2020年 9月27日主日礼拝<主よ、憐れんでください!> 鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <2020年 9月27日> 五旬節後第17主日 

説教 鄭然元牧師 / 通訳 金光成長老

 

* 題目 : 하나님 은혜를 베푸소서! 、憐れんでください

* 聖経 : 시편 123 1-4 詩編1231-4  

 

<日/新共同>1. 【都に上る歌。】目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます/天にいます方よ。2. 御ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。3. わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。4. 平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。

 

愛する信徒の皆さん、過ぎた一週間、お元気で過ごされましたか。

今日も映像礼拝を通じて、信徒の皆さんにご挨拶申し上げます。今日は9月の最後の主日です。コロナ禍により、浮き足立った状態で走ってきた数ヶ月間を振り返ってみました。信徒の皆さんはどんな時間でしたか。私は説教の準備をする際に、自分でも気づかないうちに「主の恵みで生きて来たんだ。」と思いました。そして、しばらく黙想をしました。一人で座っていましたが、突然、胸にジーンと響くものがありました。コロナ禍が始まってから、教会の仕事や家庭や周りの多くのことを振り返ってみると、「ああ、全てが主の恵みだったんだ。」との思いが込み上がりました。

 

新型コロナウイルスが全世界に広がり、患者だけで3300万人が発生しました。死亡者は約100万人にのぼり、苦しみの現場の中、私が今生きていることに感謝し、自然に「主よ、感謝します!」と思ったのです。しかし同時に、胸に刺さる言葉がありました。「あなたが生きていて、あなたの家族がコロナにかからず、大阪敎会が無事で、だからありがたいのか」。瞬間的に私の心にあった、他と比べて感謝する自分の狭い思いを、主が気づかせて下さいました。

 

私たちは、信仰生活をしながら、「恵み」という言葉を頻繁に使います。今日の説教の主題も「主の恵み」に関するものです。恵み(恩恵、恩寵/ Grace)という言葉を、私たちは多く使用します。信徒たちに恵みについて説明してくださいと言うと、ほとんどが聖書での意味をよく理解しており、さらに説明もお上手です。「恵み」は、主が持っている品性、性格の一つです。このような意味が含まれている言葉です。手柄を立ててない人に勲章を与えると、人々はどのように考えますか。それはおかしいよ!と言うでしょう。ところが、「主の恵み」とは、功績がない人に、主の自由な選びや方法によって賞を与えることです。主が人々に無条件で施すギフトが「恵み」です。

ギフトは相手に要求してもらうものではありません。また、見返りを考えてあげる賄賂とは異なるものです。見返りを期待せずに、ただ与えるのがギフトなのです。旧約聖書で「恵み」を説明する際に使用される言葉は、「ヘン(chen)」、「ラハミム(rahamim)」と「ヘセド(chesed)」という言葉があります。「ヘン」は、主の慈しみに生きる人(詩4:3;26:11)と孤独な人(詩6:2;25:16)に施す愛を意味します。そして「ラハミム」は、背きの罪をぬぐって下さることを意味し(出34:6;詩51:3)「ヘセド」は御慈しみ、主の本性、主の品性の一つを意味する言葉です。(詩112:4;エレ9:24)最も一般的に使われた単語は、「ヘン(hen)」ですが、それは元来「上級者が下級者に好意を施す」という意味でした。

 

イスラエルの指導者モーセが主に出会い、主を経験しながら、主に対する告白を最もよく表現したみことばがあります。出34章6節から7節、主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、7. 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」です。

主は憐れみ深く恵みに富む神で、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた方だと告白します。主の恵みとは、罰すべき人々に対する主の慈しみを表わすものです。

新約聖書では、キリストが罪人の代わりに、死なれた事実を基にしています。そして罪を犯した罪人に永遠の命という、ギフトをもらえる道に導いてくれるのが「主の恵み」としました。ギリシャ語の「カリス(charis)」は、一般的なギリシャ語では、「人を引き付ける魅力」または「優雅」(箴1:9)、「優しさと好意的な態度」(ルカ4:22)、「ある親切に感謝する」という意味があります。だから今日も魅力的で人を惹きつける人格を持っている人を「カリスマ」があると言います。また、同じ意味で「大衆の支持や後援を得られる力」を持っているとも言います。

 

ギリシャ人にこの言葉は好かれており、他人からの見返りや好意を期待していない寛容を表現するために、この言葉がよく使われました。そして、使徒パウロもこの言葉を非常に好んで、よく使いました。

8. しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちにする愛を示されました。

 

つまり、恵みは、死んでいた者をキリストと共に生かす神の愛であり、(エフェ2:4-5)恵みは憐れみより良いと強調しているのです。だから、今日、私たちクリスチャンは、この言葉を「ギフト」という意味で、私たちを赦し、贖って下さる「救いのギフト」という意味で受け入れるようになりました。今日の本文のみことば、旧約聖書の詩編でも、「主の恵み」に対するダビデの切な願いが読み取れます。過ぎた8月19日黙想のみことばとして、一緒に読みました。エルサレムの神殿に向かっていく巡礼者の歌です。しかし、内容を見ると、迫害と患難の中で、主の助けと憐れみを願って祈る内容です。

 

まず、ダビデは、主を指して「天にいます方よ。」との呼称を使用しています。天とは、地の上、四方を見下ろせる所であり、主の権威の御座が置かれた所です。ダビデは、高いところの天で人々のあらゆる病気と苦しみを見ており、時が来れば助けと救いの手を施すと言っています。ダビデは、自分の人生の中で、主がどのように恵みを施してくださったのかを、経験によりよく知っていました。家の末の子で若い時に、預言者サムエルが自分の頭に油を注いた時(サム上16:13)、主の霊が激しく降(くだ)るようになったのを覚えていました。自分は、イスラエルの王になるべき人でもなく、若かったが、主の恵みの霊が共におられるのを感じたのです。

ゼカリヤ書12章10節、「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。」とのみことばがその後を証言しています。恵みは主が人間に施す愛と慈しみを行動として表わすことです。(ヨハネ3:16)であれば、主の恵みをどうすれば、受けられるのでしょうか。ローマの信徒への手紙3章24節「ただキリストイエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」イエス様による贖いの業とは、恵みのもう一つ違う表現です。

 

エフェソの信徒への手紙1章6節で再度説明しています。「6. 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。7. わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」再度言います。愛する方が私たちにただで与えるもの、その恵みを称えるため讃美するのだと言っています。御子の血によって贖われ赦されたのは、神の豊かな恵みによるものだと告白しています。

 

イエス・キリストの中で、信仰を持っているクリスチャンは、主の恵みに自由に触れられると話しています。それだけでなく、恵みの御座の前に大胆に近づくことができます。また、私たちに助けが必要なときには、憐れみと恵みをあずけられるとみことばは言っています。新約聖書ヘブライ人への手紙4章16節、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜(じぎ)にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 

今日のみことばでは、助け求め、主を仰ぎます。主人の命令を待っている僕のように、女主人の世話をするはしためのように、私たちは一時も目を離さずに、息をひそめて待っています。主の慈しみの言葉を待ちます。「主よ、わたしたちを憐れんでください。」と祈っています。ダビデは、自分の苦難の人生の中で、主の恵みを切に求める祈りを多く残しています。詩編51編3節 「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください」。ここでダビデは

「ヘン」を使います。自分の能力では解決できない状況の下、高きところにいる主に卑しい自分の好意を施す恵みを与えて下さいと願っています。詩編57編1節「憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします」。

 

ダビデは苦難だけでなく、災いの中でも主の守りを、この災いが過ぎ去るまで避けられるように導いて下さいと願っています。あるいは今日のコロナ禍の中にいる私たちが捧げるべき祈りかもしれません。詩編67編2節でダビデは「神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくださいますように〔セラ〕 と願っています。

今日、私たちが主のみことばを通して確認したように、主の恵みは、私たちに与えるギフトです。最後に一つ、考えてもらいたいことがあります。主はこのような貴重なギフトを私達に与えて下さいました。このギフトをもらった私たちは、何を、どのように、この主のギフトに対する恩返しを、生活の中で行えるのでしょうか。恵みを生かす信仰生活ができるでしょうか。今日、私たちには、主の霊によって与えられた恵みのギフトが確かにあります。この「恵みのギフト」が、信徒たちを、他の人々の必要に応じて、効果的に奉仕できるようにさせます。それは新約聖書で確認できます。(ロマ12:3-5;二コリ1:12;ガラ2:9;エフェ4:7)。

教会の歴史は、主の救いの行動による恵みを受けた人々が、この恵みをしまっておいたものではありません。この恵みのギフトをよく使い、分け合うことを通して2000年の歴史が続いて来た訳です。初代教会で現れた主の恵みの供給は霊的な必要だけではありませんでした。物質的な面でも、他人に施せるほど豊かな恵みと信仰を与えたのです。コリント信徒への手紙二9章8節で、神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」主が私たちにあらゆる恵みを満ちあふれるほど与え、あらゆる善い業に満ちあふれさせると言っているのです。

 

愛する信徒の皆さん!私たちはコロナ時代を生きながら、不安で大変な時間を過ごしています。このような時間の中で、主の恵みをどのように感じておられますか。信徒の中には、この困難な時期に、健康上の問題で病院に入院をしたり、手術をしたり、また、手術を控えている方もいらっしゃいます。他人には言えず、経済的に苦しい信徒たちもおられます。精神的な痛みを感じていますが、誰一人いなくて、話すらできない重い時間を過ごす信徒もおられます。これらの時間の中で、私達に必要なのは、ダビデが捧げた祈りを覚えることです。

 

1. わたしはあなたを仰ぎます/天にいます方よ。

2. わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。

3. わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。

 

<祈祷>

主よ、私たちに恵みを与えてください。このような苦難の時間、苦しみを叫ぶ相手も方法も道もありません。唯一、主の前にひれ伏し、祈ります。どうか恵みを与えてください。与えてくださった恵みに感謝し、ギフトを良く使える信徒にならせてください。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン