2021年6月27日主日礼拝「思い煩いを祈りに変える信仰で」 鄭然元牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年6月27>五旬節後第五主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 염려를 기도로 바꾸는 신앙으로   思いをりにえる信仰 

* 聖経 : 빌립보서 4 6-7 フィリピの信徒への手紙節-

<개역개정>

  1. 아무 것도 염려하지 말고 다만 모든 일에 기도와 간구로,너희 구할 것을 감사함으로 하나님께 아뢰라. 7. 그리하면 모든 지각에 뛰어난 하나님의 평강이 그리스도 예수 안에서 너희 마음과 생각을 지키시리라

 

</新共同訳>

6. どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7. そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう。

<説教>

愛する信徒の皆様 一週間お元気にお過ごしでしたか。

主から与えられる平安が皆さまのともにありますようお祈りします。今、私たちはコロナウイルス感染病によって不安と恐怖に脅かされています。このような不安と恐怖により私たちの心は思い煩いと心配にあふれています。私たちの力でどうすることもできないとてつもない出来事が起これば,信仰をもって生きるとはいえ人間ですから憂いと心配しないわけにはいかないかもしれません。水を離れて魚が生きていけないように私たちも心配から離れて一日も生きていけないのではと思ってしまいます。心配が多すぎて心配ですし,心配が一つもなければそれがまた心配です。心配事が多いのにかかわらず、心配しない自分を省みて急に不安が襲いかかります。

コロナウイルス感染病は自身も知らないうちにウイルスが体の中に入ってきたら、病気にかかってしまいます。

このように私たちも知らない間に心配というウイルスが私の心に入ってきたら,感染され心配中毒症になってしまうと思われます。人が日常で生きながらする心配は習慣であり、心配は病気とも言えるでしょう。心配という病気にかかれば私の意志と関係なく、先に心配をしてしまいます。よく考えてみれば、心配は長い時間にわたり学習された習慣性行動の一種と思われます。私たちがこのようにいう事があります。肉も食べたことがある人が上手に食べる。心配もしたことがある人が巧みにできる。正しいと思われますか。

生きながら私たちは実際に問題が深刻になり心配事が生じ、思い煩うときもあります。また一方で、人が心配を習慣的に行えば、無意識のうちに憂慮の心と言葉が行動に表れてしまうかもしれないのです。思い煩いのウイルスに感染された人はどのように考えて生きている人だと思いますか。心配がなければ、不安で耐えれない人です。ある意味、私たちは知らぬ間に心配を楽しんでいるのかもしれません。心配は「首を絞める」「心が分裂する」などの意味があります。心配は悩む、思いめぐらす、憂い、気がかりになることを指します。近い表現では憂いです。憂いと不安はいつもともに存在します。憂いは心が落ち着かずはらはらする感情的な苦しみ,迷いを意味します。

私たちは一日にも数十回意味のない思い煩いと心配をして生きています。罠にかかった動物のように、息がつまる痛みをみずから感じています。それだけではありません。信仰的な面においても、やっとの思いで自身の姿勢を正し主に向かう心で満たされようとします。しかし、その時に必ず憂いと心配が入ってきて私たちの心を四方八方に裂(さ)き,そして粉々に壊してしまうのです。サタンが使う古い武器の内の一つが心配と憂いです。その心配の中には実際辛くて難しい問題もあります。しかし、ほとんどはすでに過ぎ去った過去に対する後悔、しゃくに触った思い出、さらにはまだ訪れていない未来に対する心配です。何年か前に新年の宝くじの話をしました。日本は新年の宝くじの金額がすごく高いので、新年に大勢の人が宝くじを買います。数億円が当たることもあるからです。しかし宝くじを買ってもいない方が一番よくすることがあります。なんだと思われますか。宝くじを買って一等が当たってそのけた外れのお金を受け取れば、どうしよう。そのように思い煩う事をするのです。これが人間の本来の姿なのです。

サタンは私たちの心理的戦闘で勝つために手段と方法を選びません。人を一番簡単に倒す方法は心配と憂いの心をひそかに入れ込めば勝ってしまうのです。サタンは心配と憂いで信徒の首を絞めて、主に向かう心を分裂させるのです。結局神様に対する集中力を低下させ、神様との交際を断絶に導きます。これが、サタンが心配と憂いを武器に使用する絶対的な理由です。サタンがこの武器を最先端の武器に替えない理由があります。心配と憂いという武器は、信徒の心を怖いほど破壊する力があるからです。物事を冷静に考えれば、心配したり憂いをしたからといって進展したり解決できることは世の中に一つもないことを知っています。心配より大きな心配を生み出し、小さな憂いがもっと大きな憂いを作るのです。

心配と憂いの心にサタンが陣取っている人に、どのような事件が起きるでしょうか。結局、様々なストレスと病気を引き起こしてしまうことは、医療専門家でなくても一般常識として知られている事実です。心配と憂いは神様に向かないようにするだけではありません。人と人との間、信徒と信徒の間に互いに信用できない不信感をもたらせます。心配が非生産的で非効率的であることを知りながら、私たちは繰り返される心配の渦に溺れて生きています。それもかかわらず、イエス様は私たちに「心配してはいけない」と命じておられます。しかし私たちはこのみことばにしばしば衝突しながら信仰生活を送ります。「人ならば、どうやって心配せず生きていけるのかできようか」と考えます。「イエス様はこの世の実情を知っておられないから、そのように話をされるのだ。」とむしろ主を教えようとするのが私たちの姿ではないでしょうか。

しかし、この衝突はイエス様が世の実情を知らないのではなく、私たちが主の心をよく理解できないから起こることなのです。私たちは髪の毛までも数えられる主が、私たちが、胃腸に穴があくほど大変で苦しい生活でも生きていかなければいけない日々を知らないわけがありません。心配するなと言われた主のみことばをより深く黙想してみれば「心配するな」という事が中心ではありません。「主にゆだねなさい」とのことに重点が置かれているのがわかるようになります。心配しない事は私たちの力では不可能です。主にすべてをゆだねることも私の力では難しいのです。このような事実を私たちの心の中で認めなければいけません。心配と憂いのような心の病気と生活習慣は私の修行、努力、決心で簡単に治されるものではないのです。

これから私たちは心配と憂いを克服する方法を共に考えてみましょう。心配と憂いは私たちがずっと休まずしたからといって解決できるものではないことを確認できました。そうであれば、今度は私たちの心にいつも宿っている心配と憂いをどうやって追い払い、平安な心をもって生きていけるかを探るべきです。今日の本文のみことばを通して使徒パウロは6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」と話しています。先週の説教の中でお祈りと執り成しの祈りについて申し上げました。祈りは神様と信徒の間の交わりであり、互いに対話することです。信徒は神様にイエス様のみ名で讃美し、うやまい、感謝をささげるのです。信徒がすべきことは自身の罪を悔い改め、救い求め、執り成しの祈りをささげる事だと話をしました。

お祈りはギリシャ語では二つの単語が使われています。「メオマイ」とはお祈りする、要請する、求めるとの意味です。同じ意味で「ユコマイ」とは望む、質問する、誓うとの意味があります。ここでもう一つ、祈りをささげるとの意味は「神様を呼び求める」との意味があります。私が祈る行為を通して必要を求めて要請して望むことを成就してくださることを求めるのです。そして祈りを通して、神様の意志を聞くこともできるのです。祈りを通して私の心の決心を誓うこともできるのです。同時に祈りは神様を呼び求めることにもなるのです。

ダビデの時代イスラエルの初代王であったサウルは、天の神様が自分から離れていったと考えました。その時 サウル王がした行動を皆さんは覚えておられると思います。サムエル上28章によれば、サウル王はエンドルに住んでいる口寄せ女を訪ねていきました。11節にサウルがこの女性に求めたことは預言者サムエルを呼び起こして欲しいとのことでした。死んでこの世にいない人の存在を呼び起こしてとの願いでした。サムエルの霊がサウル王にどのように語られましたか。すでに神様が与えられたみことば通りになされるでしょうと言いました。祈りは神様を私たちの生活の場に呼ぶことなのです。同時に神様の望んでいるところに私たち自身を引っ張っていく行為です。使徒パウロは本文で心を煩わって心配するのではなく、心配の代わりに祈りをささげなさいと勧めます。救い求めと讃美で皆様の心配を祈りに替えて、神様に皆様の願いを知らせなさいと言っています。そして、パオロは私たちの心を捉えている心配と憂いの気持ちを、神様に祈りをささげることにより、願いを成就させる人生になりなさいと勧めています.

続けて与えられた7節のみことばには、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう。」と記しています。このみことばは私たちも知らない間に完全なる神様の感覚を身に感じるようになると言っています。また一方で、すべてのことが協力し合い善に成し遂げられるという信仰が生まれ、私たちの心を平安にさせてくださるという約束のみことばです。最後の部分はキリストが私たちの人生の中心から心配を追い出してくださる時、生じる驚くべきことを見ることになるとのみことばです。祈りは信徒の霊的な呼吸であり、神様の子たちだけが持てる特権でもあります。イエス様がマタイの福音書6章25-34節で心配に対するみことばを与えてくださったことを覚えておられるでしょう。その中でいくつかのみことばを分かち合ってみます。 

25. 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何をもうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思いむな。

27. あなたがたのうちだれが、思いんだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

28. なぜ、衣服のことで思いむのか。

31. だから、『何を食べようか』『何をもうか』『何を着ようか』と言って、思いむな。

34. だから、明日のことまで思いむな。明日のことは明日自らが思いむ。

私たちは神様のみことばを信じて生きているイエス・キリストの弟子たちです。イエス様は人間の人生を見通しておられます。万病を癒した医師であるイエス様だけが、私たちの心の病気の心配と憂いから私たちを治癒して自由にしてくださることができます。そのために、私たちができる事は、まず、いつも心配して憂いに陥っている自分の足りなさと弱さを認めなければいけません。イエス様を完全に信頼し、すべてを委ねる意志がなければいけません。これには訓練と体質改善が絶対的に必要だと私は考えます。ある意味、私たちが心配しないことより委ねることがもっと難しいことかもしれません。このとき、聖霊様が私たちを助けてくださるはずです。すべての心配と憂いを祈りによって昇華させる成熟な信仰人として生きていきましょう。

<祈り>

不安と憂いの中にいる私たちに心配せずに祈りと願い求め、そして感謝で祈りなさいと教えてくださり感謝します。神様の平安が私たちの生活の場で実現できるようにならせてください。この世に平安を与えてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン