<2021年8月1日>主日礼拝「人生の転換点で」 鄭元然牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年8月1日>五旬節後第10主日

* 題目 : 人生の転換点で 

* 聖書ルカによる福音書19:1-10  

[()新共同訳]

1. イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2. そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3. イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4. それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5. イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6. ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7. これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 8. しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9. イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10. 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

<説教>

世界的に広がっているコロナウイルス渦中でも東京では、オリンピックが開かれています。普段なら世界中の人々の関心と喜びの中の戦いになるはずが、今回のだけはそうではありません。心配と不安がいっぱいの大会となってしまいました。競技場には観客も入れない奇妙な試合が続いています。しかし、選手たちの立場では、何年もかけて訓練し練習したことを試合で良い結果を出すために最善を尽くします。一人一人の選手に事情があり、試合の結果によって歓喜と悲しみに分かれて称賛と非難が出ます。

大韓民国の射撃選手の中には、今までオリンピックに4回連続出場をし、金4個、銀2個のメダル、そして、世界選手権のような大きな大会で37個のメダルを獲得した選手がいます。しかし、残念ながら今回の東京オリンピックではメダルが獲得できませんでした。世界的に注目を受ける選手だったから、その結果についていろいろな言葉が行き交っています。インタビューで「選手にとって試合の結果は非常に重要である。メダルを取れた選手もいるが、そうでなかった選手が多い。試合前に選手たちが流した汗と努力を考えなければいけない」と言いました。そして、今回の試合は、自分の人生において大きなターニングポイントになりそうだと言いました。「引退するのか。」という質問に、私は次回のパリで開催されるオリンピックに向けて準備と練習をしようと思いますと答えました。

人生においても明らかにターニングポイントとなる時期と事件があります。聖書に記録された人物の中にも、人生のターニングポイントで成功した信仰人になった人と、失敗で終わった人もいます。世界文学作品の中でも、このような内容が見られます。世界中の人々が好んで読んでいる「レ・ミゼラブル」(フランス語:LesMisérables)は、「ヴィクトル・ユーゴー」(Victor-Marie Hugo)の作品です。タイトルである「レ・ミゼラブル」は、「悲惨な人々」という意味であり、大韓民国では、「ジャンバルジャン」と紹介されました。私は子供の頃に「ジャンバルジャン」と聞いてきた内容が「レ・ミゼラブル」だったことは、成長した後に知りました。映画は何度も新たに作られ、ミュージカルも世界各地で上演されています。日本は30年前から上演されており、世界中の人々に称賛されている作品です。

その内容は、皆さんもよく知っておられるように、フランス民衆の悲惨な生活と1832年にあった「フランスの6月蜂起」を素材にていました。民衆に対する「ヴィクトル・ユーゴー」の関心と社会改革の意志を示す社会派小説です。しかし、実際には、人間の罪と救いの実践的な解決策が何なのかに対する作家の答えでもあります。貧困と飢えの中にいた甥のためにパンを盗むしかなかったジャンバルジャンは19年という長い年月を刑務所に収監され、罪人としての生活を送りました。出獄した後でも、囚人というレッテルをつけたまま、以前よりも飢えと冷遇されながら生きていたジャンバルジャンは、たまたま野宿していた教会の前で神父に会い、人生の転機を迎えます。

この内容を信徒の皆さんもよく知っておられます。人生のターニングポイントにおいてジャンバルジャンの深い内面の悩みは、過酷な刑務所で起きたものではなく、一人の神父との出会いによって起こりました。人間を変えるために作られた刑務所は、人間をより疲弊させ頑なにさせました。しかし、キリストの愛と真の人類愛を与える神父との出会いは、ジャンバルジャンに驚くべき変化をもたらしました。私たちがここで注目すべきことは、ジャンバルジャンは神父との出会いの中で、過去の生活を捨て、新しい生活に変えたことです。ジャンバルジャンは変わることに対して悩み始め、本当に彼の人生を変えました。最後には、ジャンバルジャンが、市民革命に参加したが、政府軍の鎮圧で負傷した青年を下水道から連れ出す場面は、作家の社会運動への関心と支持だけでなく、行為を通じた人間の罪と救いを向けた熱望を示していると後世の評論家に言われています。

今日、私たちが読んだ「ザアカイ」の話はいつ聞いても、何度読んでも新しい力を得ます。イエス様の福音話の中でも新しい視線で見られる、非常に興味深く、感動があふれる事件です。ザアカイにイエス様との出会いによって起こった驚くべきことを見ているのです。今日は、このようなザアカイを当時の社会的な状況に照らし、ザアカイの救いに至る過程を見てみましょう。つまり、ザアカイの人生において最も大きなターニングポイントとなった事件を通して、私たちも、私自身も、このようなターニングポイントでどのような行動を取るべきかと考えてみたいです。

聖書を見ればザアカイは、単に徴税人ではなく、徴税人の長、まさに徴税人の頭でした。徴税人は税金をもらう人です。先週の主日にも、イエス様の弟子、マタイが徴税人だったことを申し上げました。ところが当時のイスラエルはローマの植民地であったため、イスラエルの民が出す税金は、イスラエルのためのものではなく、ローマに朝貢(ちょうこう)として捧げるためでした。自分の民のお金を奪って敵国であるローマにそのお金を捧げていたのです。ザアカイがどれほど憎まれていたことでしょう。

歴史からみると、イスラエルはダビデとソロモンの時代を除いては、他国に朝貢を捧げていた国でした。朝貢ならうんざりだと思った国であり、朝貢さえなければ幸せになれると思っていたはずです。このようなイスラエルの民に朝貢のためにお金を集めて収める徴税人は、民の憎しみの対象になるしかありませんでした。徴税人は、ローマの政策のせいでさらに嫌われました。ローマは税金を集める人々にいくつかの権利を与えました。もし税金が100万円であれば、徴税人はその地域の人々にどの位徴収するかに関係なく、100万円のみローマに収めてたら良しとしました。徴税人が200万円を集める、300万円を集めることは関係がありませんでした。貪欲な人々は、徴税人という職業を買い占めました。この言葉は、徴税人という職業を得るために賄賂をあげ、あらゆる策略を使ったことを意味します。その中でもザアカイは徴税人の頭だった人なので、どれほど多くの不正や賄賂、あらゆる策略を持っていたでしょう。どうも、ザアカイはベレアからユダに商品が入ってくるときに、その通関税を受け取る徴税人の頭だったようです。

イスラエルの信仰の指導者と民に、このような職業の人々は「罪人」と言われました。今日はこの宗教指導者たちが罪人と呼び蔑視していた人々に対するイエス様の立場も少し考えてみたいです。今日の本文の前から、イエス様は宗教指導者たちとユダヤ人たちに軽蔑されていた人々に関心を示しておられました。軽蔑された人々は、出身地域によって異邦人はもちろん、同じ同族だが異邦人の血が混ざっているサマリア人と、職業によっては徴税人、倫理的な面で体を売る女性たちが代表的だと言えます。その次は、肉体的に障害を持つ人、目が見えない人、言葉が言えなく聞けない人、身体障害を持つ人々に対する差別と蔑視でした。

ザアカイも仕事による蔑視を全身に感じながら生きてきた人でした。ザアカイは罪と腐敗の中で「失われたもの」とも言えます。前の章に出てくる貧困と目が見えない人の救いとは対照的な姿で登場します。しかし、その中心は同じく救いに関するものです。イエス様がこの世にされたことは、軽蔑されて差別されている人たちも世界の一般の人々と同じく、救いの箱舟(はこぶね)の中に一緒に入らせることでした。忘れられた人、蚊帳(かや)の外にいる人、いくつかの理由で無視される人は、このすべての人たちを、聖書は「失われたもの」と表現します。イエス様がこの世に来られ行われるキリストとしての働き及び神様とメシヤとしての役割は、イスラエルの家の失われた羊を救うためだとエゼキエルも既に預言しました。

ザアカイがいちじく桑の木に登ったとき、イエス様が通られました。イエス様は彼の名前を呼んでくださいました。名前を呼ぶことは、すでにイエス様がザアカイを知っていたことを意味します。ザアカイはなぜいちじく桑の木に登って行きましたか。木に登ったことは明らかイエス様を見るためであったが、葉のしげる木に登ったのは、自分を隠して、イエス様を見ようとする意図もあったでしょう。ザアカイは当時有名なラビの一人だと言われていたイエス様という人物を見たかったが、自分を露出せずに見ようと葉の茂みに自分を隠してイエス様を見ようとしたのかもしれません。ところが、イエス様がこのようなザアカイに近づいて来られました。イエス様は、その多くの群衆をかき分けて進み、ザアカイに近づいて来られました。ここで、私たちは人間の小さな行動にも反応されるイエス様の姿を見ることができます。ザアカイはただイエス様を見るためにいちじく桑の木に登っただけでした。ところがザアカイはこれらの自分の小さな行動によって、驚くべきことを一つ経験します。イエス様に出会えたのです。そして、彼は、イエス様との出会いを通し、完全に違う人に変わりました。そうです。人は誰に会ったかによって変わるものです。

ザアカイのもう一つの説明は、金持ちという評価です。ここでは良い意味で彼は金持ちだと言っていないと思われます。これは彼が巨大な富を蓄積するために暴力を行使(こうし)して略奪をしたという可能性を示しています。さらにもう一つの説明は、ザアカイが背の低い人であることです。彼はおそらく身長コンプレックスを持っていた人かもしれません。そのため、お金でコンプレックスを打ち消そうと思い、より悪辣(あくらつ)にお金を集めた人だったかもしれません。このようなザアカイが変わりました。誰に会って変わりましたか。イエス様です。ザアカイはイエス様を迎えた後、8節で「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と言います。また、「だれかからだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と言います。

このような変化は、イエス様が彼に会って下さり、共に食事してくださったために起きたことです。その当時食事を一緒にすることは、共同体の一員として認めるという意味でした。たとえイエス様と弟子たちが旅行中の旅人であっても、イエス様はザアカイを自分の親友のような人として受け入れて下さったのです。ザアカイは、すべての人に嫌われていた自分を友人のように接して下さるイエス様との出会いによって、人生のターニングポイントを迎えます。イエス様はこのように変わることを決心したザアカイにこう言われます。「今日、救いがこの家に訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」(9節)このみことばをよく考えてみると、ザアカイはアブラハムの子孫であるが、イスラエルの民の一員にはなれなかった人だったのです。ギリシャ語で「救いが訪れた」は過去形になっており、「アブラハムの子孫である」は現在形になっています。これは、救いは一回性で得られるが、救いを得られたザアカイは、アブラハムの子孫である資格が続くという意味です。

ザアカイがイエス様に会って、貧しい者に自分の財産を配り、だまし取ったことを反省して4倍にして返すことによって、自ら関係を回復させました。彼の行動は、関係の回復をもたらしました。ここで、ザアカイは「貧しい人々に施します」という現在形で言います。これは持続的な意味を持っています。つまり、持続的に支援を与えるという約束と変化が見られます。

私たちは聖書の研究ですでに知っているように、旧約聖書では通常不正に取ったお金を返してくれる場合には、5分の1をだして返します。(レ6:1-5)しかし、泥棒には4倍の賠償、すなわち三倍の罰金が付け加えられた賠償が課されました。ザアカイが、自分が不当に誰かをだまし取ったことがある場合は、4倍にして返すと言ったのは、今までザアカイが多くの人々の物質をだまし取ったのを告白することです。ザアカイはイエス様に会った後に、自分のアイデンティティを悟りました。ザアカイはただ気になって、イエス様を見ようとしましたが、イエス様はザアカイに会い一緒に食事されることによって、彼を変わらせました。その変化の中で最も大きいのは、自分が罪人であるアイデンティティを認識したことです。徴税人ではなく、泥棒であったという自分のアイデンティティを悟ったのです。そうです。イエス様との出会いは、真の自分の姿を見る場なのです。

私たちは、ザアカイの話の中で、私たちの姿を重ねることができます。貪欲な私たちが見られます。お金に欲を出し、自分の満足を追求し、自分を飾り、隣人に施さない、私たちの姿が見られます。私たちはザアカイと違いません。ザアカイはローマについて生きる寄生(きせい)虫(ちゅう)のような人です。言い換えると時代の流れをよく従っていた人だとも言えます。ザアカイは自分だけよく生きようとしました。私たちも私たちだけよく生きようとします。私利私欲、私の安全だけを考えています。このような観点から見ると、私たちもザアカイと大きく違わないです。私たちは他の人の時間を盗むこともあります。数分、数十分遅れは大したことでないと思いがちです。先週日本政府の官僚会議を開始する時間にオリンピック関係を担当している大臣が遅れて参加しました。すると官房長官がブリーフィングをしながら記者たちの前で相当怒りました。他の人の時間を盗んだということでした。

愛する信徒の皆さん、私はどんな人でしたか。私は今どのような人で生きていますか。私の人生において何がターニングポイントになったと思いますか。そして、そのターニングポイントが、今日の生活の中でどのような役割をしているか考えてみるべきです。徴税人の頭、ザアカイはイエス様に会って、感動されただけでなく、イエス様の出会いで自分の立ち位置を振り返ってみました。自分の姿を直視しました。自分の富は貧しい者をより貧しくさせて得たものであり、自分の搾取は奪う行為を超え盗みだったとわかったのです。つまり、イエス様との出会いによって、ザアカイは自分の姿を直視し、自分の現実を赤裸々に悟るようになりました。そのため、ザアカイは変わったのです。

イエス様との出会いは、イエス様の愛に出会うものであるが、同時にその愛を受ける資格がない取るに足りない私を直視することです。これがザアカイが変わったプロセスです。イエス様はザアカイがいちじく桑の木の上に登っていたとき、彼の名前を呼びました。

ザアカイにとってイエス様と一緒に食事をしながら友だちになったことが自分の人生のターニングポイントになり、救いを得る第一歩となりました。今ではザアカイは、持続的に「貧しい人々、疎外された人々」の世話をしていくと決心するのです。

愛する信徒の皆さん、ザアカイの話が与えるメッセージは、神様の絶対的な選択と無償の恵みと全面的な許しです。もう一つは憐み、すなわち恵みを受けた人がすべき決断と応答です。今、イエス様があなたの名前、私の名前を呼びながら降りて来るように誘っておられます。そして、私とあなたは、イエス様の招きに応じて、木から降りてきた人です。私のような罪人を見つけ、近づいて来られ、与えて下さった恵みに感謝し、実践する生活を送っている皆さんを神様はさらに祝福してくださるでしょう。

<祈祷>

2000年前、ザアカイの名を呼んでくださったイエス様、今日は私たちを呼んで下さり、

感謝します。主の招きに相応しい、変わる生活を送る私たちにならせて下さい。

感謝します。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン