4月26日主日礼拝日本語訳

大阪教会 主日礼拝<2020年 4月 26日> 説教 鄭然元牧師/ 光成長老

 

제목 : 의심 가득한 세상에서 疑念ちた世界

성경 : 누가복음 24 36-43 ルカによる福音書2436-43

<日本語新共同訳>

  1. こういうことを話していると、イエス御自身が彼らのん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37. 彼らは恐れおののき、亡を見ているのだと思った。38. そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39. わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。ってよく見なさい。亡には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 40. こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41. 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42. そこで、いた魚を一切れ差し出すと、43. イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

 

<説教>

 

愛する信徒の皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

新型コロナウイルス禍により、主日なのにも関わらず教会で一緒に礼拝をささげず、このような形で挨拶いたします。家で大人と一緒に礼拝をささげる子どもの皆さんにも挨拶します。教会学校の先生が送る礼拝資料や聖書の勉強も楽しくてやっていますか?早く教会で皆さんに会いたいと思います。

 

私は皆さんの健康を祈りながらも、不安がよぎる一週間を過ごしました。

先週、教会がある生野区南巽の病院で130人の患者が出ました。大阪府全体の感染者数10分の1に相当する数値です。信徒の皆さんがよく利用する大規模な病院で、想像もできなかったことが周りで起きています。願わくは、皆さんが健康を保ちますよう、切に祈ります!このコロナ禍が終わり、喜び溢れる心を抱えて、教会で礼拝を捧げる日を待ち望みます。

 

人の心、心理というのは、表現するのに非常に複雑な構造であるようですが、その反面、単純なようでもあります。好きな人と話をすると気分が良くなります。悲しいニュースを見れば、涙が出ます。政治家の過ちを見れば、鬱憤が爆発します。予期せぬ贈り物をもらうとき、どれほど嬉しいかわかりません。

仕事中に冒したミスで、落ち込みます。このような喜びと怒り、悲しみと楽しみを持っているのが感情の表現です。すると、人の心は、複雑で、まるで多くの顔を持っているかのようです。

皆さんと私は心理的に言うと、最高の不安、恐怖を持って生きていると言っても過言ではないと思います。

人が持っている不安や恐怖はあることに対して、疑いを持つと生じる感情です。愛する人に対して疑いを持つと当然不安になります。疑いが始まると信頼感も失います。必要ない心配が生じます。愛が冷めたり、別れたり、しまいには心が病みます。疑いは信頼出来ない心を意味します。

 

復活節の後に、我々は、イエス様と弟子たちの姿を福音書を通して、どのような関係であったのかを続けて見ています。弟子たちは、イエス様の十字架の死がすべての終わりだと思いました。自分たちの姿を顧みながら、深い「虚無感」に陥ったでしょう。

 

弟子たちは、あまりにも想像外のことが起こったので、取り乱していたとも言えるでしょう。弟子たちの心理的状態は非常に混乱していたと察します。人の経験、その中には、感情の経験もあります。喜びと幸せのような感情より、恐怖や悲しみなどの不快な方が強く残るそうです。弟子の立場でみると、イエス様と一緒に過ごしていた時間の中には驚き、喜び、感動と幸せな日も多かったはずです。しかし、今は不安と恐怖感に弟子たちは覆われています。恐怖感で、自分たちを守るために戸に鍵をかける行動をします。今までお互いに支え合って、信頼していた関係性さえも断絶しました。

 

今日の本文にも、弟子たちの態度は、同じ脈絡で流れています。決定的な言葉は「疑い」です。聖書にも「疑い」<参考/(ギリシャ語)ディアロギスモス>という言葉がよく出ています。本来の意味は「計算、思考、議論、司法心理」と、広い意味の言葉として出ています。今日の本文38節にも「疑い」という言葉が使われています。この言葉のもう一つの意味は、「憂いながら反省する」という意味があります。ここでは、

若干違う意味を持っていますが、(ギリシャ語/プロクリマー)という言葉で出ます。司法的な意味で、「事前に判断する」、「審理前判決」という意味です。なぜ私がこのような言葉を皆さんに紹介しているのかは、後におわかりになるでしょう。

 

弟子たちの心を考えて見たら、最初は罪責感がありました。偉大な指導者、キリストだと口で言いながら、

3年間共に過ごしました。イエス様は最後の晩餐の場で「ペテロに鶏が鳴く前に、私を三度知らないと

いうであろう」と話されました。そのとき、ペテロの答えはどうでしたか。

 

マタイ26:33に、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」とペテロは言いました。しかし、今イエス様は捕らわれ、最高法院の前に立って恥辱を受けています。

ペテロは、イエス様の成り行きを見に、遠く離れて従いました。大祭司の屋敷で裁判が開かれていました。ペテロを見た一人の女中がペテロに向かって「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた!」と言いました。ペテロは居合わせた人々の前で答えました、「何のことを言っているのか、わたしにはわからない!」2回目は、「私はその人を知らない!」と誓って打ち消し、3回目は、呪いの言葉さえしながら、「そんな人は知らない!」と、三度否認しました。するとすぐ、鶏が鳴きました。

マタイ26:75節、「ペテロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう!」と言われたイエス様の言葉を思い出しました。そして外に出て激しく泣いた」と記録しています。自分の命を救うために、否認し、偽りを言うのです。激しく泣いたことは、自分の行動を振り返り、反省する姿を指します。これが先ほど説明した「憂いながら反省する」ということです。

 

そしてもう一つの心理的な状態は、恐らく「虚無感」を持っていたでしょう。私たちは「期待が大きければ失望も大きい」とよく言います。これは人間の生活の中で頻繁に起きることです。弟子たちの立場で考えれば、イエス様に対する期待が大きかったのに、あまりにも虚しく罪人のように十字架にかけられ死んだからです。人が持つ虚無感は、世の真理や人生が空で、無意味であるのを指します。胸に何もなく、空っぽな心です。今、弟子たちの心は、自分たちの行動が空虚で無意味だと思っており、空の状態だとも言えます。そして、この虚無は不信と疑いに変わるのです。

このような疑いを持って不安と恐怖に覆われている弟子たちの前に、イエス様は来られました。イエス様は弟子たちに三日目に復活すると教えて下さいましたが、今、弟子たちの心は、虚無感、自責感と疑う心で満ちていました。イエス様は「私の手と骨を触って見よ!」と話され、信仰を回復させるのです。

 

愛する信徒の皆さん、今、私たちの周りはどのような状態ですか。

我々の心はどのようなものでいっぱいなのですか。我々の心が虚無感で満ちているのではないでしょうか。今まで、私がやってきたものが水の泡のように消えたと思っていませんか。もしくは、自分の人生を振り返りながら、自責感に陥ってはいませんか。

 

今、私たちの社会は、このすべての苦しみと死をもたらす感染病によって、どのように考えはじめましたか。

隣人を疑ってはいませんか?UNと日本政府は、隣人や、ある特定の国や、人種もしくは業務や職業によるどのような形の差別もあってはならないとしました。しかし、実際の私たちの周りやニュースで、見ているのはどのような姿でしょうか。伝染病の拡散で、私たちの心は隣人を疑い始めました。社会に対する憂慮と不信が噴き出しています。政府やある機関や政策に対する不満が出てきます。さらに、私たちの信仰にも、神に対しても疑うようになります。

 

イエス様は復活した姿を弟子たちに見せながら、疑いを叱責されました。しかし、彼らの疑いが信仰、信頼に変わるような行動も見せました。弟子たちと食べ物を一緒に食べながら、信仰を回復させて下さいました。今日、この時間も、主は恐れるな、怖がるな。私がいつもあなたがたと共にいると話されています。

「死の陰の谷を行くときも共にいる」と約束して下さった主が、私と皆さんと共にいて、守って下さいます。