2021年6月20日主日礼拝「祈祷が私たちに与える恵み」鄭然元牧師 

大阪教会主日礼拝 <2021年6月20>五旬節後第四主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

題目 : 기도가 우리에게 주는 은혜 祈祷たちにえる 

聖経 : 디모데전서 2 1-4 テモテへの手紙一2章1節-4節

 

[개역개정] 기도에 대한 가르침

  1. 그러므로 내가 첫째로 권하노니 모든 사람을 위하여 간구와 기도와 도고와 감사를 하되, 2. 임금들과 높은 지위에 있는 모든 사람을 위하여 하라 이는 우리가 모든 경건과 단정함으로 고요하고 평안한 생활을 하려 함이라. 3. 이것이 우리 구주 하나님 앞에 선하고 받으실 만한 것이니, 4. 하나님은 모든 사람이 구원을 받으며 진리를 아는 데에 이르기를 원하시느니라.

[(日)新共同訳]

1. そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。2. 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。3. これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。4. 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間をいかがお過ごしでしょうか。

主からの恵みが信徒の皆さんと共にありますよう、祈願いたします。コロナ感染による緊急事態宣言が6月20日、予定では今日まででした。しかし、状況悪化によって、私たちが住んでいる関西地域は蔓延防止等重点措置が出されました。徹底して健康管理に注意を払ってください。元気な姿で再び教会で集う日を待ち望みます。

今日は信徒たちの信仰生活に重要な柱のような祈りの生活に関する話をしたいと存じます。先週、電話を一本いただきました。教会にかかってきた電話であり、事務室からの伝言によるとうちの教会の信徒ではないが、牧師と相談したいとの内容でした。

私は電話を受け、挨​​拶をしました。お相手の方は、電話した理由を説明されました。 13歳の中学生の娘を持っている母親でした。自分は教会に通っていないが、娘はキリスト教系の学校に通っているとまず話してくれました。本人も娘も、教会に行きたいが、夫が教会に行くことを反対しているらしいです。娘と夫の仲が非常に深刻で、生活面や学校の成績にも影響を及ぼし、苦しんでいるという内容でした。お母さんからの願いは、牧師に娘と夫と自分のために祈ってもらいたいとのことでした。私は、本人の名前や娘が通う学校や家族について一切聞きませんでした。しかし、電話をしたお母さんは、娘の名前だけお知らせますと言いながら、祈ってもらいたいとの要請でした。この電話の後に、私はこのお母さんとの約束を守るために、祈りをささげています。

わたしは、牧会者として考えてみました。このお母さんは、教会を通わず教会に対する理解をどれほどしているのかはわかりません。私と一度も会ったことがありません。どうやって大阪教会を知るようになったかと質問しました。すると、お母さんは在日同胞の教会であることは知っており、それで電話をして、自分の家族のために祈って下さいとお願いしようと思ったそうです。おそらくこのお母さんにとって、教会は祈るところ、牧師に祈りを求めることができることと理解しているようでした。私は電話をされたお母さんに大阪教会について簡単に紹介をしました。教会のホームページや主日の映像礼拝の案内もしました。私は、この時間またはこの後でも、このお母さんがこの映像を見て欲しいと願っております。

私たちはお互いに祈りをお願いし、他人のために祈ることを執り成しの祈りと言います。自分のためではなく他人のために祈ることを意味します。今日読んだ聖書のみことばでは、使徒パウロが自分の後継者として教会の働き人と福音伝道者として召されたテモテにこのように述べています。「まず第一に勧めます。祈りをささげなさい」。他のどのようなことをするよりも、優先的に一番最初にしなければならないことが祈りであることを言っています。そして続いて「君が知っているすべての方法を使って、あなたが知っているすべての人々のために祈りをささげなさい」と話しました。

初代クリスチャンはすでにユダヤ教の伝統を理解しているユダヤ人もいました。ユダヤ人ではなく、異邦人の出身であるクリスチャンたちも自分らが持っていた信仰を基に祈りをしてきた人たちでした。そして、わたしに電話をかけてきた中学生のお母さんも教会は祈る所と知っていました。そして、パウロは「願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい」と言っているのです。すべての人々のため祈りをささげるのと同時に、2節で「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」と続けて言います。この言葉の意味は「統治者や政府が国民を正しく治めるように祈りなさい。」とも考えられます。

王たちやすべての高官のためにもささげなさいという理由を、続くみことばから察することができます。それは「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」。

実際社会的な環境が私たちの信仰生活に影響を及ぼすことができることを、私たちは今回のコロナ禍によって実感しているのではありませんか。このように、社会的な雰囲気が影響を与えるのです。

それだけではなく、国家の運営と市民を安全に保護するために、政府や統治者たちの役割が重要だからです。今、日本の最大の社会的、政治的な問題は何ですか。コロナ禍により、昨年2020年に実施しようとしていた東京オリンピックが1年延期されました。延期決定後、一年が経ちましたが、感染の状態はますます厳しくなっています。このような状況の中でオリンピック開催の妥当性が問題となっています。日本政府は、国民が安心できる安全なオリンピックを開催するという言葉を重ねています。メディアや多くの人々は、国民が安心できる安全であることが一体何なのかを説明するよう求めていますが、答えを出せない状況であります。

このように、政治家は政治を通じて国民や市民に多大な影響力を及ぼす役割をするので、彼らのために祈りなさいということです。初代教会の時代にも多大な影響力を発揮したのは、国の王や支配者と宗教指導者の暴挙でした。当時のローマにキリスト教を初めて伝えたのは、ペトロとパウロではなかったです。すでにローマに住んでいたユダヤ人たちが故郷と母国、イスラエルとエルサレムを尋ね、イエスの福音に触れました。そして、彼らがローマに戻ってきて、信徒の集まりが始められ、家庭教会が建てられたものです。後に、ペトロとパウロがローマに来て福音を宣べ伝えてから、殉教をするところがローマでした。以後、ローマの皇帝の中にはネロのようにキリスト教を弾圧した人もいました。

世界史において、私たちが必ず覚えなければならない重要な人物がいますが、「コンスタンティヌス1世(ラテン:Flavius Valerius Aurelius Constantinus、272年2月27日-337年5月22日)」です。ローマ皇帝(在位306年-337年)として、キリスト教史では「コンスタンティヌス大帝」と呼ばれる人物です。彼は306年7月25日、ブリタニアのヨークで兵士たちによって君主に推戴されて死ぬまで、ローマ帝国を統治しました。彼が統治期間に成し遂げた業績の中で、キリスト教の歴史において重要なターニングポイントになったことがあります。西暦313年、ミラノ勅令(ちょくれい)でキリスト教の受容を宣言して、キリスト教に対する迫害を終え、事実上、正式宗教として公認したのです。また、政府が差し押さえた教会の財産を返し、これに対する国の補償も行いました。彼はまた、325年第1ニカイア公(こう)会議(かいぎ)を招集し、キリスト教の発展にも寄与したことで有名な皇帝です。 324年コンスタンティヌス大帝はビザンティンを「新しいローマ(Nova Roma)」として公表し、330年には正式にローマ帝国の新しい首都と定めました。そこが今日のトルコのイスタンブールです。歴史の中にはこのように、一人によってキリスト教が世界の宗教になることに役立つ指導者もいます。

このように、使徒パウロは、王と高官たちの正しい政治のために祈りなさいと言っています。政権に媚(こ)びて、神が油を注いだダビデのような将軍とお世辞を使いなさいということではないのです。政治家たちが正しく治めると国民が平安に暮らせるでしょう。それだけでなく、信仰生活においても「常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」ことができると言っているのです。そうなると私たちがへりくだった心で黙想でき、静かに心を込めて丁寧に暮らすことができると言いました。それこそ、主が喜ばれる生き方であるとパウロはテモテに伝えています。

このような祈りがもたらす重要な一つの事実は、クリスチャンの平穏な生活のためだけではないとパウロは言っています。テモテにこう教えています。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」。そして、祈りが神の救いにつながる重要な要素であることを強調しているのです。祈りにはいくつかの種類があります。求めは、懇願(こんがん)と哀願(あいがん)をすることです。祈りは信徒が主に申し上げる形式として「プロシュケ」(προσευχη)という意味を持つ言葉です。

執り成しの祈りは、仲裁や調停の意味であり、他の人のための仲裁の祈りとして使われる言葉です。人のために神様に嘆願する祈りを指します。旧約聖書では、この仕事は大祭司が担う貴重な働きでした。(ヘブ5:1)大祭司は罪の許しのために供え物やいけにえをささげるよう、人々のために神に仕える職に任命された人でした。新約聖書で私たちの大祭司であるイエス様は、永遠に生きておられ、この仕事、すなわち信徒たちのために執り成しの祈りを今もしておられるというみことばがあります。ヘブライ人への手紙7:25

「それでまた、この方は常に生きていて、人のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」。

聖霊様も言葉で表せない呻(うめ)きを持って執り成してくださるとローマ書8章26節に書かれています。

「同に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。

特に新約聖書では執り成しの重要性を強調しています。使徒パウロは、彼が立てた教会の信徒たちに彼自身、パウロのために執り成してほしいという祈りの願いを多くしています。(注:/エフェ6:19;コロ4:2-4)使徒ヤコブも同じく、主に癒していただくために互いのために祈ることと正しい人の執り成しの祈りは大きな力と効果をもたらすと言及しています。(ヤコ5:16)それで、今日の本文で、使徒パウロはテモテに、教会に執り成しの祈りを教えなさいと勧めているのです。

使徒パウロは続けて、祈りは神に何かを求める方法で一貫するのでなく、必ず感謝を共にしなければならないことを教えています。私たちは、長年の信仰生活をしながら、祈りの重要性と恵みをよく知っています。今日はコロナ伝染病がパンデミックを引き起こし、恐怖と不安に覆われている時代です。この時、私たちがやるべきこと、私たちができることが何だと思われますか。一緒に集まって祈れず、一緒に集まって礼拝をささげることもできません。しかし私の小部屋、私の祈るところで、自分だけでなく信徒たちのためにも、他人のために祈ることはできるのではないでしょうか。

牧師として信徒の皆さんにお願いをするのは、使徒パウロが信徒たちに牧会者のために祈って下さいと要請しました。皆さんも牧会者のために祈ってくださいますよう、切に願います。皆さんの祈りなしで牧会はできません。同様に信徒の皆さんも困難なことがあれば隠さず、お互いのために祈れるように祈りのお願いをして下さい。もちろん一人一人の考えに差があるはずです。公開せず祈りを願う場合、牧会者は秘密を守りながら、祈る人たちでもあります。私たちが仲裁と執り成しの祈りを信じる信徒であれば、祈りのお願いをして下さい。

祈りの力と恵みは何ですか。

祈りは信じる信徒たちの魂の糧(かて)です。

祈りは頑(かたく)なに閉ざしている門を開ける神秘のカギです。

祈りは眺めるだけのものではありません。祈りは一方的なものでもありません。

祈りは主、見えないが生きておられるイエス様と向き合って話し合う対話です。

自分自身や家族のための祈りに、希望と感謝と執り成しの祈りが同時にありますよう、願います。

祈りは私だけでなく、我々が共にするものであることを覚えましょう。

祈りの恵みの中で過ごされますよう、主のみ名で祈願いたします。

 

<祈祷>

私たちの祈りを常に聞いて下さり、応えて下さるイエス様に祈りをささげます。

休まず祈る信徒の生き方にならせてください。私だけでなく他人のために頭を下げられる尊い生き方にならせてください。主のみ心を動かせ、この世で救いを分かち合いながら、恵みが享受できる私たちにならせて

ください。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン