレミヤ書31章:31-34  

[日/新共同]

31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

<説教>

ハレルヤ!この時間、わが主が私たちの礼拝を受け取って下さり、聖霊様が共におられることを信じます。また聖霊様がみことばをわからせ、それを通して大きな恵みと喜びと確信に満たされる時間になりますよう祈願いたします。アーメン。

皆様、古い契約は破られました。そして、新しい契約を結ぶと話されています。そしたら、いったいこの古い契約とは何でしょうか。それは昔のイスラエルの民と結んだ契約でした。すなわち、モーセがシナイ山でもらった律法を指します。それがなぜ破られましたか。今日の本文のみことばではこのように話しています。

32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

イスラエルの民がどのように契約を破りましたか。唯一で真なる神様だけに仕えなければいけないのに、彼らは他の異邦の偶像を崇拝しました。それで、神様は自分を夫と例え、イスラエルの民は妻なのに、「姦淫する女」と言っておられます。神様が最も憎むことが姦淫です。皆さん、肉体の姦淫を行う者は、なぜそうなのか知っていますか。それは心の中に二つの心を抱いているからです。妻が一人の夫を愛して仕えることが当然ではありませんか。もし妻が複数の夫を愛して仕えても大丈夫ですか。そのような二つの心を抱いても良いですか。決してそうではありません。普通の夫ならそんな妻とは離婚するでしょう。ところが、神様と結婚関係を結んだイスラエルの民はどのようにしましたか。

エゼキエル書16章を見れば、神様がイスラエルの民、特別にエルサレムをどれほど愛し、憐み、どれほど多く祝福して下さったのかを記しています。そして国々の間で最高にならせました。ここで、エゼキエル書16章14節から読んでみます。「14その美しさのゆえに、お前の名は国々の間に広まった。わたしがお前を装わせた装いには、少しも欠けるところがなかったからである、と主なる神は言われる。15それなのに、お前はその美しさを頼みとし、自分の名声のゆえに姦淫を行った。お前は通りかかる者すべてにこびを売り、身をまかせた。 16また、自分の着物の中から選び出して、華やかな床をしつらえ、その上で姦淫を行った。このようなことは、かつてなかったし、これからもあってはならないことだ。」神様がどれほど辛かったでしょう。神様と結んだ契約を古靴のように捨ててしまいました。したがって、神様がイスラエルの民を審判するのは当然であったかもしれません。彼らがこのように神様との契約を破ったからです。

それにも関わらず神様は彼らを完全に捨てたのではないと話されます。勿論懲戒は行いました。その懲戒は何だったでしょうか。北イスラエルはB.C722年にアッシリアという国によって、そして南ユダはB.C586年にバビロンによって完全に国は滅ぼされました。イスラエルの民には死のような苦しみでした。これによって、イスラエルの歴史は完全に終わったと考えました。しかし、神様は既に預言された通り、70年後にイスラエルを再び回復させて下さいました。まるで死から復活させたような出来事であります。それで、神様はイスラエルを完全に捨てたのではなく、新しい契約を結ぶ日が来ると話しておられるのです。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

この「新しい契約」がどれほど素晴らしい恵みなのかは、まさに「古い契約」がどこに刻まれて与えられたのかを見ればわかります。古い契約は文字であり、石に刻まれていました。それで、イスラエルの民はそれを見て聞いて覚えてそのまま守らなければなりませんでした。申命記4:13「主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された」。

このように、神様は石の板に書き記し、与えて下さいましたが、イスラエルの民はそれを見てそのまま守れたのでしょうか。いいえ、守ることはできませんでした。それは、私たちも同じです。簡単なことを見てもわかります。十戒の中にある戒め、あなたの父母を敬え!私たちは本当に父母を敬いますか。勿論敬う人もいるでしょう。そしたら、姦淫してはならない!主は心に淫欲を抱いた人も既に姦淫したと話されました。または、隣人に対して偽証してはならない。この世を生きながら、嘘をつかなった人がいますか。それで、私たちは既に姦淫し、父母を敬わず、嘘をつきました。とにかく十戒の中で一つも破らずに守ることは不可能なのです。絶対守れません。

皆様、人はいくら良い物を見て学んだとしてもそのまま生きることはできません。もし生きれるとしたら、イエス様が十字架を背負われ、惨い姿で釘を打たれる理由がありません。そして、あれだけ良い物を見て学んだのになぜこの世はここまで堕落したのでしょうか。それで、どこかに書かれたのを見て学んだ人本主義的な思想や教育で人は変わるものではないことがわかります。勿論、ある程度の助けにはなります。律法教育を通してわかることは「あ、私にはとうてい無理な生き方だな。」とのことです。勿論律法的な生き方をうわべだけの真似はできると思います。しかし、真なる変化は不可能であるとのことです。これを知るのが、まさに信仰の始まりです。

そしたら、どのようにすれば人が本当に変化できるのか。その人の内面が変わらないといけないのです。 いったい、人間の心には何が入っているからその心が変わらなければならないというのですか。面白い話があります。私たちの体を治療する医師に聞きました。すると、人間の中には色々な内臓器官があると言いました。事実であります。それは肉眼で観察可能なことです。そしたら、肉眼で観察しにくいことを知るために心理学者に聞きました。すると心理学者は人間の中には無意識の世界があると言いました。間違いではありません。それも事実です。しかし、その無意識の中に何が入っているのかに対して、心理学者は正確に答えられないのです。

そしたら、これを正確に知っている方は誰ですか。哲学者ですか。科学者ですか。違うのです。まさに人間の魂と肉を創造された我らの主がその答えを知っておられます。そして、そのイエス様が聖書にこのように話されました。人間の中にはこのようなのが入っていると。マルコ7:20更に、次のように言われた。「人から出てくるものこそ、人を汚す。21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

なぜこのようなものが人間の中に入っているのでしょうか。神様がこれらを作ったのでしょうか。違います。それは人間が堕落したからです。堕落の始まりは当然アダムとエバのときからです。アダムとエバがサタンに騙され、善悪を知る実を取って食べてしまいました。善悪を知る実を食べた人間は、その瞬間から自分だけの知、情、意を持つようになりました。

どのような意味ですか。神様、これからはあなたの意志ではなく私の意志通りに、私がしたいように選択し、決定し、行動するとの意味であります。私が主体になるとのことです。これが善悪を知る実を食べた結果です。そしたら、その堕落した知性、感情、意志が結局人間の中をどのように作りましたか。善にさせましたか。絶対そうではありませんでした。イエス様が話された通り、あらゆる悪を作り出しているのです。神様のみ旨から離れた人間は独立的な主体になれません。即、サタンに食われたのです。それでサタンの僕になってしまったのです。

サタンの子になってしまった人間の中はあらゆる悪に満ち、この世を堕落させました。皆様、我々はこの事実を真っ先に認めなければいけません。ヨハネ8:44「あなたたちは、悪魔であるお父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」。

ところが、このように話す人たちがいます。実は「わたしが罪人だなんて。私は罪を犯したこともなく、嘘を言ったこともなく、他人に迷惑をかけたこともないんだから。」と思っている人が、最大の罪人なのです。なぜなら、神様の前で自分が義であると言っているからです。それは、極めて大きな傲慢です。それで、私の中が罪で満ちていることを認められないとき、人は滅亡で終わってしまうのです。

古い人の心はこのような悪が積った上、頑なになっている状態でした。すなわち、このようなあらゆる邪なことが私の心に積もったまま強硬に固まっているとのことです。これがすなわち、人間の理性と知識、または理論というものです。このように固まった人本主義的な理性と知識は主に服従できるでしょうか。違います。当たり前のように主に不従順になります。それで、主に服従するということは私の知、情、義を手放し、主のみ前にひれ伏すことを意味します。二コリ10:4 私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。私たちは理屈を打ち破り 5神の知識に逆らうあらゆる高慢を打倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ。

わたしたちの全ての思惑や理屈などを打ち破り、キリストに従わせると記されています。そしたら、どのようにすれば、私たちの心に積もっている思惑や理論を手放せるでしょうか。今日のみことば、新しい契約を結ぶことで可能になると話しています。この新しい契約の内容は何でしょうか。今日の本文を再度見ましょう。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。

今では目に見える文字で記録した石の板ではなく、私の心の板に霊によって記すとの内容です。本当に驚くべきみことばです。それで、この新しい契約は素晴らしい恵みの契約なのです。文字で記された昔の契約は、いくら従おうとしても私の堕落した本性が嫌っていたのでできなかったのです。それで、うわべの真似をしていたが、心の中には異なる考えを持っていました。しかし、今からはその心に記すとの約束なのです。

新しい心を授かると私たちはどうなると思いますか。変化が起きます。まず石のように固かった心が優しい心に変わります。そこから変化が始まるからです。皆様、体の肉に例えてみましょうか。人のお腹周りのぜい肉が付き続けるとだんだん固くなります。そのようになると運動をしても簡単には落ちません。いつから落ち始めるかというと、続けて運動したとき固かったぜい肉がやっと軟らかくなります。さらに運動を続けるとようやく落ち始めます。そこから運動が面白くなります。それで、まず軟らかくならないといけないと言うのです。わたしたちの心と同じです。まず固かった心が柔らかい心にならないといけません。そうなると主に従うことができます。

そして、もはや無理やりにやることではないです。喜びで嬉しい気持ちで従うのです。エゼ11:19 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

では、ここからは本当に重要なみことばです。いったいなぜこのように堕落し、契約も破ったイスラエルの民に新しい契約を与えると話されるのでしょうか。すでに古い契約を破ったので、もらう資格がないのではないでしょうか。それは、私たちも同じです。イスラエルの民でなかった私たちは元来資格がなかったです。代々迷信を信じ、迷信に従い、迷信と共に生きた存在だったからです。それだったのに、どうやって驚くべき新しい契約を授けるようになったのでしょうか。それは、ただ「イエス・キリスト」のおかげです。その方がこの新しい契約の仲介者になられたからなのです。ヘブ9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

それなので、もはや私たちはイエス・キリストのために生きる存在になったのです。新しい契約を結べるように全てのことを成し遂げられたイエス様に讃美と敬拝と栄光をささげます。また、イエス・キリストを通して私たちに新しい契約を与えて下さった聖霊様に感謝をささげます。34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

私たちに律法の条文でなく、霊の言葉として私たちの心に記すという意味は、すなわち私たちに聖霊に送って下さることです。そして、その聖霊様がすべてをわからせ、悟らせ、確証させるとの約束なのです。そして、

その新しい契約のよって、私たちに義の職分である栄光の職分を与えると話されています。二コリ3:6

神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。7 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめないほどであったとすれば 8 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。

皆様、私たちに主は驚くべき新しい契約を与えてくださいました。この新しい契約によって栄光の職分を受け取り、享受してください。私たちは既にこの契約に結ばれた人たちです。ハレルヤ!その恵みの栄光を享受するのが私たちの役割です。ではどのように享受すればよいのでしょうか。信仰で享受できるのです。主が新しい契約を与えてくださり、その契約によって私の心が変わったことを信じなければいけません。

そして、この信仰を日々強めるために休まず祈ってください!また、主が私たちに与えてくださったみことばを毎日読み、食べて下さい!毎日ご飯を食べるように、息をしているように、祈りとみことばを毎日行うのです。そしたら、わたしたちはもっと確信に満ちた信仰生活ができるでしょう。そして、何より主が喜び、主が求める豊かに実る生き方ができると確信できます。

お祈りいたします。

主よ、私たちに新しい契約を与えてくださり、感謝いたします。その契約によって、私たちの心が聖霊様をわからせて下さり、感謝をささげます。主よ、その恵みを私たちがもっと享受したいと願います。わたしたちの中におられる聖霊様によって、その恵みを享受できる人にならせて下さい。主イエス・キリストのみ名でお祈りいたします。アーメン