2020/6/28主日礼拝説教<苦痛の中での望み>鄭然元牧師

大阪教会 主日礼拝 <2020628日>五旬節後第4主日

説教 鄭然元牧師 / 金光成長老

* 題目 : 고통 속에서의 소망을(기도의 역설)  苦痛でのみを

* 聖經 : 시편 13018 詩編1301-8

[(日)新共同]

1. 【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
2. 主よ、この
を聞き取ってください。嘆き祈るわたしのに耳を傾けてください。
3. 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
4. しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
5. わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。
6. わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を 待つにもまして。
7. イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。
8. 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。

愛する信徒の皆さん、過ぎた一週間、いかがお過ごしでしたか。元気な姿でお会いでき、感謝します。先週の主日の説教は、偉大な信仰人、ダビデ王が祈らざるを得ない環境に陥ったとき、祈らせる神のみ旨を探って見ました。ダビデ王の場合には、自分が犯した罪により、主のみ前で罪の告白をし、赦しを受け、問題が解決できることを見ました。今日、説教の中心も祈りと関連する内容を準備し、皆さんと分かち合いたいです。

詩編130編は、「懺悔の詩」で、七つの悔い改めの詩編の一つです。(参照、6,32,38,51,102、143編)ユダヤ民族共同体の罪により、羞恥と苦痛のときに、主の赦しを呼び求める祈りとは何かを教えています。詩が書かれた状況は明らかではありません。 130編は、一般的な祈りとは違って、特別な状況の中で捧げる深い嘆きが含まれています。詩人は今、自分が「深い淵(ふち)」におかれていると言います。

人が経験する精神的、物理的な苦しみの状況を隠喩しています。ジャン・カルヴァンによると、絶望的な災害や激甚(げきじん)で深刻な悲しみの状況だそうです。

人間の生活を破滅的状況に追い込む混沌の力に、支配される境遇とも言いました。明らかなのは、主から遠く離れているのと、自分が耐え得ない苦しみであることです。 1節、「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」と祈りを始めています。「深い淵、深い泥沼、滅びの穴に陥っていると言っています。それは自分が意図しておらず、予期せぬ不可抗力的な災害に直面している状況だと予測できます。自分が経験している苦しみの状況が納得できません。どうして?「極限の状況」、すなわち陰湿で、自分の人生が次の瞬間にどうのようになるかわからない、極端な不安に陥っていくのかに対する抗弁です。人は、誰もが原因と理由がわからず襲ってくる苦難で生活の意欲を奪われ、無気力にさせられ、絶望の中で苦しみます。「深い淵」は胸が引き裂かれるよう切ない嘆きを意味する言葉です。

2節で 主よ、このを聞き取ってください。嘆き祈るわたしのに耳を傾けてください。と絶叫しています。祈りの単純で一番核心をわからせるみことばです。3節「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。」と言います。

ところが、詩人の嘆きは、彼が置かれている肉体的で、物理的な苦しみの環境だけでなく、主との関係にもあるのが、窺(うかが)える箇所です。改訳聖書で「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。」このように短い文章の中で「ヤハウエ」と「アドナイ」と神の名前を二回も呼んだのは、特別な強調の意味だと考えられます。このみことばは、主の栄光と恐ろしく憤(いきどお)るその姿を見ながら、恐れ震える気持ちで耐える状況をよく描写しています。もし神が完全なる義に審判されるのであれば、人類全体は破滅するしかありません。 4節で、「しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」しました。旧約聖書で原文に近い翻訳では、 “しかし、あなたに赦しがあります。したがって、あなたを畏れ敬います」となっています。

主を畏れ敬うというのは、その方を恐れ戦きながら、その方の前に立つという言葉です。なぜ神を恐れおののいて接するしかない方だと表現しているでしょうか。神の審判ではなく、赦しがあるからだと言っています。詩人は、人間社会では経験できない神秘的な経験をしたからです。その経験を想像してみてください。

私たちがある過ちを犯したと仮定してみましょう。その過ちに対する対価を私たちは受けなければなりません。そして、受けるべき罪の代価を恐れます。「私はどんな処罰を受けるだろうか。」この深い沼のような苦しみと苦難の中で乞うのは、主の赦しによって得られる平安です。それで、詩人は、主を待ち望むとのことです。とても逆説的に表現していますが、これこそがキリスト教の真髄です。

今日詩篇は、旧約聖書サムエル下18章と関連があり、ダビデの息子、アブサロムの死に関する話です。息子の死の知らせを聞いたダビデは、「深い淵」、深淵の状態になります。そして重要なのは、アブサロムの死を自分の責任として受け入れることです。日本語聖書では19章1節、

ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。

これが親心、父の心です。ダビデの息子、アブサロムは腹違いの弟、ソロモンに王座を譲れませんでした。だから、父に反逆し、進んでは父ダビデを殺そうともしました。しかし、アブサロムのクーデターは成功しなかったし、ダビデの家臣に命を落とします。このような親不孝な息子だが、アブサロムが死んだという知らせを聞いたとき、号泣しました。「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」と泣き叫ぶのです。

詩人の苦しみは、自分では免(まぬか)れない人間の限界を感じているからです。

考えもなかったことが襲ってくる人生の苦しみの中で絶叫して、人生の深い淵、泥沼に陥っていくのです。苦しみの人、ヨブは大きな苦難や困難の中で「全能者の矢に射抜かれ/わたしの霊はその毒を吸う。神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた。」(ヨブ6:4)

人間の苦しみ、苦難、深い淵は、主の審判として表れる恐れが私に向かって近づいているという告白でもあります。キリスト教の信仰を持つ私たちも、主の不在を考えると、困惑します。イエス様も十字架で御父に徹底的に見捨てられることを経験しました。それも、イエス様の人生の苦しみ、深い淵のような十字架の上で起きました。マタイ27:46「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

イエス様はこの絶体絶命の瞬間に叫びの祈りを捧げました。詩人も深い淵の底で叫びの祈りを捧げています。祈りで、人の絶体絶命の状況の際、神は罪の審判者であることを告白しています。詩人は罪の深い沼の中で、唯一の救いの望みが主なる神にあるのを告白しています。たとえ自分が神聖で議である方から遠く離れているとしても、主が壊れた人間と世界のため来られるという事実を信じています。これが詩人にとってヤハウエ、主に再び祈りを捧げさせる理由です。これが今日を生きる私たちが罪の陰の谷にいても、またヤハウエ、主に向かって行ける理由になるということです。

そして、その待ち望みは見張りの待つにもまして、切な望みだと言いました。(5-6)

見張りとは、目を離さずに夜を警戒し守る人です。見張りは緊張し、寝られません。見張りは長い夜を寝ずに、来る朝を待ちます。夜明けの朝は、彼らにとって敵や盗賊の脅しが終わる時間です。極度の緊張が終わり、平安が訪れる時間です。ですから、見張りは朝を切実に待ちます。歴代誌上26章で「神殿の門衛(もんえい)」、門を守る見張りは、レビ族であり、コラの一族の中のアサフ家系から選んで立てました。

詩人は、私の魂は主を待ち望み、見張りの待つにもまして言いました。どうやって、主を再び待ち望めますか。それが深い淵のそこから(3-4)神秘を見たからです。生活の極限の苦しみの中で、絶望が終わる恵みを見たからです。深い苦しみ、深淵から自分が主に出て行くのではなく、主が先に探して来られたということです。その中で、救いが主から来ることを伝えたいのです。ヤハウエ、主は深い淵の底に陥っている人々を救って下さいます。

イスラエルの祭司たちは、主の契約の箱のため、門衛として奉仕しました。(代上15:23-24)神殿の門衛は礼拝者たちが捧げる献物を集める責任を持っていました。(王下22:4)彼らは神殿とその土地を維持し、儀式的な清めを確実に行う責任を持つ特別な部類の祭司でした。これらの人々は、レビ族の人々として、特別な義務を負っていたのです。

本文の最後の部分に、主が私たちの苦しみの中におられ、世に恵みを与えて下さることを期待する詩人の告白があります。世界的な登山家、イタリアの「ラインホルト・メスナー/ Reinhold Messner」1944年生まれで、生きている人物です。この人は、1986年に世界にある8,000m以上の高い山をすべて征服した人です。特に、世界で最も高いエベレスト山を一人で無酸素登頂した最初の人でもあります。世界で最も高い山14カ所を征服した有名な登山家です。自分の経験をもとに、20冊以上の本を出した人でもあります。「メスナー」が悟った神秘は、高度7,500mに達すると酸素不足により、人は体に限界を感じ始めるそうです。

「死の地帯」と言われるこの地点で、むしろ不安から解放され、目標点に向けての精神力と存在感が高まる経験としました。「ラインホルト・メスナー」はある高い山を登る途中で弟を失われました。登山事故で弟が死ぬと、それが自分の責任だと感じながら挫折に陥ったこともあったそうです。しかし、彼はまた、他の山の登頂を準備し、単独登山をした時でした。「死の地帯」、7,500mの地点に到達したとき、弟を失った悔恨と自責から解放される経験をしたそうです。

今日、私たちの教会と社会でも、生活が深い淵に投げ出され、呻き嘆く隣人があります。今日、私たちの苦しみは、救いの手が見えないことから始まっているのです。絶望が大きすぎて、それですべてが終わるような人生が私たちを立ちはだかっています。しかし、私たちは、死の地帯が新たな命へと開いていくところであることを覚えましょう。主の救いは、どのような状況であるとも、止まることがありません。ただ、私たちがそれがわからないか、受け止められないので、苦しみの中に留まっているのです。

私たちが捕らわれている敗北意識を克服しなければなりません。主の臨在を疑わせる不信から脱しましょう。私たちが畏れ敬うヤハウエ、主は赦す神です。主を仰ぎましょう!そして、新しい希望を持ちましょう!見張りが朝を待つにもまして、もっと主の救いを待ち望む私たちになれるよう願います。そして、苦しみの中にいる人々に、祈りで希望を分かち会えるように祈願いたします。

<祈り>

自ら犯した罪により、苦しみの中に陥っていたダビデが、祈らざる得ない状況で、自分の罪を告白するのを聞き入り、赦して下さった慈しみ溢れる主よ、今日は息子が犯した罪により、苦しむが襲ったが、それを自分のものと受け入れる姿を見ました。恵み深く、愛が溢れる主よ、自分が犯した罪により、深い淵の底に陥り、主に叫ぶ詩編記者のように私たちも主を探し求め、願いを捧げます。私たちの罪を赦し、新たな生活を生きらせて下さい。祈ることで、生活に力を得て、正しい姿で生きられる信仰を与えて下さい。感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。アーメン