2017. 4. 30 だれが私を救ってくれるでしょう。(金忠洛)

だれが私を救ってくれるでしょう

聖書:ローマの信徒への手紙 7:15-25

 

人間は誰でも人生の中で、心の戦いがあると思います。こちらの方が正しいかな、と思ったら、逆に、反対の方が正しく見えます。それで、心の中に争いが起きてしまいます。あるいは、確かに良いことではないけど、自分の利益のため、葛藤したりします。私たちクリスチャンたちもこの葛藤から自由にならないですね。いかに良い信仰者で、長い時間信仰生活をなさった方でも揺れやすい葦のように、また、暗くなってゆく灯のようになるときもありますね。しかし、これは人間の弱さのせいでおきてしまう当然なことだと思います。

 

さすがのパウロも自分の弱さを率直に語っています。

本文の15節です。「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」パウロが望んでいたことは何でしょうか。そして、憎んでいたことは何でしょうか。

19節に答えがあります。「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」

 

人間は元々良心を持って生まれるので、 誰でも良いことをしようという心を持っています。しかし、自分が良いことをしようとしても、それができるわけではありません。心には良いことばかりしようという気持ちがあっても、体が思いとおりに動きません。こんなことがもっと大きくなったら、欲張るようになり、もっともって大きくなると、けんかになってしまいます。そして、民族と民族、国と国の戦争になってしまいます。戦争の結果は生きるか死ぬかしかありません。勝ったら生きる、負けたら死ぬことです。ですから、戦争は必ず勝たなければなりません。戦争が起こらないと良いですが、もし戦争が起こると負けたら後はありません。ですから、戦争が惨めなことです。

病気にかかると「闘病する」と言います。つまり病と闘うということです。病と闘って勝ったら健康になります。負けたら?死にます。

 

信仰生活も同じです。命を得るためには戦争に勝たなければなりません。健康になるためには病と闘って勝たなければならないように、神様の律法の通り生きるためには罪の法則に勝たなければなりません。しかし、思った通りにできないですね。心は燃えても、肉体が弱いです。むしろ、肉体は神様の律法より罪の法則を好んで、もう罪の法則に慣れています。

 

韓国の笑い芸能人の中に전유성という人がいます。この方は本が好きで、たくさんの本を読むことに有名です。そして、何冊かの本を書きました。彼が書いた本の中に題目が面白い本があります。「するなというのはすべておもしろい」 「하지 말라는 것은 다 재미있다.」この題目の意味を変えればこうなります。「食べるなというのはおいしい。」「見るなというのは魅力がある。」するなというのはなぜ面白いですか。これは私たちの中にもう罪の法則があるから、そのようなことにもう慣れているからであります。それで、見るなというと見たくなるし、行くなというと行きたくなるし、するなというとしたくなるわけです。そして、ほとんどの人々はこのようなことを自分の中に隠して生きています。自分の弱いことを見せたくないようです。弱さより強さを表そうとします。悪より善を表そうとします。

 

しかし、今日私たちが読んだ本文の使徒パウロは率直に自分の姿を現しています。

本文24節です。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。」自分がいかに惨めな人間なのか自ら告白しています。世の人々は偉大な使徒だと言うし、ある人は彼を神のように思うのにもかかわらず、彼は自分自身になんと惨めな人間だと告白しています。これこそ、パウロの偉大なことであります。そして、これこそ、今日使徒パウロを通して私たちに自分自身の弱さを見させる神様の御心であります。

 

皆さんは自分に対してどう思っていますか。このぐらいなら良い信仰者だろうと思っていますか。主日をちゃんと守っているし、十分の一献金も捧げているし、このぐらい奉仕すればいいんじゃないと思っているんじゃないでしょうか。

もし、私たちがまだ可能性がある存在だと思っているなら、信仰を振り替えてみる必要があるはずです。私たちは使徒パウロと比べたら、もっと堕落した生活をしています。自分が持っている物に感謝せず、欲張りながら生きています。こうしても、まだまだ希望があるように自分を評価します。聖書は私たちにこのように教えていないのに、私たちは自らまだいいだろうと思っています。この次第が、いかに自分自身に対して、分かっていないことでしょうか。

 

信仰者が自分に信仰があるかどうか何も考えずに生きると、心の葛藤もない、生活の問題もあまり起こらないわけです。しかし、いつもイェスさまはどうなさるだろうと思いながら生きると、本当に大きな変化が起こるはずです。皆さんもこの時間、「イェス様はどんな姿勢で、態度で、礼拝をお捧げになるか」と考えてみてください。この礼拝はどうなるでしょうか。

ある日、パウロたちはテサロニケに行きました。どころが、その都市の人々は彼らに「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来た。」と言ったことが使徒言行録17章に記録されています。つまり、「世の中を覆す人々」ということです。イェス様を従う人々がいるところには変化が起こるということです。

 

今日を生きている私たちの問題は何でしょうか。私たちも信仰者なのに、私たちもイェスさまに従っているのに、世の中に変化が起こらない理由は何でしょうか。

まず、自分の無能力を認めていないからです。私たちは神様の前で、いつも無能力であることを認めなければなりません。そして、私たちは神様の前で、パウロが告白したように惨めな存在であることを認めなければなりません。私たちは到底自らの力では何もできない罪人であることを告白しなければなりません。これが、神様が私たちに求められる一つ目のことなんです。

二つ目は、自分の無能力のために落胆し、何もせずに座り込んでいるのではなく、私たちに力と知恵を与えてくださるイェス様に頼らなければならないことです。

神様はパウロを通して私たちに語られます。本文の25節です。「私たちの主イェス・キリストを通して神に感謝いたします。」

これは、私たちの主、イェス・キリストを通してすべてが可能になるということです。私たちの力と能力はただイェス様にあります。私たちにはありません。イェス・キリストだけにあります。

 

この世を生きていくとき、自分に頼ると死ぬことしかありません。自分の能力に頼ると勉強も、仕事も疲れてしまいます。心の底で何度も、何度も決心しても、肉体が弱くて結局、何もできません。ですから、私たちの弱さ、惨めさを告白せざるを得ません。本当に割れやすい姿で絶望の中で日々を過ごしていますね。

しかし、イェス・キリストを通して自分を見ると全然違います。家庭も、学校も、職場も、すべてが神様がおられる神様の神殿になります。神様がおられるからすべてが聖なる所になります。以前の自分の姿はなくなり、完全に新しい人間になります。

 

もうこれ以上、自分の目で自分自身を見ないでください。罪人の目で、律法のメガネを通して、自分自身を見ると到底可能性はなさそうです。しかし、イェス・キリストの中で、恵みのメガネで自分を見ると可能性が溢れる自分自身が発見できます。

イェス様もおっしゃいました。

「私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(ヨハネ14:12)

 

そうですね。

私は何もできませんけれども、自分自身の力では何もできない罪人に過ぎませんけれども、それで、永遠に嘆かなければなりませんけれども、イェス・キリストを信じる者はイェス様が行われた偉大な業を行うのみならず、もっと大きな業もできるようになります。

 

神殿の「美しい門」のそばで施しをいただこうとした足の不自由な男に対して語ったペトロとヨハネの言葉の通りに、今日神様は、皆さんを通して世の中に語られております。

「金や銀はないが、私が持っているものをあげよう。ナザレの人イェス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 

神様は今日も、皆さんがイェス・キリストの御名によって勝利することを望まれておられます。