2017.03.26 教会に必要な人(金忠洛)

教会に必要な人

聖書:使徒言行録 11:19-26

 

イェス様が天に上げられた以後、初代教会には恵まれた人々がどんどん増えました。そして、その人々によって、教会もどんどん大きくなってきました。使徒言行録7章にはステファノ、8章にはフィリポ、9章には使徒パウロ、10章にはコルネリウス、そして今日、私たちが読みました11章にはバルナバが恵みを受けた人として登場しています。

 

では、今日読んだ聖書に登場するバルナバはいつ恵まれたでしょうか。

使徒言行録4:33-37に書いてあります。

「使徒たちは、大いなる力をもって主イェスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信徒の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ-慰めの子という意味-と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」

このように、バルナバは使徒言行録4章に初めて登場しています。バルナバは五旬祭の日、聖霊降臨の後、ペトロをはじめ、使徒たちが福音を述べ伝えたとき、恵まれた人であります。彼の元の名前はヨセフでした。しかし、使徒たちが彼にバルナバという名前を付けました。新しい名前、バルナバの意味は「慰めの子」であります。そして、彼はキプロスという島で生まれて、その島に、おそらく広い土地を持っていたお金持だったかもしれません。そのような彼がみ言葉を聞き、恵まれました。それで、彼は自分の畑を売って、使徒たちの足もと、神様の御前に捧げました。

 

そして、エルサレム教会の使徒たちはこのように恵まれたバルナバをアンティオキア教会に派遣します。今日の本文22節を見てみましょう。

「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。」

 

本文のアンティオキアというところはエルサレムから北の方に500Kmぐらい離れている都市で、当時ローマ帝国で3番目に大きい都市でした。人口は約50万人、商業が発達した都市でした。エルサレムでステファノがユダヤ人に迫害を受け殉教されたことで、多くの信徒たちはエルサレムを離れ、アンティオキアへ避難して来ました。そして、アンティオキア教会を設立しました。アンティオキア教会が日ごとに成長していくうわさがエルサレムまで広がって、エルサレム教会で一番恵まれたバルナバを派遣することにしました。バルナバはさすがに恵まれた人でした。彼がアンティオキアに到着して、最初に見たのは、やはり神様の恵みでありました。

 

本文23節です。

「バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」

バルナバはアンティオキアに来て、一番さきに神様に恵まれていることを見て喜びました。彼はアンティオキアに来て、教会に何人がいるのか、何のことがあったか、どんな人が集まっているのかを見なかったです。異邦人なのかユダヤ人なのかも彼には関係ありませんでした。ただ、彼は「神様の恵み」を見ました。一番重要なことはこれです。皆さん、私たちも恵みを感じるようにならなければなりません。人に会った時でも、先に恵みを感じることが大事です。

私たち、大阪教会にもこのような恵みがあることを願います。教会に入ったら、先に恵まれて、自然に賛美があふれることを願います。御言葉を聞くときも、祈るときも、いつも恵まれる教会になることを願います。わたしたちの教会に何人集まるか、その人の中にだれだれが私のことを嫌がっているのか、誰が私と考え方ややり方が合うかより、神様の恵みを待ち望む皆さんになることを願います。

バルナバはアンティオキア教会に行って、神様の恵みが溢れていることを見て、喜んでこう言いました。23節の後半です。「固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」

つまり、強い信仰をもって、主を信じるということです。決して主から離れてはならないということです。主から離れると絶対に救われません。ヨハネによる福音書15:4に「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない。」と書いてあります。皆さん、ぶどうの枝はぶどうの木につながっているときこそ、実を豊かに結ぶことができます。魚は水の中にいるときが、一番幸せです。一番自由です。私たちはイェス・キリストとつながっているときこそ、真に自由になります。真に幸せになります。そして、喜びがあり、祝福があります。主から離れると何もできません。これが私たちの人生であります。そして、こんなことを悟ること、これが「恵み」です。

では、バルナバはどんな人物でしょうか。

24節を見るとバルナバがどんな人であるかがはっきり分かります。

「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。」

この御言葉のギリシャ語のもともとの意味はバルナバは立派な人物で、聖霊と信仰に満ちていた。だからこそ、多くの人が加えられたということです。

バルナバはこのように立派で、皆から良い人だと評価されたです。そして、彼は聖霊と信仰に満ちていた人でした。彼は口だけの人ではありませんでした。彼は神様に恵みを受けて自分の畑を売って、貧しい人を助けました。そういうわけで、すべての人々に認められた、神様の人でした。

だからこそ、バルナバによって、多くの人が神様のもとに帰えることができました。

 

皆さんも、世の人々からこのような評価を受けるようになってください。「だれだれは、本当に良い人ですね。聖霊に充満していますね。」と評価される皆さんになってください。しかし、神様に恵まれた人は自分が恵まれたとあまり言わないですね。ほかの人から、あの人は本当に恵まれた人だと認められるからこそ、恵まれた人です。皆さんもほかの人から信仰を認められる聖なる信徒になってください。

 

しかし、今日の御言葉の中に最も重要なことがあります。それは恵まれたバルナバの役割で、使徒言行録9章から確認できます。9章26-27節です。

「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイェスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。」

使徒パウロは元々イェスを信じなかった人で、信じる人を迫害し、ステファノが殺されるときステファノに石を投げる人々の着ていた物を預かっていた人でした。そして、ステファノの殺害に賛成していた。と聖書は語っています。また、主の弟子たちを殺そうとして、ダマスコまで行こうとした人でした。そうだった彼が、ダマスコに行く途中、イェスに出会いました。そして、彼は変わりました。このうわさはエルサレムの信徒たちもすでに聞いていました。にもかかわらず、弟子たちはパウロと会おうとはしませんでした。彼は私たちと仲良くできない人だと思いました。それで、誰も共にいなかったのです。彼は恵まれたのにもかかわらず、誰も認めてくれませんでした。そのとき、バルナバがパウロを連れて、エルサレムの使徒たちのところへ行きました。そして、使徒たちに「この人は恵まれた人だ」と言いました。バルナバは、既にエルサレムの信徒たちや使徒たちに認められたし、尊敬されたし、愛されたから、バルナバの話は信用できました。

ついに、パウロとエルサレムの弟子たちの交わりが始まりました。使徒言行録9:28節を見ると「それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。」ついに、パウロはエルサレムの使徒たちと共に神に仕えることができました。そして、ギリシャ語を話すユダヤ人にイェスを伝え始めました。

このようなことを誰が行いましたか。背景に誰がいますか。バルナバです。イェスを嫌がったサウロがイェスの使徒であるパウロにさせた人はバルナバでした。もしかして、バルナバがいなかったら、どうなったんでしょうか。使徒パウロの偉大なわざは、どうなったんでしょうか。もし、そのようなことがなかったとしたら、私たちが今イェス・キリストの救いの福音を聞くことができたんでしょうか。

 

本文、25-26節です。

「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」

バルナバがサウロと共にアンティオキアで、丸一年間教会を仕えまして、初めてキリスト者と呼ばれたこと、これが驚くべきの神様の御業であります。

神様に恵まれた人々が共に働くところに、もっともっと神様の恵みが溢れます。そのような人々がたくさん、たくさんいるところには心配や悩み、そして争いなんてあるはずがありません。

 

バルナバは恵まれた人であります。彼はその恵みを純粋な献身で神様に返しました。そして、自分よりサウロを前に立てました。一番大事なことは恵みだと信じて、自分の名誉や権力、財産よりも、神様の業をもっと、もっと大事にしました。そういうわけで、使徒パウロも神様の働きができたのです。

私たち、大阪教会にもバルナバのような人が必要です。神様にいただいた物を神様に捧げる喜びがある人、自分よりもほかの人を高める恵まれた人が必要です。神様はこのように恵まれた人を通して、働かれます。そのような恵まれた信徒が私たち、大阪教会にも溢れることを願います。

 

お祈りしましょう。

私たちを愛してくださる天の父なる神様!神様の限りない恵みを感謝します。私たちは神様の御前で、いつも罪人に過ぎませんが、私たちの罪をも知らずに日々の生活を過ぎました。私たちが持っているすべての物が神様からいただいた物なのに、感謝せずに、むしろ欲を張りました。どうぞ、お許しください。そして、イェス様が「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とおっしゃいましたにもかかわらず、他人よりもって高いところを望みました。どうぞ、お許しください。私たちの生活が地の塩、世の光としての生活ができるように導いてください。四旬節を過ごしている私たちがもっと敬虔な信仰を持って、イェス様の苦難の道を共に歩むことができるように導いてください。自分自身の利益ばかりを望む人ではなく、バルナバのように他の人を前に立たせる謙遜な信仰者になるようにしてください。

私たち大阪教会がバルナバのような信仰を持って、お互いに愛し合い、仕えることができるように導いてください。 主イェス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン