2016.11.27 王座につく者(朴喜煥)

2016・11.27                         朴 喜煥 牧師

聖書:エレミヤ書33:14-17

題名:王座につく者

(新共同訳)

14.見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。15.その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。16.その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。17.主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。

(説教)

あっというまに、時がながれ、2016年の待降節を迎えるようになりました。今日からメシヤである主イエスキリストが、ご誕生なさる日を待ち望むことであります。

私たちの普段の生活の中で何かを求めて待ち続く習慣に慣れているかもしれません。待つことには、二つの大きな真理があります。一つ目は、待ち望んでいたことが成就される時の幸せです。二つ目は、待ち望んでいたことが来たるにもかかわらず、気づかなかった時の不幸です。

ユダヤの人々はすでに、預言されたメシヤが世に来られたにも気づかず、教えても知らず、拒否しました。でも、神様は預言者を通して暗闇に落ちたユダヤの民族に希望を与えてくださいました。今日の御言葉を通して待降節の霊的な意味が充満になることを願います。

待降節はご存じのように主イエスの誕生、キリストの到来、すなわち、クリスマスへの備えをする時期を言い、教会では「アドベント」と言います。このアドベントはAD4世紀からキリストの聖誕を祝って来て7世紀に入ってからはキリストの来臨も加えて守って来ました。アドベントは、神のアドベンチャーでも言えます。

神が敢えて私たちのところに来ておられ、すでにご自分の命をもって私たちに救いを与えておられました。その意味で私たちはすでに、恵まれている者なのです。ですから、「待降節」と言いますが、私たちが待つというより「神が」先立て到来し待ちつづけておられることを私たちが気づくことです。

旧約の昔から延々と予告されてきた救い主が来られるこの待降節、皆さんは、どの様なお気持でお迎えていますか?今週から待降節の灯が、一つ一つついて行くうちに希望と平和と愛と喜びに、満ちた素晴らしい日々になることを祈ります。

今日の本文はエレミヤ書33章14節-17節であります。

まず、14節に「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来ると主は言われる」とエレミヤは述べています。先にエレミヤ書33章の1節を見て見ますと「主の言葉が再び、エレミヤに臨んだ。このとき彼はまだ獄舎に拘留されていた。」とあります。エレミヤはこのとき獄中にいたのです。

このあたりの事情は、「バビロン帝国によってユダが滅びるであろう」とエレミヤが預言をした時に、ユダの王ヒゼキヤが、「なぜ、お前はこんなことを預言するのか」と彼を逮捕しました。

しかし、彼は獄中で、ひとつの幻を見ます。そこで描かれていることは「エルサレムの回復」でした。それは、まことの平和であり神さまの赦しによって、人々が生かされている姿でした。エレミヤはこのようなまことの平和の幻をひとつの頂点として今日の本文を述べたのです。

現実的には、今エレミヤ自身は大変苦しい状況にいます。それと共に、ユダの国も苦しい状況に置かれていました。いつも周りの国々から脅かされていました。このエレミヤ書の全体から見ますと、ユダの国がエジプトに頼ろうとすることに対してエレミヤは断固反対でした。バビロンが攻めてくる時、人々は自分たちの生き延びる道を模索していました。その時エレミヤは、神様の御心に帰えるよう繰り返し叫びました。むしろ、バビロンに降伏するように示しました。

15節に「その日その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」と神様の約束の言葉を聞きました。エレミヤはこの言葉を信じてユダの国を平和の道に導いたのです。16節に「その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」とここで救い主、到来の預言をはっきりと命じました。この預言は、大変印象的な言葉であり、イザヤ書にも共通する言葉です。『主は我らの救い』という預言は、およそ500年を経て、ベツレヘムの町に幼子イエスがお生れになります。

このイエスという名前は、ユダの国では比較的ありふれてよくつけられる名前であったようです。イエスは、もともとヘブライ語ではヨシュア、それは「ヤハウェは救いである」という意味です。イエスという名前は、まさしくエレミヤが預言したとおりの名前なのです。

今日から待降節に入りましたが、今の時代も、当時と同じく混乱であります。特に、韓国の政治家に対する不信感と社会の不安が大きくなっています。また、世界各地では争いが絶えず、時代はますます暗闇に落ち恐れています。

神があえて御子を遣わしたのは、私たちが生きるためです。神が、永遠の隔たりを遥かに越えてやって来ておられ、人となって十字架につけられ血を流して死なれたほどに、その全能をもって来られました。皆さん、イエスがメシヤだと最初に話した人は誰でしょうか?最初に、話した人は洗礼者ヨハネです。 ユダヤの歴史の中には、中間期歴史があります。旧約と新約の間のことです。旧約のマラキ書を最後に、預言の声が消えてしまいます。

ユダヤの人々は、預言者を通して神の啓示を聞いても変わらず、迫害いしたり殺したりもしました。その暗闇の時が流れた後に、真のメシヤが来られたと大きな声で叫んだのが、洗礼者ヨハネでした。“メシヤも来ない、預言者もいない時代、彼らに大変苦しい時と寂しい時が続いていた末、いきなり洗礼者ヨハネが現われ「悔い改めよ、天の国が近づいた」と宣布しました。さらに、ヨハネは水で洗礼を授けました。この行為はメシヤがすることなのにヨハネが行っていたわけです。ですから、多くの人はヨハネがメシヤではないか!と言いながらヨルダン川に集まりました。

彼らは先祖から待ち望んでいたメシヤが来たと思い喜んだでしょう。ヨハネは自分がメシヤではなく、私の後に来る方がメシヤであると伝えました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と彼らにメシヤを紹介しました。

これでヨハネの役割は終わりますが、一つ、逃してはいけないことがあります。マタイによる福音書11章2節に、ヨハネは牢の中で、自分の弟子たちをイエスに送り、「来るべき方はあなたでしょか。それともほかの方を待たなければなりませんか?」と疑う場面があります。イエスがメシヤだと叫んだ彼自身が、メシヤの存在について疑いました。もちろん、牢の中で死を待っている状況だと言っても、あんまりも弱げになったヨハネに同情さえなくなります。ヨハネは、神の子であるイエスがこの世に来られ、メシヤの歴史が始まるよう準備した本人としてこれからメシヤの助けと導きに期待が大きかったかもしれません。

ヨハネは当時の社会に向けて正義を持って、怖いもの知らずの厳しいメッセージを続けていたので、ついに領主ヘロデの私生活まで触れてしまいました。ヘロデが、自分の兄弟の妻ヘロデイアを姦淫したことについて悪口を言ったのです。誰もがヘロデ家の権力に言えない時、ヨハネの言い付けは許されることは出来なかった。結局ヘロデイアが娘を唆して、ヨハネの首を切ってしまいまし。

ヨハネも一人の人間として牢獄の中で、死に対する不安と、メシヤに対する期待と葛藤で、再びメシヤの存在を確認したかったでしょう。これは私たちが信仰者でありながら、自分が信じている神が真で有一の神なのか、それとも、ほかの神を頼らないといけないのか!迷う私たちとかわりはありません。

イエスの答えは「わたしにつまずかない人が、幸いである」と言われました。いったい、どういう意味ですか?ヨハネは預言者としてイエスを正しく伝える役割だけで十分であり、イエスはメシヤとして役割を果たすのが、神のご計画であることを悟らせます。ヨハネの死は悲しいけれど、イエスはもっと残酷な姿で、ご自分の役割を果たしました。この出来事を信じるか信じないかによって、私たちの信仰の深さが問われると思います。

この世に来られたイエスは「預言者は預言者が歩む道があり、メシヤはメシヤが歩む道がある。」ことを教えてくださいました。イエスもヨハネも、この世で死なれたことが、失敗ですか?

私はそう思いません。今、待降節に迎い、神に礼拝を捧げることが出来たのも、すべて自分の役割を果たした方がおられたお陰様です。この待降節に王座につく者イエスがこの地に来られ、なさったことを信じ、私たちは、何をすべきか、考える時になることを願います。