<2021年8月8日>主日礼拝 「命の神に望みを置いて」鄭元然牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年8月8日>五旬節後第11主日                      

* 題目 : 命の神に望みを置いて 

* 聖書 : 詩編42編:9-12  

[/新共同訳]

9. 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。10. わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」11. わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/「お前の神はどこにいる」と。12. なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの

<説教>

愛する信徒の皆さん、酷暑が続く中、一週間どのように過ごされましたか。コロナウイルス感染は、これまでの状況をはるかに超え、深刻な状態であります。感染者の増加はもちろんのこと、新しいウイルスは危険性を増しています。緊急事態宣言により、教会に集まって礼拝をささげることが難しくなりました。しばらく日本語礼拝と韓国語礼拝を分けて「Youtube」で非対面礼拝をささげると堂会が決めました。協力してくださる皆さんに感謝します。スマートフォンの狭い画面で礼拝をささげる信徒さんは大変だろうと察します。それでも神様にささげる礼拝に霊と真心を込めて参加してくださいませ。

最近ほど今までの生活の中で命の大切さを深く感じた時間がありませんでした。一人の命の存在感がこんなに大きくて大切だったのだと悟りながら、一週間を過ごしました。一人の人生は一人の命です。この命は生きていることと死んだことに分けられます。命が大切だと考えるようになるのは、その命がこの地での生を尽くして冷たい死による悲しみと別れがあります。もはや私のそばからその存在が消え去り、今、私たちのそばにいないことを感じたときにその価値が貴重だったと実際に感じると思います。

宇宙万物の創造主である神様はみことばですべてを造られました。人を創造する過程は前と大きく異なりました。神様、ご自身の姿(形)を象って土で形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられました。すると、この存在は生きて動くようになり人間になりました。命は神様が人類と呼吸があるすべてのものに与えられた祝福であり、贈り物です。命という言葉は、生物が生まれて死ぬまでの生きている状態と物事が存在するための最も本質的なことであり、重要なことを比喩的に指す言葉であると辞典に記されています。

 

 

日本語は「生命(せいめい)」、 「命(いのち)」、英語では「life /生き方、生命、生活、人生、寿命です。もう一つは、「live」暮らす、生活する、居住する、生放送の、生存するという言葉もあります。 「生命」を韓国語で説明すると、「命」という言葉で表現されるが、これは「生物が生きていく原動力」と言われます。すべての生き物の命は神様が与えられたものと信じることが、キリスト教信仰の第一歩です。旧約聖書では、「命」という言葉を説明するとき、死んだものの反対概念で使われています。また「命」は生きていることで、死んでいない状態を指します。この命を神は人を形づくった後、ご自身の息(生気)、呼吸を吹き入れたのです。新約聖書では人の生きる呼吸だけでなく、道徳的なもしくは霊的な呼吸で永遠の命と繋がる単語として使っています。

命は全面的に神様に属していると言われます。そして、ヨブはただ主のみが命を創造され、与える権威がある唯一な方だと告白しました。

(参考)ヨブ1;21「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

イエス様も命ある一羽の雀が空を飛んでおり、地に落ちることすら主の許しが必要だと話されました。

(参考)マタイ10;29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

したがって、人間自らが自分の命に害を与え、他の人の命に害を与える権利がありません。そして、これを違反して生命を破壊することは、神の権威に挑戦する罪となりました。それで、十戒で「あなたは殺してはならない」と戒めています。命は神様に与えられたものなので命をもらった人間は、当然神様に仕えて生きるべき存在です。

今日の本文である詩篇42篇は、歴史的背景に関して約2つの見解を持っています。一つ目は、ダビデ王が自分の息子であるアブサロム王子の反逆に直面し、神様の幕屋があるエルサレムを離れ避難生活をしていた苦難の時間と見る見方です。二つ目は、コラの子孫の中で神殿に仕えていた人が神殿から遠く離れてから、その時代を慕いながら詠った詩だと見る見方です。詩編42編2節を信徒の皆さんも覚えておられるでしょう。2. 涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。

この酷暑の中、健康管理に注意すべきことの一つが「熱中症」です。熱中症は、暑くなって人の体から水分が不足すると脱水と体温調節機能が狂い、命までも失ってしまう危険な病気です。のどの渇いた鹿が水を求めると比喩される私たちの人生の渇望は、どのようなものがありますか。私の人生に必要なものを求める切実な心と言えます。これには物質的や精神的、あるいは信仰的なものも該当します。

詩編を詠った詩人も、自身の生活の中で平安を求める道を切に探しているのです。この詩の前半部は「神様に対する尊い愛」を詠いながら、ヤハウエを崇めその名を覚える渇望を表現しています。信仰を持っている私たちが一番悲しむべきことは、私たちの過ちによって「主が私たちから離れられる」ことです。

人と人の間でもそうです。なぜ私の周りにいた人が離れていくのですか。人間関係に齟齬(そご)が生じるからです。誰かの過ちと言うより、相互に問題が生じると自然に心が離れ、去っていくのです。従ってこの詩人は、神様が自分と一緒に同行していないようだとの不満を言っているのです。落胆し不安に満ちている自分の心を曝(さら)け出しています。しかし、詩人は尊い愛に回復しようとするのです。今日の本文では、不満と慰めが一緒に出ています。この詩には、自然の運行によって昼夜が交差されるように、不満と慰めが交差されながら出ています。

詩人は自分の魂が落胆するのを、神様を考えながら自分を自ら慰めています。(6節)彼は、迫害者の攻撃を避けるため時には「ヨルダンの地」に逃げ、時には「ヘルモンの地」もしくは「ミザル」と呼ばれる山に

逃げました。もはや彼はカナンの地の一番端まで追い出されました。事実、人間にとって役割の喪失は何より存在において、自らを悲惨にさせることをよくわかっています。まるで、嵐が押し寄せてくるような状況で、神様を覚え、神様を待ち望め、神様の恵みから来る救いを期待しているのが本文の内容です。

苦難の時間を過ごしながらも昼には神様の慈しみを経験するのです。ここで、韓国語聖書では「施す」、日本語聖書では「慈しみをわたしに送り」との言葉を考えてみましょう。神様が慈しみを「施すもの」を神様の慈しみを命令する(command)となっています。この言葉に慈しみは対価を顧みず、神様の絶対的な方法で私たちに与えるとの意味が含まれています。それで、詩人は夜になれば主の歌が私と共にあり、共に祈りますと告白します。

ここで詩人は「私の命の神へ祈る」と詠います。神様が自分の祈りに応答して下さった経験を持っている詩人は、自分の命を司る命の神様に祈ると告白しています。信仰の人たちには、苦しくなればなるほどもっと強くできることがあります。それは、祈ることです。信徒の皆さんも信仰生活をしながらたくさんの経験をされたでしょう。祈りの生活で苦しい状況を克服し、新しい力を得て勇気を持てるようになったことがどれほど多かったでしょう。

愛する信徒の皆さん、私たちが生きながら命の存在の大切さを感じ、自らその命の価値を高めるの個人の力ではなく、神様の絶対的な主権が必要であることを再度確認できます。ただし、私たちは弱い存在なので、詩人のように不安を抱きつつ生きています。この不安で神様に嘆いたりもします。目に見える形として敵のような存在もいます。神様に対する望みを失わせるため意図的に誹謗を言います。私と皆さんを誹謗する人たちがいます。陰で悪口や非難を言い、抑圧する人たちがいるかもしれません。その時、私たちはどのような気持ちになりますか。

非常に悲しくて心が重くなり、自信を失ってしまうでしょう。今日の詩人の告白のようにうなだれて呻(うめ)くのが私たちの姿ではないでしょうか。では、ここで私たちは、この詩人の最後の祈りを聞いてみましょう。これは、神様は自分にとって「盤石(ばんじゃく)」で、自分にどんな困難が襲っても頼れる岩であり、避けられる岩であると告白しているのです。詩人は、このような神がおられるので、慰められると言います。

テレビでオリンピック競技を見ながら感じることがあります。選手たちの心理的な状態です。試合をするとき、自分が持っている考えとイメージ通りに流れません。勝利を目指し最善を尽くしますが、自分の思う通りに試合が運ばれないのでが。種目によっては相手と競う競技もあれば、自分との戦いである競技もあります。この時、最も大きくかかわるのはなんでしょうか。そうです。結局は精神的な強さと精神力が大きく作用します。皆さんと私はどのような信仰的な精神力で準備できていますか。

愛する信徒の皆さん、今私たちがおかれている生活の場はとても不安で予測不可能な状態であります。このような時間に私たちは、命を司る神様に祈りましょう。ときには不満を言う私たちではありますが、神様が「盤石」であり、希望であることを信じ進みましょう。主が私たちと共にいて下さいます。希望は神様が私たちに与えって下さる岩のような喜びです。そして、私たちがすべきことは感謝しながら、進むことです。命を与え、凛々しい生き方によって希望を持つように強めて下さる神様と同行する一週間になりますように主のみ名で祈願いたします。

<祈祷>

私たちの命を司る創造主である神様、今日この時間、礼拝をささげながらも神様の御働きを信じないときがあります。祈りながらもうなだれ呻いている私の至らなさを感じます。全能で私たちの希望である神様にすべてを委ねて前に進める私たちにならせて下さい。永遠なる岩でおられる主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン