2020年8月23日主日礼拝<主の翼の陰に>鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <2020年 8月23日>五旬節後第12主日

說敎 鄭然元牧師 / 通訳 金光成長老

 

* 題目 : 주의 날개 그늘 아래서! !

* 聖経 : 시편 365-10 詩編366-11  

 

[(日)新共同訳] 主の僕の詩。ダビデの詩。

6. 主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。7. 恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。8. 神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ, 9. あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。10. 命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。11. あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。

 

<説教>

信徒の皆さん、過ぎた一週間も元気でしたか?

今日も映像礼拝を捧げる信徒の皆さんに主の恵みが共にありますよう祈願いたします!暑さとコロナウイルス感染禍で、大変な思いをされていると察します。今日も主からのみことばによって、力を得て下さい。

詩を読む人は、その詩を作った詩人の心までを探ると、詩が含んでいる内容の深さに触れることになります。詩は、短い文章で詩人が表現しようとする、その豊饒(ほうじょう)な意味を探さなければいけません。中学、高校の時代、国語の教科書に出てきた詩を読みながら、詩人が言いたいことを先生は説明して下さいました。詩を作ることも、詩を読み内容の深さを見つけることも文学的な作業だと思います。

今日は旧約聖書、詩篇の中でも36編を説教の本文として選び、読みました。このごろ早天黙想のために読むのも詩篇です。早天祈祷会を自宅で捧げる際、一編の詩篇を読み黙想をされていると思います。コロナ禍の後、詩編を読みながら、私自身が多くの恵みを受けています。今日の本文は5月5日に黙想したみことばです。

この詩は、タイトルに「ダビデの詩」と言い、「主の僕」としました。詩篇全体でも、このような表現は18編と36編に記録されているのみです。詳しい理由は知られていないです。すべての神の民が神の僕とも言えます。王や祭司も同じく、神の僕であるため、ダビデも「主の僕」と言えるでしょう。36編全体を簡単に言うと、人間の邪悪と、それとは対照的な神の義を歌う讃美であります。ダビデは悪人によって脅かされる暗澹たる状況の中で、慈しみと真実な主により、義人の勝利を確信する内容を歌っています。

本文に前の部分1節〜4節には、神に逆らい、扇動に耳を傾け、悪事を謀る悪人を告発する内容が出ています。「悪人」はどんな人でしょうか。神への恐れがない人だと言っています。自分の目に自分を偽って自分の悪を認めることも憎むこともできない人です。自分の火遊びによって、他の人がやけどをしてもかまわない人たちだと言ってます。

「悪人」とは、私たちは顔の印象が険悪で、近づくには怖い人と考えがちです。実際、人は見た目で悪人を表わしていません。その人の心に悪の根があって、その悪をある瞬間に表わす人が「悪人」です。このような邪悪な人々が周りに多ければ多いほど、幸せに暮らせなくなります。従って、社会的雰囲気が不安になり、進んでは恐怖社会を作るようになるのです。個人や民族や国家の間でも同様です。

ダビデは、このような部類の人が多い中、「神の慈しみ」を崇めながら、祈りと讃美を捧げています。ダビデの詩で、神の慈しみをどのように讃美していますか。まず6節、「主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。」7節に、「恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵」と言っています。このみことばでの審判の基準は、「神の慈しみと真実と義」に従うことです。

私たちは、裁きはいつも怖くて恐れる気持ちで受けるものだと考えます。ここには「判断」という解釈が可能です。慈しみは限りなく広い愛を抱く心を指します。真実はすべての物事の根本です。真実がない人間関係は、互いに傷を負わせ、難しくさせます。主は判断と裁きによって、罰を下し苦難を与えるのではなく、主は人をも獣をも救われました。それはノアの洪水のさばきの時も同じでした。

今の時代を生きる私たちを慰めるみことばです。この困難な時代の人類を愛しておられる主が、慈しみと真実によって、私たちを救われるとのことです。主の救いの歴史をダビデは、尊いと歌っています。そして、ダビデは「主の翼の陰に人の子らは身を寄せる」と言います。「主の翼」を見たことがありますか?主は獣、鳥類を造ってから、飛べる翼を与えました。昆虫も翼を持っている種類があります。神は翼のある鳥をそれぞれ創造されたと創世記1:21に記されています。

21. 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。

鳥類で図体が最も大きいのが「ダチョウ」ですが、この鳥は飛べません。ワシは鳥の中でも大きい種類です。ざっと体の大きさが1m程度で、翼の長さは3m、体重も10〜14Kgです。さて、今日の聖書に出てくる「主の翼(wing)」、英語聖書では「あなたの翼の下」と翻訳されているこのみことばは、どのような意味を持っていますか。出25:20で、神がモーセに神殿を作る模型を教えました。贖(あがな)いの座(ざ)を覆うケルビムに翼を作り、翼を広げて贖いの座を覆わせました。

20. 一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。

ケルビム(cherubim)は、天上、すなわち天の存在で、特定の階級の天使を指します。聖書には、神が堕落したアダムとエバをエデンから追放した後、命の木を守るようにしました。エデンの園の東にケルビムを置かれたと最初に言及されました。(創3:24)先にお話したよう、幕屋で、打ち出し作りで箱のカバーを飾ったケルビムは、翼を広げると贖いの座を覆う形で作られました。(出25:17-22)そして、聖所と至聖所を区別する垂れ幕にも糸を使ってケルビム模様を描いたと記録しています。(出26:31)

ソロモンは父ダビデが指示した通りに神殿を建築しました。ソロモンの神殿の壁面はすべて、内側の部屋にも外側の部屋にもケルビムとなつめやしと花模様の浮き彫りが施されました。(王上6:29)神殿の内陣には高さ10アンマ、翼の一方が5アンマ、翼の先から他方の翼の先までの長さが10アンマとなる二体のケルビムを作りました。(王上6:19-28)ケルビムを作って立てたり模様を入れたりすることの意味は、神の臨在と加護でした。エゼキエルが見たケルビムの姿は人間、獅子、牛、鷲の四つの顔と4つの翼を持っていました。(エゼ1:6-10;10:1-22)時には、二つの顔(エゼ41:18)、六つの翼(士6:2)を持っているとも言及されました。そしてエゼキエルは幻の中で四つの翼を持っている生き物を見ました。(エゼ1:6)

翼の象徴的な意味を、聖書の他の箇所からも知ることができます。聖書の中で「翼」は、主の保護と助け、霊的な力などを象徴する意味で書かれました。主はイスラエルの民を導く際に、まるで鷲が雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように導きました。(申32:11)

11. 鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/羽を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように 12. ただ主のみ、その民を導き/外国の神は彼と共にいなかった。

それだけではありません!ルツ記の主人公が苦難の中で、しゅうとめナオミと一緒に故郷であるベツレヘムに戻り、ボアズの保護を受けることになりました。ボアズはルツが「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」とルツを祝福しました。(ルツ2:12)ボアズの言葉に注意してみましょう!「神の翼のもとに逃れて来た」と言っています。

12. どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」

私たちクリスチャンが、この世の生活で苦難と試練に襲われたとき、頼りにして、保護を受けられるところはどこですか。まさに神の翼のもとで保護されることを教えてくださる福音です。詩篇記者は、主の翼の陰を最も親密な秘密の交わりの領域として表現しています。(詩17:8)苦境に陥った信徒たちを「瞳のように守り、翼の影に隠してくださる」と言っています。8.「瞳のように私を守り、あなたの翼の陰に隠して下さい。

イザヤは主に望みをおく人は、主を崇め、主の助けを待つ人は、新たな力を得て鷲のように翼を張って上がるだろうと言っています。(イザ40:31)

31. 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

イエス様も主の翼と関連がある話をされました。皆さん、覚えておられますか。イエス様がエルサレム(ユダヤ人)に向けてめん鳥が雛を翼の下に集めるように、彼らを救い守ろうとした主のみ旨を語られました。マタイ23:37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だがたちはじようとしなかった。」

雛は自分の身を守る能力がない軟弱な存在を意味します。いつも母の助けを受けなければならないのです。主は、本能的に自分の子を何度も集めようとしましたが、応じなかったユダヤ人の誤った信仰を指摘されたのです。私たちが神の翼の陰で守られるときの祝福が詩編36編本文に続いて出ています。あなたの家に滴る恵みに潤い。(9節)すなわち、必要なものが満たされ、その渇きが癒やされると言っています。

先週の主日の説教で申し上げたように、主は私たちに「命の水の泉」を飲ませて下さいます。今日の本文では、「あなたは甘美な流れに渇きを癒やす。」です。この暑さの中、私たちは健康維持のために適量の水を飲まなければなりません。同様に、信仰の人として生きる私たちは、主が与えてくださる渇きがない命の水、祝福の水を飲むのです。同時に甘美な流れに渇きが癒やされると言っています。これが、主が私たちに与えて下さる祝福です。

詩人は最後の部分で、命の泉は主にあり、あなたの光に、私たちは光を見ると言っています。愛する信徒の皆さん!私たちの命は、主の手にかかっています。私が長寿したいから長く生きられることでもないのです。かといって私は死にたいから死ねることも人生ではありません。時には厳しい生活を生きていると、ため息が出たり、深い絶望に陥り極端な行動を取りたいとの衝動に駆られる時もあると思います。最近のようにすべてにおいて先が不透明なとき、すべてが離れて、消えたようですが、私たちから離れないものがあります。

それは主が私たちを主の翼の陰に我らを集め、守って下さるとの約束と希望です。私たちが一生涯信仰生活を送りながら、覚えておくべき主の約束のみことばです。暑さとコロナウイルス禍による苦難の中、私たちの避け所は主の翼の陰です。8. 神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せます。

<祈り>

愛の神様、夏の暑さとコロナウイルスから私たちを守って保護して下さり、感謝を捧げます。今日頂いたみことばに従って、私たちが一生涯信仰生活をしながら、主の翼の陰に身を寄せる人々にならせて下さい。

この世で苦しんでいる全ての人々に主の平安が溢れますように祝福して下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン