2021年7月18日主日礼拝「わたしに耳を傾け」金柄鎬牧師 

大阪教会主日礼拝 <2021年7月18>五旬節後第8主日

                         説教 金柄鎬牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 내게 들으라 わたしに耳を傾け 

* 聖書: イザヤ書48:12-16  

</新共同譯>

12ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。 わたしが呼び出したイスラエル。 わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。13.わたしの手は地の基を据え わたしの右の手は天を延べた。 わたしが彼らに呼びかけると、共に立ち上がる。14.皆、集まって聞くがよい。 彼らのうちに、これを告げた者があろうか。 主の愛される者が、主の御旨をバビロンに行い 主の御腕となる人が、カルデア人に行うことを。15.わたしが宣言し、わたしが彼を呼んだ。 彼を連れて来て、その道を成し遂げさせる。16.わたしのもとに近づいて、聞くがよい。 わたしは初めから、ひそかに語ったことはない。 事の起こるとき、わたしは常にそこにいる。今、主である神はわたしを遣わしその霊を与えてくださった。

 

<説教>

神さまはバビロンに捕虜として捕らわれ苦労している神の民を救うために、キュロスという人物を選ばれペルシアの王として立てられました。本文14節はこの事実を暗示しています。「皆、集まって聞くがよい。彼らのうちに、これを告げた者があろうか。主の愛される 者が、主の御旨をバビロンに行い/主の御腕となる人が、カルデア人に行うことを。」とされました。

ここで「主の愛される者が」とはキュロス王を指します。主のみ旨を、すなわちバビロンを滅ぼしペルシアを立てられ神様の民を捕虜から解放される仕事をされると言われました。そして神様はキュロス王に力を与えられました。15節を見ましょう。「わたしが宣言し、わたしが彼を呼んだ。彼を連れて来て、そのを成し遂げさせる」。神様はキュロス王を導かれ、成し遂げられるようにされました。

キュロス王は当時強大国のバビロンを倒し、大帝国を作り上げました。そしてキュロス王は勅書を下し、イスラエル人をエルサレムに戻るようにさせました。紀元前538年、ゼルバベルを中心とした約5万人のイスラエル人はエルサレムに帰還しました。彼らは聖殿を再建するようになりました。皆さま、神様は緻密な計画の中でこの世を治めておられます。神様は一度も失敗した事がありません。世の中のすべてのことは神様のみ手によってなされるのです。神様はすべての事の中心に立っておられます。事実、宇宙万物が神様の作品であります。世の中のすべての物が神様の計画通り、神様の配置通り、神様の意図通りに作られました。本文12-13節を読んでみましょう。「ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル。わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。わたしの手は地の基を据え/わたしの右の手は天を延べた。 わたしが彼らに呼びかけると、共に立ち上がる。」

創造だけではありません。その後のすべての歴史的事件の真ん中に神様がおられます。洪水で世を審判されたこと、その審判からノアの家族を救われたこと、天に向かって聳えているような傲慢な人たちが立てたバベルの塔の工事を中断させたこと、彼らを世界のあちらこちらに分散させたこと、その堕落した人たちの中でアブラハムを選ばれ、その子孫を区別し、神様の民にさせた事、そして彼らをエジプトから救い出され、荒れ野を通過させ、カナアンの地を与え、国を建てて生活するようにさせた事。そのすべてが誰も予測できない神様の計画によって行われたことです。他のどのような存在も神様がされた御働きを知ることができず、したがって誰にも先に教える事はできませんでした。神様以外のその誰もが、人々が信じて頼る多くの偶像も、サタンも神様の計画を知ることはできず、よって事前に伝えることはできませんでした。そのすべての事を知っておられるのは唯一神様おひとりなのです。神様はご自分の僕たちを通して、その計画を教えてくださいます。神様はそのすべての事を計画され、なされる方ですから神様だけが教えることができるのです。

そうであれば神様は、どのような方なのでそのような事ができるのでしょうか。12節に神様はどのような存在とも比較できない特別な方だと説明しています。「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである」。 おどろくべきみことばです。神様は<わたしがそれだ、神>と話されました.ここで<それ、神>とはどのような存在を意味しているのでしょうか。<それ、神>とは世の中のすべてことにおいて最後の原因者であることを指します。この世を存在させた方、人々がびっくり仰天するすべての事をなされた方、すべての世の出来事の背後におられる方、そしてすべての人に<あの方はいったいどなたであろう>と不思議に思われるその方、その方がまさに神様自身であることを明かされたのです。その方だけが<わたしがそれだ>と言えるのです。

そして、その方は<わたしは神、初めでありまた終わりであるもの>です。正確に話せば、世の中のすべてのものを存在するように作られた方、世の中のすべての物を終わらせる方であるとの意味です。神様自身は始まりも終わりもない永遠のお方です。神様は永遠の前から永遠までおられる方です。しかし神様以外の全ての物は永遠ではありません。世の中のすべての物は始まりと終わりがあります。製品も製造年月日があります。ある製品の誕生日なわけです。そして製品はいつか廃棄されます。自動車もいつかは廃棄されます。住宅もいつかは崩れ落ちて立て直されます。

人も同じであります。すべての人は二つの特別な日を持っています。一つ目は生まれた日であり、もう一つは世を去る日です。ある人は二つの日を両方持っています。すでに世を去られた方たちです。まだ生きている私たちは二つの日の内、生まれた日にちだけを持っています。しかしいつかは私たちも二つ目の日を迎えるようになるでしょう。人々はこの二つの日の内、最初の日はすごく喜び祝います。しかし二つ目の日に関しては悲しみ恐れます。神様は二つ目の日を先に教えてはくれませんでした。もしも生まれた時に、すでに腕や額に二つ目の日が書かれていたら、世の中は奇妙な世界になったかもしれません。男女がお見合いをするときに、まず相手の額から見るでしょう。残された日がどれくらいかを確認したいために見るのです。

物質が最高の価値であるのこの世では、ある意味<残された日が短くてお金持ちの人>が最高の新郎新婦かもしれません。一方<持っているものは少なくて残された日が長い人>は最悪の新郎新婦になるわけです。世の中は混乱に陥るはずです。教会の週報の広告も変わるでしょう。今のように<だれだれさんが召天された>としないのです。その代わり<今週亡くなられる方>となるでしょう。曜日ごとに亡くなられる方の名前をすでに書いておき、<今週亡くなられる方の送別礼拝が午後礼拝の後に小礼拝室であります。皆様集まってお別れのあいさつをしてください>となるでしょう。これが我々人間の話です。すべての始まりと終わりを司るのが神様なのです。そして神様自身は始まりも終わりもありません。生まれた日もなく

亡くなる日もありません。永遠に存在しておられる方です。私たちとは次元が違います。そうであるから神様は私たちが恐れる方であり、対等な存在ではないのです。その方は絶対的な存在であり、信仰はその神様の存在の絶対性を認める事から始まります。

それで、私たちはその方を敬拝します。讃えます。讃美します。その方に私たちを委ねます。信じます。 従います。従順します。そうであれば、私たちがその方に栄光をささげる方法は何でしょうか。それは<耳を傾ける>ことです。今日の本文は繰り返して<聞きなさい>と言ってます。12節の最初の部分は「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。」となっています。そして14節を見れば「皆、集まって聞くがよい。」と記しています。16節も同じです。「私に近づいてこれを聞け」とされてます。これは48章1節も同様です。「これを聞け ヤコブの家よ」と言っています。
「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

信徒の皆様、ここで神様をどのように敬うのかを学ぶことができます。その基本は「聞くことです」。私たちは間違えれば「話す事」が信仰のように錯覚しやすいです。祈りをささげる、讃美をささげる行為は私たちの口を開く行為です。熱心にお祈りをして熱心に讃美をすれば、信仰が篤いと考えがちです。しかし信仰の基本は聞くことから始まります。神様の子供である私たちはその方のみことばを聞くときに、私たちは最も愛される神様の子になれるのです。皆さま、神様に向かいましょう。耳を開いて出て来て聞いてください。神様のすべてのみことばに耳を傾けましょう。聞くことから信仰は始まります。ローマ書10章17節はこのように教えています。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。アーメン。

話すことが好きな人が聞くことが好きになる時、信仰生活は可能になります。今までは自分の考え、自分の哲学、自己主張を言ってきました。しかし、自身の考えと哲学に限界を感じ「神様、お話してください。主の僕が聞きます。」と告白するときに、ようやく信仰の出発線上に立つことができるのです。そして、聞くと言っても神様が聞かなければ、それは信仰ではありません。他人の話を聞き、間違った異端の宗教の話を聞くことは信仰ではありません。私たちは唯一神様のみことばだけを聞かなければいけません。したがって最高の説教は面白くて流暢な説教ではなく、聖書に記録された神様のみことばを最も正確に伝える説教です。最近コロナ禍によって自宅でYouTubeなどのメディアを通して説教を聞きます。自分の教会の礼拝と説教を聞かなければいけないのに、世に回っている説教動画をあれやこれやと分別なく見る現象が増えています。時々聞くこともあるでしょう。しかし、異端の教会たちが送り出す動画も世間では出回っており、これに惑わされることもしばしばあります。注意しなければいけません。

イスラエルの人たちが一番重要に考える聖書の書が申命記です、その申命記6章4節以下のみことばの最初の単語が「聞きなさい」です。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」とされていますが、ヘブライ聖書では「聞きなさい」との単語が最初に出てきます。これが「シェマ」です。神様は謙遜な人を愛されます。つきまして、その謙遜を表現する最も基本的な態度は聞くことです。礼拝に出席する我々にとって「聞こうとする心」ほど重要なものはありません。

後輩の牧師任の中で釜山壽安教会の出身の神学校教授がおられます。この牧師任は米国に留学され、有名なプリンストン神学校で博士学位を取りました。この牧師任から聞いた話です。本人は説教が上手ではないと思っていたそうです。勉強は頑張りましたが、説教の経験は少なかったとの事です。しかし米国に住んでいるときに韓国から大きな教会の牧師任が訪れ、韓国に来られたら自分が牧会している教会で説教してもらいたいと要請されました。韓国に帰国したとき、説教をするため教会を訪問しました。本当に大きな教会でした。講壇に立ったら足に震えが来ました。その上、米国からそれもプリンストンで博士学位をとった牧師が来て説教をするということで、数千人の信徒が一斉に目を輝かせて説教者から恵みをうけようと注視いるのです。そして、自身の面白くない説教に真剣に耳を傾けて聞いてくれたそうです。お互いに貴重な恵みの時間になったとのことです。自身で考えても自分の説教は、たいして流暢でもなく上手な面白い説教でもないのに、聞く側の姿勢によって説教が恵みあふれるものになることを悟ったそうです。聞く側の姿勢、聞こうとする姿勢が重要であるということです。

しかし、私たちが耳を傾けなければいけない重要な理由があります。それは、神様が私たちに向かってご自身の計画を話そうとしておられるからです。今まで一度も失敗されなかった神様の作戦,私たちに向かう神様の作戦内容を聞きたくありませんか。そうであれば、私たちに向かう神様の計画は何でしょうか。今日の本文は、神様がキュロス王を通してイスラエルの民をバビロンから救い出そうとしている内容だけではありません。今日の本文は2重の意味を孕んでいます。本文14節に<主の愛される者>は究極的にイエス・キリストを意味します。そしてバビロンはサタンの国、サタンが支配する罪悪の国を意味します。これのために神様はイエス様を送られました。イエス様はサタンの勢力を退け、私たちを救われました。

その計画の核心はイエス様の十字架と復活です。十字架を通して罪と刑罰を解決され、復活を通して死亡から勝ち抜くことが作戦の核心です。そして聖霊様が私たちをそちらに導かれます。本文16節の終わりには「今、主である神は私を遣わし、その霊を与えてくださった。」と記しています。神様の聖霊が私たちに来られ、私たちの中で動いておられます。私たちは私たちに向かう神様の救いの計画、私たちを祝福される計画を知らなければいけません。このために、いつもみことばを聞かなければいけません。そして、神様の計画が一度たりとも失敗されたことがない事を信じ、大胆にならなければいけません。今も神様の作戦計画は滞りなく進行していることを信じます。

今まで生きてきた私たちの過去の一瞬一瞬に、神様はその場におられまし。私もそうです。私が生まれたこと、私が勉強して過ごしてきたこと、神学を勉強し牧師になったこと、妻に出会い家庭を築いた事、 友だちは一人いましたが親戚一人いない日本に来て在日大韓教会の牧師として生きていること、そのすべての背後には神様がおられます。「誰が私をここまで導かれたか?」と質問すれば神様が「私は神である」と答えられるでしょう。私は今まで、ここまで、私の人生を導いて下さった方が神様であることを信じているため、これから私を導いて下さる計画に胸がときめきます。それで、神様に耳を傾けたいのです。「神様、 私に対しての神様の計画を教えてください。僕が聞きます。そして、そのみことばを信じて従います。」と告白いたします。

皆様、私たち自身に向かう、私たちの家庭に向かう、私たちの教会に向かう神様の作戦計画を信じましょう。そして、耳を傾けて聞きましょう。大胆になりましょう。私たちのために、今も準備されている永遠の天国を仰ぎ見て、毎日神様に頼り歩んで行きますよう願います。不安に思われることはありません。怖がることもありません。私たちが生きて死ぬ、そのすべての事は神様の計画通りに行われます。それまで偉大な天の神様を崇め讃えるよう祈願いたします。正しくそれこそが神様に仕える方式なのです。