2021年5月2日主日礼拝「100年前に来た手紙」鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 < 2021 5月 2日復活節5主日

                         說敎 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 100年前に来た手紙

聖書 : イザヤ書40章1節 / コリントの信徒への手紙二323

 

1. 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。

 

 

</新共同>

2.わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。3.あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間お元気で過ごされましたか。過ぎた一週間も関西地域でコロナ感染が非常に深刻な状態となりました。主が私たち、全員を守って下さるよう祈願いたします。

大阪城公園に行けば天守閣の下に広い空間にモニュメントが一つあり、それはタイムカプセル(time capsule)です。タイムカプセルは、それを作る当時の時代を象徴するものを中に入れ、土に埋めておきます。歳月が経過した後、それを開けて昔を振り返って意味を考えてみるものです。大阪城にあるのは、日本では非常に有名で、1970年に日本万国博覧会(大阪万博)が開かれた年に、松下電器(現・パナソニック)と毎日新聞社が企画したものです。このタイムカプセルを開ける時は6970年だそうです。今から5000年後に、それを開いて見る人はどのような姿、どんな心なんだろうかと一人で想像してみました。

100年前に私達に送ってくれた手紙が一通あります。まさに大阪教会が神の恵みに設立されたニュースです。私たちが100年前の姿に戻れるのであれば、タイムカプセルを通してその時代が見られると思います。私たちには、過去の歴史がわかる方法がいくつかあります。過ぎたことを文字で残す方法がありますが、それが「手紙」です。本を作って残す方法もあるでしょう。最近は、写真や映像を通しても残すことができます。

私たち大阪教会の歴史がわかる本は、まず「大阪敎會55年史」があると思います。もちろん後に刊行された「大阪敎會80周年史、90周年史」からも知ることができます。私たちの教会の始まりを知らせながら、最初に与えられた聖書のみことばは、今日読んだ旧約イザヤ書40章です。なぜ、私たち大阪教会はこのみことばで歴史の本を書き始めたのかと考えてみました。過ぎ去った過去の歴史を顧みるのは、その時代を振り向かせる力があります。

教会が始まった1921年は、関西地域の工業化が進み、働く人々、すなわち労働力が必要でした。日本全域から人々が集まってきました。それだけでなく、日韓併合(へいごう)が10年目になり、朝鮮からも多くの人が渡ってきた時期でした。このように故郷と家族を離れ異国で生活する若者たちに、福音を伝えるために神学生と二人の女性で始まった集いが、私たち大阪教会の始まりです。その方々は、同じ境遇にある人々にどのようにすれば、イエス様の福音を伝えられるか考えるようになりました。互いを励まし合い、救いの福音を通して慰め合うのが目的であったと記録しています。

職場でつらい毎日を送り一週間が過ぎると休み時間が大切だったでしょう。それにもかかわらず、職場の寮の部屋一つに集まり、祈った人々が約10人になりました。多くの若者たちが、朝鮮人が集まる教会があるという噂を聞き集まってきました。彼らに福音を伝えると共に、互いに慰めと励ますことが非常に重要だったとユ・シハン長老は教会史の「はじめに」で記録しています。特に信徒たちは互いの親密な交わりを通して信徒の交わりを行ったそうです。もう一つは、今日のように、通信が発達した時代でもなかったので、家族に安否を伝えるためには手紙を書いて送ったでしょう。

教会の重要な役割は集い、交わり、激励し合うことがとても大切です。最近、コロナ禍により一番つらいのは何でしょうか。愛する信徒同士が会えず、交わりができないことではないでしょうか。無論、交わりも大切ですが、神様のみことばの交わりがどれほど重要なのかは信仰を持っている私たちがよく気づいています。

疲労困憊でも一週間ごとに集い、神様に礼拝をささげながらみことばから慰めを得ていました。イザヤ書

40章1節「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」とのみことばです。

100年前、始めの時に集まった我々の信仰の先輩たちは互いに慰めとみことばの励ましを分かち合ったとのことです。イスラエル民族はバビロン捕虜時代を経て、むしろ信仰的な面で新しくなったことがありました。捕虜時代以前には、エルサレムの神殿を中心とする生贄をささげる祭事が信仰生活の中心でした。彼ら捕虜として捕らえられて行く時代には、すでにエルサレム神殿はバビロンの兵士たちによって破壊がされました。神殿で生贄をささげられなかっただけでなく、今はそこに行くこともできない状況になりました。

このように、捕虜生活の中で生まれたのが「シナゴーグ」つまり、会堂でした。ゲバル川沿い住んでいたユダヤ人移住者たちが集まり集会を持ちました。生贄をささげる祭事ができませんでした。当時は建物も立てられませんでした。安息日になると、彼らは集まり、モーセの五経(トーラー)を子どもたちと孫たちに読んであげました。みことばが中心だったのです。詩編119編50節では、「あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう。苦しみの中でもそれに力づけられます。」としました。生贄をささげる祭事が中心だったイスラエル民族は、今ではみことばが中心になる集会をするようになりました。今日の礼拝が、祭事よりもみことばが中心になった理由がここにあります。捕虜生活の辛さと民族的な苦難の中で、神様のみことばが民に命を得させ、力づけたのです。

新約時代にも同じでした。使徒言行録4章をみると、使徒たちが神殿を訪れる人々にイエス様の復活を伝えました。祭司たちは、ペトロとヨハネを捕らえ牢に入れました。そして翌日に、議員と律法学者と長老たちが集まったところにペトロとヨハネを引き出し真ん中に立たせました。ペトロの頭の中では数日前の出来事が浮かび上がったでしょう。彼らのまえで尋問を受けていたイエス様の姿です。

質問の内容もイエス様にしたのと同じです。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」と祭司が尋問しました。ペトロは答えました。病人がよくなって、皆さんの前に立っているのは、あのナザレのイエス・キリストの名によるものだと言いました。そして、他のだれによっても、救いは得られないし、病気が治ったのがその証拠だともしました。祭司と議員たちは、この目覚ましいしるしを見ているので、弟子たちに言い返せませんでした。当時の宗教指導者たちは、非常に深刻な危機感を感じていました。

ペトロとヨハネに「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と脅してから釈放しました。弟子たちを釈放しながら、彼らはイエス様の復活を伝えることが深刻な事態であることに気づきました。使徒言行録5章では、彼らはイエス様の弟子たちを捕らえ公の牢に入れ始めます。ところが、牢に入れられた弟子たちに奇跡的なことが起きました。夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出してくれたのです。そうすると、今度はエルサレムで始まった初代教会にユダヤ人からの大迫害が起こりました。イエス様を信じる人たちを引き出し再び牢に入れました。

使徒言行録5章33節に「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」と記されています。民衆を恐れた

祭司たちは弟子たちに鞭打ちをし、叩きました。二度とイエスを救い主だと教えることと福音を宣べ伝えるなと命令し、釈放しました。しかし、弟子たちの心にはイエス・キリストの福音で満ちていました。七人の執事の一人だった「ステファノ」がイエス様の福音を伝えたため、当時のユダヤ教の若い指導者「サウロ」の主導によって石を投げつけられ殺害されました。そのことが起きた後、ユダヤ人はイエス様を信じる人たちと

弟子たちを殺害しようと奔走するようになりました。それで、弟子たちと他の皆はエルサレムから離れ、地方に散っていきました。

私たちがよく知っている通り、ステファノを殺害した人は「サウロ」でした。このようなサウロがイエス様と出会い、イエス様の弟子になり、名前も「パウロ」に替えました。パウロは小アジア地域を渡り歩きながらイエス様の復活を告げ知らせる福音伝道者となりました。使徒パウロを待っている地域の教会を尋ねるのが容易ではなかった時代に、パウロは手紙を書き始めました。新約聖書27巻の内、21巻が書簡、すなわち手紙形式で書かれています。その中でも使徒パウロの名で書かれたのが13巻です。

使徒パウロが書いた13巻の書簡の内容を見ると、「わたしパウロが自分の手で挨拶を記します。」(一コリ16:21)もしくは、「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」(ガラ6:11)その中でも、コリントの信徒への手紙一と二はとても重要な手紙です。コリント教会は使徒パウロが第2次伝道旅行の際、コリントで一年半滞在しながら建てた教会です。(使徒18:1‐8)パウロはアデン、今日のアテネからコリントに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれひどく不安でしたと言っています。(一コリ2:3)このような困難の中、パウロはとても貴重な人たちと出会います。

クラウディウス帝の全ユダヤ人をローマから退去させる命令によって、コリントに来ていたアキラとプリスキラと出会い、伝道活動をするようになりました。(使徒18:1‐3)マケドニア州に派遣していたシラスとテモテもやって来て、みことばを語ることに専念しました。パウロの宣教において「コリント」はとても重要な拠点でした。しかし、教会の中で問題が起き、教会は分裂の危機に直面してしまいます。さらに、パウロを妬む異端の指導者たちはパウロは偽弟子だと言いました。彼らの主張によると、自分らはエルサレム教会の指導者からもらった手紙、すなわち推薦状を持っているととし、パウロを非難しました。しかし、彼らは偽りの人であり、パウロは真なる福音の使徒でした。

パウロが第3次宣教旅行をしながら、コリントを尋ねると手紙を送ります。しかし、この願いは簡単には成就できませんでした。今日(こんにち)のように交通が発達した時代でもありませんでした。パウロは今のトルコのエフェソに留まりながら、ギリシアにあるコリント宛の手紙を書いたのです。その内容は、偽推薦状を持って渡り歩いている偽使徒やずる賢い働き手の言葉に耳を傾ける必要がないとのことでした。パウロは彼らが重要だと思っている推薦状は意味がなく、現れる結果、つまり信仰的な現象と実りがもっと重要であると言っているのです。

使徒パウロは自分の立場をコリントの信徒たち自身で確認すべき重要なことだと言います。この部分をユージンピータソン博士はこのように翻訳します。私たちは皆さんに見せる推薦状や皆さんからもらう推薦状が必要ない人です。あなたがた自身こそ、私たちが必要とする推薦状です。皆さんの誠実な生き方が私たちの必要とする推薦状の全部です。皆さんの誠実な生き方こそ、だれでも見て読める手紙です。キリストが私たちを用いてお書きになった手紙で、その手紙は墨ではなく生ける神の霊によって書きつけられました。その手紙は石の板ではなく、人の心の板に刻んだのです。私たちはその手紙を伝える人であります。

使徒パウロが苦労して建てたコリント教会にはよい働き人がいました。アキラとプリスキラ、テモテとシラスのように命をかけて福音を告げ知らせるよい働き人がいたからこそ、福音伝道が可能でした。それだけでなく、コリント教会には純粋な信仰を持っている信徒たちがいました。使徒パウロが早く来て、教会の全ての問題を解決してくれるよう、祈る信徒たちがいたのです。

信徒たちに対する使徒パウロの信頼を見て下さい。私は推薦状を皆さんに見せる必要がありません。その理由はコリント教会の信徒、あなたがたが私の推薦状だからですと言いました。コリント教会の信徒たちの誠実な生き方と苦難の中でも耐えて生きてきた信仰が墨で書かれた推薦状より大切だと言いました。モーセ時代のように変わらぬ石の板に刻まれたものより、貴重であると言いました。コリント信徒たちの生活と生き方に刻まれたものであり、生ける神の霊によって書きつけられた手紙だからだと言いました。

愛する信徒の皆さん、この映像礼拝に共に参加する皆さんと私は本当に祝福された人たちです。キリストが自ら書きつけられました。大阪教会の信徒の皆さんは100年前、私たちの信仰の先輩たちが書き残してくれた手紙からどれほど力づけられるでしょう。使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙二4章15節のみことばで「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。」と言っています。

今から私たちがすべきことがあります。私たちのため、先輩たちが残して下さった手紙があります。このように

私たちの子どもたちと孫たちのため、福音の手紙を書き残さねばならないのです。

愛する信徒の皆さんと至らない僕である私がキリストの手紙です。

墨で書かれた手紙ではなく、生ける神の霊によって書きつけられた手紙です。

石の板に書かれた手紙ではなく、人の心の板に書かれた手紙です。

この手紙は永遠に栄光を表す尊く大切な手紙です。

<祈祷>

慈しみ溢れる神様、今日、この尊い礼拝を通して、神様が私たちに送って下さった福音の手紙に感謝をささげます。100年前、大阪教会は信仰の先輩たちによって教会が建てられました。今日に至るまで、子どもたちと子孫が福音を抱き、生かせて下さり、感謝します。ここで、私たちも決心します。私を、子どもたちと子孫にとってのキリストの手紙にならせて下さい。来週、100周年記念主日を迎えるとき、感謝に満ちるようにならせて下さい。教会の頭(かしら)である主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン