2021年5月30日主日礼拝「神様がくださった恵みの賜物」鄭然元牧師

大阪教会 三位一体主日礼拝<2021530>

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

 

題目 : 하나님 주신 은혜의 선물 神様がくださったみの賜物

聖経 : 에베소서 4장 4절-8절 エフェソの信徒への手紙

4. 体は一つ、は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。5. 主は一人、信仰は一つ、洗は一つ、6. すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通してき、すべてのもののにおられます。7. しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりにって、みがえられています。8. そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人に賜物を分けえられた」と言われています。

<説教>

愛する信徒の皆様お元気でしたか?

コロナウィルス禍により緊急事態宣言がまた延長されました。

一日も早くこの事態が終息し、自由に教会で集い共に礼拝をささげることが、またもや数週間少し待たなければいけなくなりました。 65歳以上の信徒のうち何人の方々は、すでにコロナワクチン接種が終わったと聞きました。市民の方が予防接種を受けられ、感染率と死亡率が下がることが重要だと思います。健康管理に万全を期してくださるようお願いします。

先週の主日は聖霊降臨主日で,今日は三位一体主日になります。三位一体とは一人である神様が3つの役割をされることを意味します。役割という言葉は 「一定の資格で自身が行わなければいけないはたらき」と言えます。私は二人の子どもの父親であり,両親からは息子であり,私がする仕事は牧師です。

聖なる父の神様は創造主であります。イエス様は聖なる子であり、能力を持って働かれる方は聖霊様であります。役割が違えば名前も変わります。しかし一つの人格として存在するのです。 三位の神様はおひとりであると今日の本文から述べられています。聖なる父の意志によって、人の体でこの世に来られた聖なる子イエス様の仕事は、十字架につけられ血を流される捧げものになることでした。そして成された働きは人類の救いでした。聖霊の臨在は救いを受けた人々に、神様のみ旨に従い生きていくよう導かれる役割を持っています。

ひとつ特異な点はイエス様の役割、イエス様が働かれる時、「神様の霊」がともに臨在されたことです。

聖霊の臨在を弟子たちは経験しました。五旬節、マルコの屋根裏部屋で集い祈りをささげるときに聖霊が降りました。聖霊の臨在を当時の弟子たちの表現によれば、様々な象徴的な表現とたとえを通して説明しています。代表的な象徴は炎のような舌(使徒2:3 )鳩のように降(くだ)ってきた(マタイ3:21)と表現しています。風(ヨハネ3:8 使徒2:2)生水(ヨハネ7:38)油(ルカ4:18 使徒4:27

二コリ 1:21 一ヨハネ 2:20,27)しるし(印 エフェ1:31 二コリ 1:2)雨(ホセ6:3 10:12  ヨエ2:23-32 ゼカ10:1 ヤコ5:7)地を潤す豊かな雨(詩72:6)のように表現されます。このように来られた聖霊様はどのような働きをされましたか。

聖霊が皆様と私に賜物(たまもの)をくれました。神様が聖霊を通して信徒一人ずつに賜物をくださいました。「

牧師任、私は受け取っていません。」と言われる方がおられたら、今日のみことばを共に分かち合い確認してみましょう。賜物とはどのような意味を持っているでしょうか。賜物すなわちギフト(Gift)とは他人に挨拶や感情を表し、好意の意志をほかの人に与える物を言います。ギフトと似通った形ですが内容が大きく違うものがあります。賄賂は自身の利権を得る目的で一定の職務に従事している人を買収するために ひそかにあたえる不正なお金または品物です。

聖書で賜物は神様から人に、人から人に、人が神様に捧げるときに使います。その中で人の命は神様が代償を期待されず恵みで与えてくださったのが賜物だと言っています。(創2:7)植物と果実は人々が食べて生きる食料としてくださいました。(創2:16 9:3 コヘ3:13)目で見える物だけではなく私たちが働く労働の喜び(申8:18 コヘ3:13)も神様のギフトであると言っています。旧約聖書では神殿で働くレビ支派の人々を神様の者と区別し、イスラエルの民にギフトとして与えられたと言いました。(民18:6)

新約聖書では贈り物を物質的なものより霊的意味が強調されています。物質的なものを追求してそれを得ようと力を尽くし得たとしても、本当の満足を感じられない人に神様は聖霊の賜物を与えると言われました。同時に,義(ロマ5:15-17)救い(エフェ2:8)恵み(エフェ3:7)を贈り物としてくださいました。私たちが正しく生きるために精神的な基盤になる正義と公義も聖霊があたえるくれる賜物です。私たちがこの世で人生と天国を望む根拠になる救いも神様が聖霊を通してくださる賜物です。ギフトという単語を一番よく表現した恵みも神様が下さった賜物です。神様が人に与えられた最高のギフトは神の独り子イエスキリストです。イエス・キリストを受け入れた信徒に神様はすべての賜物を与えると約束されました。教会にもギフトをくれました。教会を支えて福音のために職分者をくださいました。これもまた賜物だとされました。

今日の7節のみことばに「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」 分量はある物の多少の程度を表す言葉です。旧約聖書の創世記にヤコブ(イスラエル)は12人の息子におのおのにふさわしい祝福をもって祝福した(創49:28)とされました。 使徒パウロはローマの信徒に向かい、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と言いました。(ロマ12:3)すべての人に各自主観的に悟れる恵みを個人の分量に応じて与えてくださったとのみことばです。二コリ10:13 「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。」

福音伝道のために神様が定められた活動領域で働くことを言っています。そうであれば、信徒の皆様は

どのようなものを受けられましたか。聖霊が私たちの教会と私にどのような賜物をくださいましたか。

聖霊が与えられた賜物、すなわちギフトをカリスマ(karisma)、カリスマタ(karismata複数)という単語を使います。本来の意味はギフト、恵みのギフト、聖霊の賜物です。新約聖書ではイエス様を主と告白した信仰のある信徒に洗礼を通して与える聖霊を、神様が下さった恵みの賜物と言います。聖霊を復活と永遠の命の保証として神様が信徒の心に与えられたとパウロは言いました。(二コリ 1:22 5:5)

 

賜物をくださった一番大きな目的は賜物が与えられた人が喜んで神様に感謝し、神の栄光のためのささげるものであると使徒ペトロは言いいました。聖霊の賜物は大きく二つに分けれます。一つ目はイエス様を信じて洗礼を受けた信徒に与えられる普遍的な賜物です。洗礼とみことばの宣布を通して全ての信徒に与えられる一般的な賜物はイエス・キリストを信じる信仰に進ませ、永遠の命を得させることを意味します。 二つ目は信徒個人に聖霊の意志により分け与える個別的な賜物です。先に述べたようにギフトは私が求めてもらえるものではありません。賜物を与える人の心に従い、賜物をもらう人に適切なものを選択して与えることを原則とします。

新約聖書において賜物と賜物の間の区分が明確ではありませんが、おおよそ27個の賜物が出てきます。1)予言の賜物2)教える賜物3)知恵の賜物4)知識の賜物5)信仰の賜物6)愛の賜物7)賛美の賜物8)異言で/霊で賛美する賜物9)霊分別の賜物10)救済して分かち合う賜物11)能力を行う賜物などあります12)癒しの賜物 病気を治す賜物を意味します。13)異言の賜物

14)異言通訳の賜物15)預言の賜物16)悪霊を追い払う賜物17)幻(まぼろし)を見る賜物

18)夢を見る賜物 夢を解釈する賜物19)牧師職の賜物20)使徒職の賜物21)伝道の賜物22)指導力の賜物23)勧勉の賜物は教師のように教える賜物であります。24)奉仕の賜物25)慈しみの賜物 人のために施しをする働きの賜物があります。26)助ける賜物27)独身生活を通して現れる賜物があります。 今までお話ししたものが聖書に出ている聖霊の賜物の種類であります。

ある方はここに宣教の賜物、お客さんをもてなす賜物、行政力の賜物、執り成し祈りの賜物もあると言います。すべては信徒が徳を立てるために聖霊が与えられた多様なギフトで賜物です。すべての賜物は一つの聖霊が神様の栄光のために与えられたものです。教会の徳と個人の信仰生活の有益になるようあたえられた事をもう一度強調してお伝えします。先週、受けた賜物は良き働き人の態度でを管理し、使わなければいけないとの使徒ペトロの言葉をお伝えしました。

聖霊は自身の意志によりいつどこでも、そして誰にでも賜物を与えられます。

1)私たちが罪を悔い改め、イエス様を救い主として迎え入れる時2)みことば(福音)を聞く時3)賜物を思い求めて望む(祈り)時4)聖霊の満たしの時5)神様が教会の復興と個人の信仰成長のために必要だと思われた時、各自に一番適切で肝心な賜物を与えるのです。 聖霊が与える賜物と人間の一般的な才能とは違います。賜物をあたえる聖霊はその賜物を取り戻すこともあると言われました。 聖霊の活動は制度化された集団または組織から抑圧を受けることもあります。もう一度お話ししますと教会と個人的な信仰生活が迫害を受ける場合を指します。使徒パウロが聖霊を消滅されず預言を侮らずすべてのことを察して良いものを選びとるようにと勧めていることを私たちは良く知っています。

慎重に、使徒ヨハネはヨハネ手紙一で「どの霊も信じるのではなく神から出た霊かどうかを確かめなさい(4:1)」と警告しております。信徒の皆様、ぜひお願いしたいことがあります。私が受けた賜物と他人が受けた賜物を比べないでほしいです。皆様が信仰生活を送りながら力を失い、後ろ足で下がる場合をよく考えてみましょう。どのような時ですか。自身を他人と比較して挫折するか、傲慢になる時ではありませんか。愛する信徒の皆様、今まで分かち合ったみことばを通して私たちが確認するものなんでしょうか。神様が聖霊を通して私たち一人一人に、一番適切な聖霊の賜物を与えてくださる事を知ることができました。私たちに与えられた賜物がどのようなものかも確認できました。

最後、共に考えるべきことは与えられた賜物をどのように使うかという事です。最初に神様に感謝して栄光をお示しすることは当然です。神様のみ国のため私に与えられた賜物を良く使わなければいけません。

教会の中で徳を立てるために使うべきです。個人的な生活では与えられた賜物をよく使い、神様のみ国を伝道することに目標を置いて使用すべきでしょう。三位一体の神様も他の役割を担当される時、違う姿でそれを実行されます。私たちは聖霊が下さる恵みの賜物をよく使うことにより、神様には栄光を教会には徳を立てるようにしましょう。大きな喜びをもって天国に進んでいく素晴らしい信徒になられますよう、主のみ名によって祈願いたします。お祈りいたします。

 

<祈祷>

全能なる三位一体の神様!今日も礼拝時間に分かち合ったみことばを通して私たちの信仰に力を与えて下さり、実践できる私たちにならせてください。与えられた賜物をよく使い、主に褒められる良き働き人になれるようお導きください。感謝をささげながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン