2020/10/25主日礼拝<宗教改革精神とコロナ感染事態>鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <2020年 10月25日>五旬節後第21主日 宗教改革503周年記念主日

説教 鄭然元牧師 / 通訳 金光成長老

 

* 題目 : 종교개혁 정신과 코로나 감염사태 宗教改革精神とコロナ感染事態

* 聖経 : 에베소서 3장 9절-13절 エフェソ信徒への手紙3章9節~13節

 

<日/新共同訳>

9.  すべてのものをお造りになった神のに世の初めからされていた秘められた計が、どのように現されるのかを、すべての人き明かしています。10.  こうして、いろいろのきをする神の知は、今や教会によって、天上の支配や威に知らされるようになったのですが、11.  これは、神がわたしたちの主キリストイエスによって現された永遠の計に沿うものです。12.  わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストにする信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。13.  だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの光なのです。

 

<説教>

愛する信徒の皆さん、一週間もお元気でいらっしゃいましたか。

礼拝堂に集まった信徒たち、映像礼拝で献げる信徒に、主が共におられますように、主のみ名によって祈願いたします。今日は、宗教改革503周年を迎える意義深い主日です。

宗教改革(ラテン語:reformatio、ドイツ語/英語:Reformation)は、ローマカトリック教会

(ラテン語:Ecclesia Catholica Romana、英語:Roman Catholic Church)、カトリック(天主敎)の改革のための教会の内部運動で1517年を基準と見ています。 1517年10月31日

ドイツの宗教改革者「マルティン・ルター」が当時の教皇を中心とする西欧の政治とローマカトリック教会の誤りを指摘しました。贖宥(しょくゆう)販売や煉獄(れんごく)に関するローマ教皇権の主張、功労思想を批判した内容の95か条の論題を発表し、始まりました。神のみことばである、聖書の権威と聖書のみ(sola gratia)と信仰のみ(sola fide)を強調しました。その理由は、腐敗した教皇制度を中心とする当時の教会と制度を新たに変えようとする動きでした。この宗教改革の前にも、ローマカトリック教会の内部に「ジョン・ウィクリフ」、「ヤン・フス」、「ウィリアム・ティンダル」のような先駆者によって始まった宗教改革家たちの神学運動がありました。教会の改革の影響は、中世ルネサンス人文主義者から始まったと言えます。そして、これは今日のコロナウイルスのような大規模な伝染病で多くの人々が死んでいくのを見て始まりました。

 

宗教改革者たちは、人文主義的な方法を使って、聖書を原文に解釈し聖書のみ(sola scriptura)を強調しました。その理由は、当時の教会のすべての制度と教皇と教会職制と伝統を、聖書よりも高い位置づけで権威を与える過ちを犯していたからです。毎年10月になると、私たちは、このような内容の説教を分かち合っています。なぜこのようにするのですか。この宗教改革運動により、プロテスタント教会が作られたからです。そしてプロテスタント教会は、信仰の改革運動の精神を今日まで保ち続けているからです。

イエス様は弟子たちを訓練する過程で、「神の国」に関して複数、重要な内容として話されました。しかし、弟子たちの中には、「神の国」より当時ローマ帝国に奪われたユダヤの独立と国を回復させることにもっと関心を持っている人もいました。イエス様が「フィリポ・カイサリア」地域での伝道活動をされた内容がマタイによる福音書16章に出ています。弟子たちに、「神のみ子である人の子」を何者だと言っているかとお尋ねになりました。弟子たちは答えました。 「洗礼者のヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だ」と言う人もいました。イエス様は「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と言われました。シモン・ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。するとイエス様はお答えになりました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。そして彼に「わたしも言っておく。あなたはペトロ。私は岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない」とのことばを与えられました。

ここに登場した言葉が「教会」です。教会とは、主が特別に呼び、以前とは異なる生き方を生きようと決めた人々の「集い」を指します。神の約束にその根拠を置いた救いの共同体を指します。改訳聖書で教会と翻訳されたギリシャ語は、「エクレシア」(ekklesia)で、「招かれてきた」、「招き」、「選ばれた」などの意味を持っています。この言葉は、「公的な目的のために集まった集い」を指すので、使徒言語録19:32節では、「集会」と翻訳しています。ここで、教会の本質がよく理解できます。

教会は、単に建物を指す言葉ではありませんが、聖霊の降臨により集まった信徒たちは、エルサレムの神殿の回廊に集まりました。しかし、ユダヤ教の指導者たちの妨害で、集いは続きませんでした。それだけでなく、イエス様の福音の話を伝えるからと言って、連行され痛めつけられたりもしました。結局はユダヤ教によって、イエスを信じる人々に対して逮捕命令が下されました。最初設立されたエルサレムの教会の信徒たちは、彼らが本来住んでいた所や信仰を守るために散らばりました。

招かれて集まった人、選ばれて共にした人々が、今では散らばらなければいけませんでした。イエス様はペテロの信仰告白の上に、教会を建てると話されました。散らばった信徒たちと使徒パウロの宣教活動を通じて、アジア全地域とヨーロッパに広まっていったのです。宗教改革が始まる頃、欧州地域はペスト(黒死病)の被害で人口の1/3が死んでいく凄惨で長い苦痛の時間を過ごしていました。宗教改革を主導した指導者たちは、伝染病で死んでいく人を見ながら、生命の大切さについて真剣に考えるようになりました。しかし、権力者たちは、そのようなことに関心がありませんでした。労働力の不足が起きると、農民たちを売買する境遇にまで至りました。神が造られた人間の本来の姿は消え、物や道具のように使われた時期でもありました。この時、ルネサンス運動と共に始まったのが宗教改革運動です。

宗教改革は、教会が腐敗しその役割を担えないとき、主は新しい教会に秩序を与えて下さいました。また、ローマカトリック教会には、自分たちに何が問題なのかを反省する機会を与えられたのです。教会は集まって散らばる機能を持っています。初代教会の歴史を通して、それがよくわかります。使徒パウロは、信徒たちの集会、教会の礼拝を非常に大切にして集会を励ましなさいと言いました。集会を通して、主に礼拝を献げるのはもちろんで、キリストの中での信徒の温かい愛を実践し、食事を共にするのが生活の中で献げられる礼拝と教えました。

今日、私たちはどのような姿で教会を形成して教会に仕えてきましたか。今回のコロナウイルス禍の中、教会指導者の最大の懸念は、何だったでしょうか。教会で集まって礼拝を献げられなかったら、今後、教会がどうなるのかとの憂慮でした。なぜそのような心配を真っ先にするようになったのでしょうか。今まで私たちは集まる教会に意味を付与し、それのため多くの努力を注いできたのも事実です。宗教改革の最も中心的な主のみことばを最優先に考え、みことばを正しく教育し、みことばを基礎とした信仰生活をしてきたのであれば、そんな憂慮はいらないはずです。

習慣とは、人々にとって非常に重要な要素の一つです。私たちがあることを学習するとき、反復して訓練し練習をすると、体に馴染み習慣になり、とても自然に行動するようになります。信仰生活も同じく、とても自然に生活の中で現れないといけないと思っており、必ずそうなることを願います。コロナウイルス禍によって、私たちは強制的に集えなくなりました。コロナウイルス感染を恐れている人たちが下した決定です。これは社会共同体が共存と共に暮らすために下した措置です。この決定は、他人がしたことでなく、私たちが下した決定です。

教会に集まれなくなり、信仰にも問題が生じ始めました。映像礼拝に慣れると、早く起きて身なりを整ってから教会に行かなくてもよいという考えが芽生えます。もう一つは、正しい教理を中心にし、イエス様の福音を伝えることもできなくなりました。先週の主日、私たち大阪敎会も新しい信徒一名が、新信徒カードを出しましたが、6月以降初めてのことでした。

宗教改革運動を主導した指導者の中、フランス出身のジョン・カルビン(ジャン・カルヴァン)の神学的考えの影響を受ける人たちがいました。後に生成される長老教会、会衆教会、改革派教会はカルビンを根源にしています。カルビンは、宗教、すなわち教会の制度を新たに改革するとともに、市民社会の改革を主導した指導者です。当時カルビンの政治論は、人々の権利と自由を保護することを目的としています。カルビンは、聖書は特定の政府の形態を支持しないと思いました。すなわち、民主主義と貴族政治(貴族政/英語/ aristocracy)を認めました。貴族政治は血統・家柄・財産等によって、特権が認められた貴族と呼ばれる少数が支配する政治体制ですが、カルビンは、民主主義と共に貴族制の政治制度も認めました。

カルビンは、民主主義の利点を高く評価しました。そして政治的権力の誤用を最小限に抑える牽制と均衡を保たせるため、政治機関を分立させることを提案しました。これが民主主義の基本となる三権分離の原則です。カルビンは1559年にスイスのジュネーブアカデミーを設立し、自由市民を教育する大きな仕事を始めます。今日、私たちプロテスタント教会が主に正しく仕え、礼拝するとともに、神の国のための具体的な社会参加と奉仕活動を実践したのがその始まりなのです。

今回のコロナ禍の中で、韓国の状況を見ながらもどかしかったのは、教会が地域社会と市民社会に恐怖感を与える行動をする一部の集団を見たときです。異端と極端な選択をする一部の教会のせいで、イエス・キリストの福音を伝えることが困難となりました。伝道の道を防いでしまったのです。宗教改革の中心思想は、すべての事において神に戻る運動とも言えます。当時のローマカトリック教会は目に見える教会のため聖堂建築をしたのに、反って目が暗んだ結果となってしまいました。神の権限さえも教皇が代行しようとしました。しかし、主の関心は、宗教改革運動を通して、みことばの権威と教会の本質を回復させることでした。

今日、コロナウイルス禍により非対面が中心となってしまいました。その中で、私たちは祈りで結束できることを体験しました。聖書のみことばを熱心に読み黙想することにより、主との深い交わりができることを悟るようになりました。聖歌隊の讃美がどれほど貴重で喜びだったのか、若者が楽器を演奏し主を讃美するのがいかに意味があるか、質素でも昼食の交わりがどれほど美味しい食事なのか、年配の方に手を差し伸べるのがどれほど感動的なことなのか。会えてうれしいと握手を交わすことがいかに大切なのかを学びました。

今日、私たちが共に読んだ神のみことばは9節。「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています」。私たちもおなじではないでしょうか。秘密は誰にでも言いません。信頼できる人だけに話します。主はみ子であるイエス様の十字架の血の代価で得られた教会、この教会を通して、この秘密を説き明かすと言われます。イエス様によって予定したすべてのことを実現するとも話されました。そして、私たち全員には、与えられた信仰によって大胆な心と確信を持って神に向かって進ませると約束の言葉を与えて下さいました。

愛する信徒の皆さん、今、私たちは、明らかに患難と苦しみの中にいます。コロナウイルス禍が、世界中の人々と私たちを不安と恐怖に追い込んでいるのも事実です。信徒の皆さん、子どもの頃、このような経験があったでしょう。自分が犯した過ちが明らかになると、親に厳しく叱られます。そして。細い木で作られた鞭、フェチョリを取ります。フェチョリに叩かれる前の気持ちを覚えていますか。恐れです。今日、私たちを覆っている不安や恐怖から脱する真の解放は、救いの確信と落胆しないことです。

使徒パウロは、今、牢獄生活をしています。この知らせを聞いて心配しているエフェソ教会と信徒たちに与える言葉が、今日の本文です。13節、「だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」。非常に逆説的な言葉です。信徒たちは心配しているが、使徒パウロは苦難を受けているのが、信徒たちの栄光だと話しているのです。真にこの世の論理では理解出来ない信仰です。宗教改革を主導した当時の指導者たちも同じでした。当時のローマカトリック教会から死刑宣告を受け避難中、彼らがしたことは、市民が神のみことばが読めるように、ラテン語の聖書を国の言葉に翻訳することでした。

どれほどありがたく感謝なことでしょうか。このような宗教改革が成功したおかげで、今日の私たちは新しい教会を持てるようになりました。宗教改革の精神を、私たちは忘れずに心に刻んでおきましょう。

コロナウイルス禍の中でも恐れずに、信仰を持って進みましょう。主のみことばの権威を認め、恵みのみ、信仰のみで進む信徒になりますよう、主のみ名によって祈願いたします。

<祈祷>

歴史を司る主よ、503年前、宗教改革者たちは命をかけて、主のみことばの権威を立て、主の恵みのみで感謝を献げ、信仰のみで救いを得、信仰を持って生きて行くことを決断しました。コロナウイルス禍の時代を生きている私たちにも勇気を与え、信仰のみで進めるようにして下さい。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン