2016. 12. 11 平和の王、イェス・キリスト(金忠洛)

平和の王、イェス・キリスト

聖書:ミカ書 5:1-5

 

韓国の小学生に「クリスマスの意味」について聞いてみました。64%が「サンタさんの誕生日」だと答えました。クリスマスというと何がさっきに思い出すのか聞いたら、89%が「サンタさん」と答えました。クリスマスに一番やりたいのは何か聞いたら、1位が「クリスマスツリー飾り」、2位が「映画を見る」、3位が「教会へいく」、4位が「カードやプレゼントの交換」でした。

どう思いますか。一体クリスマスは何の日でしょうか。クリスマスはキリストの日を意味するラテン語から由来されました。Christ-masですね。 Christとmas、二つの言葉が合わせて、一つの言葉になりました。前のChristはキリストです。そして、後のMasは日を意味するラテン語です。つまり、クリスマスはキリストの日です。漢字にしても「聖誕節」です。聖なる御子がお生まれになった日が聖誕節です。聖誕の主人公は誰でしょうか。確かに、イェス様ですね。ですから、聖誕節は主に栄光を捧げる日にならなければなりません。

 

このイェス様は今、預言者ミカによって800年あと、イスラエルの王としてお生まれになると紹介されています。そして、故郷も紹介されています。

本文の1節です。

「エフラタのベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

ベツレヘムはエルサレムから南の方に7Kmほどはなれた、本当に小さな村です。その小さな村から「イスラエルを治める王」が生まれると預言しています。イスラエルを治める者はだれですか。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼると言っていますね。古いですが、どのぐらい古いでしょうか。これは、天地創造の以前のことを意味します。昔から、初めからおられる方はだれでしょか。イスラエルを治める方は誰でしょうか。これはイェス・キリストです。イェス様は初めからおられるし、天地創造以前からもおられます。

ヨハネによる福音書1章1-3節は私たちにこう言っています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」ここで言はイェス様を意味します。このイェス様は神であり、このイェス様が初めに天地万物を創造なさったとはっきり言っています。預言者ミカは今、このイェス様がベツレヘムから出ると預言しています。

 

どころが、マタイによる福音書にはミカの言葉をこう引用しています。2章6節です。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」少し違いますね。ミカは小さいものと、マタイは小さいものではないと表現していますね。なぜでしょうか。イェス様が生まれる800年前は本当に小さな村でしたが、時間が経ってイェス様が生まれるごろには大きな町になったんでしょうか。どうしてマタイは小さいものではないと言ったんでしょか。

実際にベツレヘムは、今もあまり大きい村ではありません。さらに今のベツレヘムはパレスチナに属していて、すべての物はイスラエルを通る方法しかありません。それで、生活の環境がすごく悪いそうです。しかし、全世界の人々は今もこの小さな村を観光に訪ねて来ます。この村は訪ねて来る人々に、もう小さい村ではありません。本当に有名な、大きい村になりました。この村が有名になったのはイェス様のおかげです。イェス様がこの村でお生まれになったから、有名になりました。そして、マタイはベツレヘムに対して決して小さいものではないと言ったわけです。

 

では、イスラエルを治める王であるイェス・キリストが誕生なさった理由を見てみましょう。

本文4節です。「彼こそ、まさしく平和である。」

彼は誰でしょか。この預言を語ったミカは彼が誰か、全然知らなかったはずなんですが、私たちはみんな知っていますね。誰ですか。そうです。イェス・キリストです。イェス様が平和であるというのはイェス様が平和の王として生まれたことです。ですから、イェス様が誕生した日に天使たちは歌いました。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

平和、平安はヘブライ語で「シャロム」と言います。「シャロム」は精神的にも、肉体的にも、物質的にも満たした状態を言います。イェス様は弟子たちに「その家に入ったら、「平和があるように」と挨拶しなさい。」と言いました。そして、ヨハネ14章27節にはイェス様が与える平和は世が与えるように与えるのではないと書いてあります。つまり、聖書が語る平和は神様と人間の間の和平から得られる平和です。イェス様が与える平和は罪を犯した人々や、人生の道に迷っている人々が神様に帰ってきて、神様と和解することによって得られる霊的な平安です。

神様と和解する前には、私たちはこの平安を味わうことができません。

真の平安はただイェス・キリストだけを通して与えられます。それで、イェス様はこの平和のために神様と人間の間に和解の捧げ物になりました。イェス様は自ら捧げ物になりました。

旧約時代には和解の捧げ物として家畜を捧げました。羊や牛を屠って、血を流し、各部に分割して、清く洗った後、祭壇に乗せて、燃やして神様に捧げます。それが旧約時代に神様と和解するための犠牲でした。ところが、その捧げ物の祭壇にイェス様が上りました。捧げ物のように両手と両足に釘を打ち込まれて、やりに刺され、血を流しました。イェス様の十字架の死は神様と私たち人間の間を和解させるためでした。イェス様の死がなければ私たちは神様と和解することはできません。そして、神様と和解できなければ真の平和になることは、全然できません。

イェス様は私たちにこの平安、平和を与えるためにこの世に来られました。そして、今日もイェス様は私たちに平和を与えるために祈っています。今日、共に礼拝を捧げている皆さんもイェス様から与えられる平和を味わうことを願います。

 

そして、イェス様が誕生したのは私たちを救うためであります。

本文5節の最後です。「彼らが我々を救ってくれる。」

イェスという名前の意味は何ですか。マタイによる福音書

1章21節に書いてあります。イェスの意味は「自分の民を罪から救う人」であります。罪から救うことができる人は、ただイェス・キリストしかいません。

中国の公子も、シャカムニも、ソクラテスも私たちを罪から救うことができませんでした。彼らは自分の罪も解けなかったんです。彼らもこの世のある人とまったく同じように土に戻りました。ただイェス・キリストだけが私たちを罪から救ってくださる方であります。

 

神様は神様が選んだ民族は必ず救ってくださいます。

ノアの洪水の時にはノアの家族を救ってくださいました。

ソドムとゴモラではロトと2人の娘を救ってくださいました。

エジプトで430年間僕のようにいたイスラエルの民を救ってくださいました。

エリコ城が崩れ落ちた時にはラハブとその家族を救ってくださいました。

そして、最後の裁きの日、皆さんとわたしを救ってくださいます。

 

私たちを救うためにイェス様は来られました。神の高いところから、この世に降って来られました。私たちを救うために神様は独り子イェスを死なせました。奉げ物のようにずかずかに裂かれました。それで、私たちは救われました。イェス様はこの世に、死にに来られたんです。

 

そのイェス様が私たちに来られました。2週間あと、イェス様が私たちに来られた聖誕節です。私たちを救うためにベツレヘムの飼い葉桶に来られました。私たちは罪から救われたから、イェス様が来られたのが嬉しいです。イェス様が死にに来られましたが、私たちは喜びます。

しかし、いつからか、聖誕節の主人公が変わってしまいました。イェス様を知らない人々はクリスマスに、もっともっとお金をもうけるためだとしても、私たちクリスチャンも聖誕節の主人公を変えてしまいます。教会でも聖誕節になったら、イェス様よりサンタさんがもっと歓迎されます。イェス様の話を聞くことより、サンタさんが登場したら、もっともっと喜びます。赤い服を着て、赤い帽子をかぶって、「울면안돼」「泣いてはいけない」と歌に合わせて踊ります。泣いてはいけない理由は何ですか。サンタさんからプレゼントをもらえないからだそうです。日本も同じです。「あなたからメリー・クリスマス、私からメリー・クリスマス」どうしてですか。どうしてメリー・クリスマスですか。Santa Claus is comin’to town.サンタさんが私たちの村に来るからメリー・クリスマスだそうです。イェスが来られるからではなく、サンタが来るからメリー・クリスマスだそうです。

ChristのMas、Christの日なのに、サンタが来るから嬉しいクリスマスだそうです。その歌が教会の中で鳴り響きます。「真っ赤なお鼻のトナカイさんは」と歌いながら、イェス様ではなく、サンタを待ち望みます。頭の上に円の形の物を飾って、背中にツバサをつけて、白い服を着た子供たちが踊ります。しかし、聖書の中の天使はそんな姿ではありません。聖書の中の天使はいつも人間の姿です。これこそ、サタンが狙(ねら)っていることです。サタンが 真理を押し曲げたことの中で成功したのがドゥリャキュラです。ドゥリャキュラが嫌いのは何ですか。光、ニンニク、そして十字架。十字架を見せるとドゥリャキュラは消えてしまいます。これがサタンの巧妙なことです。私たちがサタンと戦って勝てる力は何ですか。十字架ですか。イェス・キリストですか。イェス・キリストですね。イェス・キリストの血の力です。十字架にかけられたイェス・キリストの力です。しかし、どドゥリャキュラはイェスが抜かれた十字架だけでも消えてしまいます。本当に基督教的、聖書的に見えますが、絶対にそうではありません。

 

今日は聖書主日であります。私たちは聖書をとおして神様の心を知ることができます。神様は独り子イェスを平和の王として私たちに送ってくださいました。私たちはそれを聖書を通して分かります。しかし、聖書を神様の意志を私たちに伝える本ではなく、自分の好みにしたがって読むと、私たちは神様の意志を絶対に分かりません。私たちはイェス様がどうしてこの世に来られたか、また、イェス様がこの世に来られたのがどうして私たちに喜びになるかを聖書を通して分かります。

 

イェス様はユダのベツレヘムで生まれました。

イェス様は私たちに永遠の命を与えるためにその場所で生まれました。

イェス様は平和の王として生まれました。

イェス様は神様と私たちの間に和解の捧げ物になって、十字架で死ぬことによって、私たちに真の平和を与えました。それで、私たちは真の平和を味わうことができます。イェス様以外には平安はありません。

私たちはクリスマスを本当のクリスマスに戻さなければなりません。キリストの日に戻すことによって、真の平和を享受することができます。聖書が私たちに教えてくださる神様の心を分かって、平和の王であるイェス・キリストによる真の平和を享受してください。

 

2週間後、平和の王として来られたイェスさまの誕生を喜びをもって真の平和を享受する皆さんになることを願います。