2020年 12月13日主日礼拝<神の愛が示されました。> 鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <2020年 12月13日> 待降節第3主日

說敎 鄭然元牧師 / 通訳 金光成長老

 

* 제목 : 하나님의 사랑이 나타났습니다. 神の愛が示されました。

* 성경 : 요한1서4장9절-12절 ヨハネの手紙一4章9節-12節

 

</新共同訳>

9.神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10.わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11.愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12.いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

 

<説教>

2020年待降節第三主日です。第三主日のテーマは「愛」です。講壇には第三番目のロウソク、「愛を象徴するロウソク」に火が灯されています。主の愛が、全世界に満ちた聖誕節の中心は希望と平和と愛です。コロナ禍の状況がより深刻になってきました。世界中の患者の数は想像できないほど急増しています。心配と不安が増しています。2020年は、コロナ禍によってすべてが止まってしまいました。この絶望的な状況の中でも、これが終わりではないというのを私たちは知っています。だから、希望を持って世に平和を生み出す人として生きようと決心するのです。

主の大いなる愛は人間の浅はかな考えでは及びません。聖誕節はイエス様が人々に会って愛を分かち合うために、この地に来られたことを祝う節期であります。愛とはいろいろなのです。親が子を愛する親の愛、子どもたちが親を愛する愛も美しいです。尊敬と配慮がある師弟の愛もあります。そして、若い男女の愛があります。

今日の聖書のみことば、9節、神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。主が私たちを愛する証拠は「独り子」をこの世に遣わしたことです。独り子は、私たちが生きるようになるために、この地に来られたとのことです。メシアがこの地に来られた目的は人類を救うことだったので、私たちが生きるようになると話されたのです。10節には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」としました。主が私たちを愛されたので、その御子であるイエス様を遣わしたと言っています。

御子の役割は、「和解のいけにえ」でした。イスラエル民族が神に供え物をささげるために神殿に行くときは、供え物を準備して献げました。罪の赦しのための祭事も、和解のために献げる祭事にも供え物が必要でした。「和解のいけにえ」は、人と人が仲違いしたとき、その関係を円満にさせるために献げる供え物です。しかし、この祭事の特徴は、供え物をすべて燃やす燔(はん)祭(さい)とは異なります。供え物の一部は、祭壇で焼きます。そして他の部分は、祭事に一緒に参加した人たちが分けて食べる交わりのときに使います。祭事の根本的な意味は、供え物を献げることです。祭事を献げる人は、自分が犯した罪の赦しと人間関係で生じた問題を解き和解する、その第一歩が供え物を献げること、即ち和解のいけにえでした。

主が私たちを愛した上、見せた救いの行動は、ご自分の独り子をメシアとしてこの地に送ってくださったことでした。主と人との間を阻(はば)む壁を取り壊すために、生け贄として御子を遣わしたのです。これこそ大きな愛でないでしょうか。しかし、このような大きな愛が片思いだとしたら、どれほど悲しいか。よく「片思いは美しい」、「叶わなかった愛なので美しい」と言います。しかし、応じてくれない相手を心から愛し、胸が焦がれるような片思いの経験をした人々は、それがどれほど苦しいのかを知っています。無垢で美しいと言えるのは、他人事だからできることなのです。

中世の敬虔な修道士であったトマス・アクィナス(T. Aquinas)の生涯に出てくるある逸話があります。彼は常に何かに没頭し、祈りと断食をしながら神を求めていました。ある日、彼が祈っているとき、幻の中に現れた神が彼に話されました。「私の愛する僕、アクィナスよ、私はあなたに何を与えたら良いのか。あなたは何を求めて、昼夜に祈っているのか」。その時、彼は答えました。「神様、私には何も必要ありません。主よ、何かを与えて下さるなら、ご自身を私に与えてください。主は私のものであり、私は主のものであります」。

主は独り子を遣わすまで、私たちを愛しておられます!私たちに求めるのは、神の愛に対して、私たちがその愛を見習い応えながら生きていくことです。主は、私たちによって喜び、私たちは主が同行する事実によって限りなく幸せになる、そのような関係の中で生きて行くことを望んでおられます。しかしながら、これは物理的に信徒が教会の近くにいることを意味するわけではありません。クリスチャンが、定期的に教会に出席することが、神と同行することにはなりません。彼らは主と共に生きるためには、主との深い愛の霊的な交わりが必要です。教会に出席して福音を伝え、献金を献げ、主と隣人に仕え、奉仕することは、神と私たちが、人格的な愛の関係であるという人生の告白にすぎません。愛する人々の間にも、義務がありますが、義務感だけで愛の関係を維持していくのは不可能です。

11節には、「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と話されています。主が私たちをこのように愛してくださったので、私たちがすべきことは、主を愛することはもちろんだが、我々が互いを愛する人になければならないと話されているのです。私たちは、信仰生活をしながら、神の愛について頻繁に聞かれてきました。神の愛がどんなものか、私たちはよく知っています。神のみ旨に適う人になるために、多くの努力をして生きることが信仰生活だとわかっています。ところが、今日のみことばでは、「神にこのように愛されたのですから、互いに愛し合いなさい」と言っています。その相手がいったい誰なのかについては話していません。しかし、12節に、「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」と教えてくださいます。不必要な質問かもしれませんが、信徒の皆さんは神を見ましたか。

使徒ヨハネが、自分の人生のすべてを捧げながら愛した人がイエス様でした。そのようなヨハネがイエス様のみことばを反芻(はんすう)して記録したみことばが「神を見た人はいない」です。しかし、わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださる」とまとめています。このみことばの意味は、啀(いが)み合わず互いに愛し合えば、主がその平和な関係の中に共におられるとのことです。愛の関係は、神のみ声が聞こえる通路になり、私たちをそのみ声に従わせる道でもあります。従って、神への愛が信徒の心から消えると、霊的に無知になってしまうです。使徒ヨハネは、イエス様のみことばをこのように私たちに伝えています。 (ヨハネ14:21)「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」。

私たちが聖誕節から受ける恵みは、私たちが「神の愛の対象」、すなわち「愛の相手」であるということです。この愛で、愛し難い人々も愛することが非常に大事であることを教えてくださいます。愛することは、それがどのような形であっても、私たちにその愛の対象に従属させる力があります。使徒たちがあれほど「キリストの僕」と自称したのも、彼らの心中におられる主への愛を示す表現です。私たちと同行したい神様が私たちに求める生き方は「主よ、来たければ来られてください」の人生ではありません。主が私たちを求めるように、私たちも主を切に求める中で、愛の関係を持ち続けたいと願っておられるのです。したがって、主が私たちの側にいるのを切に求めるよう、私たちも主を愛しながら、主の側にいるのを求めないといけません。そこに深まる愛があり、互いを所有しているとの誇らしい喜びがあります。イエス様は私たちに話されます。「愛は死のように強い」。神の愛は、イエス・キリストの死という形で私たちに近づいてきます。それで、このように聖書に記されています。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ロマ5:8)

愛すべき人を愛したことは、それほど感動的ではありません。私たちが神の愛に感動するのは、私たちがまだ罪人だった時に、私たちに見せてくださった愛だったからです。十字架は、主が私たちへの愛を立証する証拠です。そして十字架で成し遂げられた息子の死は、私たちに対する主の愛の最高の表現でした。したがって、主は私たちにも、同様に最高な愛の告白を求めておられるのです。しばらく留まるこの世で、食べるにも、飲むにも、何をしても、私たちは主の愛に囚われて生きます。時には号泣し、時には大胆に、時には憤慨し、時には切ない愛で生きる人々になることを望んでおられるのです。主のその愛を失った私たちが、再び、その愛に戻るために悶え、恋い焦がれ、恋煩いに堕ちいてほしいのです。そのような愛なしで生きているクリスチャンをみるのが、主にとっては十字架の死に匹敵する苦しみなのです。

主が探される人は、真実な人格で自分を愛する人です。その愛のために生きることが、人生の中で最も尊い価値があると信じている人を探しておられます。そして、その人々は人生を生きながら、愛したことで心痛い失敗は経験しません。なぜなら、主はご自身を愛する人々を失望させないからです。主を感動させるのは、人が持っている才能や有能さではありません。特別な知識や奇抜なアイデアや、整った制度や方法でもありません。主に永遠の感動をもたらすのは人です。主が愛し、十字架の血で救ってくださった人々が自分に注がれた主の愛を知り、主の心を見倣った愛を持って、主の愛に応えることです。主はいつもそのように、熱く愛する人と共におられます。そして、主はその人を通して、ご自身の愛を示します。

次の主日は、「聖誕節主日」です。聖誕節は12月25日ですが、この日を含む週を「聖誕節週間」と呼びます。愛を示すために来られたメシアに、私たちも愛をもって応えましょう。主が私たちと共におられることを信じ、私たちは隣人を自分の体のように愛することで、愛し合う我々になりますよう、主のみ名によって祈願いたします。

<祈祷>

愛に満ちた御父の主よ、自ら造られた人類を罪から救うために独り子を世に遣わしたことに、感謝します。私たちが主を愛したのではなく、主が私たちを愛し、独り子を和解のいけにえとして与えて下さったことも再度感謝を捧げます。隣人を我が身のように愛する信仰の人々にならせて下さい。

愛として来られた主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン