2020/11/8主日礼拝<救いに対する感謝>鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <2020年 11月8日>五旬節後第23主日・洗礼式 

説教 鄭然元牧師 / 通訳 金光成長老

 

* 제목 : 구원에 대한 감사 救いに対する感謝

* 성경 : 로마서 6장 3절- 4절 ローマ人への手紙6章3節-4節

 

[()新共同訳]

3. それともあなたがたは知らないのですか。キリストイエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4. わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

<説教>

ヨルダン川から叫ぶ者の声がしました。「悔い改めよ、天の国は近づいた」と預言者は言いました。マラキ書を最後に、400年の間に、イスラエルの地から絶たれた預言者の声が聞こえて来たのです。ラクダの毛衣着、いなごと野密を食べ物としながら、神の声を待ってた人です。彼の名前はヨハネ、彼の役割は、メシアが来られてからする働きの準備のために、イエス様よりも少し先に預言の働きを始めました。

ヨハネは祭司の息子として生まれたが、彼は荒野に出て自然の中で生きながら、神のみ声を待っていました。洗礼(せんれい)者(しゃ)ヨハネは、主の道を整えるため、荒野で風のように叫んでいました。「悔い改めよ、天の国は近づいた。」という短いメッセージでした。これを見て、エルサレムの人々と全ユダ地域の人々がヨルダン川に集まって来ました。マタイ3章では、彼らは洗礼者ヨハネのもとに来て、と自分の罪を告白しました。そして洗礼を受けました。ところで、このニュースを聞いたファリサイ派の人々とサドカイ派の人たちまでヨハネに洗礼を受けに来ました。洗礼者ヨハネは、「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」と激しく叱責しました。

イスラエルの人々に伝えるヨハネのメッセージは、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と力強く言います。続いてヨハネは「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と言いました。

洗礼[Baptism]は、ギリシャ語で「バプテスマ(baptisma)」であり、これは「浸す」、「洗う」との意味

を持っています。聖書では、比喩的には、「全身に充満させる」という意味で使われています。洗礼は、水の中に入ること(灌水(かんすい)・滴(てき)礼(れい))で、古い人は死んで罪を洗い、水から出ることでイエス様と共に復活し、イエス様と一つになることを象徴する儀式です。

私たち大阪敎会は、一年間に幼児洗礼式も含め、3回洗礼式を行います。洗礼を受ける方は、神と証人になる信徒の前で自分の信仰告白をします。洗礼を受けることでイエス様に自分の信仰を露わにするのです。教会共同体の一員として認められるようになります。大阪敎会の信徒になるだけでなく、全世界の教会と神の国の家族になるのです。この時間共に礼拝をささげる信徒のほとんどは、洗礼を受けた方です。幼少年の頃に両親の信仰を引き継いで、幼児洗礼を受けて入教した方もおられます。

なぜ、教会は洗礼を重要に考えているでしょうか。洗礼の歴史的起源は、旧約聖書の清めの儀式で探ることができます。ヘブライ語の旧約聖書をギリシャ語で翻訳しながら、律法で要求された水で洗い、清める「清めの礼法」を「きれいにする、洗う」という意味を持つ「バプテゾ」(baptiso)という言葉で説明しています。

洗礼の背景には、ユダヤ教からも見つけられます。ユダヤ人たちは、異邦人たちがユダヤ教に改宗した場合、彼らに割礼をします。その後、割礼を受けた傷が癒えると、その人を流れる水辺に連れて行き、水の中に立てて、律法を読みました。そして祝祷をし、彼を水に浸からせます。そして、その人が水から上がってくると、彼は完全なユダヤ教徒として新たになったことを認める儀式があります。

洗礼者ヨハネがヨルダン川で集まってきた人々に洗礼を授けていました。(マタイ3章)そんなある日、イエス様が来られました。洗礼者ヨハネから洗礼を受けるためでした。するとヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、私のところにこられたのですか」と思いとどまらせようとしました。するとイエス様は断固として答えました。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは我々に相応しいことです。」といい、ヨハネに洗礼を授けさせました。

そこで、ヨハネは、イエス様に言われた通りに洗礼を授けました。イエス様は洗礼を受けると、すぐに水から上がられました。そのとき、天がイエス様に向かって開きました。そして、神の霊が鳩のように降(くだ)ってきて、イエス様の上に留まりました。同時に、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえてきました。洗礼者ヨハネの洗礼に主が共におられました。主は水から上がったイエス様を紹介しています。「私の愛する子、私の心に適う者」としました。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエス様は荒れ野に行かれます。

神の国の福音を述べ伝える準備をされるようになります。イエス様がこの地での最後の瞬間に与えた命令があります。イエス様は父と子と聖霊のみ名で洗礼を授けなさいと話されました。今日まで、洗礼の儀式が、教会の中に定着されたのは、まさにイエス様の命令に従ったものでした。では、洗礼が持つ重要な意味を調べるようにしましょう。洗礼は、人間が持つ原罪を赦される恵みの手段でした。

先、申し上げたように洗礼は、神と証人たちの前で行う自分の信仰告白のみで、可能になります。告白で最も重要な点は、自分が犯した罪に対して謝罪をすることです。神を知らずに生きながら犯した罪を含め、人間の弱さの中で犯したすべての罪に対して悔い改めるのです。この告白を通して、神の許しの恵みを受けることになるのです。この罪のせいで、汚れた私たちの体と魂を清める象徴的な儀式が洗礼です。再度申し上げます。洗礼は、罪の赦しが与える、救いの恵みを目にし、体で感じ、心に感謝を抱くための儀式です。

使徒パウロは、私たちが洗礼を受ける際に起こったことについて話されています。洗礼を受けるため、水に浸かったとき、私たちは罪という昔の国を残して離れることだと言いました。そして、その水から上がったとき、私たちは恵みという新しい国に入ることになるのです。新しい土地での新たな生活の中に入るのだと言います。私が使っているこれらの言葉は、伝統的に、洗礼の形を水に浸かる意味で捉えたときに使われる言葉です。今日のプロテスタント教会が洗礼式で滴水の儀式の形をとることは、その地域の文化や環境と神学的解釈の違いによって多少異なる場合があります。

ユージン・ピーダーソンのメッセージでは、洗礼は「イエスの生活の中に入ること」と訳されています。水に体が浸かるとき、これはイエス様が十字架で死んで葬られるのを表現したものです。そして再び水から上がってくるのはイエスの復活を意味するものだとパウロの説明を要約しています。マルコ10章では、イエス様は弟子たちと一緒にエルサレムに上がって行く途中、十字架にかけられることと死を予告するみことばを与えます。これは3回目の言葉で、繰り返し話されました。それにもかかわらず、弟子たちはこの言葉の意味がわからなかったのです。

今回、エルサレムに行ったらどのような奇跡を見せ、民に大きな反響を受け、王として立てられるのではないかと漠然とした期待をしていました。そしてゼベダイの子、ヤコブとヨハネが進み出てイエス様にお願いがあると言いました。イエス様が栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人を右に、もう一人を左に座らせてもらしたいとの願いでした。イエス様は言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」と聞くと、二人の弟子は、「できます。」と答えますが、彼らは自分が言ったことに対して責任を果たせませんでした。

すでに申し上げたように、イエス様は洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けました。ところが、ここのみことばをみると「飲む杯と受ける洗礼」を言及しています。これはまさに苦難の十字架と死を象徴するイメージの言葉でした。新らしい葡萄酒を拒む苦難の十字架といばらの冠、刺されて頭から流れ落ちる血滴の洗礼を事前に話されたのです。

愛する信徒の皆さん、私たちはもうずいぶん前に洗礼を受け、長い年月の間信仰生活をしてきた人たちです。しかし、今日、この時間、洗礼を受ける信徒を見ながら、私たち自身が受けた洗礼式の感動を再び蘇らせてください。神の前でイエス様が私の救い主であるという告白と罪のために死ぬしかなかった人を救うため、授けて下さった洗礼式を思い出して下さい。

愛する信徒の皆さん、感謝節を控えた私たちが再び確認しなければならないのは、罪から私を救ってくださったイエス様の愛を再確認することです。私の人生に最も貴重な救いに対する感謝の気持ちを忘れずに、いつも初心に戻り、自分の信仰を省みる生活をすべきです。来週、私たちは感謝節を迎えます。どのような姿で感謝を献げるのかを黙想しながら、実践する私たちになりますよう、主のみ名で祈願いたします。

<祈祷>

感謝をささげるのに相応しい主よ、罪によって死ぬしかなかった私たちに、イエス様の救いを信じる信仰を持たせて感謝いたします十字架につけられ、苦難をうけながらも、ただ一つ、人類を救える思いで死を迎え、

私たちにも復活を確信させて下さり、感謝します。今日、私たちはこの地で生きて行きながら、その恵みに

報える信仰生活ができるように守り、新たな力を与えて下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン