2016.10.30 永遠に受けられる祝福(金忠洛)

永遠に受けられる祝福

聖書:サムエル記下 7:27-29

 

韓国人は祝福されることが本当に好きな民族だと思います。お正月になると何と挨拶しますか。「새해 복 많이 받으세요.」と挨拶しますね。「お正月に祝福されますように。」ぐらいの意味です。わたしの子供のころは布団や枕に「福」の字を書いて入れたりしました。スプーンにも「福」を書いておきました。さらにほそ~いお箸にも「福」という複雑な字を書いて入れました。

韓国人だけじゃなく、世の人々は祝福を受けることを望んでいるようです。「福」という字をあちらこちらに書いておくと祝福が受けられるだろうと思います。そして自分が熱心に探したら得られるだろうと思います。それで、お正月に「祝福されますように」と挨拶したり、あちらこちらに字を書いて入れたりします。しかし、だれも、自分が祝福されるかどうかはわかりません。

皆さんも祝福を受けたいんですか。皆さんに祝福がありますよう願います。しかし、祝福がどこから来るのか分からないと受けられるでしょうか。そして、その祝福が何のものか分からないとどうなるでしょうか。ただ、「祝福」を受けたいという望みだけではないでしょうか。

今日、私たちが読みましたダビデの祈りを通してダビデが望んだ「祝福」を分かち合いたいと思います。

 

ダビデの祈りは18節から始まっています。このダビデの祈りを三つに分けて考えて見ましょう。

まず、ダビデは自分に対して謙遜な姿勢を持っています。

18節は「何故、わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。」と祈っています。ダビデの前の王だったサウルは謙遜な人でした。しかし、王になった後、謙遜を失(うしな)ってしまいました。逆に、神様より人々の視線をもっともっと大事にしました。結果は皆さんがよくご存知のようにサムエルから「王位から退けられる。」と聞きました。そして、死ぬ直前までダビデを殺そうとして、一生、追いかけばかりしました。このように神様は謙遜な人を見守ってくださいます。皆さんもダビデのように謙遜な人になってください。謙遜な人に神様は祝福してくださいます。

 

次に、ダベデは神様の恵みに対して大きく讃えています。

22節です。「主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。」神様はダビデを高めました。預言者ナタンを通して神様がダビデの名を地上の大いなる者に並ぶ名声を与えると言いました。ダビデが死んだ後でもダビデの子孫たちによって王座をとこしえに堅くしてくださると約束しました。ダビデはその神様を賛美しています。けれども、ダビデは、神様が自分を高めてくださったから賛美しているのではありません。私たちは、神様の恵みに感謝して賛美したり、栄光をささげたりしますが、ダビデはそうではありません。神様の命令もなかったのに、神様のために、神様が住むべき家を建てて捧げたんです。詩篇にあるダビデの詩を見るとよく分かります。23篇は皆さんがよくご存知のように神様を賛美する詩篇です。けれども、34篇は「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。」と記録されています。どうして、アビメレクの前で狂気の人を装わなければならないでしょうか。ダビデは住むところがないので、アビメレクに行きました。ですが、アビメレクが自分を疑っていると感じて、自分の命を守るために選んだのが狂気の人のふりをすることでした。どれほど危険な状況ですか。それでも、ダビデは「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」と歌っています。

皆さん。賛美ということは一体何でしょうか。皆さんは賛美というのは何だと思っていますか。わたしは、おもしろいことに、本当の賛美する様子を北朝鮮の人から見ました。テレビで北朝鮮の画面が出るとき、時々、人々が真っ赤の花を振る様子を見たことがありますか。その花の名前を知っていますか。その花が「김일성はな」だそうです。北朝鮮で新しく作った種類だそうです。花の話をするつもりではありません。その花を持っている人々の様子を見ると、ただ、叫びだけです。叫びながら、花を振り、さらに涙を流すことまでします。わたしはこれが賛美だと思います。誤解しないでください。残念なことに、北朝鮮の人々はどんでもない人を賛美していますね。だから、かわいそうです。ただ、賛美を捧げる方に、叫びながら、涙を流すのが本当の賛美ではないでしょうか。神様だけ、神様を思うことだけで、胸を打たれ、ありがたい、感謝し、自然に涙が出るとき、口から出る一言、「わが神様、わが父よ」ほかに何の言葉が要るでしょうか。どんな言葉も要らない一言で、私たち神様は喜ばれるでしょう。

愛する皆さん。口だけの賛美ではなく、神様がわたしに何をくださったか、考えながらする、そんな賛美ではなく、ほん~とうの賛美を神様に捧げてください。そのような賛美こそ、神様を喜ばれる、そして、わたしたちに豊かな恵みを与えられる賛美になるわけです。

 

その後、ダビデは神様に祈り求めます。

しかし、むやみに求めませんでした。27節を見ましょう。「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、「あなたのために家を建てる」と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。」 祈りをささげる勇気ができたのはなぜですか。神様がわたしの家を建ててくださる、と約束なさったから、その約束のもとで、わたしに祈りをささげる勇気ができました。と言っています。

わたしたちの祈りの中でよく間違うのは自分自身のことだけを言って、終わってしまう祈りです。「神様、これもください。あれもください。それはわたしに絶対に起こらないように…」このような祈り、どうですか。もちろん、このような祈りも大切です。しかし、ダビデの祈りのように、求めるときにも、神様がおっしゃいましたから、そのことばに頼って祈り求めます。と祈るべきだと思います。

何年か前、韓国のテレビで「미녀들의 수다」という番組がありました。翻訳したら、「美人たちのおしゃべり」ぐらいかな。外国から来た女性たちが韓国のいろんな経験を話す番組でした。その日は韓国の不思議なことについて話していました。その中で、子供が受験生なら、親も受験生になるという話題でした。韓国人にとっては当たり前のことですが、外国人にとっては不思議なことだったようです。 韓国では受験が100日ぐらい残った日から早天祈祷会に出席する信徒たちが増えるそうです。子供たちが受験に合格するために特別祈祷会を開きます。隣の寺では100日間供養をしています。このような祈りばかりしたら仏教と何が違いますか。天地万物を創造なさった神様と、悟りを得た人を従うのが全然違いません。私たちは、まず、神様の御声を聞かなければなりません。神様のしずかにささやく声を、逃さず聞かなければなりません。そうしてこそ、私たちが何をするべきか、また、何を求めるかがはっきり分かります。

 

では、ダビデが何を求めたかを見てみましょう。29節です。「どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。」

何を求めていますか。祝福を求めていますね。私たちと同じように見えます。しかし、よく見ると、僕の家を祝福し、とこしえに、御前に、永らえさせてください。と求めています。僕の家にお金がなくならないように、食べる物がなくならないように、敵が手を上げられないように、求めるのではありません。ただ、主の御前に、とこしえにいることを求めています。ああ、ダビデは本当に恵みあふれる人で、祈りも現実的ではなく、霊的なことだけを求めるんだ。と思われるかもしれませんが、よく見るとダビデの祈りこそ、本当に現実的な祈りだというのが分かります。

むかし、韓国の母親たちは家族のために、清い水を一杯持っておき、祈りました。そして、道の中、木の下に小さな石を載せて祈りました。すべてのことがよくなるように。形が珍しい岩があれば、その岩の前で祈りました。村の前に、大きい、古い木でもあれば、絶対切ってはいけません。人々はこのようなものを通して自分の祝福を求めます。しかし、そんなものから祝福が受けられますか。事故が起こらないように守ってくれますか。

天地万物を創造なさった神様、この世を支配しておられる神様。ダビデは今、その神様の御前にいるようにしてくださいと求めているんです。神様が世界を造られたのに、そして、神様が世界を支配しておられるのに、その神様のそばにいるだけですべて解けるのではないでしょうか。お金を求めることより、食べ物を求めることより、敵が手を上げられないと求めることより、もって現実的な祈りではないでしょうか。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝だ」とおっしゃいましたイェス様、「枝が木につながっていれば、豊かに実を結べる」とおっしゃいましたイェス様、ただ、つながっているだけで、たくさんの実が結べるのに、どんでもないところで、現実的なことだと言いながらどんでもないことを求めるんですか。飼い主であるイェスさまが青草の原、清い泉に伴ってくださるのに、飼い主であるイェス様だけを従うと良いのに、心配しているんですか。

 

ダビデのように祈ってください。ダビデのように求めてください。神様の御前で謙遜な信仰人になってください。神様にまことの賛美をささげてください。神様に祝福を求めるが、腐ってしまう祝福ではなく、神様と共に、永遠に受けられる祝福を求めてください。神様の御前で、大きな恵めに囲まれる皆さんになることを願います。