2021年 3月 28日 棕櫚主日「キリストの体である大阪教会」 鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 < 2021 3月 28棕櫚主日

                         説教 鄭然元牧師/通訳 金光成長老

* 題目 : キリストの体である大阪教会

聖書 :  コリント信徒への手紙一1212節-13節 

 

</新共同訳>

12. 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13. つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

 

<説教>

愛する信徒の皆さん、お元気でしたか。

今日は2021年四旬節の最後の主日です。棕櫚(しゅろ)主日であり、苦難週間が始まる主日です。それだけでなく大阪敎会2021年の公同議会を実施する主日です。久しぶりに信徒が一堂に集まりました。昨年1月の新年礼拝後、初めて合同礼拝をささげております。神様に感謝しながら、礼拝をささげています。

神様が自ら創られた人々を愛しておられ、罪に陥りあえぐことを放っておけませんでした。ひとり子を下(くだ)し、人類を救う計画を立てました。御子であるイエス様が、十字架につけられ血を流してから迎えた死は尊いものでした。イエス様が十字架で死なれ、3日目に復活し、福音を入れる器を与えられたのが教会です。

教会(church)とは、神様が多くの人々の中で特別に選び、集めた救いの共同体を指します。イエス様を知らなかった人々が、イエス様を知るようになり集まりました。イエス様が教会を建てると話された約束は、弟子ペトロとの会話中に出ました。当時の弟子たちは、イエス様に対しての理解が不十分でした。イエス様がどのような方で、どのようなことをするために来た方なのかもわかりませんでした。しかし、ペトロは、イエス様はメシアであり、生ける神の子であることがわかり、イエス様にそれを言いました。ペトロの言葉を聞いたイエス様は、「ペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と約束の言葉を下さいました。しかし、教会を建てるという約束は、十字架の死と復活、弟子たちとの交流後の昇天、そのあとに聖霊が下ることで成就できました。

神様の救いの約束について、信仰を持った人々が集まって共同体が建てられたのです(使徒2章)。今日、私たち大阪敎会に集まった信徒の皆さんと私も、イエス様の十字架の死を信じている人たちです。復活を信じ信仰告白を一緒にした共同体として大阪敎会があるのです。初代教会は建物もありませんでした。ただ使徒の教えを受け、互いに交わりながらパンを分け、祈っている人が家に集いました。

 

聖書では教会を様々な表現を使って表します。真っ先に思い出すのは「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、」とのみことばです。(使徒20:28)

御子の血によって自分のものとなさった教会という言葉は、先に申し上げた通りに、「御子であるイエス様が十字架につけられ血を流し、死なれた」ということを説明する言葉でもあります。教会を「イエス様と共に洗礼を受け、一つになったもの」と説明します。今日、わたしたちの大阪教会は神様の恵みを受けた一人の信徒が信仰告白をし、洗礼を受けます。このように教会は洗礼を受けた信徒たちが一つになる所です。

今日の本文であるみことばをみると、教会を「キリストのからだ」としました。神様が御子の血によって自分のものとしたのが教会であり、その教会がイエス・キリストの体であるとのことです。私たちの体は、色々な部分で作られています。その部分は異なる役割を持っています。例えば、頭と腕、脚があります。頭だけでも、いくつかの機能をする器官があります。目と耳と鼻と口があります。全て私の体の一部です。これは、揃わなければ正常に自分の役割を果たせないのです。目と耳、鼻と口がそれぞれ別々に動くと普通には生きていけないでしょう。

教会も、このような構造を持っていると説明しています。私たちの体のように、教会にも異なる役割を持っている色々な肢体があります。これを民族や役割と比較して説明している箇所を見てください。私たちが、ユダヤ人やギリシア人も、奴隷も自由人も全員、聖霊で洗礼を受け、一つの体となり、一つの聖霊を通して、教会の信徒になりました。大阪敎会にも韓国人、朝鮮人、日本人、在日同胞とニューカマー、多国籍の方、中国から来た同胞もいらっしゃいます。教会とは、このような多くの要素が集まっているからこそ、本物の教会だと言えるでしょう。

ローマ書12章4-5節のみことばを見ると、一つの体の肢体も異なる役割を持っているように、教会もそれぞれ異なる機能を持っている部分がキリストに結ばれ一つの体を形づくっていると話されます。例えば、教会の組織で、牧師や長老や勧士や執事のような機能があるとのことです。教会学校、男性会・女性会、聖歌隊などの共同体が必要です。教会を維持するため、堂会や諸職会や公同議会が必要であります。役割からみると、伝道と宣教することを優先する部署、教育と養育をする部署も必要で、奉仕し仕える働き人も必要です。ローマ書12章5節「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。

パウロは、教会は平和のきずなで結ばれ、霊による一致を保つように努めなさいと言いました。このように教会の定義は様々でありますが、聖霊によって一つになる信仰の共同体であることがわかります。私は牧師として、教会の定義の中で一番好きなみことばがあります。それは、「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」とのみことばです。

 

愛する信徒の皆さん、我々はイエス・キリストの血によって神様のものとした教会の中におり、神様の家族であります。「家族」一つの体なのです。家族は私の選択によってなれるものでもなく、願ったか願わなかったとかは関係なく、一つの家族となったのです。現代社会で家庭と家族の温かさと大切さや役割を失い生きているのではないでしょうか。このような社会の中で信仰の共同体である教会を通して慰めと回復の驚くべき祝福を期待します。私が他人の助けを得て生きるのも、私が他人を助けながら生きるのも神様の恵みです。家族は苦しい時、支え合って、苦しんでいる肢体のために祈り、手を差し伸べるのが家族の役割だと思います。

大阪敎会100年の歴史は、このように始まり、今後も絶えず続くでしょう。先週の主日から昨日の土曜日まで早天祈祷会では、公同議会を控え、ヨハネの黙示録に出てくる小アジアの7つの教会に関するみことばを読んでいます。参加できない信徒の皆さんも毎日の黙想で、共有できたと思います。 7つの教会の信仰や歴史や地域の背景が異なるため、信仰生活も少しずつ差が生じていました。初めの恋から離れ非難されたエペソ教会と、サタンの王座があるところに住んでいると非難されたペルガモ教会があります。偽預言者に陥り、悔い改めを促すよう叱責を受けたテアテラ教会もありました。生きているとされているが、実は腐り死んでいたサルデス教会もあります。冷たくもなく、熱くもない生ぬるい信仰を持っていたので、非難されたラオデキヤ教会もあります。一方、患難と迫害の中にも忍耐で迫害を耐え抜いたスミルナ教会や、主のことばを守り、主を否めなかったので褒められたフィラデルフィア教会もありました。

私たち大阪教会が見倣うべき教会はすでにみことばを通して定められました。全ての環境が悪い中でも強く、倒れそうに見えても耐え忍ぶ教会。みことばで苦難に勝ち抜く教会を目指して進んでいくのです。

今日、公同議会が実施されるこの主日、心に留めておくみことばです。主の祝福がわが大阪教会と礼拝をささげる全信徒の上に溢れますよう、祈願いたします。

<祈祷>

人類を愛し、教会を与えて下さった神様、感謝いたします。

教会創立100周年を迎えた今年の公同議会が開催できたことに感謝をささげます。今日与えられた祝福を良く使うようにさせて下さい。このように、長老、勧士を選出するよう、機会を与えて下さったことに感謝しながら、よく判断し、良い働き人を選ぶことと教会の使命を共に認識し担うことができる私たちにならせてください。聖霊様の恵みが洗礼式の上に満ち溢れるようにさせてください。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン