2021年6月6日主日礼拝「聖霊の充満と実を結ぶまで」鄭然元牧師

大阪教会主日礼拝 <2021年6月6日>五旬節後第二主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 聖霊の充満と実を結ぶまで

聖書 : ガラテヤの信徒への手紙522節-26

 

</新共同譯>

22.これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23. 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。24.キリストイエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25.わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

<説教>

愛する信徒の皆さん、どのように過ごされましたか。

このような困難の中でも主の導きにより、健康に過ごされますよう願います。聖霊降臨節と三位一体主日が過ぎました。わたしたちがクリスチャンとして生きながら、霊的だけでなく肉体的にも良き信仰生活を望んでいます。今日は信仰生活において、究極的な目標になるみことばを分かち合いたです。

信徒の皆さんは信仰生活を送りながら、どこに目標をおいておられますか。イエス様を信じて霊的に肉体的に祝福されるのも重要だと思います!イエス様を信じる信仰生活の中で、良きクリスチャンと言われたいと思うのも事実でしょう。それでは、真実なクリスチャンの生活のため、どのような姿で生きるべきでしょうか。

それは、聖霊の満たしと聖霊の実を結ぶ生き方だと申し上げたいです。

今日は聖霊様が私と共におられることと聖霊の満たしがどのようなことなのかをまず考えてみたいと思います。同時に、私たちは聖霊の結ぶ実がどのようなものなのかを考えたいです。聖霊の時代を生きている私たちは聖霊の満たしと信徒の真実な生き方のため、聖霊の実について真剣に考えなければなりません。私は2013年にも本文を読み、説教をしたことがあります。2015年5月から8月まで聖霊の九つの実について毎週説教をしました。

聖霊の満たし(Full of the Holy Spirit)、一時期、リバイバルの伝道者たちの専用物のように「聖霊を受けなさい」と言えば、聖霊が受けられたと錯覚しながら信仰生活を送ったりもしました。ある方たちは聖霊の臨在や聖霊の満たしが重要ではない、もしくは無視する考えを持っています。聖霊の臨在のようなものはあまりもシャーマニズム的だと考える信徒たちもいます。様々な考えの中で、聖霊の臨在や満たしをみことばを通して、整理し経験するのも必要だと思います。

イエス様は大工の仕事をしながら、家族を世話しながら暮らしました。イエスの公生涯は、ヨルダン川で悔い改めを叫び洗礼を授けていた洗礼者ヨハネを尋ねることから始まりました。ヨハネのところに来られ、洗礼を受けようとしました。最初ヨハネはその思いをとどまらせようとしましたが、結局イエス様に言われた通りに洗礼を授けました。イエス様の体がヨルダン川から上がってくる瞬間、どのようなことが起きましたか。

イエス様は洗礼を受けて水の中から上がられたとき、神の霊が鳩のようにご自分に降(くだ)って来るのをご覧になったと記しています。他の人が見るのが大切ではありません。イエス様、ご自分が御父である神様の霊をご覧になったのです。そしたら、他の人達は見なかったでしょうか。違います。そこにいた人たちはその光景だけでなく、天から聞こえてくる声も聞きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聴きました。

御父の神様がこの地を救う目的で送った御子が神の働きを始める時、洗礼を受けることを通して神の霊が降り臨在することを見せたのです。聖霊はこのようにイエス様と共にいながら、御父神様の働きを担っているのです。聖霊の臨在は、神様の働きを担うためには絶対的に必要であることを再確認できるわけです。

それでは、聖霊の満たしはなぜ必要なのでしょうか。イエス様も洗礼を受けながら、神の霊を受けたと表現されています。

私たちも信仰告白をし、洗礼を受けるのと同時に聖霊の洗礼を受けます。事実、神学者たちは洗礼と聖霊の洗礼を一回性とみるのか、みないのかで議論しているのです。今日、プロテスタント教会の伝統では洗礼は1回だけ受けると規定しています。洗礼式を通して、聖霊の洗礼と臨在を経験すると定義しています。使徒パウロは一コリ12章13節で「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」と話しています。

水で洗礼をうけることは聖霊の洗礼を通してキリストの中で一つになることを意味します。それで、洗礼も一回で、聖霊の洗礼も一回であると言えるのです。しかし、「聖霊の満たし」は違う意味を持っていることを知っておかなければなりません。聖霊の満たしは一回性の事件ではありません。聖霊の満たしは信徒が聖霊の臨在を持続的に享受できる祝福です。満たしと言う表現で、わたしたちは量的なイメージを持ちやすいです。無論、人たちは胸いっぱいになるように感じたいと思うでしょう。しかし、元来の満たしの意味は「何かに心をとらわれた時」なのです。

聖霊の満たしとは、聖霊が私の心を完全にとらえており、聖霊が司っていることを意味します。聖霊が私の考えと感情と行動を完全に支配することを意味します。聖霊の感動で一日一日生きていくことを指します。しかし、聖霊の満たしというのが自分自身を制御できない、無我の境地をいうことではありません。すでに、聖霊がどのような方で、どのような役割をしているのかについて、2回の説教を通して話しました。もう一度申し上げます。「聖霊は神様であり、人格体であります」。聖霊は信徒の中で人格的に共におられる方です。

聖霊は私たち信徒が人格的に従順に従うとき働く方です。聖霊は私の考え通りに左右にコントロールし、

わたしの意志通りに動かせる方ではありません。私たちが聖霊の導きに従い行動することによって、神様のみ旨を実現させるのです。弟子たちの中でもステファノとバルナバのような人たちの人格を説明するときも「聖霊に満たされた」と表現しています。使徒7章55節には「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、」と、使徒11章24節には

バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。と記されています。

信徒の皆さんと私が心から聞きたい、言われたいみことばではありませんか。「立派で聖霊と信仰に満ちている人」。これが私たち信徒の目指している目標であります。このように聖霊に満ちると信徒は自分自身を正しく知り、聖霊にすべてを委ねて生きるようになります。それだけでなく、聖霊に満ちている人は物事に対して正しい理解と判断ができるようになることもわかります。

使徒パウロはエフェソ信徒たちに向かって聖霊に満たされるようにしなさいと言いました。(エフェ5:18)

聖霊の満たしは神様からの命令であり、信徒が従うべき命令でもあります。聖霊に満ちていないのであれば、それは神様の命令に対しての不従順であり、その結果によって罪の実が私たちの生活に現れると言います。聖霊に満たされて生きることとは、感情的な恍惚の境地を意味するのではなく、聖霊に従い尊く生きることなのを再確認しましょう。聖霊に満たされた信徒の生き方で現れるのは、神様の栄光を語り合い讃美するようになるとエフェ5章18-19節で話しています。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」。続いて20節では「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエスキリストの名により、父である神に感謝しなさい。」と勧めています。

聖霊の満たしは信徒の関係においてもお互いに仕え合うようにさせます。仕え合うという言葉に若干違和感が生じるかもしれません。しかし、21節に「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」と言っているのです。さらに聖霊に満ちると信徒たちは大胆になり、キリストの証人として生きるようになると言います。使徒4章31節「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

最後に聖霊の満たしは聖霊の実を結ぶと今日のみことばガラテヤの信徒への手紙に記されています。聖霊の結ぶ実(Fruit of the Spirit)は聖霊が皆さんと私の中におり、その導きに従う結果で聖霊に満たされるようになることを意味します。使徒パウロは聖霊の結ぶ実を愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と九つを挙げています。聖霊の結ぶ実として提示された属性が互いにつながっており、全部が聖霊の導きに従って生きていく信徒が持つべきことであります。
最終的に実とはクリスチャンの中におられるキリストの生き方を指し、信徒の中で自分の姿を創り上げる方法を指しています。(二コリ3:18、フィリ1:21)すなわち、実とは神様を信じ、尊い生き方と聖霊の満たしの生活を通して動く聖霊の働きなのです。しかし、聖霊の結ぶ実は聖霊の賜物のように神様のみ旨によって与えられるギフトではないです。

信徒一人一人が命であるイエス様と連合して聖霊の導きに従い、自分の肉体からの情欲と戦い、勝たなければならないのです。命をかけた戦いであり、絶対的に服従する生活を通して実が結ばれるのです。果樹から見た目もよくて美味しい果物を実らせるため、木は無論果樹園の人はどれほど手間をかけて育てたでしょう。ギリシャ語で実は「カルポス(karpos)」と言い、ある行動の結果として現れることを意味します。よい実がよい果樹であることを、悪い実が悪い果樹であるのを物語るのと同じです。どのような人が聖霊の実を結んでいるのかということは、聖霊に満ちている生活を送っているのかで判断できます。クリスチャンの真実な霊性の印が聖霊の実を結ぶことであり、イエス様の姿に似ていくことであるのを再確認できるのです。

ユージン・ピータソン博士は今日のみことばをこのように翻訳しています。私たちが神様の道理で生きるのであれば、どのようなことが起きるでしょう。果樹園に豊かな実が実るのと同じく、神様が私たちの生活にたくさんのギフトを与えて下さるでしょう。そして、ピータソン博士は九つの実をこのように紹介しています。神様は私たちに他人に対する好意、豊潤な生活、穏やかさなどを豊かに与えて下さいます。そして、私たちは最後まで耐える心と憐み深い心と物事と人々の中には基本的な尊さが入り込んでいることが確信できるでしょう。私たちは忠誠心で献身し、私たちが生き方を強要せず、私たちのエネルギを賢くまとめ管理することができると言われました。

愛する信徒の皆さん、私たちも生活の中で九つの聖霊の実を結べるよう、聖霊にすべてを委ねてみましょう。私たちのこのような信仰の実を見て、多くの人々が主に戻ってくるようになるでしょう。聖霊の満たしと聖霊の実を結ぶまで自分の生活を主にささげるクリスチャンになりますよう、祈願いたします。

<祈祷>

三位一体の全能なる神様!

今日を生きる私たちを聖霊に満たされるようにして下さり、感謝します。聖霊の満たしを通して、美しい聖霊の実を結ぶ私たちにならせてください。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン