2020年6月14日子どもの主日礼拝<若い時教わった信仰>

大阪教会 主日礼拝 <2020年 6月14日>総会オリニ主日

說敎 鄭然元牧師 / 金光成長老

* 題目 : 어릴 때 배운 믿음 時教わった信仰

* 聖経 : 시편 715-6/ 17-18 詩編715-6/17-18

<日本語/新共同訳>

5. 主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み, 6. 母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。

17. 神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので/今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えて来ました。18. わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。

 

<説教>

今日は、在日大韓基督教会が定めた子ども主日です。

子どもたちと青少年にキリスト教の信仰が持つ福音と希望を伝え、励ましながら祝福する主日です。たった今、淸水先生からの子どもたち向けの説教があり、感謝いたします。私はこの時間に、私たち大人がどのようにすれば、子どもたちの信仰生活を助けるかを考えてみたいです。

今回のコロナウイルス感染により、社会の様子はかなり変わりました。子どもとその親が、家の中に一緒にいる時間が長くなり、生活に多くの変化をもたらしました。親は、普段見えなかった子どもの姿と態度が見られたはずです。子どもも親と一緒に時間を過ごしながら、普段見られなかった生活の様子を見たでしょう。心配なのは、コロナウイルスの事態により、家庭内暴力事件がいつもより多かったとのニュースで、そのニュースは私を驚かせました。このように私たちには、今まで考えもつかなかったことが起きているのです。

今回、私たち大阪敎会も新しい経験をしているのではないでしょうか。

おそらく信徒の皆さんの信仰生活に於いて、教会に出て礼拝を献げられなかったことがありましたか?勿論、体調が悪く、あるいは特別なことで、礼拝に出席できなかった場合はあります。しかし、教会で信徒が共に礼拝を献げられないことは今まで無かったはずです。ところが今回のコロナで、信徒の皆さんの家庭に変化が起きました。

今日も11時から配信されるYouTubeのインターネットライブ放送で、礼拝を献げる方々がおられます。

信徒の方々が家庭で小さなスマートフォンやTVで礼拝に参加したと言い、感想を話して下さいました。感想の中で、最も大きな恵みは、家庭で子どもたちと共に礼拝をささげることであり、それがとても良かったという信徒がおられました。教会学校の礼拝を共に献げることができたという感想もありました。淸水教育主事、梁洋一教会学校の校長と、特にZOOM礼拝や教育資料を準備し進行して下さる教会学校の教師たちに、再度感謝を申し上げます。

クリスチャンの家庭が、この世の一般的な家庭とどのようなところが異なると思われますか。

いいえ、何が異ならなければいけないと信徒の皆さんは考えておられますか?

私たちがこの世に生きながら、クリスチャンとしてどのような姿で生きるべきなのかとの質問です。今日は、クリスチャンである親たち、特に新たにママとパパになった若い親たちも真剣に考えてもらいたいと願います。

主日に教会に行くと敬虔なクリスチャンになり、社会生活をするときには、世の価値体系に基づいて生きます。神の国と世の国の価値観の間での葛藤を解決するため、私たちが好んで使うのが二元論的思考です。ある問題については、内容に応じて、神の国の価値観を適用するのか、もしくは世の国の価値観を適用するのかを選択します。

現代教育学の代表的な碩学「ジョン・デューイ(John Dewey)」は、哲学、心理学、教育学の研究者です。ジョン・デューイはアメリカ人初の心理学の教科書を出版しました。米国の学校制度に莫大な影響を与えた進歩主義を牽(ひ)き、学校制度と市民社会を改革しようとしました。そのような進歩主義的な傾向を持つデューイは、徹底的にヒューマニズム(人本(じんぽん)主義)教育を主張しました。影響力を持つ教育学者によって、米国の教育は聖書教育に無関心となり、後には、学校で聖書を教えることができなくなってしまいました。

再度申し上げますと、現代教育学は徹底的にヒューマニズム哲学に根拠をおいているとも言えます。

科学の発展と経済的な変化により、人々の生活が変わり始めました。現実に縛られ生きているので、神の国の価値観が入る余地がなくなりました。今日、私たちは知らず知らず、現代の教育方式に応じて、生きるようになってしまいました。聖書に記されている子育ての養育方法を古臭いと思っているのが現実です。クリスチャンでさえ「それは聖書ではそう言うけどな!」と考えているようです。ここで、我々に重大な思考の転換を行う必要性が生じます。

私たちが、今の生活の場で容易く受けている、考えるべき教育の問題を変えなければいけません。それも、他のものでなく、クリスチャンのアイデンティティを回復させるキリスト教教育を、最も基本的なものへと戻さなければなりません。私たちが持っているキリスト教の信仰、この信仰をきちんと伝えることについて考えてみたいです。福音を拠りところとし生きながら、キリスト教の尊い価値を子孫にどのように与えたらよいでしょうか。箴言22:6「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。」一見すると、このみことばは、子どもたちが信仰から逸れるのを覚悟する前提がある感じがします。このみことばが正しいとすれば、我々は、子どもたちがいつかは戻ってきて、主に仕えますようにと祈らざるを得ません。

主は、私たちに授けた子らがどのような存在なのかを詩編127編のみことばで教えて下さいます。

「子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い と言いました。

若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。矢(や)筒(づつ)をこの矢で満たす人はいかに幸いなことか。とも話されました。私たちの子らが手の中の「矢」とも言えるでしょう。私たちの手の中の矢、矢はもはや今では戦争では使わない古臭い武器です。しかし、この矢はスポーツの一種目になり、名目を維持しています。

矢を作ること、それには多大な努力が必要です。聖書のみことばの通りに、私たちが戦いに参戦する軍人なら、自分の射る矢をどのように準備するでしょう。矢を作るために、良い木を選択する必要があります。鏃(やじり)を作り、真っ直ぐに矢を飛ばすために全力を尽くすでしょう。弓を射る人が目標地点まで矢を飛ばせないと矢の役目は果たせません。

皆さんに何度も申し上げました。聖書で言われる「罪」は、どんなものでしたか。覚えておられますか。

的に向かって飛ぶべき矢が間違ったところに飛んでいったのが「罪」という言葉の起源であると話しました。私たちに与えた矢のような、子どもたちをどのような人に育てるのかは、第一に親の責任があると思います。子どもたちが「間違った場所、罪を犯し、罪に陥り、正しくない目的地に向かって進んでいるのであれば、主は私たちにその責任を問うでしょう。

今日のみことばを再度よく見てみましょう。

6節に母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。」幼い頃から信頼する。「信じる」との意味です。17節、詩編記者は再度はっきり言います。「神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので」若いときから神のみことばを学んだとのことです。幼いときから、親に主のみことばを学んだと告白しています。

愛する信徒の皆さん!

若い親方と年老いた祖父、祖母方はどのような思いになりましたか。私の子どもたちに、幼い時から主のみことばを教えることに最善を尽くしましたか。先ほど申し上げたように、世の生活を営むため、二元論的な考えで、世の仕事と主の仕事を分け、ヒューマニズム的に生きているのではないでしょうか。主のみことば、聖書を読んで学ぶことは、大人になって自分ですれば良いと思っておられませんか。その時は、すでに手遅れです。子どもの頃からしておかないと、益々難しくなるのです。

詩編記者は老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないで下さいと祈ります。記者は、その理由が何だと言っていますか。主がなされた御腕の業を、力強い御業を来るべき世代に語り伝えるためにも、主は私を早く呼んではいけないのですとの意味です。栄光会の献身礼拝で、このみことばを用いたことがあります。年老いた親方が、神の国に召される前に、この地で最後までされるべきことがあります。それは、皆さんの子どもや子孫に主の御業を語り伝えることなのです。

私たちに与えて下さった「聖なる遺産」を、私たちの子どもに伝えなければなりません。聖書全体で、主が敬虔な人とその家族にもたらす祝福を見つけます。アブラハムから始まった祝福は子孫の代々にまで得ると話されました。私たちの父と母の信仰、私たちの祖父、祖母の信仰で何が見えますか。多くを学ばず、そのため盲目的に見えることもあるでしょう。今日、私たちは学びが足りないから、子どもたちに信仰を植えられないのでしょうか。

主は私に何を求めておられるのか。私は、人生の目標をどこに、何のためにおいてあるのか。私は主のみ計らいに沿って歩んでいますか?私たちが、主のみ前で至らない人であっても、私を呼ばれた目的があります。私に家庭を与え、子どもを授けたのは、ある目的があるからでしょう。

クリスチャンである親として、子どもたちのために、主を意識させ、植え付け、刻ませないといけません。聖書のみことばを徹底的に教える信仰教育が必要です。家庭と教会が連帯すべきことです。教会が、教会学校の運営に力を注ぐ理由は何でしょうか。教会の使命は、キリスト教の福音を学び、その価値を語り伝えることにあるのです。

今回、コロナウイルスによって、学校に行かずにいる幼い学生たちに聞きました。「今、何をしたいですか」と。皆さんは、子どもたちが何と答えたと思いますか。学校に行って先生と勉強することが、一番ではなかったです。「学校に行って、友だちに会って、一緒に遊びたい!」。答えは皆同じでした。「教会に行って、何をしたいですか」と聞けば、教会学校の先生と一緒に礼拝をして、教会学校の友だちと遊びたいと答えてもらいたいものです。

コロナ禍の中、教会への問い合わせで一番多かったのは、老人大学はいつからですかという件でした。年老いても、一緒に集まって学び、孤独な生活を分け合いたい気持ちを察することができます。韓国のオリニ憲章に、オリニ(幼い人)は家庭と社会が育てるべしとの文章があります。親と教会が共に、子どもたちの信仰教育に尽力すべきであると確認できます。

愛する信徒の皆さん、教会で会う子どもたちが、私の子、私の孫、私の孫娘のようだと考えてください。2020年の子供主日礼拝で共に分かち合ったみことばを覚えておきましょう。

幼いの頃学んだみことば、子どもの頃から教えてもらったみことばと信仰生活の習慣が、一生涯を通して、どれほど大きな影響を与えるのかを再確認する時間としましょう。

使徒16:31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

 

<祈り>

子どもを抱き上げ、手を置いて祝福されたイエス様、

今日、私たちは子ども主日を過ごしながら、私たちの子どもたちに主のみことばとイエス様の精神を教えるのを決心します。聖霊様が私たちの家庭と教会を守って下さい。

我らの子どもたちが、この世に生きていきながら、クリスチャンの価値観を持ち、社会に仕え、イエス様の愛を実践する人にならせて下さい。

教会と家庭が協力し、良い信仰を次世代に伝えられますように祝福を与えて下さい。

感謝しながら、主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。アーメン