2021年 4月 25日主日礼拝「不安から大胆さへ」鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 < 2021 4月 25復活節第4主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : 불안에서 담대함으로 不安から大胆さへ

聖經 : 요한복음 21장 17절-20절 ヨハネによる福音書21章17節-20節

 

<日/新共同訳>

15.食事が終わると、イエスはシモン․ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16.二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17.三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18.はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 19.ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。20.ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。

 

<説教>

4月の最後の主日です。信徒の皆様1週間お元気でしたか。ニュースを見るのもつらかったと思います。

コロナ感染患者数が増えて結局緊急事態宣言が再発令され、生活全般に渡って苦しくなると思います。

人が生きていく中で、このように大変で難しい出来事が続くのが事実です。ある災害が起これば、それによって心に不安が襲います。どのようにしてこの苦しみを乗り越えられるかと心配になります。それで、力を出してみようと決心をします。 しかし、人はだれでも苦難と苦しみに遭うと恐れるしかありません。

イエス様が十字架の死と復活以後、弟子と周辺の人の姿を続けて探っています。弟子たちにおいて素晴らしい師匠、偉大な先生として慕っていたイエス様があまりにも無残に死を迎えたため、衝撃も大きかったのです。そして弟子たちの心に大きな恐れがありました。自身たちにある出来事が起こるかもしれないとの不安な気持ちがありました。どれほど恐ろしかったのか、彼らだけいるときにも戸に鍵をかけていたのです。

先週、説教の中で弟子トマスのことを考えてみました。人が心に疑いを持てば、すべてのことが不確実に見えます。何が正しいことか何が間違っているかを判断するとき、自信を失ってしまいます 自分も知らない間に心の中に不安や心配が生じます。心配とは脅威や危険を感じ、心が不安になって用心深い感情を抱くと国語辞典で説明されています。日本語で見てみるともっとたくさんの表現があります。名詞としての意味として怖さ、恐れ、恐怖、不安、心配、失敗するかもしれないという不安な心を表現します。失敗するかもしれない不安、形容詞の意味で恐ろしい、怖い、心配だ、不安だ、気掛かりだとの意味で表されています。

結局心配とは戸を閉め、心を閉ざし、関係を閉じてしまうことを意味します。不安と恐れを人々はいつ感じるのでしょうか。今全世界を襲っているコロナ禍の中で、人々は不安と恐れを抱いています。コロナ病原菌に私が感染したらどうしようという恐れを感じる事は当然のことであり、心に不安が広がります。そして、周りの人を考える余裕を失い、自身だけの世界の中で心を閉じて生活するようになります。コロナ禍以降、心理的に苦しんでいる人がたくさん増えたとのニュースを皆様も見られたと思います。恐怖は心を閉ざすことです。同時に鍵をかけて戸を閉ざしてしまいます。現代社会は、隣人との関係が信頼よりは疑いを抱く時代になってしまいました。隣の人が自分に危害を加えるのではないかと不必要な恐れが起きる世の中になり、鍵をかけて生きていきます。そして今まで維持されてきた関係を切ってしまうことによって、人々は不安と恐れを持つようになるのです。

人々はいつ一番恐れるでしょうか。最初に自身の身辺に脅威を感じる時でしょう。自身の地位または立場が厳しくなることに対して、恐れを感じるようになります。自身を取り囲む環境において自分が認められなくなるのではとの考えが起こり、恐れに囚われるのです。

BC1000年頃、イスラエル民族は周辺国家と戦争を続けておりました。イスラエルに一番大きな脅威はペリシテ民族でした。イスラエルは戦争において、組織的に国家と軍隊を導く指導者を立ててくれることを、当時の祭司長サムエルに要求しました。祭司長サムエルはこのことを神様に頼みました。しかし、最初神様は民の要求を拒みました。この願いが続けられたため彼らの声を聴いて王を立てなさいとサムエル上8章を見ると許したと記しています。そして最初に王に立てられたのがベニヤミン支派に属しているサウルでした。 サウルを王に立て、イスラエルを統治させました。周辺の国家と戦争をし、勝利を収めた王になり、国民の信任を受けた王になりましたが、自ら傲慢になってしまいました。神様のみことばに従わず、自分がしたいようにする誤った行動をとるようになりました。神様は祭司長サムエルを通して、サウル王を審判すると預言させました。

サウル王はダビデの登場とともに、自分の王の立場がどうなるか心配になり、恐れと不安に襲われます。 さらに口寄せのできる女性を尋ねていき、自身が持っている不安を解決しようとしました。結局この不安感はダビデを殺そうとする殺人の心を抱かせます。ダビデは自身の婿であり、王子ヨナタンとも厚い信頼の仲でした。それにもかかわらず、サウルの心にはダビデに対する必要のない妬みと不安が起こりました。結果的にサウルはふたたびペリシテとの戦争で自身の命を失ってしまうのです。このように、サウル王の話は妬みと不安がもたらす悲しい歴史でもあります。

今日の聖書のみことばは、ガリラヤ湖に訪ねて来られたイエス様と弟子ペトロの出会いと交わされた会話が中心です。ペトロはイエス様の12弟子の中で中心的な役割をした人です。ゲッセマネ丘で祈っておられたイエス様を逮捕しに来た人に剣を抜いて片方の耳を切り落としたのもペトロでした。しかし、私たちが良く知っている通り、ペトロはイエス様がローマの軍人に逮捕され尋問を受ける姿を見ていました。結局ペトロはイエス様を知らないと嘘をついて逃げ出してしまいました。イエス様が十字架につけられ苦しみを受け、死んでいく時も弟子たちは隠れていました。この不安と恐れは私たちの想像を絶するものです。誰も責められない人間本来の姿ではないでしょうか。当時のユダヤ教の指導者たちはイエスを殺し、彼に従っていた弟子たちを捕まえて殺そうとしたとも考えられます。このような危機感は弟子たちに不安と恐れをもたらしたのです。

ペトロと弟子たちはガリラヤ湖に戻り、漁をしている朝に復活されたイエス様が来られました。一晩中網を降ろしていたが、一匹の魚すら捕れなかった彼らは岸に立って叫ぶ声を聞きました。「船の右側に網を打ちなさい」。 網を引き上げることができないくらいたくさんの魚を捕らえました。湖の上に立っておられるのがイエス様だということを知った時、服を脱いで作業をしていたペトロは上着をまとって湖に飛び込み、イエス様に向かっていきました。7名の弟子たちはイエス様が準備された朝の食事をいただきました。この朝の食事を共にしたことを考えてみると、ある意味大変ぎこちない食事時間だったかもしれません。復活されたイエス様が弟子たちの前に3度現れましたが、弟子たちと食事をされたのは初めてです。食事が終わるとイエス様は弟子たちと対話をされます。今日の本文ではペトロに言われたみことばを見ることができます。

食事が終わるとイエス様はペトロに質問をされました。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか。」という不意な質問でした。私たちが良く知っている内容ですが、この質問はすごく敏感な内容にもなります。ペトロの立場から見れば最後の晩餐でイエス様がされたお話、「あなたは今夜鶏(にわとり)が鳴くまでに、三度私のことを知らないと言うだろうと話されたときも、強く自分の意志を伝えました。絶対そのようなことはないと誓ったのに、ほんの数時間後、彼は卑怯にも先生を知らないと嘘をついてその場を逃げた経験が思い浮かんだはずです。イエス様がこの質問を2度繰り返された時もすぐ答えました。しかし3度目も同じ質問を受けて、本文17節を見るとペトロは悲しくなり「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。

ペトロはなぜ悲しくなったのでしょうか。主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。なぜこのような答えをしたのでしょうか。ペトロの悲しみは自責の念からくる心理的不安です。自ら自分が何をしたのか知っているからです。心配は解決されないことのために心が乱れ憂鬱になることです。イエス様とペトロの間に解決されない出来事があるのです。ほんの数日前に起きたことですが、自ら解決できず心が乱れているのです。復活されたイエス様が弟子たちに現れました。しかし、ペトロは自責の念で心が憂鬱に陥っている状態でした。

今日、私たちも心配なことがたくさんあります。個人的には健康問題、経済的なことで自身の力では解決できないことがたくさんあります。社会的にはコロナ禍のように、大きな災害が襲ってくれば生活の不安と恐れで心配になるのは当然のことでしょう。このような時期にわたしたちはどうすればよいのでしょうか。信徒の皆様はどのようにしておられますか。イエス様とペトロの会話をもう少し読み解いてみましょう。

ペトロは心配な気持ちと恥ずかしくて大きな声で言えずに話しました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えます。弁明に近しい言葉です。責任を先生に負わせるような言葉です。しかし驚くことに、この言葉を聞かれたイエス様が弟子ペトロに与えたみ言葉です。「わたしの羊を飼いなさい。」との命令でした。信徒の羊飼いになりなさいとのことです。そしてより真摯に「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばすとされました、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と言われました。それだけではありません。最終的には死を迎えるようになると言われました。愛していますと言った弟子ペトロがどのような死に方を迎えるかを話されたのです。もちろん人は誰でも個人的な終末を迎えますが、それが死です。ペトロの立場から見れば、彼はどのような気持ちだったのでしょうか。

もし、イエス様が私たちに同じ言葉を与えて下さるならば、「アーメン。主よ、感謝します。」と答えられますか。そうでなければ、ペトロのように心配しながら「イエス様、少し考えてみます」と言われますか。率直に言えば、私たちの心には不安がもっと広がり、心配が深まるでしょう。イエス様はペトロの死までも神様の栄光のためだと言われました。人々が不安と心配が逃れられる唯一な道があります。それは使命のために死ですら受け入れ、死を覚悟する心を持てば、すべての不安と心配から逃れられるのです。死を覚悟することはやむを得ず死を受け入れる事とは違います。事実、人間は死を覚悟すれば、できないことはありません。本当に私の命を捧げても成し遂げるべき仕事、その使命がわかれば恐れは消え去るでしょう。

ペトロはイエス様に言われたみことばをに従い、使命を認識するようになりました。「私の羊を飼いなさい」。

今日を生きる私たちはこの時代的状況から与えられた使命があります。それをわかってこの使命を成せるため、主のみ手にわたしたちをゆだね進むとき、成し遂げられることを信じます。愛する信徒の皆様!今、私と皆様の前におかれているコロナ禍の不安が高まっていることは事実です。しかし、神様が私たち全員を守ってくださるでしょう。そして、私たちも私たちに与えられた使命に従い、自ら冷静さと同時に大胆さを持って生きていきましょう。神様が私たち全員を守って下さいます。

<祈祷>

私たちの考えと行動を見守ってくださる神様、弟子たちも不安と心配の中にいました。その不安から解放させるために、復活された主が弟子たちに再び使命を確認させ、大胆な心を持たせました。今日を生きる私たちすべてに強い信仰と与えられた使命をわからせ、知恵がある人生を生きていけるようお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。 アーメン