<2021年7月25日>主日礼拝 「従順と放棄」鄭元然牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年7月25>五旬節後第9主日

                         説教 鄭元然牧師/通訳 金光成長老

 

* 題目 :  따름과 버림 従順放棄  

* 聖書 :  마태복음 4:18-22 マタイによる福音書4:18-22 

[/新共同譯]

18. イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19. イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20. 二人はすぐに網を捨てて従った。21. そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22. この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

<説教>

今日も主の前に出て礼拝をささげる信徒と映像礼拝をささげる信徒たちに神様の恵みが満たすことを祈願いたします。2021年もコロナ禍が続く中、7月の最後の主日を迎えました。コロナ感染者が増えている状況はニュースを通してよくご存じでしょう。健康に留意しますように願いながら、説教を始めます。人は生きながら何かを握る時がいる反面、それを手放す善きもあります。コヘ1章3-4節「3.太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。4. 一代過ぎればまた一代が起こり/永遠に耐えるのは大地。」という言葉を心に刻みながら過ごした一週間でした。

コレヘトの言葉はこの世で富と名誉と地位を享受しながら生きた人が自分の人生を振り返りながら、人生の儚さを感じ、それを子孫に伝えるために書いた本です。人は生きながら、何を見て何に従って生きるべきでしょうか。私の人生において何が大事なのかを定めるとき、捨てるべきものがあるということは、何に優先順位を置くのかを決定することと同じです。この決定は、最も決定的な瞬間を知るのと同時に決断する判断力が必要です。コレヘトの言葉3章には、何事にも時があることを非常に具体的に教えるみことばが記されています。

<参考>

1. 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。2. 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時, 3. 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時4. 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時, 5. 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時, 6. 求める時、失う時/保つ時、放つ時, 7. 裂く時、縫う時/黙する時、語る時, 8. 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

コヘ3章に記されている対になっている、すなわち相反する時を14つ紹介しています。たとえば、人が生まれる時があり、死ぬ時があるなどです。14つを詳しく見てみると、人は誰でもある時に直面することを教えてくれます。植物も植えて手入れをし、食べられる頃になると抜いて食べる時があるのです。泣く時があれば笑う時もあると言います。嘆く時があれば踊るほど嬉しい時もあると言います。愛する時かあれば、憎しみが生じる時があると言います。血を流す戦争をした後、平和協定を結び、仲良くなる時もあります。このように、天の下の出来事には定められた時があり、期限があるという真理を教えているのです。

いつも近くにいそうな両親もあっという間に私たちのそばを離れる時が来るし、その時がもたらす喪失感というのは言葉では表現できない感情です。その瞬間がいつ来るかはわからないけど、誰にでも訪れる時でもあります。人は、その時をよく把握し、自分がやるべきことをよく整理しておくのが賢明ではないかと思います。漠然と流れる時間の中で、時間的な時と決定的な時があります。自分の生活で出会う決定的な瞬間と選択が人の人生を変えます。

イエス様も神様の働きを始めるために、その時を知りました。ナザレ町で30歳になるまで、家族と一緒に過ごしながら大工の仕事をしていたイエス様が荒れ野に行き、40日間断食の時間を持ちました。サタンはその時がイエス様を誘惑する最良の時だと考えたでしょう。イエス様が甚だしい空腹を満たすため石でパンを作りなさいと試されたことを私たちはよく知っています。イエス様が天の国の働きのために、まず弟子を選ぶことをされました。誰でも弟子として立てるわけではありません。イエス様も非常に真剣かつ慎重に、弟子たちを呼び、選び決定したことを、私たちは新約聖書を通してよくわかっています。

今日、私たちが読んだみことばは、弟子たちを招く場面の中でも最も代表的な場面です。後に、イエス様の働きの中心となるガリラヤ湖の周辺の人々を弟子として選ぶ内容です。その代表的な人がカペナウムに住み、ガリラヤ湖で漁(ぎょ)していた漁師ペトロと彼の弟アンデレです。聖書勉強を通してよく知っているように、今日のマタイによる福音書ではイエス様が同時にペトロとアンデレを呼ばれたと記しています。マルコ、ルカによる福音書もマタイと同じ立場で書いています。しかし、ヨハネによる福音書1章では、少し異なる立場を取っています。

イエス様が洗礼者ヨハネのもとに来て、洗礼を受けるまでの過程を洗礼者ヨハネの弟子であった「アンデレ」はよく見ていました。そして洗礼者ヨハネが叫んだメシヤに対する告白を聞きました。それは「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉でした。するとアンデレは兄ペトロに行き、この事実を告げます。

42. そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

イエス様とペトロの最初の出会いは、このように行われたのです。そして4福音書でイエス様の12弟子を選ぶ過程を見ると、今日、私たちが読んだマタイ4章とマルコ2章、ルカ9章ほぼ同じ内容が記されています。イエス様は弟子たちに「わたしについて来なさい。」と話されます。ガリラヤ湖のほとりでペトロとアンデレ二人の兄弟に会ったイエス様は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」言われます。既にアンデレは、イエス様がどんな方なのかを知っていました。ペトロも弟を介して出会ったイエス様が自分を呼ぶのを聞きました。この招きの言葉を聞いた兄弟たちは、「網を捨てて」イエス様に従う行動を取りました。皆さんもご存知のように、釣りだけではたくさんの魚がとれません。網は一度にたくさんの魚を漁(ぎょ)するのに必要な道具です。ペトロとアンデレは大切な財産である網を捨て、イエス様に従ったのです。

ゼベダイの二人の息子、ヤコブとヨハネが、父親と一緒に船で網を手入れしていました。再びガリラヤ湖に出て魚をとる準備をしていたのです。その二人もイエス様が呼ばれました。するとヤコブとヨハネ、この二人は、船と父親を残してイエス様に従いました。他の弟子たちは、どのようにしたかもっと見てみましょう。マルコ2章14節では、そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。がってイエスにった

アルファイの子レビは「マタイ」の別の名前です。彼は税務所で税金をもらう徴税人でした。もちろん当時の徴税人はガリラヤ地域で税金を収め、ローマ政府に貢ぐことをしていたので、イスラエルの人々にどれほど憎まれたことでしょう。公然と徴税人は罪人だと呼ばれていました。税関に座っていたレビは、イエス様に呼ばれてから税務所の席から立ち上がって従いました。そして、自分の家にイエス様を連れて行き、食事を準備して一緒に食事しました。ルカ9章23節 「それから、イエスは皆に言われた。わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

イエス様が言われた「わたしについて来たい者なら、すべてを捨てて、自分を捨てて、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。イエス様の弟子たちは、自分を呼ぶイエス様の声を聞きました。「わたしについて来なさい」彼らはイエスに従いました。ところが、弟子たちには、同時に何かを手放す、捨てるべきものがありました。ペトロとアンデレは船と網を捨てました。ヤコブとヨハネは、船と網だけでなく、父親も残してイエス様に従いました。徴税人マタイも自分の仕事を捨てなければならなかったです。そして、イエス様に従いました。イエス様が言われた言葉である「自分を捨てて自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」の中で、自分を捨てるということを、私たちはどのように解釈すべきでしょうか。

今まで私たちが生きてきた人生において、自分の経験や地位や立場などを持っています。社会的地位が高ければ高いほど、自分を捨てることが容易ではないようです。しかし、まず自分を捨てることがなければ、新しいことを受け入れにくいです。仕事や職場を移す場合は、自分が今まで積み上げた多くのものを手放さなければいけないことを私たちは人生経験で知っています。ほとんどの人は、自分が経験したことが自分に大きな助けになることを知っています。たとえ、そのすべてを手放さなければならない場合に直面するならば、どれほど大変でしょう。

十字架とは一人一人が背負うべき使命だとも言えます。使命は、私たちにとって生活の目標になり、さらに使命のために生きていくと言っても過言ではありません。信徒の皆さんにも各自に与えられた十字架があるはずです。これが私に与えられた使命だと考えるようになれば、その使命を果たすために最善を尽くすでしょう。教会で「十字架」という用語は、多様に使われています。ようやく教会の補修工事を終え、今では十字架を見上げると平安な気持ちに包まれます。

2年前の台風で壊れてしまった十字架の修理が容易ではなかったのです。高い所の作業であり、作業内容も慎重にせざる得ませんでした。工事する方と十字架がどれだけ破損されたかを確認するため、作業開始前に上がってみました。高いところでしたが足場があったので、大きな恐怖はありませんでした。そして、少し前に工事の方から十字架が完成段階ですので、再度上がって確認してもらいたいと言われました。2回目は金伸禹牧師と一緒に上がって十字架を見ました。最初に上がったときは、プラスチック板が強風によって全部割れ、光を灯すネオンサインは無残に壊れていました。しかし、作業を終えた十字架は、きれいな姿で甦っていました。ふと思い出しました。 「十字架を背負って、わたしについて来なさい!」。どのようにこの十字架を背負えるのか。自分の力では、十字架を上げさげすらできないことをよく知っています。そして、これは私達の使命と関係があるとお話ししました。

愛する信徒の皆さん、私と皆さんには主が与えて下さった使命の十字架があります。この十字架を背負って主に従おうとするときに最初にすべきことは、捨てるものに気づくことです。一生涯信仰生活をしながら、まだ捨てずにいる考えや習慣がありますか。思い切って捨てるときに、新しいものが得られることを知りつつも、捨てずにいるのはなぜでしょうか。薄っぺらな自尊心と自己中心的なエゴで捨てずにいるのではないでしょうか。今、私たちは、主のお呼びに応じて生きるべきである弟子たちなのです。弟子の人生は自分が持っている大切なものから捨てることで始まります。

捨てずに、手放せずにいるのであれば、主の弟子としての人生を生きることは不可能です。長年信仰生活を過ごした人ほど捨て難いものが多いと私たちはわかっています。しかし、神の国は、重い荷を背負ったままでは入れません。私が今までに築き上げたあらゆる功績や地位でもありません。ただ与えて下さる神様の恵みの中で、捨てるものは捨てて、残すものは残してから主に従うことだけが、唯一私たちがすべきことであるのです。それを覚えながら、この困難な世の中でも揺るがない信仰で進みますように、主の御名によって祈願いたします。

<祈祷>

私たちの考えと行動を知っておられる神様、至らない私たちを呼んで下さり、あなたの弟子とさせて下さり、

感謝をささげます。私について来なさいと言い、使命を与えて下さいました。さらにその使命を担える信仰も与えて下さい。私たちの生活の中で捨てるべきものは捨てて、軽い心と固い信仰だけを持って進むようにさせて下さい。私たちの過ぎた生活を知っておられる主よ、私たちの過ちを見ず、与えて下さる新たな恵みを通して正しい信仰の道を歩めるように導いて下さい。アーメン