2020/11/22主日礼拝<感謝と待ち望みの間で>鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <2020年 11月22日>五旬節後第25主日

説教 鄭然元牧師 / 通訳 金光成長老

* 제목 : 감사와 기다림의 사이에서 感謝と待ち望みの間で

* 성경 : 누가복음 16장 19절- 25절 ヨハネによる福音書16章19節-25節

 

</新共同訳>

19. 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20. この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21. その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22. やがてこの貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23. そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24. そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 25. しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

 

<説教>

先週の主日はコロナウイルス禍の中でも、感謝節の礼拝を献げました。次の週は、イエス様がこの地に来たクリスマスを待つ2020年度待降節を迎えます。感謝節と待降節の間に、私たちはいます。私は今日、「感謝節と待降節の間で」という題目で説教を準備しました。

今年は、コロナ禍によりノーベル賞の受賞者に対して関心が少ない雰囲気です。ノーベル賞の中でも最も関心が高いのは「平和賞」ではないかと思います。今年、2020年12月10日、ノルウェーのオスロで「ノーベル平和賞」を誰が受賞するかご存じですか。何人かの有力な候補がいましたが、今年はWFP(UN World Food Program)「国連世界食糧計画」が選ばれました。個人ではなく、国連機関の一団体で、1961年に発展途上国の食糧援助のために作られた組織です。2012年、当時の潘基(バンキ)文(ムン)UN事務総長が発表したゼロハンガー・チャレンジ(Zero Hunger Challenge、ZHL)キャンペーンを通して、非常に活発に支援事業が展開されました。今年はコロナウイルス禍で、疫禍の中で食べられず、犠牲者が増えており、WFP(国連世界食糧計画)の活動を非常に高く評価をしたのです。飢餓で死んでいくことに抗い、紛争地域に平和のための条件改善をする団体に「ノーベル平和賞」が選定されました。

 

今日の説教の中心は、富裕と貧困の社会的問題に対する教会の責任を考えてみたいです。私たちが裕福な生活ではなくても、クリスチャンである私たちがどのような生活をすべきかを考えてみたいのです。

日本は世界で経済規模としては3番目の国ですが、貧困層が16.3%です。韓国は経済規模が世界で11番目ですが、貧困層は22.4%だそうです。貧困層を世代別、年齢別と具体的に分ける方法もありますが、社会的な平均を伝えています。ある階層が特に貧困層の率が高い場合がありますが、やはり定年退職後、あるいは年を取ることによって生じる高齢者の貧困は、日本や韓国が似通っています。一方、就学児童の中には家庭の事情によって、食事をきちんと取れない場合があります。このような子どものために子ども食堂を運営する私たちの教団の京都南部敎会と品川敎会の活動は非常に意味のある働きだと思います。

私が信徒の皆さんに、お金持ちになりたいでしょうと問うと、どのように答えられますか。答えを言わなくても結構です。なぜなら、皆さんがそう願っているとわかっているからです。金持ちのある人に、あなたは金持ちですかと聞くと、聞かれたほとんどの人は違うと答えます。人は誰でも、貧しいことより余裕をもって裕福に暮らすことを望んでいます。なぜ金持ちになりたいのかと聞くと、経済的余裕がすべての生活に影響をもたらすからだと言います。正しい言い分です。現代社会においては、個人だけでなく国家の運営も同じです。

人間の歴史を振り返ってみても、最も中心となっているのは経済的な問題でした。旧約聖書では神の審判の対象となる人々の中には、金持ちや権力を持つ指導者がいました。イスラエルの金持ちは贅沢と高慢が度を過ぎていました。ヤロブアム2世の時代,預言者「アモス」はイスラエルの民は経済的に繁栄し、それが滅亡の原因になると預言します。エルサレムの裕福な人々が享楽に惑わされ、神を忘れて民を顧みないことについての審判が預言されます。イエス様が来られたときも、金持ちたちの生活態度はさほど違わなかったようです。

新約聖書では、使徒パウロがエフェソで牧会をしていたテモテへ送った手紙で、財物の問題について論じています。エフェソは交通と商業の中心地であったため、商売で裕福な人が多かったです。彼らは財物に惑わされてキリスト教の信仰を保つのが難しく、結局教会を離れる人たちが生じました。

今日の聖書のみことばには、この世で2つの対照的な人物が出ています。一人は、日々贅沢に遊び暮らす金持ちでした。もう一人は、この金持ちの門前に横たわっていた貧しい人でした。金持ちだからといって非難する理由はないですが、ここに出てくる金持ちは贅沢な暮らしの度が過ぎており、隣人を顧みない態度を持っていたのは明らかです。イエス様はある金持ちとラザロという貧しい人の話をされました。金持ちの名前は記録されていないのに、貧しい人の名前はイエス様のみことばで明かされています。

二人は死んで来世に行っても対照的です。ただし、永遠の住み処で、その位置が確実に変わりました。貧しかったラザロは宴席にいるアブラハムのすぐそばに行かれました。金持ちは陰府(よみ)で炎の中でもだえ苦しんでいます。金持ちは、アブラハムを「父」と呼び、一口の水を乞います。しかし、一口の水でさえ自由に飲めない境遇になってしまいました。無論、アブラハムも金持ちを「子(息子)よ」と呼び、親切に答えます。しかし、彼の願いを聞いてあげることは不可能でした。楽園と陰府(よみ)の間には淵があり、誰も向こうに渡れない状況なのです。金持ちは遅くても、自分の兄弟たちのためにラザロを彼らに遣わしてほしいとの気持ちを伝えます。自分の兄弟たちが陰府(よみ)の炎に入らないようにするためでした。しかし、アブラハムは、モーセと預言者たちがすでに宣布した言葉があるので、その言葉を聞き入れないといけないとの理由で拒みます。

なぜこうなったのでしょうか?金持ちだから陰府(よみ)に行き、貧しい人だから天国に行くのでしょうか?金持ちが罪ではないのと同じく、貧しいのが善ではありません。ところが、どうしてお金持ちは、信仰のない者となり、貧しい者は、信仰のある人になったでしょうか?もし貧しい者を顧みないのが罪なら、それほどの決定的な罪になるのだろうか?深く考えさせられます。このような多くの疑問に対して、今日のみことばは、明らかに定義を提示しているように見えます。まず、金持ちだけではありません。社会的な指導層とそのような職業を持つ人も同様です。主のみ前では、教会も責任が大きいです。貧しい隣人を必ず顧みなければならないという事実があります。金持ちと貧しい人の問題について、ルカによる福音書にも、イエス様が非常に鋭く話された箇所があります。

ルカ6:20「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」

ルカ6:24「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」

ルカ18:25「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

なぜイエス様はこのように金持ちに対して、厳しいみことばを与えたのでしょうか。いわゆる「持つ者」が社会的責任を果たさずにいることに対する警告です。今日の社会で、貧困層の人々が裕福な人々に対する憎悪が高まった場合、どんなことが起こるでしょうか。社会の体制を否定する方に偏ると、社会に危機をもたらすことになります。これらの面でクリスチャンが持つ責任感ももっと重くなるでしょう。この時代の貧困層の人々が叫ぶスローガンは「私たちを配慮してほしい」という内容に圧縮できます。では、金持ちはこれについてどのような答えをすべきでしょうか。

同時に金持ちだけの問題ではなく、福音と救いを持つ教会の社会的期待、クリスチャンへの期待が何だろうと思いますか?ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)という言葉をよく耳にします。この言葉は、社会的に身分がある人々に持たされる道徳的義務を意味します。元来は、初期ローマ時代に王と貴族たちが見せてくれた強い道徳意識と率先(そっせん)垂範(すいはん)する公共の精神から生まれた言葉だそうです。他の人よりも豊かで高い地位につけば、相対的に高い道徳義務を実践しなければならないという言葉です。社会から得た利益を還元するための良い伝統を、彼らは実践したのです。長くない歴史のアメリカ社会において、「カーネギー」は、鋼鉄王と呼ばれました。カーネギーは、自分の人生の時間を二つに分け、前半は富を獲得する時期、後半は富を分ける時期としました。そして金持ちの社会還元は神聖な義務であると強調しました。 1902年1月29日、当時としては天文学的金額である2千5百万ドルを寄付し、公共図書館建設を支援するワシントンカーネギー協会を設立しました。

「ロックフェラー」は、石油王と言われました。ロックフェラー財団は、2010年時点で資金は330億ドルにのぼり、世界的にも重要な慈善団体を運営しています。ロックフェラー大学を作り、ニューヨークのリバーサイド教会の建築にも惜しまず支援しました。以後、ロックフェラーは、自分の十分の一を献げ、4,982個の教会を建築し、大学を建て慈善事業を続けました。今、ロックフェラー財団は米国ニューヨーク市民に水道水を提供しています。

今日、「マイクロソフト」のビル・ゲイツは、2020年8月の推定純資産が1,137億ドルで、世界で二番目の金持ちです。ビル・ゲイツは3人の子どもに、一人当たり1000万ドルの相続を約束しました。残りは、ビル・ゲイツと妻メリンダが設立した財団で、世界の困難な人々との危機に直面した社会に役立つ仕事をしています。今回、コロナが世界を覆うと、治療薬の開発のために莫大な資金を提供すると言いました。

韓国のことわざに、「富不過(とみふか)三代(みだい)、富は三代続かず」という言葉があります。しかし、慶州(キョンジュ)崔(チェ)家門は一万石(いちまんごく)を産する富を1600年から1900年半ばまでに、なんと300年の間も維持した有名な話があります。単に富農の伝統を受け継いできたことが重要なのではありません。300年の間に崔家は隣人と地域の人々と共に生きてきた家門だからこそ賞賛されるのです。チェ家の祖先が伝えた6つの家訓をよく守りました。

  1. 凶作の年には他人の土地を買ってはいけない。(持っている者が持っていない者を搾取するな)
  2. 過客は丁寧にもてなすこと。(情けを施し,敵を作るな)
  3. 四方100里には餓死者が出ないようにすること。(相互扶助しなさい)
  4. 嫁は嫁いでから3年間は木綿の服を着る。(質素、倹約しなさい)

このような考えを持った金持ちだったので、その伝統が受け続かれました。

慶州チェ家は1950年、財産を嶺(ヨン)南(ナム)大の前身である大邱(テグ)大学に寄贈することで、自ら歴史の表舞台から降りました。愛する信徒の皆さん、主は私たちには必要な財物を与えて下さいました。生まれたときに持ってきたものはありません。そして人生を終えるときも、残すものは多くても、持って行けるものは何もありません。

金持ちが陰府(よみ)で一口の水を乞いたが、それすら得られなかった状況をイエス様は話されました。財物は、私の手から離れると、もはや私のものではなくなります。私が何かができるときに、出せる知恵が必要です。そして、私たち自身が裕福ではないとしても、私たちの助けを必要とするところに愛の手を差し伸べましょう。財物も福音も、私たちの愛と関心と配慮も同じであります。

主に感謝すべきことが多いのです。そして、私たちはメシアの再降臨を待ち望みます。この間に、私たちがすべきことをよく考え、実践するようにしましょう。

<祈祷>

慈しみ溢れる主よ、この世には何一つ捨てるものがないと考え顧みるその愛を、私たちにも溢れさせて下さい。この時代、救いの福音と隣人の愛が一つになり、主のみ旨を実現する私たちにならせてください。

主の御国と主の教会とこの世のため、私たちの手を差し伸べるように導いてください。与えること、手を差し伸べること、献げることが祝福であることをわからせて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン