2021/2/21/四旬節第一主日<四旬節の霊性で>鄭然元牧師

大阪教会  <2021年 2月21日> 四旬節第一主日

説教 鄭然元牧師 / 通訳 金光成長老

題目 : 사순절의 영성(靈性)으로  四旬節霊性

聖経 : 마가복음 14 32-40 マルコによる福音書1432節-40

</新共同訳>

32. 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33. そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、34. 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 35. 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36. こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 37. それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。38. 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 39. 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。40. 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。

<説教>

信徒の皆さん、お元気でいらっしゃいますか。今日は2021年度、四旬節の第1主日です。

コロナ禍の中で迎える二度目の四旬節になってしまいました。日本は17日からコロナワクチン接種が医療関係者から始まりました。一日も早くコロナ禍の終息ができますよう、共に祈りましょう。

キリスト教の信仰において聖誕節と復活節、聖霊降臨節と共に、四旬節は非常に重要な節期です。神様が罪に陥った人類を救うみ旨を行動で見せた時間であります。皆さんと私の信仰の中心に立っているイエス様の十字架の死が四旬節の中心です。春を意味するレント(Lent)は、イエス様の復活を準備して、祈りと悔い改めと断食と敬虔を通して霊的に励む期間です。四旬節が持つ信仰的な重さは、私たちにとって本当の信徒として生きらせる深い霊的な力を持っています。

四旬節の期間は、二つの性格を持っています。初代教会では洗礼を準備する人々に神様のみことばを喜んで受け入れる準備をする期間でした。今日、私たちの教会も、イエス様を信じ始めた方が救いの道に入るよう、信仰告白をするために、学習、すなわち勉強をします。最も基本的なことから始めます。そして、その学びから、イエス様がどのような方なのかを知り、信仰の道に入るようになるのです。そしてもう一つの

意味は長らく信仰生活をしてきた信徒同士の関係にあります。自分の信仰生活を振り返って、不足したもの、誤ったものを主のみ前に出し、悔い改めて新しい力を得る期間でもあります。今日の説教の題目を

「四旬節の霊性で」としました。

私たちは、「霊性」(spirituality)という言葉を頻繁に使います。霊性とは何ですか?何と思いますかと質問をすると、ほとんどの方が「さあ、何でしょう」と知っているようでないような答えをします。「霊性」という言葉は、聖書にはありません。では、「神学」という言葉はどうでしょう。「神学」という言葉もありません!しかし、神学という言葉とともに、霊性という言葉は、信仰を話すときに欠かせない重要な用語です。神学とは神への学問だと言うのは簡単ですが、霊性を、漢字の意味で解釈するのにはいくつかの困難な部分があります。国語辞典をみると、「霊性」は、「神霊な品性や性質」と意味づけしています。

神学という言葉も単なる神に対する知識追求と学問的な研究をすることではないです。「神学をする」という言葉は、「精神的な追求と修練を共にすること」を指します。単に学術的に悟り、論理的かつ理論的に神を学ぶだけではありません。体と心を磨きながら自分の存在の意味を悟り、信仰生活を通して、その価値をより高めることを意味します。ところが、残念ながら神学を深く勉強すればするほど、霊性の飢饉が持たされると考えがちです。神学と霊性の分離的現象が見えてきます。私たちは、聖書勉強をするようになります。「なるほど!」と、理論的に頭でそれを理解し、悟ります。この悟り(知ること)を生活、すなわち生活の中で具体的に行動するために深く考えることが「霊性」であると言えます。

「霊性」とは、私にとって最も価値のあるものを経験して追求する人間の行動を意味します。「霊性」とは、何かを追求し、その道を歩く人生という言葉です。もちろん「四旬節霊性」という言葉を私が使うのは、四旬節が追求する最も中心的な内容を私たちも一緒にしようとのことです。一つだけ注意しておくべきことがあります。「霊的な体験」がすなわち「霊性」ではありません。超自然的な幻を見たならば、ある意味では、「霊的な体験」をしたのであって、それが霊性ではありません。「霊性」は、単なる感情の体験でなく、追求するものに向かって、その道を歩む人生を指します。私は心から願って欲するもののために、深く考えることなのです。私が叶えたい人生のために修練して実践することです。

霊性は、私が叶いたいものを実践、行動することです。「四旬節の霊性」は、神様が人間に対して持っておられる愛から探せます。罪に陥った人間を救うために行う神様の具体的な行動が十字架でした。神様が持っておられる考えを一番よく知っている方が、彼の息子であるみ子イエス様なのです。神様の計画に従い、この地に来られた救い主であるイエス様は、御父である神様の御心に従うことでした。四旬節の基本精神は、神様の救いの計画とイエス様の従順にあります。

最近、社会で「従順」という言葉に対して非常に否定的なイメージを抱くようになっています。不適切な権力に屈服するという考えが先立ちます。不正な富にへつらう卑劣な態度が頭に浮かびます。対抗や闘争することをあきらめてしまった非力(ひりき)な卑屈と自己卑下(ひげ)がまず浮かぶので、従順という言葉にあまり良いイメージを持てません。社会的に、このようなイメージが広がっているので、「従順せよ」とすれば、まず反抗心が生じます。従順することが屈服と敗北をイメージするならば、「従順」が持つ元来(がんらい)の意味は見つけ難いのです。

四旬節の霊性は「ゲッセマネの園」から「ゴルゴタの丘」を貫通する霊性です。今日、私たちが一緒に読んだ新約聖書は「四旬節」の集大成的なみことばです。だとすれば、なぜ順番に読めばよいのに、四旬節の第一主日にこのみことばを読むのでしょうか。それは、四旬節の霊性を最も的確に現わしているみことばだからです。イエス様がベツレヘムの飼い葉桶で生まれたのも、ナザレで大工の仕事をしながら求めたのも、十字架の死でした。洗礼者ヨハネにヨルダン川で洗礼を授けたことも、荒野で40日を断食しながら祈ったのも、イエス様が求めた十字架の霊性に焦点を当てたことでした。

ならば、イエス様にとって十字架は何ですか。「死!」まさにそれです。私たちは、十字架を説明するたびに、彼の苦しみと人間的な試練を説明します。あまりにも惨(むご)くて、みすぼらしく、悲惨なイエス様を思い浮かびます。しかし、イエス様は御父である神様のみ旨に従うことを決断します。イエス様が求めているのは、人間を救うことだからです。この過程で「ゲッセマネの園」は、重要な場所になりました。エルサレムの東方に位置するオリーブ山の谷です。ゲッセマネは「油を搾る型」という意味でオリーブ木の森がありました。オリーブの実を収穫して、油を作る所がありました。

今日聖地巡礼の中心地となったゲッセマネの園には、イエス様が祈られた場所だと推測されるところに建てられた「ゲツセマネ教会」があります。ロシアの皇帝が自分の母親を記念するために建てた「マグダラのマリア教会」があります。イエス様が捕らわれるとき、ペテロが剣を抜いてマルコスの耳を切った場所と推測されるところに建てられた「ゲッセマネの洞窟教会」、とイエス様が泣いたところと推定して建てた「涙の教会」などがある場所です。

今日のみことばを再度見てみましょう。ユージン・ピーターソン博士は、このように翻訳します。「彼らはゲツセマネという所に至った。イエスは弟子たちに言われた。「私は祈っている間に、あなたはここに座っていなさい」。イエスは恐れと深い憂(うれ)いに陥った。イエスは弟子たちに言われた。「今、私は苦しみによって死にそうだ。ここで私と共に目を覚ましていなさい」。

「恐れと憂い」は人間が持てる感情です。人が弱くなり、まるで微々たる存在のようになってしまった状況で持つ感情です。恐れと憂いは偉大なメシヤには似合わない言葉だと思います。しかし、メシヤであるイエス様は、人間としてこの地に来られました。最も人間らしい姿で弟子たちと私たちの前に立っておられるのです。弟子たちに言った言葉を見てください。「今、私は苦しみによって死にそうだ。ここで私と共に目を覚ましていなさい。」と話されました。「私は苦しくて死にそうだ。」、愛する信徒の皆さん、皆さんと私もこのような言葉を口にする時があります!本当にどうすることもできなく、切迫した状況の中で、人間が持つ最も原始的な、飾りたくても飾れない、ありのままの姿が現れる表現です。人間イエス様の苦悩の姿を私たちは見ているのです。

もし私が信徒の皆さんに、「私は今、苦しくて死にそうです!」というならば、皆さんはどのように考えますか。牧師は何か大変なことでもあるのかと気になるでしょう。説教者の一言がどれだけ重みを持つのかを感じた出来事がありました。過ぎた1月31日の説教で、エルサレムの神殿建築を始めてから中断された部分を話しました。サマリア人が建築を妨げました。そして、彼らは真実を王に知らせずに、王と指導者ゼルバベルを離れさす工作を行ったのです。どの社会や教会共同体の中でも仲たがいさせる工作は非常に悪い行動だと言いました。ところが、この説教を映像で見た友人の長老任が連絡をくれました。 「鄭牧師任、教会に何か大変なことでもありましたか」。説教を聞く人が敏感に捉える場合があるのを気づかされ、友人である長老任に感謝しました。

イエス様は弟子たちに、「私と共に目を覚ましていてほしい」と話されました。苦しくて死にそうな瞬間を迎えると誰かが私の傍にいてほしいと思うのが人の心理です。子どもは怖くなると本能的に泣きながら母を探すのです。イエス様は友人のような弟子たちの中で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ3人を連れて園に来られたのです。私と共に目を覚ましていてほしいとお願いをしました。今日、私たちの生活の中でも「私と共にいて下さい」と叫ぶ声があります。牧会者が信徒たちに「共にしてください」と願うときがあります。信徒の皆さん、牧会者や信仰の友人たちが私と共にいて下さいと手を差し出すとき私たちはその手を取らないといけません。

イエス様はさらに地面にひれ伏し、できることなら苦しみの時が自分から過ぎ去るように祈りました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心が適うことがおこなわれますように」と絶叫しました。血が滲んだ汗が出るほど集中して祈られたのです。苦難と試練が過ぎ去るように願うことは、私たちも苦しくて大変な時に祈る内容です。しかし、イエス様は私が願うことではなく、父の御心が適うことが行われるようにと祈ったのです。

イエス様の従順、イエス様の祈りは私たちの祈りと間違いなく違いました。イエス様は自分の願いを先にしませんでした。神様の御心が適うことを目標にした従順でした。愛する信徒の皆さん、私と皆さんが今年の四旬節に一番先に持つべき信仰的な徳性は従順することです。この世に満ち溢れているフェイクニュースや自己中心的な考えではなく、みことばから湧き出る生きた水のような清い水で、霊感を持ち、十字架を崇めましょう。四旬節の霊性の一つは「従順」です。

2021年の四旬節が始まりました。

神様のみことばの前で従順する真なる信仰人になりましょう。

イエス様の祈りが私たちの祈りになるようにしましょう。

人類を愛するその愛を深く黙想しましょう。

行動する四旬節の霊性を持って、復活節に向かっていきましょう。

主が私たちと共にいて下さいます。

<祈祷>

愛溢れる神様。

人類を救うために一人子、イエス様をこの地に送ってくださいました。

イエス様が担った十字架を考えながら、四旬節を始めることができ、感謝します。

私たちの信仰生活の中、従順するものが何なのかわからせてください。

行動し、実践できる信仰を与えて下さい。

感謝をささげながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン